あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和11年7月12日 (十一) 中橋基明中尉

2021年01月23日 13時56分47秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


中橋基明 

陛下に対し奉り
決して弓を引いたのではありません
・・中橋基明 ・・・死刑執行言渡直後の発言

絶筆
只今最後の御勅諭を奉讀し奉る。
盡忠報告の至誠は益々勃々たり、心境鏡の如し
七月十二日午前五時


二 ・二六事件の第一次処刑者として、中橋基明が他の同志とともに銃殺されたのは、

昭和十一年 ( 1936年 ) 七月十二日 朝のことである。

遺体は通夜を待たずに、そのまま幡ケ谷火葬場で荼毘にふされ、
骨灰となって家族の許にもどされたのは、もう夕闇が迫る頃であった。
その日は朝からむし暑い曇り空だったが、折から激しい驟雨しゅううに見舞われ、
さながら遺骨を出迎えた家族の悲涙を思わせた。
葬儀は身内だけで読経もなく執り行われた。
すでに遺族は、一切の法要と弔問の辞退を軍当局から申し渡され、
くわえて警備と称する憲兵の監視を余儀なくされていたからである。
叛乱者の罪は、一死をもっても贖あがなえないことを、軍当局はそうして黙示したのである。

しかし初七日も過ぎた頃、世田谷区太子堂の中橋の実家、退役陸軍少将垂井明平邸を訪れた軍人が二人いた。
別々にやって来た二人はともに軍服で、あたりを気遣う風もなく、重い静寂に閉ざされた喪家そうかの門をくぐった。
門前を徘徊する憲兵を予期したなら、私服にでも着替えそうなものだが、
二人とも星と桜の近衛の徽章きしょうと 将校の肩章に恭うやうやしい敬礼を受けた。
事件後に加えられていた、革新将校への容赦ない弾圧を考えれば、
垂井家への弔問がいかなる譴責けんせきを招くか、測りがたい状況であった。
ましてその二人は、ともに中橋と同じ近衛歩兵第三聯隊の将校で、
依然から革新将校の動向を調査していた憲兵隊には、要注意人物として知られた存在だった。
また 彼ら自身も、垂井邸にはたびたび出入りし、親しい朋輩として中橋の実父垂井少将はじめ
家族とも懇意の間柄だったから、その危険は知悉ちしつしていたはずである。
ただでさえ、連累を恐れて 逆賊となった刑死者の家を訪れる者は皆無に近かった。
それが不慮の死なら、まだ納得がゆく。
が、事件から四ヶ月、誰の目にも中橋の死は既定の事態であり、
帝都に施行されていた戒厳令も解除され、
軍部を除けば事件そのものも忘れ去られようとしていた時分のことである。
その弔問が一様のものでなかったことは明らかである。

はじめにやって来たのは、田中軍吉大尉であった。
近歩三第二大隊長代理で、第七中隊長代理だった中橋の直属上官であり、
事件後はその第七中隊の長となっていた将校である。
事件後、訪れる者もなく 火の消えたような家に逼塞ひっそくしていた垂井家の人々にとって、
田中の来訪は意外であったろうが、
田中が玄関で大声で刺を通すと、明平を除く全員が出迎えて出て来た。
いずれも打ち沈んだ表情で、無言で頭を垂れた。
「 憲兵は平気でしたか 」
顔見知りの実母・宏こうが位牌を祀まつった仏間に案内しながら、田中を気遣った。
その頃もまだ憲兵が二人、特高の刑事が一人、邸のぐるりを固めていたのである。
「 なに、悪いことをしているわけじゃないんですから 」
と 田中は以前と少しも変わらぬ磊落らいらくな様子で受けた。
一階の六畳の仏間は、明平が鎮海湾要塞司令官から兵器本廠長として帰国後、
この家を購入した際、もっとも手を入れた部屋であった。
明平もまさか自分より早く次男の基明が収まることになるとは考えてもみなかったろう。
部屋の北側に設けた仏壇の前に小机が置かれ、その上に真新しい位牌があった。
田中はその前で、しばらく凝然ぎょうぜんと位牌に見入っていたが、
「 至徳院釈真基居士・・・・」
と、中橋の戒名を唱えると席を外した田中はなおも位牌を見やっていた。
「 田中さんには、ほんとうによくしていただきました。ありがとうございます。
基明もこんなことになりましたが、これもあの子の運命と諦めております 」
田中の傍らで、宏が型通りの礼を言った。
田中は中橋の原隊、近歩三の先輩として兄事けいじしていた将校だが、革新将校の先達でもあった。
「 ・・・・運命です。まったくその通りですよ。
ご子息はきっと天の命じるままに蹶起に参加なさったのでしょう 」
「 でも、なぜ北満から戻ったばかりの基明でなければならなかったのでしょうか 」
初七日のために実家に戻っていた次姉の久子が、思い余った様子で尋ねた。
「 さあ・・・・、ただ、今の近歩三には他に人がいなかったせいかな 」
「 それなら、近歩三でなくてもよかったのじゃありませんか 」
久子は執拗だった。
幼い時から歳も近く、一番仲の良かった姉であった。
「 僕もそうは思いますが、中橋には近衛としての役目があったのではないでしょうか 」
田中は、事件当日、宮城へ入った中隊を捜し、
そして中橋が宮城に放置していった第七中隊を営舎に引き連れている。
しかし、あえてそのことは口にしなかった。
田中はそれから間もなく垂井邸を辞した。

続いて飯淵幸男中尉が訪れたのである。
飯淵は三期後輩の隊付中尉で、
やはり革新将校として中橋不在中、同志としての連絡にあたり危険視されていた。
田中と違い、飯淵はびっくりするほど憔悴の色を浮かべ、力なく位牌の前についた。
家人がその異常を感じたのは、無言のうちに方通りの焼香が済んでからのことであった。
「 すまない、ほんとうに悪かった。・・・・俺の代わりに死んだんだ 」
突然、飯淵は顔を伏せ、嗚咽おえつするかのように叫んだ。
明らかに個人となった中橋に対して謝っているのである。
久子の表情が変わった。
「 何かご存じなのですね 」
「 ・・・・いや、僕がしっかりしていたら、と 残念なんです 」
久子の強い口調に、飯淵は口ごもったが、それが飯淵の謝罪の意味とは考えられなかった。
しかし、その場は宏が穏やかにおさめた。
それから、いくぶん平静を取り戻した飯淵から、
二人がその日やって来たのは けっして偶然ではないことを知った。
戒厳令が解除され、田中大尉の待命 ( 馘首かくしゅ ) が 決まったこと、
そして飯淵自身も軍籍から離れる覚悟がついたこと、
そのため もう彼らには憲兵も軍も脅威にはならなかったのである。
飯淵も、ついに それ以上は口を噤つぐんだまま帰った。
久子は、さすがに弔問者に対する礼として詰問を差し控えたが、
その傍らに控えていた末弟の武明は、そんな姉が不満であった。
明らかに兄の事件が因となって、軍を離れることになった二人の弔問は、
時日を同じくしているだけに、何かよほどの意味があるように思えてならなかったのである。
それは 数日前、最期の面会の際ら兄が洩らした言葉に抱いた名状しがたい疑念、
そして刑務所長から聞かされた 他の受刑者とは異なる兄の死に様に受けた衝撃など、
武明の心底に淀んでいた腑に落ちないことどもと、どこか通底するものだった。

武明が母と久子とともに、代々木の衛戍刑務所へ出向いたのは、
死刑判決の下った翌々日、七月七日が最初であった。
カーキ色の夏外被を着た中橋は、存外元気そうに三人を迎えた。
しかし、その時は事件のことは一切触れず、ただ家族の消息をたしかめたに過ぎなかった。
・・・
ものものしい警戒の中での重圧感に因縛しゅうばくされ、不得要領に貴重な時間を失したような面会だった。
二日後、
「 どうしても、基明の真意を知りたい 」
と、再度面会に出向いた久子に、武明も同道した。
母は忍びないといって来なかった。
母の姿がないのを看て取ってか、中橋の態度にもいくぶん余裕が感じられた。
すでに中橋は死を達観している様子だった。
憲兵の立会いを警戒して、中橋が筆談で語りかけた。
「 笑って死んで行くから、何も心配はいらんよ。
俺は計画には参画しなかったけど、やるだけのことはやったから思い残すことはない 」
と むしろ さっぱりした表情を見せ、判決に対しても仕方がないという風な感じだった。
気丈な久子が涙ながらに、
なぜこんな真似をしたのか、
と 糾ただすと、少し顔を歪めた中橋は押しだすように答えた。
「 けっして天皇に弓を引いたわけじゃないんだ。だから半分は納得し、半分は納得しない 」
指先に力が入っているのがわかった。
そして
「 しかし、俺たちのやったことは十年後になってわかるだろう 」
と 語を継いだ。
それが虚勢だったにしても、いかにも自信家の兄らしく振舞うその優しさに感極まり、そして・・・・
「 兄さんの志をついで、僕がやる 」
と 武明は震える指で書いた。

帰路、二人は一言も言葉を交わさなかった。
久子も武明もそれぞれ中橋の語ったわずかな語句を反芻し、懸命に理解しようとしていた。
でなければ哀惜あいせきの情に、たちまちおぼれてしまいそうだったからである。
だが武明には、どうしても意味の判然としない一条があった。
・・・・天皇に弓を引いたわけじゃない。
陸軍将官の家に育ち、末弟とはいえ、すでに府立一中を卒業していた武明は、その言葉の重大さを知っていた。
国民として、まして帝国軍人として それほどの大逆はない。
しかし、なぜ兄は死を目睫もくしょうにして、なお弁明しなければならなかったのか。
覚えがあったのだろうか。
武明は、事件報道がはじめて解禁された三月二十日の号外、七月七日の事件判決もそらんじるほど精読していた。
だが、新聞報道のかぎりでは兄の行動にその懸念はなかった。
兄の罪状は高橋蔵相殺害の一点である。
たしかに中橋らは重臣を殺傷し、国民を壟断した。
それが、結果的に軍法上、反乱とされたのは理解できる。
が、仮にも天皇に対し弓を引いたと指摘されることになるとは考えられなかった。
兄が近衛将校だったからなのか、とも思った。
が、ともに生い立った武明の知る兄は、軍人らしからぬ軍人で、死に直面してなお近衛将校の矜持きょうじがあるとは、
これもかんがえられなかったのである。

七月十二日朝、ついに軍から遺体の引き取りに来るよう連絡が入る。
宏と久子、武明の三人が時間に衛戍刑務所の安置場に行くと、各々同志の家族が集まっていた。
その場からすぐに火葬場へ運ぶので待機するようにとの通達。
やがて柩が運ばれて来た。
中橋の遺体は、眉間の真っ白な包帯を巻かれているのを除けば、眠っているような静かな表情だった。
遺族は何よりの慰めであった。
しかし、付き添って来た 刑務所長塚本定吉の一言は、武明には衝撃的なものだった。
「 ご立派な最期でしたが、中尉は三発まで生きていらしたんですよ 」

刑の執行は粛然と行われた。
第一師団から選抜された正副二名の射手はすべて将校で、
十㍍の一に銃架を構え、正射手が眉間、副射手が心臓部に照準する。
通常眉間の一発で絶命するといわれ、実際彼らの大半が一発で済んでいる。
例外は第一組の安藤輝三と栗原安秀の二発、そして第二組の中橋の三発である。
この三名については後述する奇しき因縁があるのだが、
とくに三発を受けた中橋の銃殺は異例中の異例であった。・・・リンク →・・・万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた
死の瞬間、基明は何を想ったか、そのわずかな動揺が名手の照準を狂わせたのか、
むろんさだかではないが、塚本からその異状を知らされた時、
武明は はっきりと兄の生への未練を感じた。
そして無念の死であったことも。
いまだ知れないが、事件の中で兄はもっと大それたことに関わっていたにちがいない。
日を追ってその思いは、武明の裡にしっかりと根づいていった。
そんな折、田中、飯淵の二人の弔問を受けたのである。

宮城占拠の噂は事件直後から軍内外に囁かれていたが、
さらに近衛の一隊が侵入したという近衛兵の証言を得て、なかば公然の事実のように取り沙汰されたのだった。
としても、軍がそれを公に否定するわけにはいかない。
その意味でただ一人、中橋憎しの情が募ったのか、中橋への報復はその遺骨にまで及んでいる。
昭和十二年三月二日、
衆議院陸軍委員会で無所属の前田幸作代議士は、陸軍次官梅津義治郎に対しての質問に
中橋の遺骨の処遇について質をした。
「 ・・・・所謂 中橋中尉の白骨の如きは、佐賀市の出身でございましたが、
佐賀駅に下車することさえも、憲兵当局の干渉がやかましくて、許されなかったのでございまして、
佐賀駅から二つ手前の神埼という小さな駅に、中橋中尉の白骨を降ろして、
密かに何か窃盗品でも運ぶかの如くに、我が家に持ち帰らしめた・・・・」
中橋の遺骨は、養家の墓所がある佐賀市の正蓮寺に埋葬するため、明平の弟 垂井保平が運んだ。
それにも事前に憲兵の指示があり、白い函は目立つので別の色布で覆い、形も長方形にした。
この前田代議士の陳述は事実で、佐賀駅で降りようとすると、憲兵が来て下車を拒否されたという。
「 不穏な動きがあり、暴行でも加えられる恐れがある 」
との申し条だった。
いかにも尊皇の志が篤い土地柄とはいえ、日時も知らずに遺骨を待ち受ける暴漢がいるとは思えない。
これも冒頭の葬儀の辞退を強制されたことに通ずる軍の嫌がらせであったろう。

軍紀際で聯隊旗を奉じる 中橋連隊旗手
リンク
万民に 一視同仁であらせられるべき英邁な大御心が 我々を暴徒と退けられた
中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 

仲乗匠 著
「 ワレ皇居ヲ占拠セリ 」 から
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「 中橋基明の死刑執行の通知を受けましたが 予て覺悟は致して居りましたが感慨無量です。
然し、故人も刑務所に収容されて以來 日夜多數の本を閲讀した結果、
大變修養になり 過去に於ける自己の行爲が解ったと云ひました。
然し、何と申しましても若い者は一本気で事の善惡を考へずに 思った通り實行するので困ります。
今少し冷靜に考へて呉れるとよかったと思ひます。
如何にしても國法を犯した罪は輕くありませんから 當然の處分と諦めて居ります。
・・・父