あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和12年8月19日 (四) 磯部浅一

2021年01月13日 17時35分35秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


磯部浅一     磯部登美子

之は妻の髪の毛ですが、
処刑の際 所持することと
棺の中へ入ることを許して下さい。

・・磯部浅一・・・死刑執行言渡直後の発言

義父は昭和二十六年、七十六歳で他界いたしました。
義父の死後、義父が生前大切にしていた手文庫を開けてみましたら、
磯部さんからの遺書と思われる達筆で書かれた毛筆の封書と、
一通の電報が沢山の書類と一緒に入れてありました。
電文は
『 イマカラユキマス、オセワニナリマシタ、イソベ 』
とあり、発信は渋谷局となっていましたから、
処刑直前に奥さんにでも言いつけて打ったものと思われます。
御生前の凛凛しかった磯部さんの姿を思
い浮かべ、
電文をうつ 奥さんの心中を推しはかって
思わず泣き伏してしまったことを覚えております。
・・松岡とき (松岡喜二郎の長男省吾の妻 )



昭和12年8月19日 (三) 村中孝次

2021年01月13日 14時21分17秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

 
村中孝次  

 
・・前文略・・

いざ面会だ。
戸をあければそこが面会所、一つのテーブルをはさんで対面、劇的シーンです。
顔をみて言葉を出さず、唯々涙のみ。
一言 言はんとすれば涙して言葉が出ず感情はたかぶるのみ。
されど本人は実に元気、昨年会った時の幾倍もの元気と顔の色、身体の壮健さ、
あゝこの元気な者が今や仏にならんとするかと思へば、又涙するのみ。
膝に法子さんを抱き、力強い言葉で自分の信念を語る弟を見た。
それは神の力によつてか、仏のなさけによつてか、現在は解脱した英雄と思ひました。
死は当然の覚悟、唯々若き部下の青年将校を死に到らしむるは残念だと言つてゐた。
死後は仙台に静子さんと共に行きたい希望、子供や妻の居る場所に葬つてほしいとの事でした。
約三十分の面会時間、前後に固く握る。
それはそれは強い力でした。
涙のみ、言ふ言葉が出ず。
弟は余り悲しまない様にしてくれと言つて別れました。
明日も面会できると思ふ。
ばあさん、孝子よりもよろしくと言つたら感謝して居つた。
死刑執行は全然秘密です。
幾時あるかわかりません。
静子さんは比較的元気、一時的の興奮に大気持の元気と思ふ。
法子さんも元気、子供の顔をみて可愛さうでならない。
『 パパに早く会ひたい。パパの所へ早く行かふ 』
と、母親の膝にすがりつく様子をみて何人も涙なきを得んや。
面会の時間をまつ長き間、その様子は如何んと、悲しみを深くせし事よ。
十七名の若き御霊は、手に手をとつて行くと信じます ・・後文略・・
・・村中孝次の次兄・信次の面会時の様子を旭川の彼の妻に宛てたもの
・・須山幸雄著 二・二六事件 青春群像から

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弟は自分等は血みどろになつて、永久に陛下をお守りすると言ふことを、
何回もくり返して冒頭し、
全国にも多くの同志が居るから、何れ 自分等の気持をうけついでくれると思ふ。
将来、自分等の行った事が明瞭に判る日がくる。
同志十五名の者は、天皇陛下万歳、日本帝国万歳を各々三唱し、最後に君が代を合唱し、
五名宛三回に渉りて銃殺されてゐる。
自分も同志と共に行きたかったが、取調べがあるので生き残されてゐる事は残念に思ふ。
裁判官も、諸君の気持ちは十分判つて居るが、
上からの弾圧で如何ともできぬのを遺憾に思ふと言つてゐた。
又 妻にたいしては、子供を大切に心配せずに暮らしてくれ。
自分は近く最後の日がくると思ふが 決して死にはしない。
魂は今より以上に強く生きて陛下の御為に尽す覚悟だから安心せよ。
活動でも、芝居でもみて朗らかに人生を送ることが、何より一番良い。
クヨクヨしてはならぬ、と 別離の言葉を告げ乍ら、
自分等に対し、兄さん、長い間お世話になりました。
これで言ふことはないから、早く北海道に帰って、皆さんによろしく申してくれ、
と 伝言をたのんでいた
・・村中孝次の長兄・貞次の面会
・・須山幸雄著 二・二六事件 青春群像から

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昭和十二年八月十九日
朝六時過ぎ、
憲兵隊より遺体引き取りの通知をうけた村中夫人は、
義兄の宇野弘と義弟正と法子を伴い、
九時四十五分刑務所に着き 裏門から入った。
数人の僧侶の静かな読経の流れる中で、遺族たちは最後の対面をした。
静子は夫のデスマスクの作成を願い出たが、刑務所側は許可出来ない旨を伝えた。
夫の面影を永久に残しておきたい静子はなおも執拗に頼みこんだが、
警視庁は時間が経過しているから完全にとれない。
内務省は他に利用されるおそれがあるからと許可しないことを再度説き、
兄弘の説得で静子はしぶしぶ聞きいれた。
十一時十三分、代々幡火葬場で火葬にふした。
火葬場では旭川から駈けつけた村中の兄貞次を加え、
ここでも簡単な読経のあと点火、
三時拾骨、大小二個に分骨し、麻布の賢崇寺に着いた。
焼香者は一年前、刑死した田中勝中尉の義父の梶山清蔵だけだった。
夜十時二十分発で、村中の遺骨は妻の胸に抱かれ、
義弟正と法子と青森行きの列車に乗って 静子の実家のある仙台に向った。
上野駅には 「 村中定次、宇野弘、相澤よね ( 相澤三郎の妻 ) 見送りなしたる外
右翼関係者等の見送りなく無事出発せり  尚此の間特異の行動なし 」
と 憲兵情報は記録している。
とっぷりと暮れた東京の夏の夜空に、街の灯がまばたいていた。
憲兵の目は、なおも村中の遺族につきまとう。
仙台に到着した遺族の状況を、
1  仙台市堤通一二八  義兄(歩兵少佐) 宇野修一留守宅 
 死刑者村中孝次  妻村中静子
右は長女法子と共に故孝次の遺骨を携行 
八月二十日午後六時五十七分仙台駅着列車にて帰仙せるが仙台駅頭に 
静子の叔母山内トキ  静子の親戚武亀三郎外女二名の出迎を受け
直ちに自動車にて前記留守宅に至り 遺骨を安置せるが
近く妻の実家の菩提寺たる 仙台市新寺小路三〇曹洞宗松音寺に埋葬する趣なるも
目下在京中孝次の兄の帰来を待ち本月二十四日頃施行の予定なり
遺族村中静子の言
夫孝次も十九日遂に粛軍の犠牲として永久に消えて逝きました
私は何度も申上げます通り
決して夫の行為を真に国法を犯したる大罪なりと考へてはおりません

又 寸毫も夫を憎む気持になれません
然るに 警察や憲兵隊の人々は
其の事に関して色々五月蝿
うるさく尋ねますが 何の意味か解りません

もう既に 亡き夫の事に関し 何も申上げたくありません
只私として夫の遺志を受継ぎ法子を育て  夫の冥福を祈るのみで 
何時か夫の素志の世に出る日を待ち続けます
私は今更泣言ではありませんが
夫の在隊当時軍隊こそ
堅実にして信ずべき世界であると思って居りましたが

現在では 全く其の観念を失い
一種の呪はしさ さえ感じて居ります 

云々
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妻は官憲の恐れを知らぬ大胆な発言をしている。
軍人の家庭で育ち、
軍人の生活を真なりと信じてきた妻は、
夫の死によってその幻想はかき消され、
呪詛の言葉となって吐き出されたのだ。
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陸軍省は午前十一時五十分
「 曩さきに東京陸軍軍法会議に於て
死刑の言渡を受けたる
村中孝次  磯部浅一  北輝次郎(一輝)
 及 西田税の四名は
本十九日 その刑を執行せられたり 」
と 発表した。

叛徒  2.26事件と北の青年将校たち--平澤是曠 著 から


昭和11年7月12日 (番外) 池田俊彦少尉

2021年01月13日 13時37分23秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)

 
池田俊彦

遂に悲しむべき日がやって来た。
十一日の夕刻、向いの棟がなんとなく騒がしい。
いつもと違った大声で何やら話している。
お互に何かやりとりをしているようであった。
その声は夜が更ける迄続いた。
明け方近く、君が代の斉唱が聞えてきた。
それは静かな声であったが、腸はらわたを抉えぐるような調べであった。
長々と歌われていたように思う。
静かな真暗な闇が薄明りの監房を包んでいた。
我々はまんじりともせず耳を傾けていた。

夜が明けて運命の十二日を迎えた。
そして遂に午前七時、第一回の処刑が行われた。
数人ずつ監房を出てきた。
香田さんや 安藤さんや 栗原さん達であった。
刑場に行くとき こちらに向って合図した。
私達は皆 立ち上って格子に身を寄せて見送った。
姿が見えなくなる迄 名前を呼んだ。
しばらく経つと 例の空包射撃が始まり、その騒音の中を実弾の響きが走った。
皆 合掌していた。
そして泣いていた。
私の隣に立っていた常盤の頬を涙が流れていたことを憶えている。
一時間おき位に、三回に分けて処刑は行われた。
皆元気一杯に一列縦隊に並んで行進していった。
林は一番最後の組であった。
私は姿が見えなくなる迄、林の名を呼び続けた。
この時の実弾の音は私自身の胸に突きささるようであった。

戦後、私は林の処刑に当った同期生の進藤義彦君から、その時の話を聞いた。
林は
「 姿勢が乱れないないように足を固く縛って下さい 」
と 監守に頼み、
目隠しをされて看守の肩につかまりながら
平然と刑架についたそうである。
進藤君は林の態度が一番立派であったと言った。
林は強烈に生きたかったに違いない。
だからこそ 死ぬ時も一番立派に死んでいったのだ。

一同死の直前、
天皇陛下の万歳を唱えた。
香田さんは
「 皆 死んだら血のついたまま、天皇陛下の処へ行くぞ。死んでも大君の為に尽すんだぞ 」
と 言った。
安藤さんは 秩父宮殿下の万歳を唱えた。
栗原さんは烈しく身体を振って
「 栗原死すとも 維新は死せず 」
と いったとのことである。

処刑は午前中に終わった。
そして刑務所はひっそりと静まった。
生き残った者は涙に濡れて、しばらく放心状態が続いた。
あの人達は皆 死んでしまったのだ。
もう この世にいなくなってしまったのだ。
虚うつろの思いが胸一杯に広がり、一同全く無言であった。

この日処刑された人々は十五名であったが、
私達は十七名の者全員が処刑されたと思っていた。
村中さんと磯部さんがあとの裁判の証人のため残されたことは全然知らなかった。
看守もこのことは我々に教えてくれなかった。
我々が十八日、
この陸軍衛戍刑務所を去って、小菅の刑務所に移送される迄、両名の生存は知らなかった。

池田俊彦 著  生きている二・二六  から