あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

黒崎貞明中尉 ・ 獄中風景

2021年01月02日 09時58分42秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


黒崎貞明


東條司令官の言葉は冷ややかであった。
「 黒崎中尉、不逞の輩と気脈を通じたこと不届きである。東京に護送するから司直の裁決を受けよ 」
と いう
ムカッとした私は、
「 不逞の輩とは承服できません。私は叛乱を起そうと思ったことはありません 」
と 抗議すると、
「 なにを今さらいうか。厳重な裁きを受けろ 」
と 怒鳴りながら席を立った。
その後ろ姿をしばらく睨みつけた突っ立っていたら、
かたわらにいた憲兵が、"もうよいではないか。
おとなしくしたほうがよい" と 心配そうにいいながら私を連れ出した。
たぶん 三月三十一日だったと思う。
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東京陸軍衛戍刑務所 配置略図
( 正確なものに非ず ・・・? )
    
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獄内の風景
私の収容された独房は、この刑務所の一番北端で、
比較的新しいようであったが、角材造りの頑丈な格子で囲まれた六畳敷きぐらいの板敷きのひと間であった。
聞くところによれば 江戸時代の伝馬町の牢屋の材料を使っての再生であったらしく、
道理で妙に牢獄らしい威圧感をもっていた。
しかし監房の前の庭には花が植えてあった。
隣の住人が四十六期の飯尾祐幸君と四十一期の板垣徹さんであったことがようやくわかってきた。
板垣さんは豊橋教導学校の班として連れてこられたらしい。
"お前もきたか"
と いうような顔をして ニヤリと笑うのが見えた。
監獄長が、これをよく読んで従うように
と いって置いていた入所者心得なるものに目を通してみると、
すべて、"・・すべし" "・・すべからず" の 一点張りで、百五十条くらいの規則がならべてあった。
たとえば、
独房内にあっては常に正座すべし
と あるが、
一日中茣蓙ござの上で正座していたのでは第一、体がもたない。
どの程度守ればよいのかと看守にただしたところ、
答えは、"寝ころんでは困ります。アグラをかいて下さい" ということであった。
よし、その程度なら と 少し安堵した。

入所してしばらくの間はなんの取り調べもなく、独房での無言の行が続いた。
ようやく廣島師団から応援にきていた法務官の取り調べが始まったのは、十日ほどしてからである。
しかし、これとても身上調査のようなものであって、あとは無風状態であった。
こうしたある日、担当の看守が話しかけてきた。
「 むかし 大杉栄は入所するたびに ひとつの語学をものにしたそうです。
あなたはもはや軍籍に復することはないかも知れませんが、殺されることはないと思います。
ですから語学の勉強でもはじめられてはいかがですか 」
「 そうですか。そういう勉強をしてもよいのですか。
でしたら私には哲学の本を買ってきてくれませんか。金は刑務所長に預けてあります。
現在の私は、どうやってあの世に行ったときに笑われない人間になろうかと念じています。
悔いのない死に方をしたいので 」
というわけで、私は西田幾太郎先生の哲学書を読むことになった。
この親切な看守は 宇都宮師団から応援にきていた人であるが、
最後まで実に面倒をみてくれたことを今でも感謝している。
さて "読書百遍 意自ら通ず" で、
「 西田哲学 」 から、「 カント 」 そして 「 デューイ 」 の難解な理論も、次第に身近に感じられるようになってきた。
人間とはなんぞや、ということが客観的に考えられるような気持ちになってきた。
おそらくこの独房内の期間が、私の生涯を通じて一番勉強に打ちこめた時期であったように思っている。

数か月のうち、住みなれた この北棟の独房から次の棟に移ることになった。
これは真崎甚三郎大将が収監されたための独房のやりくりからであったらしい。
ついに 真崎大将の身辺まで及んだとなると、
おそらく同志の追及は最終的な核心に迫ったものと思われ、いささか緊張した。
この棟移監されて初めて、北一輝さんと西田税さんが この房におられるということがわかった。
私の独房は東側から三番目で、右側には満洲の公首嶺にいた北村良一大尉、
左は西田さん、その次が北さんであった。
そして 南の棟にの正面には あの村中大尉の姿がみえ、その右は 大蔵栄一大尉であった。
私の姿を見つけた大蔵大尉が大きなジェスチャーで手旗信号の挨拶を送ってきた。
「 ゲンキデガンバレヨ 」 で あった。
村中大尉はモールス信号で 「 オマエトハカンケイナシ ワスレルナ 」 と 伝えてきた。
それぞれの先輩がいちように私のことを心配していてくれるのである。
しかも、その立場は私の場合と違って絶望に近い不利な立場にありながら、
微塵の暗さもなく、己のことは眼中にないという態度で、後輩同志をかばってくれるのである。
思わず ジーン と きた。
さすがは革新を志す青年将校のリーダー達である。

今度の独房は前のとは違って、格子越しに同志の顔が見えるという大きな救いがあった。
看守の不在のときは 「 モールス 」 や 「 手旗信号 」 で それぞれ情報を交換することができた。
隣の西田さんから ときに珍しい菓子が内密に届けられた。
奥さんからの差し入れであろうか。
一日の日課の中で楽しみなのは散歩と入浴である。
だが散歩といっても、四、五人ずつが十五分間、中庭を行ったり来たりする程度である。
しかも 白い布で覆面しているうえに、私語を禁じられているので、十分な情報の交換はできない。
しかし 覆面の下から見て 誰かれの判別はできるし、短い囁きの中に結構意思の疎通ができたのである。
入浴は毎日ではなく週二回である。
これも五人一組で一分ずつ湯につかって三回で終る。
さすがにこのときは覆面をとる。
もちろん監視付きなので私語はできないが、お互いに確認し合って微笑をかわすだけで、
これもまた結構たのしいものであった。
こうして朝六時から夜十時の就寝時までのほとんどを読書に集中できた。
隣の北さんの房からは終日読経が流れていた。
その迫力のある声量は静かな監房を完全に制圧していた。
このように死に直面していながら泰然たる決行同志の姿を見るにつけ、
私も霊界において先輩諸氏から
"青年将校にもこんなつまらなぬ奴がいたのか"
と 笑いものにならないように己を律することに懸命であった。
こうした張りつめた夜の夢は、決まって楠公であり、西郷であり、坂本龍馬であり、ときとしては明治天皇であった。
そしてこれらの人々の夢での対話は、次第に私を勇気づけてくれた。
そして、いつのまにか私は人間の霊魂を信ずるようになっていた。
知事にあこがれ、左翼運動にも傾斜しかねなかった早熟の私が、順逆不二の忠誠を誓って
いま叛乱軍の一味として獄舎につながれているこの事実も、
幾多の消長盛衰を経過しながら、日本民族の生命を維持せしめてきた力が のり移ったものではなかろうか。
いまここに つながれている蹶起将校を始めとする青年将校らの悲哀は、
湊川において万斛の涙をのんで散華した楠公の悲哀であり 恋闕そのものではないだろうか。
このように思えてきたとき、私は非力であるけれども 皇国の礎石になるのだという
ある喜悦に似たものを感ずるようになった。
そうして 今日まで私を導いてくれた数々の恩師や先輩に 改めて感謝と尊敬の念を深くするのであった。
それは 祖母であり、父母であり、さらに皇国史観への開眼を支えて下さった一宮末次先生であった。
そして なによりも決定的なものは、
『 軍の本質は犠牲に徹することであり、
その作戦の眼目は最少の犠牲をもって最大の効果を収めることであり、
自らはその もっとも価値ある犠牲である 』
との 信念を与えてくれた、四カ年にわたる士官学校の教育であった。
今更ながら、市ヶ谷四十余年の伝統の偉大な影響を再認識するのである。
たとえ 日本変革の理念とその手段方法について相違があるとしても、
現在ここに繋留されている同志は、みな皇国に対する忠誠心の点では同じだったのだ。
このように思い去ると
『 獄舎も獄衣もなんら愧はずることはない。これこそ誇るべき日本男子の紋章ではないか 』
と、声高らかに叫びたい心境になるのである。
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昭和十一年七月三日
相澤三郎 中佐の処刑
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同志の処刑
こうして春が過ぎ夏を迎えたときには、
一日金十銭五厘のいわゆる "臭いめし" にも ある美味を感ずるほど獄舎生活に適応していた。
そんなある日、
にわかに獄内に緊張した空気が流れ、ある殺気が走るのを感じた。
勿論、それがなんであるかわからなかったが、
そのうち誰からとなく、"相澤中佐が処刑されるらしい" という情報が流れた。
風のようにその情報が房中に伝わり終えた頃、
私達の房の裏の方向であまり遠くない距離から、
「 撃て !」 という大声がして
「 パン !」 という弱装薬の小銃の発射音がした。
一瞬房中はざわめき、そうしてすぐもとの静寂にかえった。
その後、看守から
「 本日 相澤さんの処刑が終りました。その最期は見事でした。
はじめ刑場には目かくしをして誘導したのですが、中佐殿はその目隠しをはずしました。
そして、自ら "撃て" と 号令をかけて射撃係を励まされました 」
と、従容とした相沢中佐の最期を聞くことができた。
今から思えば、それは七月三日のことであった。
相澤中佐とは西田さんの家で 二、三回 お会いしたことがあるが、
微笑すると実にやさしい感じのする方であった。
隣の西田さんの心境はどのようであったろうか。
サゾカシ腸はらわたを しぼられる思いであったろう。
北さんの読経の声が心なしかひときわ無気味に感じられた。
相澤中佐の冥福を祈ってこの日は暮れた。
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それから二、三日後に蹶起将校に対する判決が下った。
もちろん判決の内容については知る由もないが、
その翌日あたりから同志の家族との面会がふえてきて、なにかいままでと違う様相が感じられた。
監房の入れ替えも行われているのがわかった。
あとで考えれば、処刑組と有期刑とを区別したのである。
南側の監房から大蔵さんが消えたのはこの時であった。
多分有期刑の班に組み入れられたからであろう。
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蹶起将校にとっては最期の七月十二日がやってきた。
・・中略 ・・以降は ・・・
香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった 
・・・頁に
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看守から
「 皆さんは立派でした 」
と 聞かされたのはしばらくしてからであった。
その日は、一日放心状態であとの記憶は定かでない。
ただ、ふと、向う側に村中さんと磯部さんが生きているのを発見した。
「 ドウシタノデスカ 」
と 信号を送る。
「 マダコロサレナイ 」
という返事が帰ってきた。
すこし後になって看守から、村中さんと磯部さんは、
北さんと西田さんとの関係で刑の執行が遅れていると聞かされた。
ずい分、むごいことをするものだ。

黒崎貞明 著  恋闕  から
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昭和13年8月頃

黒崎貞明
明治45年 徳島市生誕
昭和8年陸士卒業 第45期生

・・・そんなある日、例の市川芳男と明石寛二が、私に一連の極秘資料を見せてくれた。
北一輝の 『 日本改造法案 』 と 『 支那革命外史 』 がそれである。
一読、まずその雄渾なる筆力と革命への気概にすっかり圧倒されたのである。
そして、すっかりこれに魅せられた私は、はじめて奮然として革新運動の戦士たることを決意し、
革新運動の洗礼を受けたのである。
「 われ、日本国家のために最大の犠牲者たらん 」
とすることを信条とした最尖鋭の革新将校の卵と化はしたのである。
・・・黒崎貞明著  恋闕 34頁 から
以下、同著から
・ 香田清貞大尉の奥さんの手料理のチキンライスはうまかった
反駁 ・ 黒崎貞明 「 我々は尊氏の轍を踏むべきではない 」 
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昭和の聖代 
( ・・・番外編 / 昭和二十年八月十五日 を 主題としたもの )
・ 終戦への道程 1 『 東條を斃さねば、日本が滅びる 』 
・ 終戦への道程 2 『 阿南惟幾陸軍大臣 』
・ 終戦への道程 3 『 天皇に降伏はない 』 
・ 終戦への道程 4 『 8月15日 』
・ 終戦への道程 5 『 残った者 』