あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和11年2月29日 (一) 野中四郎大尉

2021年01月31日 14時31分24秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


野中四郎 

野中大尉は蹶起将校中の最古参で、

歩兵第三聯隊の将兵と共に出動し警視庁を占拠した。
二月二十九日、
叛乱軍となり下士官全員が原隊に復帰し、
事件が終結したあと、陸相官邸で自決した 。
野中が官邸の一室で自決した時、
同じ官邸の別室には他の将校全員が収容されていた。
その部屋を出て行ったままかえらない野中大尉の身を案じながら、
囚われの将校たちは憲兵隊の車で代々木の陸軍刑務所へ収容されて行った。
そのあとは、
さしもの四日間にわたって全日本の視聴を集めた陸相官邸もまったくの静けさに返った。

静かになった官邸の一室で、野中大尉の検屍が済み、
遺体の処理が行われたあと丁重に納棺が終わった。
死の直前まで野中と語り合った前の聯隊長、
井出宜時大佐が最後まで野中の遺体の側を離れなかった。
前日の二十八日、叛乱軍将校全員自決の動きがあったとき、
軍当局は手廻しく 二十一の白木の棺を用意してあった。
その一つがこま日役立つことになったのもわびしかった。
東京の街に四日ぶりに明るい灯が輝き、
ラジオが賑やかに正常の音楽を奏で始めた八時頃、
野中の遺体は陸相官邸を出て原隊の歩兵三聯隊に帰った。
四日前、維新の夢に燃えて歩武堂々と出動して行った原隊に、
今 敗残の身を横たえたのは、野中中隊の本拠、第七中隊の部屋であった。
用意された祭壇に安置された野中大尉の遺体は、
聯隊の将校たちにみまもられて手厚い通夜が営まれた。
事件発生以来、
中野の野中の厳父、野中勝明予備少将の宅に身を寄せたいた美保子夫人も、
聯隊からの知らせで、家族と共に来隊した 。
武人の妻らしく雄々しく遺体と対面した夫人は、同僚将校たちとともに通夜の一夜を隊内で送った。
翌朝、聯隊長をはじめ多数将兵の送別の中に、野中大尉は歩三を出た。
野中と行を共にした下士官兵たちは隔離収容されており、
姿を見せなかったことは 一抹の淋しさであったが、
九時過ぎに野中は遺体となって四谷左門町の自宅に帰った。

まだいたいけない幼児保子をかかえ、
未亡人となった美保子夫人は変わり果てた夫と共に帰りついた我が家であったが、
さすがに涙ひとつ見せなかった。
午後四時に戒厳司令部発表の中で、野中大尉の自決が公表され、
伝え聞いた金親近所の人々、同期生の人々などの弔問が相次いだ。
野中家としてはいっさい公表を避け、密葬として葬儀を行うこととし
三月二日、
自宅で野中家の菩提寺 牛込田町の月桂院の住職によってひそやかな葬儀を営んだ。
参列者も原隊の歩兵三聯隊の将校たちや、同期生の人たちが軍装のままで多数会葬され、
密葬らしからぬ葬儀であった。
日本中を騒がせた叛乱事件の責任者として自決した野中大尉は、
社会的には微妙な立場にあったが、遺家族の心理はさらに複雑なものがあった。
マスコミが未亡人の心境を取材した記事が新聞紙上に報道され、世人の関心をひいたこともあった。
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・・挿入・・
汚名に涙しげき
野中元大尉未亡人
皆様へ霊前からお詫び
・・三月三日付の朝刊各紙に、
野中美保子の同文の手記が掲載になったときの、一紙の見出しである。
二日夜、近親を通じて次の 『 御詫びの言葉 』 を認めて 世に送った。
「 皆様へのお詫びの言葉」
私は四郎の妻美保子でございます、
いま私は夫の霊前で皆様に対して相済まぬ心に苦しみながらこれを認めました。
このたびは 夫たちが大事をひき起しまして
上は畏くも陛下の御宸襟を悩まし奉り
下は国民皆様にこの上ない御心配をおかけ申しまして
誠に誠に御詫びのしやうもございません、
殊に東京市民の皆様には四日間大変な御迷惑をおかけしました、
また 一同の犠牲となつて尊いお身をあへなく失はれました高位の方々をはじめ
警察官にはほんたうに何んと申上げてよいかわかりません
いまは冷たい骸となつて私の前に横たはつてゐる夫も
きつときつと 皆様に深くお詫び申してゐることゝ思ひます。
私も皇軍の一員たりし四郎の妻でございます、
私は夫を信じてゐました、
夫のすることはみな正しいと思ふほど信じてをりましたのに
この度の挙に出で この様な結末をみました、
私は夫の所信をどう考へてよいのか 私の心 私の頭は狂ったやうで解りません。
でも 夫は 終始お国のことを思ひながら立ち、
しかして死んだと思ひ 私は寸毫疑ひたくありません、
しかしながらいまは 叛乱軍の一員として横たはってゐます、
それが私には悲しくて悲しくてなりません。
夫は軍人として一切の責を負って立派に自決してはてました、
けれどこれくらゐで この罪亡ぼしはできません、
妻としての私は たゞたゞお詫びの心に苦しみながら いまは深く深く謹慎致しております、
どうぞ皆様、
仏に帰つた夫の罪をお許し下さいませ、
四郎の妻として私はそれのみ地に伏してお願い申してをります
昭和十一年三月二日
野中美保子
・・妻たちの二・二六事件  から・・
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しかし いっさい世間の眼を避けて秘めて行事を済まそうと念じた遺族にとって、
こうした周囲の温い好意は、これでよいのかと疑うほどの感激に打たれ、
野中老将軍の白鬚をつたわる涙こそ、叛乱軍の父としての苦悩の心境を偲ばせるものであった。
憲兵や特高も立会っていた。
しかし 表立つような動きは何一つ見せなかった。
これも人間としての温い心づかいであったろう。

野中大尉の遺骨はその後、郷里の岡山市の墓地に埋葬された。
岡山での葬儀、埋葬も、ひそやかに営まれたが、当局からのさしたる干渉もなく、
関係者、遺族の温情に護られて安らかに眠った。
大尉の墓所は、岡山市平井町墓地内の野中家の墓地にある。

ある遺族の二・二六事件  河野司  著から