安田 優
陛下は絶対であります
・・・死刑執行言渡時の発言
和歌 を詠ひたる后 特権階級者の反省と自重を願ふ
・・・死刑執行直前、刑架前での発言
七月初旬、家族の面会が許されるというニュースを耳にし、
会える会えないは別問題、兎に角行って見ようと帰途、
別役、堤の三人で新宿二幸で買った果物籠を提げ、代々木に行った。
軍服姿が大分来ている。
待つ間に高橋太郎の順番が来たので、三人は面会所に入った。
高橋を育てた伯母と令弟が、同席されている。
高橋が見事な紋付き袴姿であったのは、その経済的豊かさの故か。
士官学校予科、本科とも区隊を共にした私には、育ちのよさから来る美少年、
しかも落ち着いた淡々とした挙措迄が、以前と何も変わらないものを感じた。
身内の話しも実に淡々として快よい。
私は 「 御苦労様でした 」
と 言った様に記憶している。
ところが、私の後の衝立の向う側の隣の面会所は確かに村中さんの声だ。
予科区隊長時代と全じ落着いた村中さんの声と、
ちょっと早口の奥さんの声が聞こえる。
二十分程の面会時間の終りになった時、私はわざと大きな声で
「 村中に会ったら宜しく伝えて呉れ 」
と 言って立上がった。
村中さんは椅子を後に引く様にしてこちらを覗かれ、
これも可成り大きな声で
「 おおー 高矢か。おおー 別役も 」
と、こちら側を見られた。
かすかに笑みを浮かべて。
お月さんの様な丸い顔であるのに、
何時も炯々けいけいとした目をしていた区隊長の顔が、
この時私には何とも云えない慈顔として目に映り、今も焼付いている。
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面会所を出て次は安田と思っていたが、三人のうち誰だったか、
「 もう帰ろう 」
と 言い、そのまま帰った。
私は安田に会い度い心を残し乍ら。
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七月十二日の日曜日の朝、
多分十時頃だったと想う。
安田の姉から、
「 今朝刑が行われたので、
遺体を受取に午後一時に代々木に来て下さい。
他の同期の方には連絡がつかないので貴方丈で結構です。
遺族丈と云うことになっているので、
絶対に軍服で来ない様に 」
と云う電話があり、
私は別役宛間に合わないだろうから
安田の家に待つ様電報し、和服で代々木に赴いた。
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雲の無いカンカン照りの日であった。
衛戍監獄の裏門に近く十数台の霊柩車が並び、婦人の喪服姿が眼に入る。
中に際立ってきれいな夫人は誰の奥さんだろうか。
或はフィアンセか。
だれも言葉を発する人は居ない。
何も聞えない。
カンカン帽から汗が頬を伝わる。
時が来て、順次遺体は霊柩車で去って行く。
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安田の番が来た。
片開き三尺の裏門の扉を入れば、
左右に二ケのテントのもと、一体宛遺体が置かれている。
安田のは右側。
白衣、そして眉間を鉢巻の様に繃帯巻いてある。
下のガーゼから、右頬に数条の血が流れている。
簡単な読経后、デスマスク作りに掛る。
令兄の奔走により、
事件当時負傷し入院していた前田病院の院長が、
進んで看護婦一人を連れて来て下さっていた。
先ず看護婦が繃帯を取り除く。
正に眉間の真中に一発、
お釈迦様始めインド人のビンズーラとか云う あれと位置は同じ、
あの大きさを小さくしたもの。
看護婦が傷跡と右目の附近を、私が右頬の血を取り除いた。
アルコールで顔全面をきれいにワセリンを塗ったあと、
こ先生が十五番位の針金で丁度剣道の面の金具の様な骨格を作り、
石膏を前面に厚く盛り上げた。
ややあって、固まった石膏を先生が静かに持ち上げる。
裏返された先生が 「 あゝよく出来ました 」 と原型に一礼されたのが印象深い。
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先生方をお送りし、令兄他と共に遺体を霊柩車に運び堀之内火葬場へ。
火葬時間二十分。
骨を拾うのももどかしく荻窪の家へ。
安置所であったか車中であったか、
令兄が
「 弟が入院していた時階上に、磯部さんに撃たれたと云う片倉少佐が入院して居り、
看護婦に
『 二階に連れて行って呉れ、あいつをぶっ殺す 』
と せがみ、困らせたこと。
不思議と病院中の看護婦は弟には親切で、
片倉少佐の世話をするのは皆いやだと言っていたそうです 」
と 囁かれた記憶がある。
諾なる哉。
デスマスクの原型を取られる時の院長先生と看護婦さんの、
穏かと云うより、むしろ進んで喜んでなさって居た様子が思い起される。
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荻窪の家には別役が待っていて呉れた。
早速二階の安田の書斎に遺骨を安置し通夜。
列する者、別役、堤、鈴木の誠ちゃん、更に御大一宮。
この人は私をして御大と書かせる丈あって、
少尉の時から私などは一歩も二歩もおく、人に長たるの風格を感じさせた人である。
夜に入って、学校の教官も来て呉れた。
その他参列された同期生も在った様だが人名と顔が浮ばぬ。
デスマスクはその後 美術学校生の奉仕的協力で三ヶ作られ、
郷里に一つ、
京大を出てたしか内務省に努めて居られた前述の令兄に一つ、
そして一つは同期生として私が持つことになった。
通夜の時、供物は身内の他は一切ならぬとのこと、
階下の応接間には特高が二名控えて居り、私は降りて行って 御苦労様 と言った。
どんな関係ですか と 言うから 御覧の通り親友だ と 答えた様に覚える
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通夜の席で令兄から、
弟と面会の時
「 高矢さんが来ていた 」
と、伝えるや、
看守の制止も振り切って面会所の入口に走り、
外に私の姿を追い求めた ということを聞かされ、
終生の痛恨事となった。
何故私は
『 安田に会い度いから 俺は残る 』
と 言はなかったか。
頑固なくせに大事な時に出る私の気の弱さ。
この一事は、
あの世で安田に詫びる迄、心から絶対に消えない。
・・高矢三郎 著 『 近頃憶いだすこと 』・・二・二六事件青年将校 安田優と兄・薫の遺稿 から
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昭和十一年七月十二日亡、安田優 二十五歳
最後の筆
我を愛せるより国を愛する至誠に殉ず
昭和十一年七月十二日 刑死前五分 安田
二・二六事件の墓
安田少尉墓には・・・そう刻まれている
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「 将来、神様も お前を捨てないだらう。
お前の後について 陸相を呪ひ殺してやる・・ 」
・・・遺骸に対して・姉