あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和11年7月12日 (十六) 安田優少尉

2021年01月18日 13時42分39秒 | 天皇陛下萬歳 (處刑)


安田 優 

陛下は絶対であります
・・・死刑執行言渡時の発言
和歌 を詠ひたる后 特権階級者の反省と自重を願ふ

・・・死刑執行直前、刑架前での発言

七月初旬、家族の面会が許されるというニュースを耳にし、
会える会えないは別問題、兎に角行って見ようと帰途、
別役、堤の三人で新宿二幸で買った果物籠を提げ、代々木に行った。
軍服姿が大分来ている。
待つ間に高橋太郎の順番が来たので、三人は面会所に入った。
高橋を育てた伯母と令弟が、同席されている。
高橋が見事な紋付き袴姿であったのは、その経済的豊かさの故か。
士官学校予科、本科とも区隊を共にした私には、育ちのよさから来る美少年、
しかも落ち着いた淡々とした挙措迄が、以前と何も変わらないものを感じた。
身内の話しも実に淡々として快よい。
私は 「 御苦労様でした 」
と 言った様に記憶している。
ところが、私の後の衝立の向う側の隣の面会所は確かに村中さんの声だ。
予科区隊長時代と全じ落着いた村中さんの声と、
ちょっと早口の奥さんの声が聞こえる。
二十分程の面会時間の終りになった時、私はわざと大きな声で
「 村中に会ったら宜しく伝えて呉れ 」
と 言って立上がった。
村中さんは椅子を後に引く様にしてこちらを覗かれ、
これも可成り大きな声で
「 おおー 高矢か。おおー 別役も 」
と、こちら側を見られた。
かすかに笑みを浮かべて。
お月さんの様な丸い顔であるのに、
何時も炯々けいけいとした目をしていた区隊長の顔が、
この時私には何とも云えない慈顔として目に映り、今も焼付いている。

面会所を出て次は安田と思っていたが、三人のうち誰だったか、
「 もう帰ろう 」
と 言い、そのまま帰った。
私は安田に会い度い心を残し乍ら。


七月十二日の日曜日の朝、
多分十時頃だったと想う。
安田の姉から、
「 今朝刑が行われたので、
遺体を受取に午後一時に代々木に来て下さい。
他の同期の方には連絡がつかないので貴方丈で結構です。
遺族丈と云うことになっているので、
絶対に軍服で来ない様に 」
と云う電話があり、
私は別役宛間に合わないだろうから
安田の家に待つ様電報し、和服で代々木に赴いた。

雲の無いカンカン照りの日であった。
衛戍監獄の裏門に近く十数台の霊柩車が並び、婦人の喪服姿が眼に入る。
中に際立ってきれいな夫人は誰の奥さんだろうか。
或はフィアンセか。
だれも言葉を発する人は居ない。
何も聞えない。
カンカン帽から汗が頬を伝わる。
時が来て、順次遺体は霊柩車で去って行く。

安田の番が来た。
片開き三尺の裏門の扉を入れば、
左右に二ケのテントのもと、一体宛遺体が置かれている。
安田のは右側。
白衣、そして眉間を鉢巻の様に繃帯巻いてある。
下のガーゼから、右頬に数条の血が流れている。
簡単な読経后、デスマスク作りに掛る。
令兄の奔走により、
事件当時負傷し入院していた前田病院の院長が、
進んで看護婦一人を連れて来て下さっていた。
先ず看護婦が繃帯を取り除く。
正に眉間の真中に一発、
お釈迦様始めインド人のビンズーラとか云う あれと位置は同じ、
あの大きさを小さくしたもの。
看護婦が傷跡と右目の附近を、私が右頬の血を取り除いた。
アルコールで顔全面をきれいにワセリンを塗ったあと、
こ先生が十五番位の針金で丁度剣道の面の金具の様な骨格を作り、
石膏を前面に厚く盛り上げた。
ややあって、固まった石膏を先生が静かに持ち上げる。
裏返された先生が 「 あゝよく出来ました 」 と原型に一礼されたのが印象深い。

先生方をお送りし、令兄他と共に遺体を霊柩車に運び堀之内火葬場へ。
火葬時間二十分。
骨を拾うのももどかしく荻窪の家へ。
安置所であったか車中であったか、
令兄が
「 弟が入院していた時階上に、磯部さんに撃たれたと云う片倉少佐が入院して居り、
看護婦に
『 二階に連れて行って呉れ、あいつをぶっ殺す 』
と せがみ、困らせたこと。
不思議と病院中の看護婦は弟には親切で、
片倉少佐の世話をするのは皆いやだと言っていたそうです 」
と 囁かれた記憶がある。
諾なる哉。
デスマスクの原型を取られる時の院長先生と看護婦さんの、
穏かと云うより、むしろ進んで喜んでなさって居た様子が思い起される。

荻窪の家には別役が待っていて呉れた。
早速二階の安田の書斎に遺骨を安置し通夜。
列する者、別役、堤、鈴木の誠ちゃん、更に御大一宮。
この人は私をして御大と書かせる丈あって、
少尉の時から私などは一歩も二歩もおく、人に長たるの風格を感じさせた人である。
夜に入って、学校の教官も来て呉れた。
その他参列された同期生も在った様だが人名と顔が浮ばぬ。
デスマスクはその後 美術学校生の奉仕的協力で三ヶ作られ、
郷里に一つ、
京大を出てたしか内務省に努めて居られた前述の令兄に一つ、
そして一つは同期生として私が持つことになった。
通夜の時、供物は身内の他は一切ならぬとのこと、
階下の応接間には特高が二名控えて居り、私は降りて行って  御苦労様  と言った。
どんな関係ですか  と 言うから  御覧の通り親友だ  と 答えた様に覚える

通夜の席で令兄から、
弟と面会の時
「 高矢さんが来ていた 」
と、伝えるや、
看守の制止も振り切って面会所の入口に走り、
外に私の姿を追い求めた ということを聞かされ、
終生の痛恨事となった。
何故私は
『 安田に会い度いから 俺は残る 』
と 言はなかったか。
頑固なくせに大事な時に出る私の気の弱さ。
この一事は、
あの世で安田に詫びる迄、心から絶対に消えない。

・・高矢三郎 著  『 近頃憶いだすこと 』・・二・二六事件青年将校  安田優と兄・薫の遺稿 から
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昭和十一年七月十二日亡、安田優  二十五歳
最後の筆
我を愛せるより国を愛する至誠に殉ず
昭和十一年七月十二日  刑死前五分  安田
二・二六事件の墓
安田少尉墓には・・・そう刻まれている



「 将来、神様も お前を捨てないだらう。
お前の後について 陸相を呪ひ殺してやる・・ 」
・・・遺骸に対して・姉