緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

音楽を頭で聴かずハートで聴くということは

2024-06-16 22:13:41 | 音楽一般
今読んでいる本、野口嘉則著「「これでいい」と心から思える生き方」(サンマーク出版)の中にこんな一節があった。

「以上のようなテーマを扱ったものに「今を生きる」という映画があります。この映画の中で、名優ロビン・ウィリアムズが演ずる教師のキーティングは、教科書の一部を破り捨てるよう、生徒たちに指示します。
その教科書には、詩を評価する方法についての、権威ある博士の文章が掲載されていたのですが、キーティングは言い放ちます。
「こんなのはクソッくらえだ。みんな自分の力で考えるんだ。自分で詩を味わうんだ」
また、他の場面でキーティングは、こんなことも言います。
本を読むとき、作者の意図よりも、自分の考えを大切にするんだ。君ら自身の声を見つけることだ」(後略)」。

この映画のシーンは詩や文学について述べたものであるが、では音楽に当てはめてみるとどうだろうかと考えてみた。

演奏する立場でなく、聴く側、鑑賞の立場にたって考えてみたい。
音楽を聴くときは、先入観や巷の情報を一切排除して、まっさらな状態で心の中で沸き起こってくる自らの感情のみを頼りにしてはどうか、ということだ。
有名な演奏家だからとか、再生回数が多いとか、売上枚数が多いとか、評価数が多いとか、一切そういうことを無視して、同じ曲でも出来るだけ多くの演奏を聴いて、その中で、最も強い感情を感じた演奏を何度も聴いてみる。
自分の感じ方、感受性、感覚が全てである。他人は一切関係無い。

冒頭の映画の文章で、「作者の意図よりも、自分の考えを大切にするんだ。君ら自身の声を見つけることだ」という言葉があるが、ここで言う「作者の意図よりも」が意味するところは、作者の意図を「頭で考えようとするな」ということではないかと私は感じた。
作者がどう伝えたいのか、何を言いたかったのか、訴えたかったのか、ということを頭を使ったり、情報を集めて答えを探し出そうとするのではなく、「ただ無心に、自分の心に訊く」、ということを意味しているのだと思う。

音楽で言えば、作曲者の意図をあれこれ頭で考えたり、時代背景を調べてみたり、作曲者の人生を調べてみたり、こういう作業もときには音楽を理解するうえでは必要かもしれないが、最後は自分の心に感じるものが全てとなるではないかと。

シューベルトの最後のピアノ曲となった「ピアノソナタ第21番 D.960」は4つの楽章からなる長大なピアノ曲であるが、そのなかでも最もキーとなる楽章は第2楽章ではないかと思っている。
この曲を聴くと私は、「恐ろしいほどの深い孤独感」、「死に直面、死を決断した人間が絶望と希望とのはざまで、はげしい葛藤、揺らぎを感じながらも、最後の最後で自分の全てを受容し、許し、肯定し、悟りを得る心境」、「死を受け入れた人間が最後に見る穏やかな光」を表現したものとだと感じた。

このような感じかたを得るにいたった演奏は、レオン・フライシャーの「Tow Hands」というアルバムに収められたピアノソナタ第21番 D.960」であった。
是非聴いていただきたいと思う。

Sonata in B-Flat Major, D. 960, Op. Posth.: Andante sostenuto
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