半年くらい前だっただろうか。
高橋和巳の「捨子物語」の記事にコメントが書かれていた。
「捨子物語」は北杜夫の「幽霊」という小説と同しシュチュエーションだという。
私は早速、紹介して下さった「幽霊」を読もうと図書館に行き、借りて読んでみた。
しかしなかなか読み進めることが出来ず、貸出期間延長や借り直しを繰り返したが、完読に至らなかった。
しばらくして腰を据えて読んでみようと思い、文庫本で「幽霊」を買った。
この「幽霊」は、主人公が幼年時代に父親と姉を病気で失い、また母親が失踪するという過酷な運命を背負い彷徨いながら、失った幼年時代の記憶を探し出す道のりを描いた物語である。
この小説は会話文がとても少なく、主人公の深層心理から湧き起る想念と体験的な情景描写とが織りなした、一種幻想的ではあるが、はかなくも物悲しい人間の生の根幹の在り方を問う深い内容を有している。
1回読んだだけではこの小説の行間に潜む強く迫ってくる感情的なものに触れることは出来ない。
腰を落ち着けてゆっくり読んでみると、一見淡泊に見える文章の裏に読み手の感情が強く揺さぶられるのを感じて驚く。
特に第四章は読んだあとに長い余韻を残す。
「もしも、忘却というものが消失ではなく、単に埋もれること、意識の下に沈むことであったなら、それはよみがえってくる可能性がある。すべての記憶はけっして無くならないものなのかもしれない。無くなったように思われるだけなのだ。さっきそうであったように、夢のなかであれ、古い過去がひょっと浮かんでくるのだとしたら、それも小学校以前のあの暗黒の昔、ぼくの知りたがって知ることのできぬあの秘密、あの覗くことのできね深淵がひょっと浮かんでくるのだとしたら?」(第三章)。
主人公は町で偶然出会った少女の面影、偶然に聴こえてきたドビュッシーの「牧神の午後」の旋律などを頼りに失われた記憶の断片を苦心して手繰り寄せようとする。
「失われていた過去をさぐることは、ぼくにとって自己の実体についての解明であり、頭のなかのくりごとではなく、中身に密着した生理的な行事ともなっていた。」
主人公は記憶の断片を蘇らせる度に、内側から生きるエネルギーを感じていく。
しかしどうしても蘇らせられないものがあった。
それは主人公と姉を捨て失踪した「母の顔」であった。
主人公は失踪後の母が、もはやこの世にいないことを確信していた。
やがて主人公は山の自然を求めて放浪するようになる。
ある日、それは日本アルプスの槍ヶ岳の斜面に登っていた時に、深い濃霧にまきこまれる。
かろうじて山小屋にたどり着くが、衰弱した肉体を回復させるために米を炊くための水を求めて濃霧に囲まれた雪渓に向かって岩をよじ登っていく。
次第に意識が朦朧となり「死」の手触りが感じられるようになった極限の中で、あれほど求めてやまなかったものに出会う。
「古い夢の深みのなかで、埋もれていた記憶のなかで、ふしぎに停滞した時間のなかで、ぼくは膝を折り、辛うじて岩につかまり、まじまじと目を瞠りながら、いまはすぐに前方にある白いおぼろげな映像を見つめやった。- 彼女であった。やはり彼女であった。どうしても憶いだすことのできなかった、あの顔だちであった。」
そして主人公は懸命にその幻影に向かって幼い頃に呼んでいたように母の名をささやく。
その母の幻影は、主人公が幼い頃、母が失踪する前日の夜中に見た最後の姿であった。
親、それも母親に対する子の思慕というものがこれほど強いものなのかと痛烈に感じさせられる。
生れる前から母親の胎内で一心同体となり、生まれてからも幼年期は母親と多くの時を過ごす。
母親と子供のきずなの強さは動物にも見ることができるが、高度に発達した精神を有する人間の、きずなを断ち切られた運命に対する苦悩と葛藤を、なまなましく描くのではなく、幻想的とも言える「美」にまで昇華させている。
人間の宿命的とも言える感情が「美」の表現の裏に深く織りなし、読む者を静かにしかし強く、とらえる魅力を持った希有な作品であると感じた。
高橋和巳の「捨子物語」の記事にコメントが書かれていた。
「捨子物語」は北杜夫の「幽霊」という小説と同しシュチュエーションだという。
私は早速、紹介して下さった「幽霊」を読もうと図書館に行き、借りて読んでみた。
しかしなかなか読み進めることが出来ず、貸出期間延長や借り直しを繰り返したが、完読に至らなかった。
しばらくして腰を据えて読んでみようと思い、文庫本で「幽霊」を買った。
この「幽霊」は、主人公が幼年時代に父親と姉を病気で失い、また母親が失踪するという過酷な運命を背負い彷徨いながら、失った幼年時代の記憶を探し出す道のりを描いた物語である。
この小説は会話文がとても少なく、主人公の深層心理から湧き起る想念と体験的な情景描写とが織りなした、一種幻想的ではあるが、はかなくも物悲しい人間の生の根幹の在り方を問う深い内容を有している。
1回読んだだけではこの小説の行間に潜む強く迫ってくる感情的なものに触れることは出来ない。
腰を落ち着けてゆっくり読んでみると、一見淡泊に見える文章の裏に読み手の感情が強く揺さぶられるのを感じて驚く。
特に第四章は読んだあとに長い余韻を残す。
「もしも、忘却というものが消失ではなく、単に埋もれること、意識の下に沈むことであったなら、それはよみがえってくる可能性がある。すべての記憶はけっして無くならないものなのかもしれない。無くなったように思われるだけなのだ。さっきそうであったように、夢のなかであれ、古い過去がひょっと浮かんでくるのだとしたら、それも小学校以前のあの暗黒の昔、ぼくの知りたがって知ることのできぬあの秘密、あの覗くことのできね深淵がひょっと浮かんでくるのだとしたら?」(第三章)。
主人公は町で偶然出会った少女の面影、偶然に聴こえてきたドビュッシーの「牧神の午後」の旋律などを頼りに失われた記憶の断片を苦心して手繰り寄せようとする。
「失われていた過去をさぐることは、ぼくにとって自己の実体についての解明であり、頭のなかのくりごとではなく、中身に密着した生理的な行事ともなっていた。」
主人公は記憶の断片を蘇らせる度に、内側から生きるエネルギーを感じていく。
しかしどうしても蘇らせられないものがあった。
それは主人公と姉を捨て失踪した「母の顔」であった。
主人公は失踪後の母が、もはやこの世にいないことを確信していた。
やがて主人公は山の自然を求めて放浪するようになる。
ある日、それは日本アルプスの槍ヶ岳の斜面に登っていた時に、深い濃霧にまきこまれる。
かろうじて山小屋にたどり着くが、衰弱した肉体を回復させるために米を炊くための水を求めて濃霧に囲まれた雪渓に向かって岩をよじ登っていく。
次第に意識が朦朧となり「死」の手触りが感じられるようになった極限の中で、あれほど求めてやまなかったものに出会う。
「古い夢の深みのなかで、埋もれていた記憶のなかで、ふしぎに停滞した時間のなかで、ぼくは膝を折り、辛うじて岩につかまり、まじまじと目を瞠りながら、いまはすぐに前方にある白いおぼろげな映像を見つめやった。- 彼女であった。やはり彼女であった。どうしても憶いだすことのできなかった、あの顔だちであった。」
そして主人公は懸命にその幻影に向かって幼い頃に呼んでいたように母の名をささやく。
その母の幻影は、主人公が幼い頃、母が失踪する前日の夜中に見た最後の姿であった。
親、それも母親に対する子の思慕というものがこれほど強いものなのかと痛烈に感じさせられる。
生れる前から母親の胎内で一心同体となり、生まれてからも幼年期は母親と多くの時を過ごす。
母親と子供のきずなの強さは動物にも見ることができるが、高度に発達した精神を有する人間の、きずなを断ち切られた運命に対する苦悩と葛藤を、なまなましく描くのではなく、幻想的とも言える「美」にまで昇華させている。
人間の宿命的とも言える感情が「美」の表現の裏に深く織りなし、読む者を静かにしかし強く、とらえる魅力を持った希有な作品であると感じた。
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