この1週間は暑さが和らぎ、天気が悪かったものの過ごしやすい日が続いた。
1か月ほど前に高橋和巳の処女作「捨子物語」を読んで感銘を受けた話をしたが、その後彼の著作を本格的に読んでみたい気持ちに駆られ、全集を古本で購入した。
「捨子物語」の次に読んだのは彼の代表作であり最高傑作である「悲の器」である。
この小説は私が30代前半の頃に文庫本で読んでみたものの最初の数ページで断念したことがあった。
今回20年近く経って完読に至ったが、432ページというページ数にもかかわらず、読み終わるのに何日もかかった。しかし非常に読みごたえがあった。
高橋和巳の小説は捨子物語もそうであったが、他の作家に比べ会話文が少なく、自然描写は普通にあるものの、主人公の内面の想念とか観念とかいったものの描写が頻繁に出てくる。恐らくこの凄まじいほどの人間の心理描写を読むのが好きでないと、高橋和巳の小説は読むに堪えなくなるであろう。
そして初めから終わりまで、厚い鉛色の空に覆われたような、暗く、陰鬱な雰囲気が漂っている。この独特の暗さに魅力を感じなければ、彼の小説を読んでいられないほどだ。
少々極端な言い方になったが、私は高橋和巳の考え方や小説の内容が好きだし、共鳴するものが多い。
彼は39歳の若さで癌で亡くなったが、わずか10数年で、全集で20巻もの著作を残した。普通の作家でも一生かかってやっと書きあげられるかどうかの量である。
そしてこの「悲の器」は30代初めに書いたとはとても信じられない。50歳過ぎにならないと達し得ない人間としての心境が見事に描かれている。まさにこの小説の主人公は50歳半ばである。
主人公、正木典膳は大学教授であり、日本の法学界のトップの座に居たが、妻が癌に侵され、その時に家政婦として雇われた米山みきと、妻の死後数年に渡り夫婦同然の生活を送ったが、正木が大学名誉教授の娘、栗谷清子と出会い、彼女と婚約した。このことを機に米山みきは、正木との婚約不履行による損害賠償請求で裁判を起こし、対する正木は名誉棄損で訴えるが、新聞にスキャンダルとして報じられたことで大学を追われ、破滅していく様が描かれている。
正木典膳という人物は研究者としては超一流であり、正義感が高く、仕事に誠実な人間であったが、プライドが高く、愛情に欠け、人の弱さを受け入れられない冷酷さがあった。また人の愛情が理解できない人間でもあった。
最終章で正木典膳は米山みきの行く末を次のように思い浮かべた。
「おそらく(米山みきは)、あの梁で首を吊ることになるだろう。それを阻止することはおそらくできまい。なぜなら、かつて仕えた米山大尉を失い、二人の子供を発疹チフスで死なせ、さらに正木典膳にも見棄てられた彼女は、結局、この世に生きて何もしなかったことになるからだ。子供を産んだが、それも死んだ。再び妊んだが、それも堕胎した。彼女にはただ、一つの母体から二つの生命を生みだしたことがあるという記憶と、夫につかえ、また私にかしずいて、時には楽しく、時には慌ただしく快楽を味わったこともあるという記憶以外に何もないからだ。」
米山みきは、正木典膳に愛情を注いでいた。大学教授の後妻になりたいという野心はあったかもしれないが、一人の男に誠意をもって尽くした。裁判で正木を訴えたのは裏切られたことに対する復讐であろうが、愛情の無い人間に人生を賭けたのも自分が自ら選択したことである。しかし彼女は正木のような人間が心を開いて、血の通った人間に生まれ変わっていくことを願っていたに違いない。その願いが成就できなかったどころか、裏切られたことで逆上して復讐に向かったのであろうが、この選択は成功したとしても、彼女自身の心は大きく蝕まれたのではないだろうか。
婚約者だった栗谷清子が正木と出会った頃、正木のことを、本当に危険な方だ、肩を痛々しいほど怒らせて、確信と絶望、自負と敗残の意識みたいなものの混じり合った気配を、それこそ絶望的にふりまいていた、近寄る者を完膚なきまでに破壊してしまいそうな、と述べていたが、正木の本質を見抜いていたのである。正木がこのような本質を抱えていたにもかかわらず、栗谷清子は正木に親しみを感じ、惹かれていったのだ。しかし正木はこの彼女の気持ちを理解できなかったのである。
しかし栗谷清子が後で週刊誌に正木との関係を自ら投稿したり、最終章の裁判で、原告側の証人として出廷したことに対しては理解しがたいものを感じた。
正木典膳という人物はこう書くと、血も涙も無い冷酷な悪者のように感じられるかもしれないが、私は終始一貫して不思議に、正木を批判したくなる気持ちは起きなかった。それは主人公である正木自身が、この心の闇や、悪、冷酷さを受け入れ、客観視し、自身や他人にも偽ることがなかったからであろう。良くも悪くも自分を隠さず、自分に正直であったからであろう。
立派でかっこうのいい主人公の多い小説が氾濫しているが、高橋和巳のような、人間が自分にも他人にも隠したがる影や闇の部分、それは多かれ少なかれ、人間である以上は誰でも持ちうる要素であるのだが、そのような人間の本質を誰にも真似できないであろう独特の心理描写でもって描いたことに、この小説の価値を見出すことができる。
また、法律や、正木の末弟の聖職者が説く宗教というものが如何に、人間の感情の解決にとって役に立たないどころか、一歩間違えば、それは例えば法律や宗教を野心や売名のために利用されることで、法律や宗教が人間性の回復にほど遠い存在にしかなりえない危険性、不完全性、非力さを暗示しているようにも感じた。
ともかくも1回読んで理解できる小説ではない。何回も読みたくなる気持ちを起こさせる小説である。そして繰り返し読むことで、高橋和巳がこの小説をして何を言いたかったのか、理解していけると思う。
今は人々から忘れさられつつある高橋和巳であるが、この小説を埋没させたままにしておくのはもったいない。
難解な小説であるが、安っぽい感動しか得られない現代のベストセラー小説を何十冊も読むよりも、得られるもの、考えさせられることがたくさんあると確信する。

1か月ほど前に高橋和巳の処女作「捨子物語」を読んで感銘を受けた話をしたが、その後彼の著作を本格的に読んでみたい気持ちに駆られ、全集を古本で購入した。
「捨子物語」の次に読んだのは彼の代表作であり最高傑作である「悲の器」である。
この小説は私が30代前半の頃に文庫本で読んでみたものの最初の数ページで断念したことがあった。
今回20年近く経って完読に至ったが、432ページというページ数にもかかわらず、読み終わるのに何日もかかった。しかし非常に読みごたえがあった。
高橋和巳の小説は捨子物語もそうであったが、他の作家に比べ会話文が少なく、自然描写は普通にあるものの、主人公の内面の想念とか観念とかいったものの描写が頻繁に出てくる。恐らくこの凄まじいほどの人間の心理描写を読むのが好きでないと、高橋和巳の小説は読むに堪えなくなるであろう。
そして初めから終わりまで、厚い鉛色の空に覆われたような、暗く、陰鬱な雰囲気が漂っている。この独特の暗さに魅力を感じなければ、彼の小説を読んでいられないほどだ。
少々極端な言い方になったが、私は高橋和巳の考え方や小説の内容が好きだし、共鳴するものが多い。
彼は39歳の若さで癌で亡くなったが、わずか10数年で、全集で20巻もの著作を残した。普通の作家でも一生かかってやっと書きあげられるかどうかの量である。
そしてこの「悲の器」は30代初めに書いたとはとても信じられない。50歳過ぎにならないと達し得ない人間としての心境が見事に描かれている。まさにこの小説の主人公は50歳半ばである。
主人公、正木典膳は大学教授であり、日本の法学界のトップの座に居たが、妻が癌に侵され、その時に家政婦として雇われた米山みきと、妻の死後数年に渡り夫婦同然の生活を送ったが、正木が大学名誉教授の娘、栗谷清子と出会い、彼女と婚約した。このことを機に米山みきは、正木との婚約不履行による損害賠償請求で裁判を起こし、対する正木は名誉棄損で訴えるが、新聞にスキャンダルとして報じられたことで大学を追われ、破滅していく様が描かれている。
正木典膳という人物は研究者としては超一流であり、正義感が高く、仕事に誠実な人間であったが、プライドが高く、愛情に欠け、人の弱さを受け入れられない冷酷さがあった。また人の愛情が理解できない人間でもあった。
最終章で正木典膳は米山みきの行く末を次のように思い浮かべた。
「おそらく(米山みきは)、あの梁で首を吊ることになるだろう。それを阻止することはおそらくできまい。なぜなら、かつて仕えた米山大尉を失い、二人の子供を発疹チフスで死なせ、さらに正木典膳にも見棄てられた彼女は、結局、この世に生きて何もしなかったことになるからだ。子供を産んだが、それも死んだ。再び妊んだが、それも堕胎した。彼女にはただ、一つの母体から二つの生命を生みだしたことがあるという記憶と、夫につかえ、また私にかしずいて、時には楽しく、時には慌ただしく快楽を味わったこともあるという記憶以外に何もないからだ。」
米山みきは、正木典膳に愛情を注いでいた。大学教授の後妻になりたいという野心はあったかもしれないが、一人の男に誠意をもって尽くした。裁判で正木を訴えたのは裏切られたことに対する復讐であろうが、愛情の無い人間に人生を賭けたのも自分が自ら選択したことである。しかし彼女は正木のような人間が心を開いて、血の通った人間に生まれ変わっていくことを願っていたに違いない。その願いが成就できなかったどころか、裏切られたことで逆上して復讐に向かったのであろうが、この選択は成功したとしても、彼女自身の心は大きく蝕まれたのではないだろうか。
婚約者だった栗谷清子が正木と出会った頃、正木のことを、本当に危険な方だ、肩を痛々しいほど怒らせて、確信と絶望、自負と敗残の意識みたいなものの混じり合った気配を、それこそ絶望的にふりまいていた、近寄る者を完膚なきまでに破壊してしまいそうな、と述べていたが、正木の本質を見抜いていたのである。正木がこのような本質を抱えていたにもかかわらず、栗谷清子は正木に親しみを感じ、惹かれていったのだ。しかし正木はこの彼女の気持ちを理解できなかったのである。
しかし栗谷清子が後で週刊誌に正木との関係を自ら投稿したり、最終章の裁判で、原告側の証人として出廷したことに対しては理解しがたいものを感じた。
正木典膳という人物はこう書くと、血も涙も無い冷酷な悪者のように感じられるかもしれないが、私は終始一貫して不思議に、正木を批判したくなる気持ちは起きなかった。それは主人公である正木自身が、この心の闇や、悪、冷酷さを受け入れ、客観視し、自身や他人にも偽ることがなかったからであろう。良くも悪くも自分を隠さず、自分に正直であったからであろう。
立派でかっこうのいい主人公の多い小説が氾濫しているが、高橋和巳のような、人間が自分にも他人にも隠したがる影や闇の部分、それは多かれ少なかれ、人間である以上は誰でも持ちうる要素であるのだが、そのような人間の本質を誰にも真似できないであろう独特の心理描写でもって描いたことに、この小説の価値を見出すことができる。
また、法律や、正木の末弟の聖職者が説く宗教というものが如何に、人間の感情の解決にとって役に立たないどころか、一歩間違えば、それは例えば法律や宗教を野心や売名のために利用されることで、法律や宗教が人間性の回復にほど遠い存在にしかなりえない危険性、不完全性、非力さを暗示しているようにも感じた。
ともかくも1回読んで理解できる小説ではない。何回も読みたくなる気持ちを起こさせる小説である。そして繰り返し読むことで、高橋和巳がこの小説をして何を言いたかったのか、理解していけると思う。
今は人々から忘れさられつつある高橋和巳であるが、この小説を埋没させたままにしておくのはもったいない。
難解な小説であるが、安っぽい感動しか得られない現代のベストセラー小説を何十冊も読むよりも、得られるもの、考えさせられることがたくさんあると確信する。

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