1か月ほど前に読んだ新聞の読者投稿欄で、「思いやる力」は可視化され、評価されるべき能力だ、と言う方の投稿を読ませていただいた。
この投稿者は、「他人を思いやることで、いつか自分自身に返ってくる」と教わり、円滑な人間関係の形成のためには、相手を日常的に思いやり続ける必要がある、人を思いやる力は、才能や努力を伴う能力であると主張されている。
自分のこの投稿者と同じ年ごろに、当時ベストセラーとなった「気くばりのすすめ」という本を読んだりするなどして、人間関係を良くしようと悩んでいたときがあった。
そして、社会人になり上司や先輩社員に気くばりする、気を遣うというという行為を脅迫的に、自分にムチを打つかのようにすさまじい勢いで実行しようとした。
その結果、メンタルを病みうつ病となった。
そのころの自分は、気くばりの出来ない自分、思いやりのない自分を激しく憎み、「こんな自分ではいけない」、「この自分のままだと周りは受けれてくれない」という気持ちに支配され、これでもかと自分を責め続け、強迫的行為に苦しんでいた。
あれから約40年。自分を強迫的に責め続けるパターンからかなり解放された現在、「人を思いやる力は、才能や努力を伴う能力である」という考え方に疑問を持っている。
何故ならば、「人に対する思いやり」という感情は、人間が根源的に元々誰でも持っている本能であり、努力や才能で高めていくものではないからである。
思いやりは「人に対する優しさ」という表現に置き換えてもいいように思う。
20年くらい前に、心の苦しみを何とか解決しようとインターネット情報を漁っていたとき、心理学教材をネット販売している方が過去に会社経営に失敗し、離婚され、失意のどん底にいたとき、台所の片隅でうずくまって泣いていた自分を、まだ幼い娘が後ろから抱いて慰めてくれたという話を読んだことがあった。
その男性はその出来事をきっかけに逆転の人生を歩み、成功したのだという。
つまり人に対する純粋な優しさ、時に人の人生を大きく変えるほどの力を持った優しさというのは、努力とか才能で得られるものではなく、自分の中にすでに根源的に持っているものであり、その感情を自然に引き出せるかどうかこそが重要なのだ。
人間は生きる過程で、競争社会に組み込まれるなどしてこの純粋な感情を出す機会を失っていく。自己否定や競争的野心、物欲の支配などでこの純粋な感情は心の深淵に沈んでいく。
そしてこの根源的感情が一生、引き出されることなく人生を終える人も少なからずいるだろう。
「思いやり」、「優しさ」といったものは努力して得られる才能ではなく、人間が本来的に持っている根源的感情であることを認識しておきたい。
努力して得るものではなく、まして人から評価を期待するようなものではない。
「思いやり」とか「優しさ」というのは、与えた相手から見返りや評価を得なくも、与えるだけで満足する性質のものなのだ。
相手がそれを感じてくれなくても、理解してくれなかったとしても、相手が受け取ってくれるだけで満ち足りる行為なのである。何故ならば、それが人間の根源的、本能的感情であり、感情を表現するだけで喜びを感じるように人間は出来ているからである。
思いやりや優しを人に与えて、見返りや評価が得られず不快感、不満を感じたとしたら、その行為、感情の真の姿は相手のことよりも自分の自己中心的精神的利益にあったということであろう。
「人間が本来、DNA的に有している根源的感情」をいかに呼び覚まし、自然に表現できるようになれるかが、幸せに生きるために必要なことだと思っている。
競争的野心、物欲、自己否定、効率主義、二極性といったものからの解放と本当の意味での人間的成長が得られれば、このような悩み、疑問から遠ざかっていくものだと思っている。
【追記】
努力して思いやり行為を相手にしても、相手がそれを親切だと感じなかった場合、その思いやりの気持ちといものが、実は相手のことを考えてのものではなく、行為を行った人の自己中心的動機から来ていることが原因である可能性が高い。
思いやり行為の背後にある真の動機を相手は無意識で感じ取るものである。
あと、思いやりや気くばりの出来ない人間でも周りから好かれていることを目にすることがあるが、このような人はありままのそのままの姿が周りの人にプラスの感情を引き起こしているのだと思われます。
特別なことをしなくても、人は愛されるんだ、という確信を無意識的に持っている人は強い人だと言える。