緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

八村義夫「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)」を聴く

2016-06-12 20:42:46 | 現代音楽
八村義夫氏(1938~1985、以下敬称略)の音楽を初めて聴いたのは、今から4,5年前。
上野の東京文化会館音楽資料室で毛利蔵人の録音を探していたところ、吉原すみれの演奏するCDの中に毛利蔵人の曲とともに彼の曲があった。
「ドルチシマ・ミア・ヴィタ」という曲であった。



この曲をこの後、Youtubeで投稿されているのを知り、もう一度聴いたが、あまり印象に残ることなく、彼の名前も忘れてしまっていたが、先日、「民音現代作曲音楽祭’79-’88」と題するCDを手に入れ、八村義夫の名前を再び目にした。
収録されていた曲は「錯乱の論理」と言う、ピアノとオーケストラのための曲であった。
1楽章の10分程度の曲であったが、いろんな感情が凝縮されて詰まっているような、激しい、厳しい曲であった。



そしてもっと彼の曲を聴いてみたいという気持ちが起きた。
そこでピアノ独奏曲を見つけた。
「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)(1969年作曲)」という曲だった。



今までに聴いた現代音楽の中のどの曲よりも、激しく、衝撃的な曲であった。
この曲は桐朋学園の「子供のための音楽教室」で、子供に現代音楽になじませる目的で委嘱を受け、作曲されたとのことであるが、作曲者自身が後で述べているように、その範囲を大幅に逸脱してしまっている。
八村義夫は、「この曲で意図しているのは、或る-透明で不吉な予感である」と言っている。

CDの解説文によると、「彼岸花は、(中略)見る者に、一種の予兆的な、あたりの空気のうごきを麻痺させるような印象をあたえる。私は小さいころ、長野県の上田で出会った時の、その鮮烈な感動を忘れることはできない。”子供のための曲”ということから、私は、彼岸花を想い、子供のころを想い、そして少しずつ音を置いていった...」。
このコメントはこの曲の理解の助けになるものだ。

冒頭の3音の下降する単音が、不吉な不気味さを予兆させる。
そして次第に、また突然激しい不協和音の連続と交錯する。
激しい執拗な強い不協和音とトリルが繰り返されると、不吉な静を感じさせる中に、また激しい不協和音と不気味なトリルが連続する。
そして動と静が繰り返され、しばらく静の状態となるが、冒頭の単音の3音が再現され、連続する不協和音は強さと激しさを増したところで、突然遠くの方から意表をつくニ長調の美しい調べが流れてくる。
しかし、その調性音楽も長くは続かず、また元の不気味な曲想に戻り、最後は静かに終わる。

とても具体的に曲のイメージを表せられるものではない。
この曲をどう感じるかは聴く人の感覚に頼るしかない。
不協和音に耳を塞ぎたくなる人が殆どではないか。
しかし、現代音楽に慣れている方であれば、ピアノの現代音楽で、これほど鮮烈な感覚を感じられる曲はないと思うのではないか。
私は武満徹のピアノ曲を聴いた時よりも衝撃的だった。
(武満徹と全く性格の異なる曲ではあるが)

八村義夫は46歳で早世したが、わずか16曲しか残さなかったと言われている。
これは作曲専門の音楽家にしては少ない数であるが、彼は1曲、1曲を妥協することなく、完璧なまでの仕上がりに到達するまでは発表しなかったそうだ。
だからすさまじいほどのエネルギーが宿っている。

彼の録音は比較的手に入りやすい。
Youtubeでも、この「彼岸花の幻想」、「錯乱の論理」、「ドルチシマ・ミア・ヴィタ」など数曲を聴くことができる。
またYoutubeではないが、ある動画サイトで、めずらしい彼の合唱曲を見つけた。
「混声合唱のための アウトサイダー第一番〜愛の園」という曲だ。
これも難解な曲。



【追記】

八村義夫のことを調べていったら、彼の妻が内藤明美氏であることが分かり驚いた。
内藤明美氏は、「ギターのためのシークレット・ソング op.2(1979年)」 の作曲で、1982年に武井賞を受賞した。
この「ギターのためのシークレット・ソング」は、佐藤紀雄氏の演奏で「コタ」というCDで録音されている。



楽譜もどこかの音楽雑誌の付録に、自筆譜で掲載されているのを見たことがある。
シークレット・ソング というタイトルから、甘い曲想を連想するが、とんでもない、無調の激しい曲だ。
この曲も現在は埋没してしまっているが、彼女が20代前半で書きあげたこの曲は、どういう経緯で作られたのか興味のあるところだ。
内藤明美氏は作曲家で、現在はニューヨーク在住らしい。
恐らく1980年代初めに八村義夫に出会い、彼から強い影響を受けたに違いない。

また、ある方のブログで、八村義夫はベートーヴェンのソナタ(これはピアノソナタに違いないと思うのだが)を徹底的に分析したとのことである。
古典的形式に無縁だと思っていたのに、これは意外だ。
彼はベートーヴェンのピアノソナタから何を学ぼうとしていたのか。

【追記20170920】

「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)」の楽譜の一部を掲載します。
春秋社発行の「こどものための現代ピアノ曲集 Ⅱ」の中に収められていました。
こどものための教材なのに、完全に場違いで、宙に浮いています。
しかし譜面の形を見ているだけでも興味をそそられますね。





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河南智雄作曲「ソプラノとオーケストラのための オンディーヌ」を聴く

2016-05-22 21:59:56 | 現代音楽
このところ武満徹や本間雅夫の現代音楽、それもピアノ独奏曲を聴いていたが、先日東京に出た折に立ち寄った中古CDショップで、現代音楽だけを集めたオーケストラ曲集のCDを見つけた。
「民音現代作曲音楽祭’79~’88」と題する8枚組のCDだった。
8枚組なので中古でも値段は高いはずであるが、意外にも安値だった。
今の時代に現代音楽は人気がないためであろう。

日本の現代音楽は1960年代から1970年代にかけて積極的に作曲されたようだ。
このCDの解説書にプロデューサーの井坂絃氏のコメントが掲載されていたが、「レコードの持っている使命を考えるとき、私は現代音楽こそ最もレコードを必要とし、かつメディアとして有効なものではないだろうか、と思っている。にもかかわらず制作する側から言えば、経済的な理由で現代音楽をレコードにするのは困難を伴う。’70年代の初めに、あれほど多く発売された日本の作品のレコードも、今日のようにレコード会社の利潤追求のみに比重を置いた意識の結果、あっという間に、その制作が後退してしまった。」と言っている。
この民音現代作曲音楽祭も1969年の第1回から始まったが、1994年を最後に以後は開催されていないようだ。

では何故現代音楽は後退してしまったのか。
クラシック音楽の歴史を振り返ると、長い原始的な旋法時代から機能調性が生み出され、J.S.バッハやスカルラッティの形式重視のバロック音楽から、古典形式、ロマン主義と発展させていき、一つの音楽形式が永続的にとどまることはなかった。
これらの音楽は機能調性に従って作られ、拍子も概ね一定である。
つまり聴き手が安心して心地よく、創作された音楽に耳を傾けられるように作られたルールに沿って曲が作られていたと言える。
19世紀終わりから20世紀初めにかけて、機能調性は破壊されずに何とか踏みとどまりながらも、めまぐるしい転調や、和声、リズムの変動が見られるようになる。
例えば丁度この時代の作曲家である、フランスのガブリエル・フォーレの夜想曲を聴くと機能調性を限界まで維持しながらも、古典的な転調の目的とは明らかにことなる頻繁な転調、和声の拡大を聴くことできる。
しかしバロック→古典→ロマン派と続いた機能調性時代も、20世紀に前半に崩壊する。
その源泉はドビュッシーの音楽にあるのかもしれないが、明白なのはシェーンベルクの12音音階による無調性音楽の出現である。
この機能調性から無調性への移行に背景には、この時代の作曲家たちが伝統的な音楽形式にもとづいた機能調性による音楽の作曲への行き詰まりがあったのではないかと思う。
クラシック音楽は、19世紀の古典形式後期からロマン派に最盛期を迎え、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンら優れた偉大な作曲家が膨大な名曲を創作したが、彼らの曲が芸術性において極めてハイレベルな位置を占めていたがために、同じ音楽形式で彼らの曲を超える音楽をもはや作ることが出来なくなったからではないかと思う。
つまり必然的に今までと根本から異なる音楽形式により音楽を創作しないと、 単にベートーヴェンらの亜流にすぎず、作曲家自らの存在価値を見出すことが出来なくなったからではないか。
一方別の見方をすれば、新しい音楽の可能性を模索していったとも思える。
すなわち、楽しい、嬉しい、悲しい、寂しいとかいった人間の基本的感情を主題に作られ、聴き手に心地よい感動を与える従来のおきまりの音楽ではなく、もっと違う人間の感情、例えば、悪、冷酷、闇、荒涼、無念、恨み、驚愕、恐れ、不安とか言った負の感情の表現、また感情と切り離された哲学的思考、学術的考えさえも音楽で表現できないかと考えたのかもしれない。
つまり従来の音楽形式においては制約を伴っていた表現の壁を壊し、今までと全く異なる対象の表現を目的として、それを音楽として人々に表そうと考えたのではないかと思う。
このことから考えると、1970年代までの前衛の時代は、来るべくして起きた音楽創出の流れであり、必然的な時代の流れであり、そのような音楽の出現を誰にも止めることは出来なかったに違いない。

しかしながらこの前衛時代の現代音楽は根本的にロマン派までの音楽とは異なる性質を持っているので、その内容は難解であり、また心地よく聴くことは出来ないものである。
先に述べた「民音現代作曲音楽祭’79~’88」のCDで、各曲を作曲した作曲家の解説が載っていたが、言っていることが難解であり、理解に苦しむものが多い。
しかしこれが現代音楽の特性なのだと思う。
そもそも、ロマン派までの一般の多くの人々が理解出来るような主題を対象としていないから当然である。
つまり現代音楽とは先に述べた、複雑な人間の負の感情の領域や哲学的思考、学術的論理を主題として創作されているから、まずこれを念頭に置いて聴かないと拒絶反応を起こすのは当たりまえなのだ。
ロマン派のような美しい心地よい音楽を聴けると思って期待して聴くことはそもそもお門違いである。
現代音楽が不愉快だ、一般人を無視しているとか、こんなの音楽でない、と怒ってみてもどうしようもない。
これは難解な哲学書を読んで、これは文学でない、芸術でないと言っているようなものだ。

現代音楽を本格的に聴こうとするならば、それなりの心構えと、理解できるまでの長い忍耐が必要だと思う。
現代音楽の中には感覚的に理解できるものもあるが、音楽的感覚だけで理解できない作品はたくさんある。
理解できるようになるには、関連する情報や学問を長い時間をかけて収集、研究しないとならないものもあるだろう。
そのような聴き方でも楽しめるというのが、現代音楽の魅力ではないか。

今日紹介する、河南智雄作曲「ソプラノとオーケストラのための オンディーヌ」は、この8枚組25曲のうち、最も聴き応えがあり、これから何度も聴いてみたいと思った曲である。
作者の河南智雄氏は、立ち寄った本屋で偶然見つけた、吉原幸子の「オンディーヌ」という詩集を読んで、「その激しい内的なドラマと透明な抒情、また行間に漂う様々な音や色彩に、たちどころに魅了され」、この曲を作曲したと言っている。
しかしこの詩を音楽にするには大変な困難な作業を要したようである。

吉原幸子氏の「オンディーヌ」という詩を読むと、まず平易な文章なのに、意味することが非常に難解で理解に苦しむ。
寓話のオンディーヌとハンスの悲恋をからめているようで、そのような感じはしない。
行間から漂う感情は、暗く荒涼としており、女の怨念のようなものを感じる。
決して美しいものは感じない。
だから必然的に河南氏の音楽も暗く荒涼としている。
そして感情的に高まる部分のソプラノと打楽器を絡めた管弦楽器の表現は寒気すら感じるほどだ。
これほど徹底して負の表現を極めている音楽も珍しい。
聴衆を意識した、中途半端な妥協、顔色を伺う様な表現は一切ない。
調性音楽は一切現れない。
演奏時間は3楽章で約30分であるが、曲の切れ目で不気味な余韻を感じる。
音楽に美しさや心地よさを求める人は聴かない方がいい。間違った悪い影響を与えられるかもしれない。

因みに、この吉原幸子氏の「オンディーヌ」を題材とした合唱曲も偶然見つけ、聴いてみたが、河南氏の音楽表現とは全く対照的だったのは興味深い。

前衛時代が終焉した1980年代以降、日本の音楽界は調性音楽に復帰したと思われるが、ではベートーヴェンやシューマンらが活躍した時代の音楽に匹敵する調性音楽が生まれているかと言えば、そうではないようだ。
あれほど前衛音楽を徹底的に批判した原博は、J.S.バッハの音楽形式を用いて、ピアノのための「24の前奏曲とフーガ」を作曲し、私はこの曲集は優れた音楽だと思っているのだが、楽譜は既に絶版、録音も廃盤となっており、Youtubeにも彼の音楽は殆ど投稿されていない。
やはり先に述べた、真の意味で優れた、機能調性と伝統的音楽形式による音楽を今の時代に創作することの困難さ、限界という壁にぶち当たりながらも、何とか妥協した音楽を作り続けているというのが今の音楽界の現状なのか。

(河南智雄作曲「ソプラノとオーケストラのための オンディーヌ」については、後日聴き込んだ後に、改めて紹介したいと考えています)

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