今日の夕方、たまたま電源を入れたテレビ番組で「ドキュメント72時間」という番組が放映されていた。
すでに放送開始から半分以上が経過していたが、ちょっと考えさせらる場面があったので記事にしてみようと思った。
この番組では、お寺が引き取った多数の捨て猫と、その猫との交流を楽しみに訪れる人々をドキュメントしていたのだが、訪れる人の中には適応障害やパワハラで休職していた方や、表向き人当りはいいけど本当は人となじめないと認める人がいて、そのような方々が自分と同じような境遇、性格の猫との交流を通して、心が癒され社会復帰していたことに興味を惹かれた。
その方々と同じような境遇、性格の猫とは、他の猫や人間を過剰に警戒し、離れた場所で孤独に過ごす猫や、ベンチの下に隠れてなかなか出て来ない猫、ちょっとの刺激で攻撃心をむき出しにする猫であった。
心に苦しみを負った方々は、このような猫と交流し心を通わせることで癒されたというのである。
恐らく、このような猫に自分自身の本当の現実の姿を投影したのだと思う。
傷ついた自分をなかなか受け入れることが出来なかった、傷つき苦しむ自分を嫌い、裁き、拒絶した末に病んだ自身の姿をこの猫の姿を見ることで客観視出来たのではないか。
そして同じ境遇のこの猫に愛情を注ぐことで、自分自身の心の苦しみも和らいでいったのである。人によっては長い間心の深いところに封印していた愛情という感情に触れ、それを純粋に表現できるようになった方もいるに違いない。このことは心の苦しみの解決にとってとても重要なヒントを与えていると感じた。
5年前に激しいパワハラを受けて休職したという女性は、ベンチの下からなかなか出てこない猫について、「この猫は人が怖いんだけど、本当は人が好きなんだ」というようなことを言っていた。
人から虐待された猫なのであろう。虐待されれば動物であってもなかなか人に心を開かないという。
人間だって同じ人間から虐待されれば心を閉ざす。本能的に人に警戒するようになる。人間も動物と変わらない。
心を閉ざした人間は人との交流を恐れる。人との交流を断ち、孤独な人生を送る。
しかし一方で、無意識では人を好きになりたい、人と親しくなって交流したいという根源的な気持ちも感じている。
人に対する恐れと人と親しくなりたいという気持ちが激しく葛藤している。だが、本人はそのことを意識出来ていない。
人に対する根源的な恐怖とは、会食恐怖とか男性恐怖のような恐怖とは次元が違う。普通に仕事をし、普通の人のように見えても心を完全に閉ざしている人はいる。このような人が人に対する警戒心を解き、人と親しくなれるようになるのは容易なことではない。
ものすごく長い年月がかかるのと、絶えず自己観察、自己分析を行う忍耐力、そして幸運にも心の暖かい人との出会いがなければ回復出来る可能性は極めて低いのではないかと思っている。
以前、NLPのような実践心理学ではこのような心の問題に対して歯が立たないということを書いたが、今日のこの番組を見てまさにそうだと確信した。
長い時間をかけて、繰り返し繰り返し、人は安全なんだ、という感覚が生まれる(取り戻す)まで忍耐強く待ち続けるしかない。
待てない人は、短期療法に引っかかってお金と時間を浪費する。自分がそうであったから。しかし苦しい人は藁をもすがる気持ちになっていることは否定出来ない。その気持ちも十分分かる。しかし注意が必要だ。
ここ数年で勤め先などで「心理的安全性」という言葉を聞くようになったが、その意味するところはどうやら次のようだ。
(ネットでの検索による)
心理的安全性とは、組織やチームにおいて、自分の意見や気持ちを安心して表現できる状態を指します。
心理的安全性が高い状態では、次のような特徴が見られます。
自分の意見や指摘を拒絶されたり、罰せられたりしないという確信がある
どんな意見でも受け入れてもらえるという安心感がある
ミスをしても非難されることはないという安全感がある
相互信頼があり、一度引き受けた仕事は最後までやりきってくれると信じられる
組織心理学で取り上げられている概念のようだが、企業などで業績を上げるための従来の報酬と罰則を中心とした組織環境に対する考え方での限界から出てきたものではないかと思う。
要は企業の業績を高めるためには根柢に「心理的安全性」というものが組織に浸透されてなければならない、ということなのだろう。
これはあくまでの企業が発展するためのひとつの手法、方法論に過ぎないが、このような概念から一歩離れて、「心理的安全性」という言葉をそのままに受け止めてみるならば、先に述べたような猫と人間との交流に結び付いていく。
つまり、何をしても許される、今のありままの姿でいても拒絶されない、見捨てられないという安心感である。
人に心を閉ざしてきた猫が暖かい人との交流でこの感覚を取り戻す、あるいは新たに感覚を身に付けることにつながる。
テレビに出てきた警戒心の強い猫も恐らく数年後にはかなり警戒心が解けていくに違いない。
しかし動物と違って人間の場合はひとつやっかいな問題がある。
それは、心の中で、ありのままの自分、失敗した自分、ミスした自分、弱いと感じる自分など、そう感じる自分を徹底的に憎み、裁き、否定するもう一人の自分の存在があること、そしてこのような存在があることに自身が気が付いていないということだ。心の中で恐ろしい敵と共存している。そしてそのことが絶え間ない恐怖感情を生み出している。寝ていても感じている恐怖とはこのような状態から生まれていると思われる。
この問題に気が付き、自己否定を止めない限り、どんなに自分を受けれてくれる暖かい人との交流の機会があったとしても、それにより苦しみから解放されることはないのだ。
すでに放送開始から半分以上が経過していたが、ちょっと考えさせらる場面があったので記事にしてみようと思った。
この番組では、お寺が引き取った多数の捨て猫と、その猫との交流を楽しみに訪れる人々をドキュメントしていたのだが、訪れる人の中には適応障害やパワハラで休職していた方や、表向き人当りはいいけど本当は人となじめないと認める人がいて、そのような方々が自分と同じような境遇、性格の猫との交流を通して、心が癒され社会復帰していたことに興味を惹かれた。
その方々と同じような境遇、性格の猫とは、他の猫や人間を過剰に警戒し、離れた場所で孤独に過ごす猫や、ベンチの下に隠れてなかなか出て来ない猫、ちょっとの刺激で攻撃心をむき出しにする猫であった。
心に苦しみを負った方々は、このような猫と交流し心を通わせることで癒されたというのである。
恐らく、このような猫に自分自身の本当の現実の姿を投影したのだと思う。
傷ついた自分をなかなか受け入れることが出来なかった、傷つき苦しむ自分を嫌い、裁き、拒絶した末に病んだ自身の姿をこの猫の姿を見ることで客観視出来たのではないか。
そして同じ境遇のこの猫に愛情を注ぐことで、自分自身の心の苦しみも和らいでいったのである。人によっては長い間心の深いところに封印していた愛情という感情に触れ、それを純粋に表現できるようになった方もいるに違いない。このことは心の苦しみの解決にとってとても重要なヒントを与えていると感じた。
5年前に激しいパワハラを受けて休職したという女性は、ベンチの下からなかなか出てこない猫について、「この猫は人が怖いんだけど、本当は人が好きなんだ」というようなことを言っていた。
人から虐待された猫なのであろう。虐待されれば動物であってもなかなか人に心を開かないという。
人間だって同じ人間から虐待されれば心を閉ざす。本能的に人に警戒するようになる。人間も動物と変わらない。
心を閉ざした人間は人との交流を恐れる。人との交流を断ち、孤独な人生を送る。
しかし一方で、無意識では人を好きになりたい、人と親しくなって交流したいという根源的な気持ちも感じている。
人に対する恐れと人と親しくなりたいという気持ちが激しく葛藤している。だが、本人はそのことを意識出来ていない。
人に対する根源的な恐怖とは、会食恐怖とか男性恐怖のような恐怖とは次元が違う。普通に仕事をし、普通の人のように見えても心を完全に閉ざしている人はいる。このような人が人に対する警戒心を解き、人と親しくなれるようになるのは容易なことではない。
ものすごく長い年月がかかるのと、絶えず自己観察、自己分析を行う忍耐力、そして幸運にも心の暖かい人との出会いがなければ回復出来る可能性は極めて低いのではないかと思っている。
以前、NLPのような実践心理学ではこのような心の問題に対して歯が立たないということを書いたが、今日のこの番組を見てまさにそうだと確信した。
長い時間をかけて、繰り返し繰り返し、人は安全なんだ、という感覚が生まれる(取り戻す)まで忍耐強く待ち続けるしかない。
待てない人は、短期療法に引っかかってお金と時間を浪費する。自分がそうであったから。しかし苦しい人は藁をもすがる気持ちになっていることは否定出来ない。その気持ちも十分分かる。しかし注意が必要だ。
ここ数年で勤め先などで「心理的安全性」という言葉を聞くようになったが、その意味するところはどうやら次のようだ。
(ネットでの検索による)
心理的安全性とは、組織やチームにおいて、自分の意見や気持ちを安心して表現できる状態を指します。
心理的安全性が高い状態では、次のような特徴が見られます。
自分の意見や指摘を拒絶されたり、罰せられたりしないという確信がある
どんな意見でも受け入れてもらえるという安心感がある
ミスをしても非難されることはないという安全感がある
相互信頼があり、一度引き受けた仕事は最後までやりきってくれると信じられる
組織心理学で取り上げられている概念のようだが、企業などで業績を上げるための従来の報酬と罰則を中心とした組織環境に対する考え方での限界から出てきたものではないかと思う。
要は企業の業績を高めるためには根柢に「心理的安全性」というものが組織に浸透されてなければならない、ということなのだろう。
これはあくまでの企業が発展するためのひとつの手法、方法論に過ぎないが、このような概念から一歩離れて、「心理的安全性」という言葉をそのままに受け止めてみるならば、先に述べたような猫と人間との交流に結び付いていく。
つまり、何をしても許される、今のありままの姿でいても拒絶されない、見捨てられないという安心感である。
人に心を閉ざしてきた猫が暖かい人との交流でこの感覚を取り戻す、あるいは新たに感覚を身に付けることにつながる。
テレビに出てきた警戒心の強い猫も恐らく数年後にはかなり警戒心が解けていくに違いない。
しかし動物と違って人間の場合はひとつやっかいな問題がある。
それは、心の中で、ありのままの自分、失敗した自分、ミスした自分、弱いと感じる自分など、そう感じる自分を徹底的に憎み、裁き、否定するもう一人の自分の存在があること、そしてこのような存在があることに自身が気が付いていないということだ。心の中で恐ろしい敵と共存している。そしてそのことが絶え間ない恐怖感情を生み出している。寝ていても感じている恐怖とはこのような状態から生まれていると思われる。
この問題に気が付き、自己否定を止めない限り、どんなに自分を受けれてくれる暖かい人との交流の機会があったとしても、それにより苦しみから解放されることはないのだ。