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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

「心理的安全性」ついて考えてみた

2024-10-27 21:35:51 | 心理
今日の夕方、たまたま電源を入れたテレビ番組で「ドキュメント72時間」という番組が放映されていた。
すでに放送開始から半分以上が経過していたが、ちょっと考えさせらる場面があったので記事にしてみようと思った。

この番組では、お寺が引き取った多数の捨て猫と、その猫との交流を楽しみに訪れる人々をドキュメントしていたのだが、訪れる人の中には適応障害やパワハラで休職していた方や、表向き人当りはいいけど本当は人となじめないと認める人がいて、そのような方々が自分と同じような境遇、性格の猫との交流を通して、心が癒され社会復帰していたことに興味を惹かれた。
その方々と同じような境遇、性格の猫とは、他の猫や人間を過剰に警戒し、離れた場所で孤独に過ごす猫や、ベンチの下に隠れてなかなか出て来ない猫、ちょっとの刺激で攻撃心をむき出しにする猫であった。
心に苦しみを負った方々は、このような猫と交流し心を通わせることで癒されたというのである。

恐らく、このような猫に自分自身の本当の現実の姿を投影したのだと思う。
傷ついた自分をなかなか受け入れることが出来なかった、傷つき苦しむ自分を嫌い、裁き、拒絶した末に病んだ自身の姿をこの猫の姿を見ることで客観視出来たのではないか。
そして同じ境遇のこの猫に愛情を注ぐことで、自分自身の心の苦しみも和らいでいったのである。人によっては長い間心の深いところに封印していた愛情という感情に触れ、それを純粋に表現できるようになった方もいるに違いない。このことは心の苦しみの解決にとってとても重要なヒントを与えていると感じた。

5年前に激しいパワハラを受けて休職したという女性は、ベンチの下からなかなか出てこない猫について、「この猫は人が怖いんだけど、本当は人が好きなんだ」というようなことを言っていた。
人から虐待された猫なのであろう。虐待されれば動物であってもなかなか人に心を開かないという。
人間だって同じ人間から虐待されれば心を閉ざす。本能的に人に警戒するようになる。人間も動物と変わらない。
心を閉ざした人間は人との交流を恐れる。人との交流を断ち、孤独な人生を送る。
しかし一方で、無意識では人を好きになりたい、人と親しくなって交流したいという根源的な気持ちも感じている。
人に対する恐れと人と親しくなりたいという気持ちが激しく葛藤している。だが、本人はそのことを意識出来ていない。

人に対する根源的な恐怖とは、会食恐怖とか男性恐怖のような恐怖とは次元が違う。普通に仕事をし、普通の人のように見えても心を完全に閉ざしている人はいる。このような人が人に対する警戒心を解き、人と親しくなれるようになるのは容易なことではない。
ものすごく長い年月がかかるのと、絶えず自己観察、自己分析を行う忍耐力、そして幸運にも心の暖かい人との出会いがなければ回復出来る可能性は極めて低いのではないかと思っている。

以前、NLPのような実践心理学ではこのような心の問題に対して歯が立たないということを書いたが、今日のこの番組を見てまさにそうだと確信した。
長い時間をかけて、繰り返し繰り返し、人は安全なんだ、という感覚が生まれる(取り戻す)まで忍耐強く待ち続けるしかない。
待てない人は、短期療法に引っかかってお金と時間を浪費する。自分がそうであったから。しかし苦しい人は藁をもすがる気持ちになっていることは否定出来ない。その気持ちも十分分かる。しかし注意が必要だ。

ここ数年で勤め先などで「心理的安全性」という言葉を聞くようになったが、その意味するところはどうやら次のようだ。
(ネットでの検索による)

心理的安全性とは、組織やチームにおいて、自分の意見や気持ちを安心して表現できる状態を指します。
心理的安全性が高い状態では、次のような特徴が見られます。
自分の意見や指摘を拒絶されたり、罰せられたりしないという確信がある
どんな意見でも受け入れてもらえるという安心感がある
ミスをしても非難されることはないという安全感がある
相互信頼があり、一度引き受けた仕事は最後までやりきってくれると信じられる

組織心理学で取り上げられている概念のようだが、企業などで業績を上げるための従来の報酬と罰則を中心とした組織環境に対する考え方での限界から出てきたものではないかと思う。
要は企業の業績を高めるためには根柢に「心理的安全性」というものが組織に浸透されてなければならない、ということなのだろう。

これはあくまでの企業が発展するためのひとつの手法、方法論に過ぎないが、このような概念から一歩離れて、「心理的安全性」という言葉をそのままに受け止めてみるならば、先に述べたような猫と人間との交流に結び付いていく。
つまり、何をしても許される、今のありままの姿でいても拒絶されない、見捨てられないという安心感である。
人に心を閉ざしてきた猫が暖かい人との交流でこの感覚を取り戻す、あるいは新たに感覚を身に付けることにつながる。
テレビに出てきた警戒心の強い猫も恐らく数年後にはかなり警戒心が解けていくに違いない。

しかし動物と違って人間の場合はひとつやっかいな問題がある。
それは、心の中で、ありのままの自分、失敗した自分、ミスした自分、弱いと感じる自分など、そう感じる自分を徹底的に憎み、裁き、否定するもう一人の自分の存在があること、そしてこのような存在があることに自身が気が付いていないということだ。心の中で恐ろしい敵と共存している。そしてそのことが絶え間ない恐怖感情を生み出している。寝ていても感じている恐怖とはこのような状態から生まれていると思われる。
この問題に気が付き、自己否定を止めない限り、どんなに自分を受けれてくれる暖かい人との交流の機会があったとしても、それにより苦しみから解放されることはないのだ。
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心が傷つかないようにするにはどうしたらよいのか

2024-10-19 22:33:54 | 心理
「愛されなかったとき、どう生きたらよいのか」
「心が傷つかないようにするにはどうしたらよいのか」

これらはずっと長い間考え続けてきたテーマであった。
今日、「心が傷つかないようにするにはどうしたらよいのか」というテーマについて考えてみた。

まず私が毎日のように読んでいる心理学の本に書かれていることの抜粋から考えてみたい。
「自分が傷つかないようにするにはどうすればいいのでしょうか。あなたはこれまで他人の言葉や態度によって傷ついた記憶があるので、自分が傷つくのは他人のせいであると勘違いしていますが、実は他人の態度を契機として、あなたの内面にある否定的価値観が表面意識に上がってくることによって、あなたは傷つきます。あなたを傷つけ続けているのは、あなたの抱いた否定的価値観です。他人の態度があなたの手放すべき考え方を教えてくれているわけです。」(津留晃一メッセージ集18「恐れ」より)

「他人の態度を契機として、あなたの内面にある否定的価値観が表面意識に上がってくる」とは具体的にどのようなことなのだろう。
ここで「他人の態度」であるが、例えばであるが、上司からぞんざいな言い方をされた、軽くあしらわれた、誹謗中傷された、無視された、などがあげられる。
人から「軽く扱われる」態度をとられたとしたら、誰もがその瞬間、不愉快な思いをするだろう。しかし、次の瞬間に平常心に戻る人もいれば、強い怒りの感情が湧きおこってきたり、不愉快な感じが長い間収まらない人もいる。
その違いは何なのだろうか。
後者の人は恐らく、過去に、親や先生、上司など目上の立場の人間からぞんざいな扱いをされたり軽くあしらわれたりして心が深く傷ついている可能性が高い。
相手が目上で指導的立場であれば、「そのように扱われる自分が悪い、自分に落ち度がある」と解釈するからである。
そうして、この解釈により自分で自分を傷つける。
このような不幸なマイナス体験により、自分に対する評価、出来事の解釈が否定的価値観となって心に根付いていく。
そして相手が放った何気ない、悪意の無い言動でさえも、この否定的価値観というフィルターを通過して、心が傷つき、怒り、憎しみ、悲しみなどのマイナス感情を発生させる。
このメカニズムにより発生したマイナス感情が発散されることなく心に堆積すれば、早晩、うつ病になっていくであろう。
薬物療法が効かないうつ病の殆どは、これが原因ではないかと思う。

人は他人の言動で傷ついたとき、過去の全てのマイナス体験の記憶とリンクしていると思われる。
つまり他人の言動を契機として、過去のマイナス体験が再生、追体験されるのである。そしてその体験で味わった時と同じマイナス感情が再現される。
心の苦しみを抱え続けている人が陥っている原因がこのメカニズムにある。

では、このようなメカニズムによって心が傷つかないようにするにはどうしたらよいのだろうか。
これは大変難しい作業だと思う。
心理療法において、30年以上にわたって自分自身をクライアントにすることによってさまざまな手法を試してきたが、明確にして効力のある手法は見いだすことは出来なかった。
しかし、ここにきて、この問題を解決する具体的方法のヒントを得ることが出来た。
おおざっぱに言うと、「過去のマイナス体験で封じ込まれた感情エネルギーを解放し、浄化し、心(価値観)をニュートラルにしていく」ということだ。
これから感情エネルギーを解放する方法についての研究に取り組んでいくところだ。

自分を実験台にして進めていくことになるが、成果があったらその都度記事に取り上げていくことにしたい。

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仕事に対する誠意はどこから生まれるのか

2024-10-04 23:02:44 | 心理
今週は仕事が結構忙しかった。明日合奏練習のある千葉マンドリンクラブの個人練習が殆ど出来ていない。

今週、担当するある業務で、抽出された数十部門に対して共通のテーマで調査を依頼する機会があった。
そこで、回答してもらった結果を1つ1つ見て感じたことを書こうと思う。

回答の内容は部門により様々だった。こうも違うものなのかと感じた。
非常に丁寧に補足説明を付けてくれた部門もあれば、簡単に済ませているものもあれば、回答してこなかった部門もあった。
回答してこなかった部門は論外として、回答してくれた部門の対応の違いに興味をいだいた。

先に述べたようにとても丁寧で説明を付けて加えた部門、また分からない点について質問をしてきた部門の方(管理者)というのは、依頼主が何を求めているのかを常に理解しようとし、ベストな対応をしようとする気持ちが習慣的に身に付いているということだ。
この姿勢に感動するのである。
このような人たちは、自分の評価につながらないようなことにも最大限の力を注ぐ。ベストの対応をする。
仕事に対する姿勢、誠意というものがここで分かるのである。
決してプレゼンのような目立つ場でこのようなことが分かるようなものでないのである。

今まで40年近くさまざまな人を見てきたが、いい仕事をする方というのはこのような方だ。
自分の評価につながる仕事には力を注ぐが、目立たない仕事は手を抜くということはない。
この逆をやる方も結構いる。常に評価を気にしている人である。出世が先と考えている人である。
残念ながらこのタイプの方でいい仕事をしているのを見たことはない。どこかで必ず歪が顕在化する。

以前、工場勤務時代、ある原価積算のプロの方の下で働いていたことがあった。
その方は製造の工程管理や資材購買等の業務を40年近く経験してから原価積算の仕事に就いたようなのであるが、まさに職人的な仕事をする方であった。
部品点数が3千品目に渡るような製品の原価を計算する際に、何と1つ1つの部品の膨大な量の設計図面を見ながら、その部品の材質、素材の寸法を部品リストに書き込んでいき、そのうえで部品単価を記入していくという、とてつもない忍耐力のいる作業を黙々とやっていたのである。
この事実を知ったとき、これを出来る人は日本全国でのこの人しかいないのではないかと思ったほどだ。
設計者だって、鉄鋼材やプレスボードなどの素材が定尺でいくつの寸法で、そこから材料取りでいくつになるなんて分かっていないことが多いのだ。
ものづくりの現場を知っていないと出来ない技なのだ。
職人気質で頑固な方でもあったが、私はこの方から仕事の姿勢を学ばせてもらった。
製造や購買の経験の無い私は、時間を作って製造現場に行ってものづくりの過程を見るようになった。
外注業者の方と直接話をしたり、外注業者の工場に資材担当の方に連れていってもらって現場を見学したこともあった。
製品の原価が、具体的にどんな部品で構成され、何という業者から購入し、どんな工程を経て作られた結果、この金額になるのか、ということを理解しようとしたのである。
この工場勤務時代は、自分が求めさえすればいくらでも様々なことを吸収出来る機会と環境に恵まれていた。

この原価積算のプロの方はさほど出世しなかった。コミュニケーション能力に乏しかったからだ。また仕事が地味だったからだ。
しかし、仕事に対する姿勢は凄かった。厳しかった。
思うに、仕事で何かを成し遂げたいという意欲を持っているのであれば、どんなに地味で目立たない、評価につながらない仕事でも最大限の姿勢でもって成し遂げるような方と接点を持った方がいい。
このような方からは学ぶものが大いにある。もし何かの機会でこのようなタイプの方の仕事に関連する機会があったならば、是非、電話で質問したり、メールしてみたりすることをお勧めしたい。
あと、このようなタイプの方は、ミスがあった場合、素直に謝罪する傾向があるということだ。隠そうとしない。
最近、情報システム部門のある管理者から、その方の部下の対応のまずさで起きたことに対して、謝罪してきたことがあったのだが、全く予想していなかったことに驚いたし、その後ですがすがしい気持ちにもなれた。
この管理者とはだいぶ昔にあるつまらないことで言い争ったことがあったのだが、その後の業務上でやり取りを重ねていくうちに彼が意外に誠実な人間であることが分かり、それからは見方が変わった。

プレゼンでいいとこ見せようとする方には学ぶものは残念ながら無い。
地味でもいい仕事をする方からは学ぶものが大きいということを言いたい。表向きだけを見るのではなく、人間を良く観察した方がいい。

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願望と潜在意識の矛盾

2024-08-23 23:16:37 | 心理
最近読んだある心理セラピストのメルマガに、このようなことが書かれていた。

「早く成功したい」と強く願えば願うほど、潜在意識には「でも今は未だ成功していない」というメッセージが届いてしまうのだと言う。

これまた最近読んだ本の中にも同じようなことが書かれていた。
この本によると「上手になりたい」という言葉が多く出てくると、一見上手になれそうであるが、潜在意識がどんなメッセージを受け取っているかというと、「上手になりたいのだから、今の自分は上手ではない、つまり下手なのだな」という「裏メッセージ」を受け取ってしまうのだと言う。

成功したい、上手になりたい、と渇望すればすれほどそれと逆の現実が引き寄せられてしまうという何とも皮肉なことである。
何故このような矛盾したことが起きるのだろうか。

津留晃一氏はどんな解説をしているだろう。
メッセージ集を開いて該当する文章を探してみる。
あった。
「幸せになりたいという気持ちは、今が幸せでないという気持ちの表れです。すなわち、今に不足があるという認識があるということです。その欠落意識からとった行動であなたが満足することはありません。足りないものは無限にあります。足りていないものを追いかける行為は永遠に満たされることはありません。」(メッセージ集「3 今この瞬間が最善」より)
「まずいたらない自分がいて、その不完全な自分を修復していくというのがこれまでの生き方でした。あなたはどんなに努力して自分を修復しようとしても、その根底の所で自分のいたらなさを認め続けているわけですから、永遠に進歩ゲームは続いていくわけです。あなたは、自分を修復させようと想念を発する度に、いたらない自分をもう片方の手で創造し続けているのです。」(メッセージ集「34 鏡」より)

津留晃一氏は今から25年前にこのメッセージを発信していた。
この数年後くらいから、願望達成法や引き寄せの法則といった成功法則の類がさかんに情報発信されていたが、現在では下火になっているようだ。
何故ならば、先述の潜在意識の性質のように人間の心はプラスの思いを持てば願望はかなえられるという単純なものではないからなのだろう。

何故、人は成功を求めるのだろう。
純粋な成功への願望とは異なる動機の願望が意識的に成功を求めるのではないかと思う。
加藤諦三氏の言葉を借りれば「神経症的願望」ということであろう。
その願望の背景に、今の実際の自分を嫌っている、こんな自分では満足出来ないという心理が働いていると思う。

若い頃に読んだ加藤諦三氏の著作の中に、「行動はその背景にある動機を強化する」という言葉が何度か出てきたことがあった。
「今の自分が嫌だ」、「今の自分では至らない」、「今の自分では周囲から受け入れられない」、「今の自分では情けない」など、自分に対する否定的評価から逃れたいという動機から、成功や幸せを願って行動しても永遠に実現することはないということだ。
それどころか、ますます不幸になり心が苦しくなっていくということである。

では何故、人は今の自分を嫌ったり、至らないなどと否定的な見方をしてしまうのだろう。
この理由にはさまざまなものがあり、今までにも何度か記事にしてきたが、1つは他人と自分を比較し、他人の評価に依存していることが考えられる。今風の言葉で言うと、自分軸ではなく他人軸で生きているということだ。
言いかえれば、自分を生きていないということでもある。実に苦しい生き方である。決して幸せになることはない。

願望達成法や引き寄せの法則に吸い寄せられる人は、心に著しい空虚感、欠乏感を抱いている人であろう。そのような人たちを引き寄せて商売をしている方もいる。
では、このような苦しい生き方から脱却するにはどうしたらよいのだろう。

冒頭のメルマガのセラピストも最近読んだ本の著者も津留晃一氏も共通してある考え方を述べている。
それは「今の自分の全てをそのまま受け入れる」、「ありのままの今の自分はすでに満たされている」という心境になるということであった。
津留晃一氏はこのように述べている。
「自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に何か別のプラスを求めなさいということではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高であることを知りなさいということです。今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。」(メッセージ集「7 あるがままに」より)
「そのままの自分を無条件に、愛おしく抱きとめ愛して下さい。自分を愛するのにどんな条件も不要です。それがあなたの源の愛、無条件の愛のことです。自分の全ての部分を、そのままありのまま愛せるようになったとき、初めて他人の欠点もそのまま愛せるようになってきます。」(メッセージ集「10 解脱」より)

私は今までの人生の長きに渡って、自分を激しく憎み、否定し、強迫的に成功や幸福を求めてきた時代があったが、あるとき、これが自分を苦しめ不幸にする原因となっていることに気が付くことが出来た。
そしてその苦しかった生き様を振り返り、その生き様をまるごと理解し受け入れられるようになってからベクトルの向きが変わった。
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境界線を持つことの重要性

2024-07-15 21:37:32 | 心理
今から35年くらい前だったであろうか。
うつ病、対人恐怖で苦しんでいた20代半ばの頃に読んだ加藤諦三氏の著作の中に、「他人の不快感情の責任を持つ必要はない」という一文があったのだが、その言葉が何故かずっと心に残り続けてきた。
他の内容ことは殆ど記憶に残っていないが、何故だか分からないけど、ある言葉だけが記憶にずっと残り続けることがある。
そういう言葉というのは今から考えると、自分にとってとても重要な意味を持ち、必要であることを知らせてくれるものではないかと感じるのである。

今日たまたま、Youtubeでこの「他人の不快感情の責任を持つ必要はない」という言葉の意味を腑に落とさせてくる投稿に出会った。
投稿者は橋本翔太さんという方。
見た投稿は「相手の機嫌や感情に振り回されしまう人の解決策。HSP、相手の怒りや感情に反応してしま人の境界線の作り方」というタイトルの投稿。

橋本さんは、幼少期からの親との問題を乗り越え、大学院で臨床心理学や音楽療法を学び、公認心理士として多くの悩める方の問題を解決してきた方だ。
この動画の冒頭で彼が言っている言葉に強い感情が沸き起こってしまった。
ずっと心に引っかかっていた冒頭の言葉の意味が本当の意味で分かった。

彼は言う。
「相手の機嫌が悪いことに対してあなたは責任をとる必要はないし、そこで責任を取ろうというのはある意味相手をコントロールしようとすることでもあるんです。
相手の機嫌が悪い、ブスッとしている、怒っている、口をきいてくれないというのは相手が選んでやっていることなので、そこから先私たちはその相手に対して踏み込む必要はないし、踏み込んではいけないんです。
そのくらいの気持ちを持たないと境界線が弱い人はあっという間にここ(心)が侵食されてしまうのです。」

幼少期に不機嫌な親に育てられた人は、親の不機嫌の原因が自分であると解釈してしまう。
自分に何ら落ち度も責任もないのに、何の悪意もないのに、たまたま起きた出来事に対し他人が示した不快感情の原因が自分にあるという反応が無意識的に出てしまうのである。
不機嫌だけでなく、嫌み、中傷、冷遇、叱責、嘲笑など、そのような人の不快感情の発生原因を自分に結び付けてしまい、自分の責任と感じ、自分を傷つける。
自分のせいだと受け止めても何故か釈然としない気持ち、モヤモヤ感が残る。
この「釈然としない気持ち」というのが重要な感情だ。
釈然としないというのは、間違った受け止め方をしているということを教えてくれているということなのだ。

相手のマイナス感情の真意を見極め、客観視する。それが境界線を引く、ということであろう。
他人の心理に対し、境界線を引くことが出来なければ、早晩、心を病むことになるに違いない。自分がそうであったように。

この考え方ってものすごく重要だと思う。
人間心理は諸刃の剣である。
人生を穏やかに幸福に生きていくために、最重要な考え方のひとつだと言える。
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