緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ネットでの誹謗・中傷に動じない方法を解説したいい動画を見つけた

2024-04-29 22:14:34 | 心理
今日もギター練習三昧。
夜はライフワークとしている人間心理の研究に充てている。

今日、ネットでの誹謗・中傷に動じない方法を解説したいい動画をたまたま見つけたので、紹介させていただきたい。

数年前に、SNSに書き込まれた誹謗・中傷により自殺した方(女性のプロレスラーだったと思うが)がいたが、このような言葉による攻撃がいかに人間の心に深いダメージを与えるか、ということを強く知っておく必要がある。
「魂の殺人」という言葉を20代の頃に知って、身震いするほど衝撃を受けたことがあったが、自分の体験を振り返っても、言葉による攻撃というのは、ときに精神に破壊的な作用を及ぼすものであることは間違いないと思っている。

私自身、20代の半ば頃のうつ病を患っていた頃までは、このような言葉による暴力に対してなすすべがなかった。言われるままに自分を責め、自分を否定し、自分を追い込んでいった。
しかし、それが極限状態に達したとき、そして苦しいけど生きてみようと思ったとき、「人から言われ、それまで自分が正しいと信じて疑わず、すさまじい努力をしたことが180度間違っていたのではないのだろうか」という疑問を感じた。
そのことをおぼろげながらでも感じられたことが大きな転換点となった。

その気付きを後押ししたのが心理学の本だった。
当時はとくに、現、早稲田大学名誉教授の加藤諦三氏の著作を読みまくった。この本だけが救いの手を差し伸べてくれているように感じた。
そして現在まで人間心理の研究を絶え間なく続けてきた。

下記動画で解説している高須氏の考え方に共鳴するところは多々ある。
以前、2チャンネルとか5チャンネルとか言われているサイトにたまたまたどりついたときに、ある特定の人のスレッドを立てて、口汚い言葉で悪口を言い合っているのを見たことがあった、そのサイトから充満してくるある種独特の臭気に耐えられなくなり、気分が悪くなったことがった。
物凄い強い、マイナスの感情エネルギーが狭い出口の無い部屋の中で、一杯に漂っているのである。

まず、このような部屋に平気でいられる人、このような口汚い言葉をで人を攻撃する人は実際はどんな人間か、ということを正しく認識したい。
このような人物は、間違いなく、100%例外なく、普段の日常生活で、上司などからいじめられたり、嫌みを言われても、言い返したり、反撃したりできずに怒りを心にため込まざるを得ない人であり、かといって、言われる自分が悪いと責めるうつ病体質とは根本的に異なり、鬱積した悪感情を、最も安全なターゲット、手段でもって吐き出すことでかろうじて精神のバランスを保とうとするずるくて卑怯な人間だということだ。
このような人間の正体が「魂の殺人」を行う人なのである。

このことが分かれば、誹謗、中傷を行う人に影響されることがなくなる。いくら言われても、痛くもかゆくもないと感じられるのではないだろうか。
もしそのような人から何か書き込まれれば、反撃するのもよし、無視して削除するなり、放置するなどして、相手にしないで切り捨てることである。
誹謗、中傷する人の目的は、相手が心にダメージを受けたことを確認したいのだから。


メンタルを強くする方法を教えます。
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心の苦しみの解消に比例して人に対する親和力は増していく

2024-04-19 22:38:01 | 心理
今月は月初からずっと忙しい毎日だった。5日は久しぶりに休日出勤。
今日でやっと落ち着いた。

今日の夜、4年前の講習会で親しくなった仙台の友人といつものライン電話でなく、zoomで会話をした。
9月の演奏会で弾く、ギターのちょっと難しい部分を聴いてあげるということでzoomにしてくれたのであった。

彼ともう一人、静岡在住の方と4年前の講習会を通じて親しくなった。
講習会では受講生どおしのマン・ツー・マンでのセラピーの練習があったので、あのずと1対1で会話をすることになるわけであるが、60人ほどいる受講生の中で、深い話の出来る関係を築けたのは彼らのみであった。
60人もの人がいると、さまざまな人がいることが分かってくるが、そのうち本当に親しくなれるのはせいぜい2人くらいなんだな、と今では思う。
彼らとは5時間ぶっとうしで話し込んだことも4、5回はあった。
今よりも対人恐怖が強かった4年前の自分でもよくここまで話せたものだと思う。

でも考えてみると、本当に親しくできる人間というのはせいぜい2人くらいなんだと思う。
小学校、中学校時代もそうだった。
逆に言うと、そのくらいの人数で十分だということだ。
相性がいい人というのはそういるものではない、ということでもある。だから真に相性のいい人と出会うことが出来た場合は、その関係を出来るだけ長く続けていきたい。

今から10年以上前の、もっと心が苦しかった頃は、人と親しくなることは無理だったと思う。
心の深いところで、「人は嫌だ、人は恐ろしい、人は信用出来ない」とかたくなに感じている状態で、人といてやすらぎを感じることなど不可能なのである。
表面意識上でいくら親しくしようとふるまっても、心の深いところでは拒否しているわけであるから、辛いだけなのだ。
そして、相手も自分の心のそういう心の葛藤や苦しみを無意識的に感じ取るものである。
頭ではよく分からないが、何となくこの人と話していると落ち着かない、話を早く切り上げたくなる、といった感じを持つ場合、その相手は心理的に深刻な問題を抱えていることが殆どである。
無情なことであるが、心に深刻な苦しみを抱えている人とあえて親しくしたいと思う人はまずいないというのが現実だ。

だから心に分厚い鋼鉄の壁を築いているときは、じっと孤独に耐えていくしかない。
この分厚い鋼鉄の壁に、自ら穴を開けることが出来たとき、はじめて人と親しくなれる可能性が芽生える。
この穴がある程度広がったとき、運が良ければ、この穴をさらに広げてくれることを手伝ってくれる人に出会えるかもしれない。

分厚い鋼鉄の壁に最初に穴を開けることが出来るのは自分しかいない。
そのために何をすればよいだろうか。

「心に壁を築いた自分」を嫌わない、否定しないことである。
心に壁を築くに至った自分の生き様を振り返ることである。そしてその不幸続きだった自分に最大限の暖かいまなざしを送ることである。

「心に壁を築いた自分」を嫌い、否定するのは何故か。
幸せになれないからである。思うような人生を歩めないからである。苦して苦しくてしょうがないからである。
でも、この「心に壁を築いた自分」を嫌い、否定する自分も許してあげたい。言い分を聞いてあげたい。

激しく葛藤していた心の中の2人がお互いを分かりあい、和解したとき、心は統合され、いい方向に前進していく。
そして少しずつ、親しくなれる人が出来てくる。

人と親しくなれないことにコンプレックスを抱くことはない。
人と親しく出来ない程、心に衝撃を受けていても、自分を幸せにすることは出来る。
この苦しみの自分を何とかしようとするのではなく、そのままにあるがままに受けとめてあげたい。
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生きることが楽になるために「人を咎めることをやめる」

2024-04-13 23:20:31 | 心理
私がこの10数年で大きく変わったことのひとつとして、「人を咎める」ということがかなり減ったことにあるのではないかと思う。
仕事が忙しかった30代終わりから50代前半くらいまでは自分にも他人にも厳しかった。

「人を咎める」ということの背景として、「こういうことはいけない、間違っている、悪いことだ」という価値観が心の深いところまで浸透しているということにある。
人間の本質として不完全な要素は多々ある。人をよく咎める人というのは、不完全な本質を許せない人なのである。
そのような人は、他人の言動に自分が否定した不完全な本質が、鏡として映っていることに気が付かない。
自分が否定し憎んだ不完全さが鏡に映っていると、それを咎めないわけにはいかないのである。

しかし人を咎めるということは、「投影」というはたらきによって、逆に「他人が自分を咎める」という感じ方、受け止め方をするようになるのである。実際に他人が自分を咎めていないのにもかかわらず。
また、人間の脳は「主語」の区別がつかないと言われている。すなわち、人を咎めるということは、他人も「自分」も咎めていることになるのである。
これでは生きるのが辛くなるのも当然だ。

人を咎める人が「心が苦しく」、恒常的な心理的不快感を抱えているのはこのようなことが心に起きているということであろう。

私が毎日バイブルのようにして読んでいる心理学の本にこのような一文があった。
「咎めることを止めることです。批判する心に気づいて下さい。批判には何の価値もありません。責めないで下さい。裁かないで下さい。それが自分であっても、他人であっても。(中略)「私はもう人を咎めない」この言葉を繰り返し、繰り返し唱え続けてみて下さい。(中略)あなたが「うまくいっていない」と感じているとき、きっとあなたは何かを咎めています。批判しています。それを探して下さい。あなたの中の咎める心が、批判する心が、今のあなたの外側に投影されているだけなのです。」

咎めることを止めるということは、価値観がそれだけ拡大するということでもある。何が良くて何が悪いかといった二極的価値観から開放され、あらゆるもの、あらゆる出来事をそのままにありのままに受け止めることが出来るということなのだと思う。

「人を咎める」ことから開放されるためには、自分を咎めるにいたった不幸な体験を直視し、そのような過去の自分をまるごと許し、癒してあげることが必要だ。




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「傾聴」の重要性

2024-01-13 22:17:59 | 心理
今日、オンラインで産業カウンセラー養成講座の説明会を受けてみた。
産業カウンセラーとは、企業などに派遣され、そこで働く人々のメンタルヘルス、すなわちカウンセリングを手段として心の健康を維持できるよう手助けをする仕事を担う人のことを言う。
受講期間は10か月ほどだが、スケジュールを訊くと今年の受講は無理そうだった。
講座が土日中心のため、マンドリンクラブの活動と重なってしまうためだ。
なので来年、千葉のマンドリンクラブを休部して受講するか、今年4月からの再雇用後の勤務形態(勤務日数)を変更するなどして時間を確保しようと考えている。

今日受けた説明会で短時間であったが、傾聴法によるカウンセリングの基本が実体験でわかるワークがあり、そこで解説してくれた協会の方の対応がとても良かった。
この産業カウンセラーによるカウンセリングは、「傾聴」を基本とした来談者中心療法(カール・ロジャースが提唱した心理療法)を採用している。
昨今、来談者中心療法は古いやり方だとみなされ、NLPや暗示療法、スピリチュアルなどによるエネルギーワークなど短期解決を前面に謳う療法が中心になりつつある傾向だが、今日の説明会で、やはり人の心に大きな変化をもたらすのは小手先のテクニックではなく、人間の生の気持ち以外に無いという思いをあらためて考えさせられた。

今日の説明会の参加者の受講目的はアンケートによると「スキルを身に着けたい」という目的が多かったようだが、私は「人の役に立ちたいから」という項目を選んだ。この項目は私一人だけだったようだ。
私はこれまでカウンセリングなど数多くの心理療法は長きに渡って受けてきたが、心に大きな変化を感じたのは、それはたった1回だけであったが、当時、上智大学教授の故、小川捷之氏(山王教育研究所初代代表)のカウンセリンを受けたときしか記憶にない。
ロジャース派による来談者中心療法でも適性が全く無い、人の心に対する感性、感受性が鈍い、人の話を聴けない、などといったプロのカウンセラーはたくさんいる。
それはクライアントとして私が身をもって体験してきたことでもあるからだ。

近年、ネットで派手に心理セラピスト養成講座への受講を誘うサイトを目にするが、こういうのはたいがい心理療法をビジネス化している方であり、年商何億とかアピールすることが目的となっており、注意を要する。もちろん全てとは言わないがその内容は十分な実証もせずに拙速的に作成されたものもある(実際に体験有り)。
本当に実力のある方は、宣伝もせず、場末でほそぼそと一人ずつ丁寧に仕事をしているものではないかと思う。

企業などの職場内の人間関係で心を病む人は多い。
37年間の職場体験で、実に多くのさまざまな人と仕事をしてきたが、どこの職場にも危険な人は必ずいる。
驚くことに、一生記憶から抜けない程のダメージを与えるようなことを平然と言う人がいる。
ウソをつく、ミスを巧妙に隠ぺいする、他人になすりつける、思いつきで面倒なことを人に振る、虚偽の密告をする、他人の成果を自分のものとするといった、こういう幼稚園児レベルなことは日常よくあることだが、人の心に破壊的なダメージを何の罪悪感もなく与える人が一定数おり、そのような人から被害を受けた人を守り、立ち直ることを支援するためにメンタルヘルス、すなわち産業カウンセラーが必要なのである。

人の心に何の罪悪感もなくダメージを与えることの出来る人というのは、間違いなく心の病んだ人である。しかしそのことに本人は気が付いていない。
安全なターゲットを選んで、傷口から絶えず湧き出てくる膿を吐き出しているのである。身に危険を及ぼす相手は決して選ばない。計算高い人たちである。
そのような人は、目つきを見れば分かる。濁っているか、狡猾な光を放っている。
そして窮地に追い込まれると本性をあらわにする。頭隠して尻隠さずとはこのことである。

自分の身を守るためにはこのような人物と極力関わらないことが必須だ。
でももし万が一、このような人物から大きなダメージを受けたとしたら、徹底的に戦うことも必要だ。上司であろうが関係ない。捨て身で臨むのである。私はこのことを実行して救われたことが何度かあった。
リスクはあるが「この人を安易に攻撃したらこっちがダメージを食らう」ぐらいの反撃をする覚悟でないと複雑で難しい人間関係を生きていけないのが今の職場環境の現状であろう。

人は心の暖かい人に触れてはじめて安心感を感じ、ありのままの自分を開放するものだ。
傾聴とは決して形式的なテクニックではなく、実は人間的に成熟して初めて可能な行為であることが分かる。
傾聴が出来るか出来ないかというのは、人の心理的成熟度を測るバロメーターだと思っていいだろう。
職場でも傾聴の出来る方はごくわずかである。たいていは、自分の話ばかりしている。
管理職でも、相手が話をしている途中でさえぎってまでも自分の話を通そうとしたり、相手が言葉を選んでいる一瞬のスキをついて自分の話をし出す輩もいる。また相手の言わんとすることを先取りして発言して自分の優位性を確保しようとする人もいる。
とにかくこういう人たちがかなりいるのだ。笑ってしまうけど。

飲み会でも相手の話にじっくりと耳を傾けたり、自分の話題よりも相手から話を引き出そうとする方をたまに見かけるが、このような方は対人関係でかなり鍛えられてきた人だと言える。
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起きてくる感情を注視する

2024-01-03 20:21:21 | 心理
毎日読んでいる心理学の本で、昨年暮れ、トイレで読んでいたときにある一節で気付きがあったので記録しておきたい。

テーマは「起きてくる感情はその人の本質を表しているのか」というものだ。
この本の説明によると、どんな感情であれ、自身の内側の価値観を使い、判断を下した結果として起きてくるのだという。
感情というものは、無意識の領域において下された、判断に基づいて引っ張り込んだエネルギーであり、その人の本質を表すものではないと。
つまり過去のある体験に対し自身が解釈し、受け止め、判断を下したことで潜在意識の深淵に沈みこんだ価値観、観念、評価などが、ある出来事を契機に意識上にまでのぼり、その価値観等でジャッジすることにより感情は起きるということである。

とても抽象的な表現となったが、具体例で考えてみたい。
学校のある先生が2人の生徒に対し、一方の生徒(A)には丁寧で熱心な対応をとったが、もう一方の生徒(B)にはぞんざいで軽んじる態度を見せた。
この対応の結果、生徒Bは傷つき、みじめで悲しい思いをした。
このとき生徒Bの心にどのようなことが起きていたであろうか。
恐らく生徒Bの潜在意識には、過去の親や兄弟、祖父母、学校の先生、友達などとの不幸な関係から、「自分は愛されるに値しない人間だ」、「自分は人から相手にしてもらえない駄目な人間だ」、「自分は人から軽く見られて当然の人間なんだ」という自己否定的価値観、観念が刷り込まれ、強固に定着している可能性が高い。
ぞんざいな態度をとられた、という出来事をきっかけに、これらの自己否定的観念が意識上に昇ってきて、この観念によって自らを傷つけた結果としてみじめ、悲しいなどの感情が起きたのである。

誰でも人からぞんざいな扱いを受けたら、その瞬間は腹が立つものだ。しかしその後に感情をひきずらずに忘れてしまう人もいれば、いつまでもその出来事を覚えていて負の感情が渦巻いている人もいる。
その違いは何なのだろうか。
ぞんざいな扱いに影響されない人というのは、「自分はそんなぞんざいな軽くあしらわれるようなことには無関係だ」、「そのような扱いはお門違いで、それはそのような態度を取る側の問題で自分には関係ない」と、無意識的に解釈できる人である。要は自分にあてはまらないと瞬時に切り捨てることが出来る人であろう。
あるいは、「相手はたまたま機嫌が悪かったのだろう、虫の居所が悪かったにちがいない」、とか「あの人は昔いじめられたり、比較されて育てられたりしてひねくれてしまった過去があるかわいそうな弱い人なのかもしれない」、「あの先生は残念ながらAの方がお気に入りなんだ。もしかしてAが好きなのかもしれない」などという受け止めかたもすることもあるだろう。
それに対してBのように影響を受ける人は、過去の体験記憶から「学校の先生、上司、目上の人、偉い人」などの言うことは常に絶対的に正しく、そのような立場の人からぞんざいに扱われたら、100%、どんな場合においても自分に非があると受け止める。そして同様の繰り返しの体験の積み重ねで負の感情をため込んでうつ病になったっり、慢性的な対人恐怖症になっていく。

起きてくる感情によって人は潜在的にどのような価値観、観念、人に対する受け止め方、自分に対する評価といったもの(=判断基準)を持っているか、知ることができる。
「感情はその人の本質を表しているわけではない」ということを常に肝に銘じて、起きてくる感情を注視し観察することで、心の苦しみの解決に近づくことが出来ると思っている。

【追記】
非常に大事なことだが、上記生徒Bのように否定的価値観や観念、自己評価により負の感情に苦しんいることを否定してはいけない。
心の苦しみの解決のスタートライン、分岐点は、この負の感情に恒常的に苦しんでいる自分を無条件に受け入れ、肯定することである。
この作業は大変難しいのであるが、自分のこれまでの生き様を客観的に主観を入れずありのままに振り返ることで可能となる。そのためには心理学的知識も必要となるに違いない。
多くの人は、負の感情に苦しんいる自分を受け入れることが出来ず、それどころか嫌い、憎み、今すぐにでも抹殺したいという願望を動機に、誤った解決方法を採ることでますます苦しみの泥沼にのまれていく。

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