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緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

臨床心理で最も大切なこと

2025-01-18 23:04:24 | 心理
先日、NHKで阪神淡路大震災で被災した人々の心のケアをするために現地で診療に当たっていた精神科医のドラマを見た。
断片的にしか見ていなかったので、ストーリーはあまり覚えていないのだが、あるシーンが頭に焼き付いた。

心のケアを受けたある若い女性は、幼い頃から親から虐待を受け、リストカットを繰り返し、自分を守るために多重人格者となっていた。
この若い精神科医はその女性の、自己評価が低く、自己否定が強く、自分を責めるそのあまりも不条理な生き方を目の当たりにし、苦悩する。

女性が「こんな病気になったのは、私が弱いからですよね」と言う。
精神科医は「違う。違うんだ。とても耐えられないような苦しさと悲しさの中で、それでも生き延びる方法を見つけようとしたんだ。あなたは生きる力が強いんだ」と返した。
そして精神科医は女性が立ち去った後で、こみ上げてくる感情を必死に押さえようとしていた。

このシーンを見て、私が30代の半ばから終わりまで5年間受けた臨床心理のカウンセラーのことを思い出した。
当時のある日のカウンセリングで、私が対人恐怖の耐え難い苦しみを表出したときだったと記憶している。カウンセリンが終わり診療代を払ったあとで、そのカウンセラーは先の精神科医と同じようにこみあげてくる感情を必死に押さえようとしていたのだった。

恐らくこの感情とは今思えば、何の落ち度のない人間が、この心の苦しみを背負わなければならなくなったその不条理さに対する怒り、悲しみ、それに対して自分がすぐに解決してあげられない無力さ、無念さを表すものだったと思う。
このカウンセラーは有名な大学の大学院を出て臨床心理士となり、大きな病院の副院長にまでなった方でベテランの方だった。

そして私が27歳の頃だったと思うが、東京大田区大森という所にあった山王教育研究所というところで、小川さんという名前の方にカウンセリングを受けたことがあった。
たった1回だけだったのであるが、今でもその小川さんから言われた言葉が忘れられない。
小川さんはこう言った。
「あなたはよくここまで生きてきましたね。あなたがここまで耐えて生きてきたというのは並大抵のことではないんだ。普通の人は耐えられないことなんですよ。」
私はこの言葉を一生忘れないだろう。

後で分かったのだがその小川さんとは、当時、上智大学の臨床心理学の教授で臨床心理の分野では日本で屈指の方だった。

今、素人のような方がお金もうけ第一主義で心理ビジネスを展開する動きが多数起きていることを危惧する。
心の病や心の苦しみに対峙するとは、そんな生易しいものではない。
真剣にクライアントに向き合ったカウンセラーは早死にすると聞いたことがある。
だから、今の臨床心理においてはカウンセラーが主体となって一定の方法で進めるやり方がかなり導入されている。
クライアントの苦しみに向き合うのではなく、誰に対しても一定の手順に従って進めていくようなやり方であるのだが、経験上、こんなやり方で解決など出来るものではない。いっちゃ悪いけど茶番のようなものなのだ。

人の心に変化を及ぼすのは、心の苦しみというものが真に理解出来ている人の、真剣、真摯な思いのみと言っても過言ではない。
何も混じらない、まごころ、というのだろうか。
ビジネス第一主義のような人に人の心を変えることは出来ない。

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対人恐怖の原因と解決方法についての考察(1)

2025-01-17 23:38:09 | 心理
対人恐怖の解決について、ここ数年でかなりの進展があったので、その過程で得られたものや気付きを断片的ではあるが記事にしていくことにした。

今までも折に触れてこのテーマで書いてきたので重複する面もあるかと思うが、重複して述べている内容は私自身の問題の解決にとって最も重要で意味のあることだったと思っている。
またこのテーマを繰り返し発信することで、私と同じような悩みを抱えた方の解決の参考になるのではないかという期待もこめられている。

1.適用範囲

対人恐怖と一言でいっても様々なとらえ方があると思うが、ある特定の人、例えば異性や、職場の上司や学校の先生、上級生などの目上の人だけに恐怖を感じるとか、ある特定の場面、例えば会食やスピーチのときだけに恐怖を感じるけどそれ以外は概ね平常でいられるといったような状態ではなく、人そのものが怖い、恐怖が24時間、絶えず起きている、人といることが辛くて堪えられない、心を開けない、といった状態を対象としたい。

2.対人恐怖の原因

対人恐怖の人は私も含めてではあるが、人により恐怖の強さの度合に相違が見られるにしても「人間」、「人間社会」そのものを恐れているという共通的な特徴があると思う。
24時間、365日、寝ても覚めても常に恐怖を感じているのは、人間そのもの、その恐怖の対象となる人間社会の中に自分が置かれているという状況と密接な関係性があると思われる。かと言って人との交流を断ち、独りで過ごしていれば安心出来るかというとそうもいかず、独りでいても恐怖が無くならないことにもその特徴を見出すことが出来る。
24時間恐怖を感じているのを確かめる方法としては、夜中の睡眠中に目が覚めたときに体が強く硬直していることで確認出来る(そのため不眠の傾向がある)。

では何故このような避けがたい恒常的な恐怖感情に苦しむことになってしまったのであろうか。その原因を考えてみたい。
同胞としての人間を恐れる、本来、同じ仲間であるべき人間で構成される社会に存在することに恐怖を感じるということは、その恐怖を感じる人間社会において人間から何らかの攻撃を受け、なおかつ味方と感じられる人間関係を得られなかったという不幸な体験の積み重ねがあったことに原因があることは間違いはないだろう。
これは動物だって同じである。昨年、NHKのドキュメント72時間という番組で、人間のみならず同じ同胞である猫仲間からも虐待を受けて、他の猫から遠く離れた場所で独りで暮らす猫を見たが、その猫が人間でいうと対人恐怖症者と言える。
攻撃されれば誰だって恐怖を抱くし、一度ならず日常的に繰り返し攻撃されればその攻撃者を敵とみなすようになる。そして攻撃する人が何人もおり、もし攻撃を受けた人を助けてくれたり理解してくれたりする人が現われなければ、攻撃しない人も含めて全ての人間を敵と認識するようになるのである。学校で集団でいじめにあった子供が引きこもりになるのはこの「周りは全て敵で、誰も自分を助けてくれない」という認識を常に持つに至ったからである。
対人恐怖の原因の1つとしてはこのように、「周りの人間は全て自分を責め、攻撃してくる敵だ、誰も自分のことを分かってくれない、助けてくれない。誰も信用出来ない」という人間関係に対する失望とともに、否定的対人認識、社会認識が強固に無意識層に定着し、この定着した認識が絶えず恐怖感情を生み出していることと言える。


対人恐怖になる原因の2つ目は、自己評価が低い、自己受容が出来ない、自己否定をする、といった自己に対する歪んだ認識を絶えず恒常的にしているということである。
何故このような認識を持つに至ったのか。対人恐怖の1つ目の原因とも関連しているのだが、それは育つ過程で親、兄弟を始めとする親類、学校の先生、友達などから、常に「お前は価値が無い」、「お前は至らない悪い人間だ」、「お前のせいでこんなことになった」、などと何の根拠もないのに言われ続けたり、ささいな失敗やミスを「ウヒャヒャヒャヒャ」とか「アハハハハハ」などと悪意を持って嘲笑された経験があったためであると考えられる。またここまで露骨に言われなくても、自責や自己無価値感を招くような非言語化された態度、例えば過保護、自立を妨げる、依存したままにさせる、放任などのような扱いをされたことが原因となることもありえよう。そしてこれらの言語化と非言語化による影響が複合して否定的認識化に至ることもある。
まだ自己が確立していない幼い頃に常に継続してこのような言動をされると、人間は自己受容出来なくなり、自己を低く評価し、そして自己否定をするようになり、そのような自分に対する認識を強固に無意識層に定着させていく。そしてその否定的認識をベースに人生プロセスを歩む過程での様々な体験でその認識が強化されていく。
対人恐怖症者は、上記で書いたような正義、正論を隠れ蓑にしてささいなことを責めたり、悪意のある言動をしたり、非言語的束縛をするような人間の真意を見抜くことが出来なかったのである。
何故見抜くことが出来なかったのか。それは愛情が満たされていなかったからである。寂しかったからである。心の中は孤独だったからである。人からぞんざいな扱いを受けても、自分が悪いと受け止めることでその人からの仮の愛情を得ようとするほど、愛に飢えていたからである。また相手の責めを拒否することで関係が壊れたり、孤立する恐怖に堪えられなかったからである。

自己評価を自ら低めたり、自己否定する習慣が定着するとどのようなことが起きるか。
自らを責めたり、無価値感を持つのは、根柢に「自分は至らない人間だ」、「自分はそれをするに値しない人間だ」、「自分は周りの人間の迷惑になっている」、「自分が悪いから相手は怒ったんだ」などという実際の状況とは関連性の無い自己認識があるからであり、この無意識層に定着した誤った自己認識が常に恐怖感情を生産する。
例えば「自分は常に周りの迷惑になっている」とか「自分は駄目で至らない人間だ」と常に感じていたならば、いつ周りの人間から注意されたり責められたり軽く扱われたり嘲笑されるのではないかと絶えず恐怖心を抱くのではないだろうか。「この今の自分」でいる限り、一時も安心することはないだろう。この状態は過去の人生プロセスにおいて経験した不幸な体験で味わったその時の感情がリンク(再現)されているとも言える。現在置かれている状況が過去の不幸な体験の時とは全く異なる状況であるのにもかかわらず、現在の状況を現実そのままに認識出来ないのである。過去の不幸な体験のまま認識してしまうのである。
そしてこの時味わう恐怖が限界点を超えると、次のような行動パターンが形成される。
それは、恐怖から反射的に逃れようとすることを動機とした、強迫的な行動パターンである。すなわち、周りの人間から責められたり、笑われたりして自分が傷つくことを回避するために、「人から責められたり笑われたりしないような立派で優秀な人間」に強迫的になろうとすることである。このような強迫的行動パターンが無意識層に強固に定着するようになると、目の前に飛んできたボールを反射的に避けるがごとくに強迫的行動に駆り立てられる自動回路が潜在意識に形成されるようになる。この場合、周囲の人間は敵であるとの認識の他、自分よりも正しい人間で、自分を裁く存在としても認識するようになる。
職場などさまざまなところで人間観察をしていると、程度の差はあるにしてもこのような自己否定による恐怖に突き動かされた強迫的行動に駆り立てられている人をけっこう見かける。このような人も人生プロセスにおいて人間の宿命である不完全さを周囲の人間から受け入れられなかったという不幸な体験とその自分を自己受容出来なかったことで、必然的にこのような強迫的パターンを形成することで自分を守らざる得なくなったと考えられる。
せっかちな人、待てない人、すぐ怒る人、完璧を求める人、我慢出来ない人、人の細かいことを指摘したがる神経質な人はこのようなパターンで苦しんでいる人たちである。

そしてこのような恐怖感情の回避を動機として強迫的行動パターンを繰り返しているとどのようなことが心に現われてくるであろうか。
それは、怒り、憎しみ、悲しみ、不安、更なる恐怖、無価値感などのマイナス感情が発生するということである。
自分の本質を自ら責めたて、こんな自分じゃいけないんだと全く別の人間になろうと強迫的な行動に出れば出るほど、怒りなどの感情が生じてくるのは当たり前である。何故ならば無意識の奥深くに存在している本来の自分がそのようなふるまいをされることで怒っているからである。そしてこのような強迫的行動をすればすれほど恐怖感情は強化され、強迫的行動の自動回路はますます強固に定着していく。そしてこのプロセスで生産された悪感情が潜在意識に蓄積されていく。しかし悪感情というものを意識するのは辛いから、その解消手段として、無意識に抑圧するか外に掃き出そうとする。前者の人は鬱になり、後者の人は安全なターゲットを選んでパワハラやネット中傷、いじめなどを日常的にするようになる。
前者の人は自分を犠牲にしても良心を守ろうとした人であり、後者の人は良心を捨てて他人を犠牲にして生きていくことを選択した人である。
前者も後者も本質は同じである。悪感情の処理の仕方が正反対(内に向かうか外に向かうか)の違いがあるだけで現われ方が表裏の関係となっているだけである。
そのため、前者と後者が入れ替わることもある。入れ替わりの分岐点となっているのが「良心」とか「優しさ」といった人間の根源的感情に対するその人の認識の度合であろう。

3.対人恐怖の解決方法

では対人恐怖を、上記に書いたような疑似的な解決ではなく本質的に解決するにはどうしたらよいのだろうか。
これは一言で言い表すことは出来ないし、解決方法の標準化を出来るほど単純なものではない。
しかし自分の体験から述べさせてもらうのを許容してもらえるのであれば、その前提で解決方法を提示することは出来ると思う。

(1)自分の心の中で何が起きているかに気付く

(2)自分のこれまでの人生プロセス、生き様の振り返り(自己受容)

(3)人を現実どおりに認識する、人の真意を見抜く

(4)恐怖を直そうとするのではなく、恐怖を受け入れる(パラドックスの心理)

(5)少しずつ恐怖感情に直面する

(6)自己認識を変える(自己否定から自己肯定)

(7)純粋動機を大切にする

(8)勇気を持って人の中に入っていく

(9)対人恐怖の解決は時間がかかる、あせらない

※次回の記事で上記(1)~(9)の項目毎に解決方法の考察を取り上げます。
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「自分に厳しく他人に優しい人」について考える

2025-01-05 22:24:26 | 心理
私が大学生の終わり頃から社会人1年目にかけて、いわゆる自己啓発書と呼ばれる本を買い漁って、そこに書かれていることを実行に移そうともがいていた時期があった。
当時は「自分はなんてダメな人間なんだ」、「なんて自分は頼りなく情けない人間なんだ」と自分を責めまくっていて、そういう自分を激しく憎み、そのような人間とは正反対の立派な人間に強迫的になろうとしていた。
その努力は今思えば凄まじいほどであった。だからほどなくしてメンタルが崩壊して気が付いたときには身動きが出来なくなってしまった。

この頃読んだ自己啓発系の本に、「自分に厳しく他人に優しい人」になりなさい、という言葉が書かれていた。私はこの言葉を真に受けて実行しようとした。
悩んでいるとき、このような本、言葉に吸い寄せられる傾向がある。そして悩み解決どころか、もっと悩みを深刻にしてしまう。
後から気が付いたのだが、このような自己啓発系の本を書く著者に、心に問題を抱えた人がいるということも分かった。
著者自身も本当は自分でも実行出来ないような立派なことを書くことで、自分の心の奥底にある自分でも気が付かない自己無価値感、劣等感を疑似解決しようとしていたのではないかと思うのである。

ところで「自分に厳しく他人に優しい人」と聞くと、大抵は立派だと評価されることが多い。
この「自分に厳しく他人に優しい人」のことを今日考えてみたのだが、私は2種類の人がいるのではないかと思っている。
1つは、自分が感じている欠点、弱点を良くないものと厳しく律し、厳格な態度を自分に課すタイプで、他人には表向き丁寧であるが、本当はそれが欺瞞であるような人。
このような人は他人に怒ったりはしないが、あれこれ注意したり指摘の多い人である。
他人の不完全さを放っておけない人でもある。その特徴は感情が貧困であることだ。マイナス感情を抑圧しているからである。
このタイプは自分が欠点や弱点だと思い込んでいる要素を憎んでおり、それを克服すべく絶えず努力している人である。一部の職人や料理人などに見られる。自分を厳しく律してきた人たちでもある。
このような職人や料理人などの中には弟子にものすごく厳しい態度で接することがあり、暴力をふるったり暴言を吐いたりする人もいる。人の不完全さを許せないのである。パワハラをする人がこのタイプである。パワハラをする人は、自分の心にこのようなことが起きていることを自覚出来ない限り一生抜け出すことは出来ない。
このタイプでも他人に表向きは優しく振舞おうとする人がいる。それは人から評価を得たいという動機もあれば、良心の強い人で本当は不完全さを責めたいのだが良心がその発動を阻止しているようなこともある。しかしその本質はパワハラをする人と変わらない。

ではもう一つのタイプとはどんな人だろう。
それは純粋動機で自己実現している人である。他人の評価に依存しない人である。
やりたいこと、好きなことをとことん追求し、極めたいという自然で、内から沸き起こる欲求に従って生きている人である。
そのような人は特定のことを極めるために凄まじい努力をするけれど、それを苦痛どころか楽しんでいる人でもある。周囲の人から見ればその凄まじい努力が「自分に厳しい」と写っているだけのことである。
またこの種の人は、挫折したり、失敗したり上手くいかなかったときの気持ちが分かる人でもある。凄まじい努力をしたのにそれが報われなかったときの、その無念の気持ちが分かるからこそ、他人の失敗や挫折にも理解を示すことが出来るのだ。だから周囲の人からすると、それが「他人に対する優しさ」と写るのである。

他人に対する優しさとは、他人に気を使ったり、負担を軽減してあげたりすることではなく、表に見えない「人の内面の苦しみ」を真に理解してあげられる能力だと思う。
自己実現した人はその苦しみを経験しているがゆえに他人の、その表に現れない苦しみを自分事のように分かってあげられるのであろう。
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パラドックスの心理

2024-11-22 21:23:12 | 心理
今日はいつになく1日が長く感じられた。
午前中は車で40分ほどの総合病院で人間ドックを受診。
ドックが終わってからスーパーに立ち寄り、ちょっといい弁当や総菜などを買い込み、家で昼ごはんを食べてからずっとギターを弾いていた。
今回の人間ドックは楽だった。
いつも10月下旬に受診するのであるが、今年は申し込みが遅かったせいもあり11月下旬となったのであるが、金曜日のわりには空いていた。
そのため待ち時間が殆ど無く、9時開始で10時半には終わってしまった。
そして今回驚いたのは胃の内視鏡検査があっけないほど楽だったこと。
いつもはカメラを飲んでいる間はものすごく苦しいのであるが、今回は咳、1つしなくて済んだ。
カメラを飲む前に今まではあごを上げて喉にゼリーのようなものを5分くらい放置し麻酔をかけるのであるが、これが殆ど効かないんですね。
今回はのどに直接、シュシュッとスプレーのようなものをかけられた。これが意外に効いた。また今回、あの痛い注射も無かった。
あとカメラのチューブもより柔らかくなったように感じた。
数年前からチューブの太さが細くなったような気がしていたが、硬さはあまりかわっていないように感じていた。
内視鏡検査を受け始めたのが今から15年くらい前だったが、その当時から10年間くらいは胃カメラのあの黒いチューブというやつは太くて硬かった。
だからその太くて硬いチューブがそっと口の中に入り、まず喉に接触し、次に食道に差し込まれるところに来るとその瞬間、ものすごい吐き気に襲われるのである。
丁度、喉と食道の確度が直角でL字型になっているので、チューブもおり曲がりながらでないと入っていかないのであるが、チューブが太くて硬いとなかなかスムーズに入っていかないから吐き気や咳に襲われるのである。
もし胃の中に食べ物が入っていたら、間違いなく猛烈な勢いでゲロを吐くのは避けられないであろう。

内視鏡検査を受けるようになって15年ほどで毎年欠かさず受診しているが、胃の検査はこれに勝るものはない。
胃カメラを胃の中に入れている最中にライブで食道、胃、十二指腸などを鮮明な映像で見せてくれて医師が説明してくれるから、もし悪いところがあれば、リアルでわかるのである。
私は毎日胃酸の逆襲を受けるので、胃が胃酸により荒れているといつも指摘されるがそれ以外は全く問題ないと言われる。
胃カメラを飲むのは苦しいけど、受け終えて何事も無ければ安心だし、この死ぬほどの吐き気と猛烈な咳が過ぎ去った後の何とも言えない開放感、達成感に浸れるのも長年続いている理由なのかもしれない。
今年のようなあっけなく終わるような内視鏡検査だと苦しみが去ったあとの開放感や気持ちよさに浸ることは出来ないが、もし興味のある方は一度試してみてはいかがだろうか。おすすめだ。

さて話題は変わるが、最近、対人恐怖の解決方法に大きな気付きがあったのでメモしておくことにした。
以前、対人恐怖や社交不安障害、あがり症などの方々を集めたワークショップを受けたことがあるのだが、そこで参加している人たちって、全てではないにしても外見は対人恐怖やあがり症には全然見えなかったのである。
最初はそれが妙に異様な感じがした。
でも結構高額な料金を払ってまでも参加するということはその悩みは深刻だということは分かった。
勤務中に隠れて、恐怖や不安を回避するために飲酒をする人も何人かいた。薬を飲んでいる方もいた。
でも今思えば、この人たちは必死になって自分の対人恐怖やあがり症、社会不安障害は悪いものだと認識して、治そう、治そうと、そのような自分と激しく戦っていたんですね。
自分もその一人だったけど。
ほんとうの対人恐怖って人に心を開けない。厚い壁を築いている。だから辛くて人と一緒にいられないのだ。だから孤独に生きざるをえなくなる。友達や結婚とも無縁の人生を送る。
これは普通の人にはなかなか分かってもらえない。理解を求めて訊くだけ損だと何度思ったことか。
恐怖感情を絶えず感じるのも辛いし、色々な面で上手く生きられないから、そのような状態を憎むのも当たり前なのである。
この気持ち、物凄くよく分かる。
しかし、言いたいのはこの、今の自分の状態を憎み、それと反対の人間像になることを期待し、望むことをやっている限り、絶対に解決に向かわないということだ。まさにパラドックスの心理である。

対人恐怖であることが悪いことなのか、ということを時間をかけて考えてみることだと思う。
過去に誰かがばかにしたのか。対人恐怖で顔が引きつり、言葉がどもり、目がパチパチしているのを見て誰かが面白がって嘲笑したのか。つまらないやつだと見下されたのか。面白くない、役に立たないやつだと見捨てられたのか。
これは全てそのような言動をした、その他人の一面的な見方に過ぎないのである。しかしそのような見方が正しいと判断したのは他でもない自分なのである。
今から15年くらい前に、今よりもずっと対人恐怖が強かったころに、年下の同僚から私のどもりを面白がって真似をされたことがあったが、その時の自分はそのどもりを恥じた。でも幸いにもそのどもりを治そうとしなかった。
その時代はある程度心理学の知識で、自分を否定することは良くないと頭では分かっていたからだ。
そして、今、私が仮にどもって、誰かからそれを面白がって真似をされたとしても全く何とも思わない。
感じるとしたら、そのようなことを言う人は貧しいやつだなということだけだ。

今なら、どもっても目をパチパチさせてもどうでもいいという心境だ。
仮に誰かがそういう状態になっているのを見ても何とも思わない。いや、もしそういう状態なのに、その人が一生懸命に行動しているとしたら賞賛に値するとさえ思えるだろう。

対人恐怖になったのは、それ相応の体験があったのである。人間全てを凄く怖いと感じなければならなかったほどの辛い体験があったということなのだ。
そこに焦点を当てるということである。そこに全ての注意やエネルギーを注ぐということである。
猫や犬などの動物だって、虐待されれば近づいてこない。容易なことでは決して心を許さない。対人恐怖症者はそれと同じである。猫や犬でも心を開けるようになるのに長い年月がかかるのに、人間はもっと長い年月がかかるのである。
短期間で人に心を開けるようなものではない。人に心を閉ざしていることを見せたくない人は、自分にも他人にもうそをつき、仮面をかぶって真の自分とは異なる人間像で適応している人もいる。ワークショップに参加している方でそのような方がいた。

「対人恐怖を治すのでなく、対人恐怖にならざるを得なかった過去の生き様を振り返り、その不幸だった自分を本心から理解してあげる」ことが解決への唯一の道だと思っている。

「対人恐怖を治そうとすればすれほど、対人恐怖が強化される」。
これがパラドックスの心理である。
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「心理的安全性」ついて考えてみた

2024-10-27 21:35:51 | 心理
今日の夕方、たまたま電源を入れたテレビ番組で「ドキュメント72時間」という番組が放映されていた。
すでに放送開始から半分以上が経過していたが、ちょっと考えさせらる場面があったので記事にしてみようと思った。

この番組では、お寺が引き取った多数の捨て猫と、その猫との交流を楽しみに訪れる人々をドキュメントしていたのだが、訪れる人の中には適応障害やパワハラで休職していた方や、表向き人当りはいいけど本当は人となじめないと認める人がいて、そのような方々が自分と同じような境遇、性格の猫との交流を通して、心が癒され社会復帰していたことに興味を惹かれた。
その方々と同じような境遇、性格の猫とは、他の猫や人間を過剰に警戒し、離れた場所で孤独に過ごす猫や、ベンチの下に隠れてなかなか出て来ない猫、ちょっとの刺激で攻撃心をむき出しにする猫であった。
心に苦しみを負った方々は、このような猫と交流し心を通わせることで癒されたというのである。

恐らく、このような猫に自分自身の本当の現実の姿を投影したのだと思う。
傷ついた自分をなかなか受け入れることが出来なかった、傷つき苦しむ自分を嫌い、裁き、拒絶した末に病んだ自身の姿をこの猫の姿を見ることで客観視出来たのではないか。
そして同じ境遇のこの猫に愛情を注ぐことで、自分自身の心の苦しみも和らいでいったのである。人によっては長い間心の深いところに封印していた愛情という感情に触れ、それを純粋に表現できるようになった方もいるに違いない。このことは心の苦しみの解決にとってとても重要なヒントを与えていると感じた。

5年前に激しいパワハラを受けて休職したという女性は、ベンチの下からなかなか出てこない猫について、「この猫は人が怖いんだけど、本当は人が好きなんだ」というようなことを言っていた。
人から虐待された猫なのであろう。虐待されれば動物であってもなかなか人に心を開かないという。
人間だって同じ人間から虐待されれば心を閉ざす。本能的に人に警戒するようになる。人間も動物と変わらない。
心を閉ざした人間は人との交流を恐れる。人との交流を断ち、孤独な人生を送る。
しかし一方で、無意識では人を好きになりたい、人と親しくなって交流したいという根源的な気持ちも感じている。
人に対する恐れと人と親しくなりたいという気持ちが激しく葛藤している。だが、本人はそのことを意識出来ていない。

人に対する根源的な恐怖とは、会食恐怖とか男性恐怖のような恐怖とは次元が違う。普通に仕事をし、普通の人のように見えても心を完全に閉ざしている人はいる。このような人が人に対する警戒心を解き、人と親しくなれるようになるのは容易なことではない。
ものすごく長い年月がかかるのと、絶えず自己観察、自己分析を行う忍耐力、そして幸運にも心の暖かい人との出会いがなければ回復出来る可能性は極めて低いのではないかと思っている。

以前、NLPのような実践心理学ではこのような心の問題に対して歯が立たないということを書いたが、今日のこの番組を見てまさにそうだと確信した。
長い時間をかけて、繰り返し繰り返し、人は安全なんだ、という感覚が生まれる(取り戻す)まで忍耐強く待ち続けるしかない。
待てない人は、短期療法に引っかかってお金と時間を浪費する。自分がそうであったから。しかし苦しい人は藁をもすがる気持ちになっていることは否定出来ない。その気持ちも十分分かる。しかし注意が必要だ。

ここ数年で勤め先などで「心理的安全性」という言葉を聞くようになったが、その意味するところはどうやら次のようだ。
(ネットでの検索による)

心理的安全性とは、組織やチームにおいて、自分の意見や気持ちを安心して表現できる状態を指します。
心理的安全性が高い状態では、次のような特徴が見られます。
自分の意見や指摘を拒絶されたり、罰せられたりしないという確信がある
どんな意見でも受け入れてもらえるという安心感がある
ミスをしても非難されることはないという安全感がある
相互信頼があり、一度引き受けた仕事は最後までやりきってくれると信じられる

組織心理学で取り上げられている概念のようだが、企業などで業績を上げるための従来の報酬と罰則を中心とした組織環境に対する考え方での限界から出てきたものではないかと思う。
要は企業の業績を高めるためには根柢に「心理的安全性」というものが組織に浸透されてなければならない、ということなのだろう。

これはあくまでの企業が発展するためのひとつの手法、方法論に過ぎないが、このような概念から一歩離れて、「心理的安全性」という言葉をそのままに受け止めてみるならば、先に述べたような猫と人間との交流に結び付いていく。
つまり、何をしても許される、今のありままの姿でいても拒絶されない、見捨てられないという安心感である。
人に心を閉ざしてきた猫が暖かい人との交流でこの感覚を取り戻す、あるいは新たに感覚を身に付けることにつながる。
テレビに出てきた警戒心の強い猫も恐らく数年後にはかなり警戒心が解けていくに違いない。

しかし動物と違って人間の場合はひとつやっかいな問題がある。
それは、心の中で、ありのままの自分、失敗した自分、ミスした自分、弱いと感じる自分など、そう感じる自分を徹底的に憎み、裁き、否定するもう一人の自分の存在があること、そしてこのような存在があることに自身が気が付いていないということだ。心の中で恐ろしい敵と共存している。そしてそのことが絶え間ない恐怖感情を生み出している。寝ていても感じている恐怖とはこのような状態から生まれていると思われる。
この問題に気が付き、自己否定を止めない限り、どんなに自分を受けれてくれる暖かい人との交流の機会があったとしても、それにより苦しみから解放されることはないのだ。
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