私が大学生の終わり頃から社会人1年目にかけて、いわゆる自己啓発書と呼ばれる本を買い漁って、そこに書かれていることを実行に移そうともがいていた時期があった。
当時は「自分はなんてダメな人間なんだ」、「なんて自分は頼りなく情けない人間なんだ」と自分を責めまくっていて、そういう自分を激しく憎み、そのような人間とは正反対の立派な人間に強迫的になろうとしていた。
その努力は今思えば凄まじいほどであった。だからほどなくしてメンタルが崩壊して気が付いたときには身動きが出来なくなってしまった。
この頃読んだ自己啓発系の本に、「自分に厳しく他人に優しい人」になりなさい、という言葉が書かれていた。私はこの言葉を真に受けて実行しようとした。
悩んでいるとき、このような本、言葉に吸い寄せられる傾向がある。そして悩み解決どころか、もっと悩みを深刻にしてしまう。
後から気が付いたのだが、このような自己啓発系の本を書く著者に、心に問題を抱えた人がいるということも分かった。
著者自身も本当は自分でも実行出来ないような立派なことを書くことで、自分の心の奥底にある自分でも気が付かない自己無価値感、劣等感を疑似解決しようとしていたのではないかと思うのである。
ところで「自分に厳しく他人に優しい人」と聞くと、大抵は立派だと評価されることが多い。
この「自分に厳しく他人に優しい人」のことを今日考えてみたのだが、私は2種類の人がいるのではないかと思っている。
1つは、自分が感じている欠点、弱点を良くないものと厳しく律し、厳格な態度を自分に課すタイプで、他人には表向き丁寧であるが、本当はそれが欺瞞であるような人。
このような人は他人に怒ったりはしないが、あれこれ注意したり指摘の多い人である。
他人の不完全さを放っておけない人でもある。その特徴は感情が貧困であることだ。マイナス感情を抑圧しているからである。
このタイプは自分が欠点や弱点だと思い込んでいる要素を憎んでおり、それを克服すべく絶えず努力している人である。一部の職人や料理人などに見られる。自分を厳しく律してきた人たちでもある。
このような職人や料理人などの中には弟子にものすごく厳しい態度で接することがあり、暴力をふるったり暴言を吐いたりする人もいる。人の不完全さを許せないのである。パワハラをする人がこのタイプである。パワハラをする人は、自分の心にこのようなことが起きていることを自覚出来ない限り一生抜け出すことは出来ない。
このタイプでも他人に表向きは優しく振舞おうとする人がいる。それは人から評価を得たいという動機もあれば、良心の強い人で本当は不完全さを責めたいのだが良心がその発動を阻止しているようなこともある。しかしその本質はパワハラをする人と変わらない。
ではもう一つのタイプとはどんな人だろう。
それは純粋動機で自己実現している人である。他人の評価に依存しない人である。
やりたいこと、好きなことをとことん追求し、極めたいという自然で、内から沸き起こる欲求に従って生きている人である。
そのような人は特定のことを極めるために凄まじい努力をするけれど、それを苦痛どころか楽しんでいる人でもある。周囲の人から見ればその凄まじい努力が「自分に厳しい」と写っているだけのことである。
またこの種の人は、挫折したり、失敗したり上手くいかなかったときの気持ちが分かる人でもある。凄まじい努力をしたのにそれが報われなかったときの、その無念の気持ちが分かるからこそ、他人の失敗や挫折にも理解を示すことが出来るのだ。だから周囲の人からすると、それが「他人に対する優しさ」と写るのである。
他人に対する優しさとは、他人に気を使ったり、負担を軽減してあげたりすることではなく、表に見えない「人の内面の苦しみ」を真に理解してあげられる能力だと思う。
自己実現した人はその苦しみを経験しているがゆえに他人の、その表に現れない苦しみを自分事のように分かってあげられるのであろう。
当時は「自分はなんてダメな人間なんだ」、「なんて自分は頼りなく情けない人間なんだ」と自分を責めまくっていて、そういう自分を激しく憎み、そのような人間とは正反対の立派な人間に強迫的になろうとしていた。
その努力は今思えば凄まじいほどであった。だからほどなくしてメンタルが崩壊して気が付いたときには身動きが出来なくなってしまった。
この頃読んだ自己啓発系の本に、「自分に厳しく他人に優しい人」になりなさい、という言葉が書かれていた。私はこの言葉を真に受けて実行しようとした。
悩んでいるとき、このような本、言葉に吸い寄せられる傾向がある。そして悩み解決どころか、もっと悩みを深刻にしてしまう。
後から気が付いたのだが、このような自己啓発系の本を書く著者に、心に問題を抱えた人がいるということも分かった。
著者自身も本当は自分でも実行出来ないような立派なことを書くことで、自分の心の奥底にある自分でも気が付かない自己無価値感、劣等感を疑似解決しようとしていたのではないかと思うのである。
ところで「自分に厳しく他人に優しい人」と聞くと、大抵は立派だと評価されることが多い。
この「自分に厳しく他人に優しい人」のことを今日考えてみたのだが、私は2種類の人がいるのではないかと思っている。
1つは、自分が感じている欠点、弱点を良くないものと厳しく律し、厳格な態度を自分に課すタイプで、他人には表向き丁寧であるが、本当はそれが欺瞞であるような人。
このような人は他人に怒ったりはしないが、あれこれ注意したり指摘の多い人である。
他人の不完全さを放っておけない人でもある。その特徴は感情が貧困であることだ。マイナス感情を抑圧しているからである。
このタイプは自分が欠点や弱点だと思い込んでいる要素を憎んでおり、それを克服すべく絶えず努力している人である。一部の職人や料理人などに見られる。自分を厳しく律してきた人たちでもある。
このような職人や料理人などの中には弟子にものすごく厳しい態度で接することがあり、暴力をふるったり暴言を吐いたりする人もいる。人の不完全さを許せないのである。パワハラをする人がこのタイプである。パワハラをする人は、自分の心にこのようなことが起きていることを自覚出来ない限り一生抜け出すことは出来ない。
このタイプでも他人に表向きは優しく振舞おうとする人がいる。それは人から評価を得たいという動機もあれば、良心の強い人で本当は不完全さを責めたいのだが良心がその発動を阻止しているようなこともある。しかしその本質はパワハラをする人と変わらない。
ではもう一つのタイプとはどんな人だろう。
それは純粋動機で自己実現している人である。他人の評価に依存しない人である。
やりたいこと、好きなことをとことん追求し、極めたいという自然で、内から沸き起こる欲求に従って生きている人である。
そのような人は特定のことを極めるために凄まじい努力をするけれど、それを苦痛どころか楽しんでいる人でもある。周囲の人から見ればその凄まじい努力が「自分に厳しい」と写っているだけのことである。
またこの種の人は、挫折したり、失敗したり上手くいかなかったときの気持ちが分かる人でもある。凄まじい努力をしたのにそれが報われなかったときの、その無念の気持ちが分かるからこそ、他人の失敗や挫折にも理解を示すことが出来るのだ。だから周囲の人からすると、それが「他人に対する優しさ」と写るのである。
他人に対する優しさとは、他人に気を使ったり、負担を軽減してあげたりすることではなく、表に見えない「人の内面の苦しみ」を真に理解してあげられる能力だと思う。
自己実現した人はその苦しみを経験しているがゆえに他人の、その表に現れない苦しみを自分事のように分かってあげられるのであろう。
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