世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

義足は語る

2021年08月15日 23時58分20秒 | Weblog
10時に起床。
また今日も雨かよ。近所の川の水位が心配。

あのお寿司の味が忘れられなくて、今日もそそくさと近所のお寿司屋さんへ。
店内に入ると、今日も90年代ヒットソングが淡々と流れていた。
大将はきっと私と同年代に違いない。
「おぼっちゃまくん」「キン肉マン」「シャイダー」を見て育ち、小学校高学年でバブルの絶頂期を迎えた我々世代。
大将の目の前のカウンター席に案内されたのだが、小心者の私は今日も話しかけられなかった。

前回同様、「上寿司」をオーダー。




今回は寿司下駄に次々と並べられてくる。
左側のトロから齧り付く。う!ま!い!口の中でとろけていく…。

ネタはどれも新鮮。シャリもふっくら。言うことなし。また来よう。
明朗会計1,100円というのも嬉しい。



電車で九段下へ。
徒歩1分の「しょうけい館」に行った。
数年前に一度来たことがある。

企画展「義足は語る~戦争で足を失った戦傷病者の歩み~」





開催趣旨(HPより)
 本展は、戦争によって足に障がいを負い、“立つ”“歩く”という行為を「義足」とともに歩んで来られた5人の戦傷病者のパーソナルヒストリーを見つめるものです。義足は、どのような経緯で作られ、戦傷病者の足となり、最後に当館へやってきたのでしょうか。
 兵士が足を失うという負傷の原因は、戦闘行為によって銃弾や爆撃が当たるという直接的なものだけでなく、医薬品の不足によって引き起こされる感染症、行軍中の事故や凍傷などもありました。戦争という過酷な体験の中で、足を失ってしまった方が多くいました。
 足を失った負傷兵は、身体の傷が癒え、治療が終わると、次は社会復帰のためのリハビリを始めます。義足を用いて、立つことから始まり、歩く、そしてその足で生活をし、働く、これらの行為が如何に難しいものであったのか、義足使用者のそれぞれの思いと共に労苦を振り返ります。戦争で身体の一部を失う「喪失」の経験、義足という新しい身体を装着する「出会い」、その後の義足と共に歩んだ人生を見つめます。


以前、漫画家の水木しげる氏が戦時中に麻酔なしで左腕を切断したことを知った。
それからずっと、負傷兵の苦しみについて知りたいと思っていた。


多くの義足を前にして絶句した。

物言わぬ義足たち。
だけど、戦争の悲惨さ、持ち主の絶望を静かに語っていた。
同時に、社会復帰する持ち主の「希望」でもあったのかなと思う。

麻酔や薬がない野戦病院での手足の切断の手記など壮絶すぎて目を反らしたくなったけど、しっかりと胸に刻んできた。

【心に残った短歌】
百雷の一時に落ちし音のして既に脚の砕けしを知らず

麻酔うちうつろの内に骨をきるノコギリの音聞きつ眠れり

手榴弾かかへて自爆せし兵の苦しみ誰か責められるべき




大隈重信氏の義足も展示してあった。
この義足は、当時世界最高と言われた、アメリカのA.A.マークス社製のもの。
大隈重信氏が右足を失ったことを今日初めて知った。


今日は終戦記念日。
私の祖父(母方)は76年前の今日、宮古島にいた。
満州、沖縄本土を経て宮古島で終戦を迎えたのである。
数年後に栃木に帰り、母が生まれた。
母がいなければ私は生まれてこなかった。
なので終戦は私にとって決して縁がないことではない。
大きな負傷はしなかったが、心の傷は癒えることがなかったのか、あまり戦争のことは喋らなかった。

普段は戦争のことを頻繁に考えずにいられるほど平和に生きている。
隙あらば寿司とか食べに行っちゃっている。
これって本当に恵まれたことなのだと改めて思った。



しょうけい館のカウンターで今回の企画展のパンフレットをいただいた。
クリアファイルも同封されている。

一見、写真かと思いきや、絵画である。
戦争で右腕を負傷した海洋船舶画家の上田毅八郎氏の作品。

大切に使わせていただこう。


しょうけい館を出て正面にある建物が風情があって素敵。



北の丸公園の蓮。
お濠は一面の緑。


そそくさと帰宅。

昨日入浴させたチェジュちゃん。
やっと乾いた。
すっかり綺麗になりましたとさ。

今日は抱っこして眠れる。

先週に引き続き、今週も土日は雨ばかりだった。
でも涼しくて凌ぎやすいので体は楽だった。
モデルナワクチン(2回目)による副反応は僅かな痒みだけが残っているが、クマ医師に処方してもらった薬で何とかなっている。

来週も恙なく乗り越えられますように。