川上弘美さん、『真鶴』

 『真鶴』、川上弘美を読みました。

 “「うらんでいる」すぐに答えがきた。自身で、自身に、答えた。” 24頁

 まずは一言、凄い作品です。凄すぎて、怖かったです…。実験的なのか、分岐点なのか。
 ひどく印象的な出だし、ぶつぶつとした文体。その独特なリズムに慣れるまでに、少々時間がかかってしまう。そして冒頭からすぐさまに、不穏な気配が立ち昇ってくる。不穏で、なにやら不吉で。そもそも“ついてくるもの”って、いったい何だろう…。主人公の女の様子も雰囲気も、尋常でないような、そしてやたらと感覚的で薄気味悪いほどだった。

 からだの芯がうらんでいる…か。それをわからないとは言えない。でも…。己の心身が女という生き物であるということ。その深くておぞましい淵を覗き見ることは、未だに怖い。考えただけでさえ、くらくらしてしまう。じとっとしてぬらっとして得体の知れないもの。

 一年前に読んだ『センセイの鞄』を思い出すと、随分と遠い場所へと連れて来られてしまったような気がする…。“まぐわい”を、漢字を使って“目合い”、と書いている(ふむなるほど)。で、その目合いの場面がじゃんじゃん出てくるところも、昔の作品とは違う。 
 ただ、直截なのだ。欲しいものをそのまま「欲しい欲しい」とやみ雲に訴えるのでは、そんなの子供と同じだ…と嫌悪すら覚えた。この主人公の京は、自身を鎧う術を身に付けることなく、ただ時間に引きずられるがまま大人になり、母親になってしまったのだろう。 
 この、狂気のようなものぐるおしい恋情はどうだ。これは怖い、怖すぎる。うかうかと手を出すのではなかった。…と思っても遅い。此岸と彼岸とが地続きになった不気味な世界に魅入られ、ぐいぐいと引き込まれていた。  

 3代に渡って血の繋がった女3人だけの家族の描かれ方も、結構不気味だった。「怖い怖い」が「凄い凄い」になり、一気に読めてしまいました。
 (2006.11.29)

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『須賀敦子全集 第1巻』

 物語のような芳しさ。余韻が響き続けている。
 『須賀敦子全集 第1巻』を読みました。

 “若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。” 374頁
 
 須賀さんのエッセイについて思うことは、すでに以前の記事で書き尽くした気がしますが。
 記憶というものに、思い入れがある。何となれば、人はあらゆる記憶を、その指の隙間から零していくように薄れさせ失い、生きていくものだから。忘れゆくことが、生きていくために天性与えられた心の機能に他ならないから。 
 忘れることが自然だ。何もかも抱え込んだままでは、人は歩んでいくことの出来ない心やわい生き物だ。過去にこしらえた心の傷、胸を押しつぶした出来事、その胸を切り裂いて永遠に血を流し続けるかと思われた別れの痛みさえ…。いつか、時の流れが癒してくれる。時間だけがそれらを風化させ、忘れさせ、歩みを滞らせまいとしてくれる。真綿のように優しく慈愛に満ちた、忘却という名の妙薬で。
 でも。いえ、だからこそ。
 今こうしている間にも刻一刻と色褪せ、背を向けて遠ざかろうとする眩しい瞬間。愛おしい笑顔の残像、胸を締め付ける甘く切ない思い出たちに向かって、何度でも呼びかけずにはいられない。そこにとどまれ…と。

 忘れないということは、忘れまいと思い続けることだ。色褪せゆく記憶へ向かって、何度でもその名を呼んでみることだ。忘却の慈愛を知りつつも、諦めきれずに。
 今この時も、未来の思い出の中にある。何一つ、とどめておけるものがない。呼び覚ましたい記憶たちは、写真や記録の中には決して残せない。光と埃の匂いの中、特別ではない日の飾りない言葉たちの中、二度と咲かない去年の桜の中…そんな場所にだけ、静かに眠っているだろう。

 遥かなときをたどりながら、失われた時間を呼び戻す須賀さんの声が、遠い場所から聞こえてくるような気がした。そうして須賀さんに呼び戻されて、しばし息を吹き込まれた人たちの命が、温かな愛情をまとって作品の其処此処に宿っている。そのことの尊さに思いを馳せることよ…。思い出という名の幻が、永遠の命を与えられ、幾とせも経て届いた私の胸で、こんなにも確かに響き渡る。
 (2006.11.28)

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檀ふみさん、『父の縁側、私の書斎』

 檀ふみさんと言えば印象深いのは、NHK「連想ゲーム」での雄姿(?)です。ばっさばっさと男性チームに切り込んで、点数を稼いでおられたような記憶もあります。子供心に、聡明ってこんな人をいうのかしら…などと、思っていたかもしれません。と、前振りはこの辺で。
 『父の縁側、私の書斎』、檀ふみを読みました。

 随所にて父親の思い出を振り返る記述は、とても読み甲斐があります。でもそれだけではなく、家そのものへの思い、そこにまつわる悲喜こもごもを、軽妙な気を逸らさない文章でたっぷり読ませてくれます。テンポの良いコミカルさもありつつ、過ぎし日々を愛おしげに懐かしむ箇所では何だかじんわり…。  
 かくいう私は、家を持つということに関心がありません。昔から両親の価値観にことごとく反発してきた娘なので。それに、終の棲家を持ってしまったが最後、ずっとその土地に縛り付けられるのかと思うと、どうしても怖さが先にたちます。怖い怖い…。
 そんな私が少しだけ、この強張りを緩めてみたくなりました。家ってやっぱり、いいものかも知らん。

 思い出すのは、子供時代を過ごした昔の実家です。いわば人生における最初の全世界。光に満ちて温かい思い出といえば、縁側と濡れ縁で過ごした時間です。日当たり良好、日向ぼっこのスペース。昭和懐かしの縁側と濡れ縁は、このエッセイ集にも出てくるので胸がきゅんとしました。
 濡れ縁があるのは当時でもすでに珍しかったのですが、家の外でもなく内でもなく、お天気の良い日に遊びに来た友達と過ごすのにも、格好の場所でした。そこで、おやつと冷たい麦茶をいただくと、じかにコップを置いた場所に、小さな水溜りが出来るのでした。その水が、かさかさに乾いた木の肌に沁み込んでいく、じじ…と言うあの音さえも、まだ耳の底にならば残っているような気がします。背後の応接間には造り付けの本棚があって…。
 といった具合で、1度蓋を開けたらとめどなく溢れてきそうです。汲めども尽きせぬ、家にまつわる思い出よ。
 家っていいものかも知らん…。新たな視点を投げかけてくれた、一冊でした。
 (2006.11.16)

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低血圧な朝

 低血圧なので朝はいつも、大層ぼさりとしている。
 頭の内と外側とが、どちらともつかずに入り乱れたままで、どちらも一緒にぼさぼさしている。
 まともな思考なんぞはまだまだ、心地よい眠りの森の小道をたどったその奥で、ごろごろしながら留まっていたりするのである。

 兎に角とりあえず、卵を割った。
 するとこぼれ落ちてきたのは、双子になり損ないの、不細工なハート形をした黄身だった。
 殻の中でよほど別たれがたかったのか、しっかと抱っこし合った形のままで、ポロン、こぼれ落ちてきた。
 こぼれ落ちてきてそのままに、黙ってひたと、こちらを見上げてくる。
 あらま……と間抜けに呟いて、見蕩れているうちに、途方に暮れてきた。
 このものたちを、いったいどうしたものか…。

 為す術もなく、ぼさりと立ち尽くしながら、兎に角とりあえず見つめてみた。
 ジツ…、と見つめ合ったまま、双方どうにも、動きが取れない。
 と、ふいに……。 
 ついに緊張に耐え切れなくなったものか、黄身の双子の片割れが、ふるりと一ふるえしたかと思うと、切ないようなか細さで、「ああ、もう駄目だ…」と一声こぼし、みずからその身をほどきながら、崩れ落ちてしまった。…のであった(嗚呼…)。
 その、最期の一ふるえのあまりの可憐さが、かなり結構、この身に応えた。身に応えながら、ご飯を食べた(当然卵も)。身に応えながら歯を磨き、身に応えながら髪を梳き…。
 全身の毛繕いをおえる頃に、ようやっとこさ、正気になった。

 低血圧な私の朝とは、まこと斯様なものである。 
 正気になってから天気予報をしっかと見て、意気揚々と傘を持ってでかけ、意気揚々と(?)ロッカーに置き忘れてきた。 
 結局とうとう帰り道で、雨に濡れてしまった。晩秋の雨は、冷たひ。
 (2006.11.14)

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梨木香歩さん、『からくりからくさ』 再読

 布にまつわる言葉も、糸偏の漢字の訓読み(縫う、編む、絡む、纏う、織る、紡ぐ、結ぶ、綾…)も好きなので、この作品に魅了されないわけがありません。
 『からくりからくさ』、梨木香歩を読みました。

 読んでいると色んなイメージが錯綜します。幾つかの物語の要素が、それこそタペストリーのように織り込まれています。
 作品内でもちらっと出てきますが、“織る”と“祈る”は言葉としても似ていると思います。本当のところ、ただ似ているだけなのでしょうか…。古から連綿と、市井の女たちが受け継ぎ繋いできた“織る”ということ。西でも東でも変わりなく、淀むことなく続く日常の中で、一枚の布を織り上げていくということ。そこに、トントンカラリと織り込まれていったもの…それは、善きことと悪しきことと、祈りと呪いとが融け合わさったようなもの。

 紀久さんの静かな情熱に寄り添いつつ、そんなことに思いを馳せてみる。気が遠くなると同時に、何故か泣きたくなる。私は紀久さんが好きなので、今回は最初から思い入れたっぷりで読んでいました。
 たとえば紀久さんが苦しんでいるときには、私も“溶鉱炉のような業火”を怖々ながらも覗いた気がしました。紀久さんの長い手紙を読んでいたら、いつの間にか涙ぐんでいました。途中まで読んで気が付いたけれど、私は紀久さんが好きと言うよりも、彼女に対してシンパシーのようなものを感じていたのです。
 それは、性格が似ているとかいう表面的なものではなく、もっと根本的なところにある、ものの考え方や感じ方に強い共感を持てる…とでも言ったらいいでしょうか。たとえば物語の終わりの方でこんな文章にぶつかって、本当に打たれたように動けなくなってしまったから。

 “紀久にはもともと、人一人の心持ちはそれだけで他人が侵すべきでない貴いものだと考えるところがあった。その周辺のあれこれを推量するのは卑しいことのようで昔から興味が持てなかった。” 367頁
 この感覚、これは…。私が他人への礼儀として普段から持っている感覚と、同質のものであるに違いない。時々周囲の人たちに対して「そうじゃないんじゃないの?」と感じてきたことが、この文章を読んだときに頭の中で弾けて「そう、そういうことよ!」と叫びたいくらいでした。


 幾つかのお話が縦糸となり横糸となり、そうして綾なすタペストリーのようなこの物語は、素晴らしいクライマックスへと収斂されていきます。圧巻です。正直に言ってしまうと、いささか言葉を費やし過ぎて説明し過ぎではなかろうか…?と、思わないでもないくらいのラストです。そのお蔭で、凄いスケールのところにまで連れて行ってもらえるのですけれど。
 (2006.10.12)

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酒見賢一さん、『後宮小説』 再読

 昔の本をじっくり寝かせ、あらためて丹念に読んでみるのはやっぱりいい…。
 ちなみに私が所持しているのは、1990年6月の19刷となっています。1889年12月が発行ですから、ちょっと吃驚。
 『後宮小説』、酒見賢一を読みました。

 私も最初はまんまと騙された口だった。如何にももっともらしく鹿爪らしく、この小説を書くにおいて参考にした歴史書はこれこれ…なんて話も、先ずは真に受けた。首を傾げつつ読み進み、途中で流石に気付いてこの法螺話の周到さに呆れたものよ…。
 そも舞台となる素乾国、この“素”と“乾”の本来の字義を考えれば即、架空の国に過ぎないことがわかる仕組みだが、普通そこまで気を回さない。本当に人を喰った小説だけれど、爽快な読み応えとあえて騙されてみる快感がとことん味わえる。

 ヒロインの銀河は13歳。新しい皇帝の宮女になるべく後宮へとやってくるが、そこで待っていたのは、宮女候補としての教育を女大学で受けることであった。いったい何を学ぶのか? そりゃあ後宮に入るための学問だから、房中術とか房事における哲学とか…(くらくら)。何しろ、“性のためという特殊な目的ながら、これ程高度なシステムを持った教育機関は史上に類がない(98頁)”のである(何をしれっと)。
 でもこの女大学の件はとても楽しい。真面目くさってしゃっちょこばって、いったい何を教えているのやら…と笑えてしまう。でも確かに大事なことではある。  

 銀河をはじめとし、キャラクターたちの魅力も素晴らしい。銀河と皇帝双槐樹(コリューン)の距離が少しずつ近付いていく過程の、初々しさがまたいい。 
 物語の冒頭近くで明らかにされているように、コリューンは素乾国最後の皇帝になってしまう。そこのところはとても切ないけれど、胸の内が温かくなるラストだった。(あえて言えば、エピローグが少々冗長か。)
 (2006.9.13)

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小川洋子さん、『まぶた』 再読

 ふと奥付を見ると、2001年の発行となっていた。もっと古い作品のような気がするなぁ…と初出を確かめると、例えば表題作の「まぶた」は1996年に発表された作品だった。今朝、本棚を一瞥した私は、そうだ『まぶた』だ、今日は『まぶた』を読むぞっ…と一瞬で決定していた。まあ、そういうこともある。
 『まぶた』、小川洋子を読みました。

 一番しっかりと内容を覚えていたのは、「お料理教室」だった。何となれば…気持ち悪さが忘れ難く。やっぱり好きだなぁ…としみじみ思ったのは、「リンデンバウム通りの双子」。咽喉の奥にくっと来る、熱い塊があった。そして目玉の奥がじんわりした。
 それから表題作の「まぶた」は、長篇『ホテル・アイリス』の前身だったのか、それとも途中で枝分かれしたもう一つの物語だったのか…。『ホテル・アイリス』を彷彿とさせるが、SMではない。「バックストローク」にも、どこかで同じような話に出会っているなぁ…と思ったら、『偶然の祝福』に収められた「盗作」という短篇だった。

 小川さんに紡がれた物語を読んでいると、いつも私の内側が、しん…となっていくのを感じます。心が静かに澄んでいくとでもいいましょうか。水面がなだらかになっていく…とでもいいましょうか。あえかな寂しさにくるまれながら、深い深い…とても深い夜の底で、何かを聴き取ろうと耳を澄ましているみたいな感じ。全身を澄ましているみたいな感じ。
 そう、それはきっと…。
 私の中の何処かしらに一箇所、いつまでも雨の降り止まない場所があります。ひたすら延々と、そこは雨降りなのです。来る日も来る日も。気付いたときにはもう、その場所はありました。常に。それはどうしても必要な雨降りなのでしょう。雨音は殆どありません。とても細かく降りながら、かすかに空気を震わせているさびしい静かな雨。
 ふとした折に、その雨音を聴き分けたくなって耳を傾けます。小川さんの本を読んでいるときに感じる、自分の内側が、しん…となっていく感覚は、そんな時の感じにとても似通っているのでした。つまり、好きってことですね。古なじみの雨降りに、しっくりぴったりくるのでしょう。
 (2006.9.14)

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皆川博子さん、『伯林蝋人形館』

 嗚呼、とうとう読み終わってしまった…。待ちかねた皆川さんの新刊、自分で自分を焦らすようにすぐには手を付けなかったのだが。 
 『伯林蝋人形館』、皆川博子さんを読みました。

 しとどに滴り匂い立つ、物語の濃密さといったらどうだ。それが禁断の毒によるものか蜜によるものか…。この作品に溺れていた時間がただただ至福だった。皆川作品は取り憑く。その濃厚な読み応えと、後ろめたいほどの快感でもって。

 驚異と幻想に満ち満ちたこの物語の舞台は、二つの大戦に挟まれた時代のベルリンである。その頃のドイツはここまで悲惨だったのか…と、暗澹としながらも激しくひき込まれた。 
 その近い未来、ナチスドイツの台頭を許し受け入れていくこととなる(それどころか熱狂で迎えるわけだが)、狂乱と退廃の爛れた温床。ああ、これほどまでに悲惨だったのならば無理もない…と、思わず唸ってしまうほどに酸鼻を呈する状況の中で、6人の男女のもつれ絡み合った物語が縷々語られていく。醜悪を極めたものが美に寄り添うような、美を極めたものが醜悪に寄り添うような、おぞましくも美しい物語が…。 
 そう、恐らくきっと本来であれば、清らかな土壌に植えられ清らかな水だけを吸い上げ、眩しい純白の花を咲かせるはずだった…そんな存在の彼らが、いびつに押しひしゃげられ狂った世界に根を下ろし、その闇を吸い取って妖しく咲いた。青白い狂気に縁取られた、陰性の花に化生した。そしてまた、その世にも稀な花に狂おしいほどに、心奪われる者たちがいた。

 彼らの物語に下ろされる幕は、誰の手によるものなのか? 虚実を織り交ぜて語られた物語の孕んだ毒と謎は、どう解き明かされるのか…? 
 決して短い作品ではないけれど、夢中で追いかけていた。とても短く感じられるほどに。
 何度も何度も繰り返される、濃密なフレーズ。デジャヴュの目眩を呼び起こされながら、だからこそ、どっぷりと読み耽った。
 (2006.9.13)

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恩田陸さん、『夏の名残りの薔薇』 再読

 再読。恩田さんのゴシックロマンです。大好きな作品。
 『夏の名残りの薔薇』、恩田陸を読みました。
 
 物語の舞台は、雪に降り込められた国立公園の中の豪奢なグランドホテルである。贅沢に慣れきって倦んだような風情を纏う、美しい男女たちがそこに集う。繰り返されるのは、虚飾の宴だ。そして彼らの頭上に君臨するのが、3人の老女たち(3人と言えば魔女…)。 
 妖しい老女たちは夜毎、自分たちが招いた客である彼らをギャラリーにして、おぞましくも不思議な、グロテスクで凄惨な即興の作り話を披露する。1度聴いたら止められなくなる、毒の効いたそのお約束事の余興には、嘘の中にまるでスパイスのように事実が織り込まれ、隠しこまれている…らしい。いったいいつから彼女たちは、そんなことをするようになったのか…。

 フランスの映画『去年マリエンバートで』のアラン・ロブ=グリエの原作の引用が、随所に挿入されている。初めて読んだときは、何だか唐突な気がして面食らった。それでも読み進んでいくと、映画の中を流れるセリフや幻想的な雰囲気が効いてきて、まるでスポットライトの当たっていない水面下にもう一つのお話が潜んでいる…そんな感覚を楽しんでいた。不穏で危うい空気感にもよく寄り添って、小説と映画とで煽り合っている…とでも言おうか。 
 その映画では、迷路のように閉ざされたホテルらしき場所で一人の女が、初めて出会ったはずの男に自分の記憶を塗り変えられていく。何度も何度も「去年、私とあなたは――」と言い聴かされ、本当にあったことだと思い込まされていく…。

 記憶の塗り変え…。あの時、本当にあったことは何だったのか? そして何が起こらなかったのか?
 たった一つの真実なんて何処にもない。そこにいた人たちの目に映る、それぞれの事実と事象があっただけ。なんとなれば本当は誰も、真実なんて必要としていないのだから。元来、記憶は不確かなもの。なのに、この世界で起こることの殆どは、曖昧で頼りないことこの上ない人の記憶にしか残らない…。
 (2006.9.8)

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恩田陸さん、『ユージニア』 再読

 真昼。涼しくもない風が徒に肌をさわる。曇りないレンズみたいな夏空を見上げると、暑気に煽られて微かに揺れる百日紅の花。
 百日紅を見ればこの作品を思い出す。残暑厳しい頃になったら…と、楽しみにしていた再読。
 『ユージジニア』、恩田陸を読みました。

 “彼女は幼い日、このブランコの上で誰かと取引をしたのだ。誰かが、ブランコを漕いでいる彼女に、おまえの何かと引き換えに世界をやるがどうだい、と彼女に話し掛けたのだ。” 139頁

 初読時の印象は…丹念に編まれた繊細なレース、或いは蜘蛛の巣。縦糸と横糸の織りなす模様の美しさに目を瞠った。その大きな蜘蛛の巣を陰から支配する美しい存在があり、見え隠れする神秘的な姿にすっかり魅了された。実際、彼女の魅力に取り憑かれた人たちに語られる少女は、奇跡のような存在だった。

 そしてこの度の再読。
 第1章の導入が、やはり巧みだと思った。女が誰かに向かって話している。どことなく気だるげで、それでいて感覚の鋭そうな女の話し方は、読んでいて微妙にこちらの神経に引っ掛かってくる。理由のわからない不安を煽られる。しかも聴き手の姿は一切出てこない。いったいこの女は誰と話しているのか…と、落ち着かない気分にさせられる。作品全体を覆う不気味なひずみの中に、ここで既に捕り込まれてしまうのだ。
 そしてまた他の誰かへと視点が移っていき、様々な角度から語られるかつての大事件とその周辺。誰が何を目的に訊ね回っているのか…?
 流石に再読なので、ぱたり、ぱたり、ぱたぱたぱた…と、随所に散りばめられた仕掛けが其処彼処で連動し、さらに大きな絡繰りへと繋がっていくさまを、少し上から見渡しているみたいな快感があった。やはりこの作品は凄い。

 何となく、敢えて音が消し去られている…という印象を受けた。ちゃんと音はあるはずだけれど。
 篠つく雨が降っているのに、それがまるで無声映画のシーンのように描かれている。潮騒を聴いている二人が本当に耳を澄ましているのは、潮騒が鎮まった後の無音に包まれた世界の静けさ…。と、そんな気がしてならない。阿鼻叫喚だった事件の場面からさえ、実は音は殆ど伝わってこない。たとえばその場にかかってきた電話すら、呼び出しの音を立てる前に注意深く受話器を取り上げられている。
 音を消し去られた世界で、忘れられない使い方をされているのが色だ。白黒の無声映画の中に、後からそこだけ色を足したよう。劇的な効果で脳裏に焼き付く、鮮やかな赤、雨にけぶっても目に飛び込む黄、ツユクサの青…。
 かつての女王は言う。子供の頃に見た、記憶の中の色だけで充分だったと…。彼女が憎んだ雑多な音は物語の中から丁寧に拭われ、現実よりももっと美しく鮮やかな色ばかりが選ばれている世界。全て、女王のお気に召すように…。

 ――世界はかつて、自分のものだった。 
 それは、何という傲慢だろう。羨望に値する傲慢だ。でもきっと彼女にとっては、誇張でも何でもない真実だったのだろう。
 かつての女王は、盲目の美少女。そして名前が、青澤緋紗子。青と、緋…。
 (2006.8.23)

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