ロバート・クーヴァー、『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』

 『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』の感想を少しばかり。

 “一流の学者にもなったし、模範的な市民にもなった。みんなから愛され、少しくらい人生を楽しんでもいいと思ったんだ。だけど、ちょっと羽を広げたというだけで、戻ってみれば "弟ピノッキオに見捨てられた悲しみのあまり……" ってことになる。” 87頁

 いやはや、すこぶる面白楽しかった! よもや、ここまで破茶滅茶とは思うめえ…。これはもう、『ピノッキオの冒険』から読んだ甲斐があったというもの。始め、相当に長いインターバル(およそ1世紀!)を置いた続篇と受けとめていたが、実際にはもっと企みの深いパロディに徹していて、可笑しいの可笑しくないのって…。ふ。
 それに、あのやんちゃな木の少年がこんな老人になっていようとは…と、少しく哀感の漂うあたり、絶妙な匙加減だった。著名なる名誉教授で、世界的な美術史学者。時代が生んだ世紀の大人物とまで称えられ…それなのに、自分は本当に幸せだったのだろうかと人生を振り返る老ピノッキオの帰郷。猥雑で皮肉で切実で、最後は泣き笑いだった…。

 数々の業績を成した老学者ピノッキオは、かつての“働き蜂の島”へと、ある信念に突き動かされてやってきた。つまり、自分のルーツに戻ることで、今取りかかっている“一大絵巻のような自叙伝”、畢生の大作の最終章を仕上げられるに違いないという思いを抱いて、懐かしい地を踏んだのだった…。
 ところが、お忍びの旅であるのが禍して、不遜で胡散臭いポーターから散々な目に遭わされることを手始めに、転げ落ちんばかりな“冒険”の渦へと、ずぶずぶ嵌り込んで抜け出せなくなっていく…。そう、それはまるで、『ピノッキオの冒険』をたどり直すようで、心落ち着く閑もない。懐かしい面々との再会は嬉しくもありながら、状況はどんどん狂騒の度合いを募らせていくばかりだ。どうする、ピノッキオ…!!

 とまあ、とても楽しんだ。とりわけ、旧友の老犬アリドーロや、その友人(友犬?)で心優しいメランぺッタと過ごす件などはとても面白かった。そのあと、エウジェーニオや元教え子が現れ、さらにさらに…(自粛)。誰かから助言される度に、ついついその逆へと突き進んでしまうところが往年のままで、それでこそ愛すべきピノッキオだ…と思ったりもした。木のあやつり人形が念願叶って人間になり、禁欲的に精進を重ね分別臭くふるまい、やがてノーベル賞まで受賞した…なんて、どれだけ“いい子”に縛られていたことだろう。
 それで結局、やっぱり青い髪の妖精さまなのだなぁ…と思った。全ての根源というか清算をつけるべき相手というか、黒幕…と言ってしまうと身も蓋もないけれど、行きつく先は妖精さまか。それはそうだよね…と、ほろり。

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カルロ・コッローディ、『ピノッキオの冒険』

 『ピノッキオの冒険』の感想を少しばかり。

 “目玉の次には、鼻ができた。が、できるとすぐ、鼻はどんどんのびはじめた。のびてのびてのびて、あっというまに途方もない長さになった。” 15頁

 子供の頃にみた映画や絵本には特に思い入れもなかったようで、大した記憶もなく、こんな話だったのか…と新鮮だった。“大人のいうことをきかない子供はひどい目にあう”とか、取ってつけたような教訓には、自分が子供だったら鼻白むばかりだと思う。兎に角何しろ、大人にとって都合の良い従順な子供(悪い友達とはつき合わないとか、親孝行で学校にちゃんと通うとかさ…)がすなわち良い子! …という意図に満ち満ちているように感じるのが、いささか窮屈だった。
 でもその一方で、思いのほか残酷なところがあったり、肝心な冒険の方はころころ状況が変わっていくし、仙女さまの存在がかなり不可解だったりして、へえええ…と意外に思う箇所が幾つもあるのは面白かった。辛うじて憶えていたクジラの胃の中での再会の場面は、そもそもクジラじゃない…のにはびっくらした。

 ピノッキオは、所謂良い子ではないだろうけれど、時々とても可愛かったよ。

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カルロス・フエンテス、『誕生日』

 何これ凄い…としか出てこない。『誕生日』の感想を少しばかり。

 “すべての驚きを手にするというこのとんでもない特権の座を、いったいどこの誰に奪うことができようか?” 10頁

 凄まじい読み応えだった。こ、これは…と呻いてしばし、茫然と言葉を失くす。目まぐるしく移り変わる悪夢めいたイメージに、すっかり憑かれていた。禍々しく妖しい部分部分には強く引き寄せられ、全体像を求めるや否や押し戻され、その揺り返しの感覚の中で幾度も立ちすくむ。だから、この不可解な物語が、不意に目の前で裁ち落とされた気がして、自分が傾いだままだった…。

 老人が座っているむき出しの部屋、理解出来ない家もしくは町の形、六角形の中庭、偽物の空、レンガで出口をふさがれた迷宮…。ぐんにゃり捩れた時空間の混濁には翻弄されたし、まるで漏れだすように“わたし”の輪郭がゆるんでいく様にも酔わされた。“扉が扉でなくなるのは…” という謎かけにも戸惑いっぱなしで、それなのに、頁を繰る手だけは止まらない…。
 覚醒と殺害の記憶は何だったのだろう。老人と青年の顔を持つ“わたし”と、猫を連れた子ども、黒衣のヌンシアの関係は何だったのだろう…。誕生と死の螺旋のこと、シゲルスの末路の挿入、宗教批判、“人生で一番望んだもの”について…。あれもこれもと考えてみても、とりとめなく拡散するばかりだが、それでも思いは尽きない。

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西崎憲さん、『飛行士と東京の雨の森』

 『飛行士と東京の雨の森』の感想を少しばかり。

 “これは少し難しかった。この写真は確かに何かを訴え掛けてくる。しかもそれはとてもよいメッセージだ。” 64頁

 とてもよかった。長さもまちまちな7篇。どこかで続く終わらぬ雨降りの音色を聴き分けようと、全身を澄ましている…と、そんな心地にさせる話もあれば、鋭く手加減のない話もあり、堪能した。とりわけ中篇の「理想的な月の写真」は、心ふるえた。

 「理想的な月の写真」は、音楽事務所を構える主人公のもとに、一風変わった実入りの良い依頼が舞い込むところから始まる。その仕事とは、自殺をした娘の為に、彼女が好きだった幾つかのものを音楽にして、CDを作って欲しいという内容だった。
 話を引き受けた“わたし”は、ごく限られた作曲の素材と、依頼人である父親から知らされた僅かな情報だけを頼りに、若くして自ら命を絶った女性の人生をたどる。その死に至るまでの魂の遍歴に少しでも迫ろうと、まずは育った土地まで足を運び、更に思惟を重ねていく。個人的な事柄は普遍へと押し広げ、想像で補い、そしてそれを音楽へと繋げていった。
 自殺者の心理を、内側から知ることは決して出来ない。でも、たとえば、『重力と恩寵』についての友人柴木との会話の件は、ぞくりと興味深かった。言葉では掬い切れないことが残ると知りつつ、言葉を連ねて思いを深める。そうやって丁寧に作り上げられた音楽を、直接に聴けないのは頗る残念だけれど。
 静かな旅のような、とても大切なことを突き詰めた淵へといざなわれるような、不思議な話だった。最後は胸が詰まった。

 他に好きだったのは、タイトルが詩のようで読む前から気になっていた表題作や、私にはソフトロックがよくわからないけれど「ソフトロック熱」。あと、設定に惹き込まれた「奴隷」は、びりっと刺すような逸品だった。

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マヌエル・プイグ、『リタ・ヘイワースの背信』

 国書刊行会、40周年記念復刊の一冊。『リタ・ヘイワースの背信』の感想を少しばかり。

 “大きな字でリタのRを書いてみよう、それにHと大きな字で、背景には大きな飾りぐしとカスタネットを描こう。でも『血と砂』では彼女はよい青年をだますんだ。” 83頁

 読み終えた今、あらためてこのタイトルの持つ意味合いが、じわり…沁み入るようにわかる。身も蓋もなく、容赦なく迫る。こよなく映画を愛した少年の綺羅の夢が、その可憐な姿が、徐々に色褪せ煤けていくのをみているのが、何よりも遣る瀬なかった。このまま殺伐とした暴力と性に、抗う術もなく埋もれていくのか。もう少し何とかならないの…と、詮無く呟く。

 トートの母親であるミタの実家での一幕から、物語は始まる。いきなり会話だけで話が進んでいく序盤がとても面白くて、ここで掴まれたなぁ…と思う。短く区切られた章立ての中で話者が変わり、人物各々のとりとめない意識の流れが克明に記される章と、日記や手紙が使われる章とがあり、コラージュのような手法は処女作で既に…と、そこも興味深かった。

 始め、ミタの赤ちゃんとして話に登場するトートは、映画に入れ込むがあまり風変わりな少年へと成長する。背が伸びなくて、買ってもらった自転車には乗れない。学力は優秀。いつも母親にくっつき、びくびくと父親を怖れる。そして、冴えない田舎町や学校でも奇妙に浮いた存在になっていく様子が、周辺の人物たちの視点から伝わってきて、なかなか痛かった。
 でも、現実が苛酷にあたるのは、トートに対してだけじゃない。彼をとり巻く人々それぞれの、幻滅や挫折や諦め、その先の妥協の人生…が、畳みかけるように折り重なっていく…。
 だから、トートの作文の内容には、もう溜め息しか出やしなかった。

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ジェイムズ・ホッグ、『悪の誘惑』

 『悪の誘惑』の感想を少しばかり。

 “この瞬間から私は、自分が福音の使者というよりはその闘士として、この世から主の敵を一掃するよう神慮によって定められたのだということが分った。” 140頁

 とても面白かった。神か、はたまた悪魔の導きか。“神に選ばれたものは決して誤ちを犯さない”という、驕慢な教義に魅入られ、数奇な人生を送ることになった男の、常軌を逸した信仰の末の転落を描く物語。おどろおどろしい怪奇を堪能したが、読み終えた後の驚愕の眩暈が一等忘れがたい。幾つかの疑問が脳裏をめぐり、世界が傾いだ。

 読み始めてしばし、編者が語る部分が思いの外長いことに気付いたが、その理由は後でわかる。舞台は17世紀のスコットランド。不信の徒の夫と、厳格な改革派の信者である妻…という不幸な結婚をした夫婦が、二人の息子に恵まれる。しかし、両親があまりにも不仲な為、兄と弟とは別々に育てられ、悉く正反対な青年に成長する。そんな二人が遂に出会ったとき、運命の歯車は、やがて起こる悲劇へ向けてごとりと大きく回りだしてしまう…。
 と、“編者が語る”第一部で、ある事件を中心にした兄弟の経緯が詳らかにされている。そしていよいよ第二部が、“罪人の告白”である。つまり、外側から読んだ話の顛末を、今度は当事者の手記としてなぞることになる。この、二通りの物語を後から照らし合わせてみるのが、素晴らしい効果で、めくるめく心地へと捕りこまれた。ほう…。

 第三部の最後の最後まで、みっちりと面白かった。常軌を逸した信仰が、それ故にこそ、魔に付けいられる話として読んでいたけれど、結局のところ…(むむむむむ)。訳者註に従って最後に読んだ序文の中の、“スコットランド的”という言葉も興味深い。

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サーデグ・ヘダーヤト、『生埋め ― ある狂人の手記より』

 7篇が収められた選集。『生埋め ― ある狂人の手記より』の感想を少しばかり。

 “「すべては過ぎ去るのだし、世界が最後の日に来たのだから、もう何に意味があるというの? 愛や月見の夜の楽しみだって同じことだわ。みんな忘れられてしまうのよ。何もかも幻よ。すべてはただの幻影だわ。」” 175頁 

 とてもよかった。想像していた速効性の毒とは違う、じわじわ効いてくる救いのない昏い作風に、いつしかひきこまれ、絡め捕られた。とり憑き纏わるような厭世感、のぞきこんで目の眩む黒い虚無の淵…。しばし、身動きすら億劫な心地で余韻に浸る。全身が気怠くて、まるで呪いだ…と思った。
 
 一話目の「幕屋の人形」。厳格な家庭で抑圧されて育った青年メヘルダードは、眼も耳も塞いだまま24歳になっていた。留学先のフランスで、己の願望を具現するマネキンに目を奪われた彼のとった行動とは…。倒錯した恋が凄くリアルというか、本当にあり得そうな話なのに感嘆した。
 二話目の「タフテ・アブーナスル」は、とても好きな話だった。遺跡の発掘調査に携る考古学者が、発見したミイラを生き返らせようとする。そのミイラと一緒に見付かった遺書の内容から、何世紀も時を隔てた女の嫉妬と情念がめらめら陽炎う様が、息を呑むほど凄絶で妖艶だった。忘れがたい。
 「捨てられた妻」は、自分を鞭打つ夫を恋い追い続ける妻の狂気に、嫌悪しつつ戦慄した話。妻の心理がこれでもかこれでもかと迫ってくる。末娘である主人公が結婚する際、実母が呪詛をかけるのだが、これが本当に嫌な感じで…。ううっ。
 表題作「生埋め」は、幾度も自殺をはかりながら何故か死ねない男の苦悩が延々語られる話で、とにかく読んでいて息苦しくなるが、目を逸らせなかった。救いのなさで、一気に読ませる。

 最後に収められた「S.G.L.L.」は、とりわけ好きだった話。飢えも渇きも、性愛も満たされ、老いに病に打克ち、およそ考えうる人の願望が叶えられた二千年後の世界で、たった一つ残された苦しみは、人生の疲労と倦怠だった…。という、アンチ・ユートピアものである。
 世界中に狂気と絶望が蔓延し、自ら滅亡しようと集団自殺の提案がされる中、ハイヤームが詠った哲学的苦悩を唱える一人の学者が、特別な血清の効力を発表し、全人類の接種を提案する。だが、事態は思わぬ方に向かってしまう…。
 死への憧れに憑かれたスーサンと、そんな彼女の気持ちを変えられず、懊悩するテッド。愛をめぐる会話も虚しく、ただ、滅びゆく二人の儚い姿だけが徒に美しい。

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『カフカ・セレクション 異形/寓意』

 『カフカ・セレクション 異形/寓意』の感想を少しばかり。

 “われわれの歌姫は、名をヨゼフィーヌという。彼女が歌うのを聴いたことのない者には、その歌の力はわからない。” 90頁

 テーマ別に括られているところが、以前から気になっていたセレクション。未読の「歌姫ヨゼフィーヌ、あるいは鼠の族」を読みたくなったので、こちらから手に取った。“異形と寓意”となっているが、読んでいるうちに、テーマは動物だったっけ…という気がしてくる。
 たった3頁の「家父の心配」は、何度読んでもとても不思議で後を曳く話だなぁ…と感じ入る。「ジャッカルとアラビア人」や「あるアカデミーへの報告」も、好きな作品。縷々犬が語り続ける「いかに私の生活は変化したことか」は、音楽犬の件でくらっとして、空中犬に至ってはぐらぐらしたけれど、変梃りんで面白かった。

 そして「歌姫ヨゼフィーヌ、あるいは鼠の族」は、すこぶる面白く興味深い話だった。
 非音楽的な鼠族の共同体の中で、ただひとり、ちゅうちゅう鳴きを美しい歌にして芸術的な域にまで高められる存在、それが歌姫ヨゼフィーヌである。素晴らしい開花、積み重ねられる経歴…。では何故、本来音楽を解さない鼠族にあって、ヨゼフィーヌの才能だけが傑出し、この一族を心服させることが出来たのか…というところに、大いなる皮肉、からくりが潜んでいる。何となれば彼ら鼠族は、無条件の心服というものをほとんど知らない。何にもましてずる賢く、底抜けに意地悪なのだから。
 ヨゼフィーヌと鼠の族と、その関係性の裏表。両者の拮抗が緻密に描かれていて、圧倒された。

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8月に読んだ本

8月の読書メーター
読んだ本の数:18冊
読んだページ数:5426ページ

▼読んだ本
無声映画のシーン無声映画のシーン
とても素晴らしかった。“母が死ぬまで大切にしまっていた”30枚の写真から、丹念に紡ぎ直された鉱山町の物語。僅かな手がかりから記憶を呼び戻し、縺れた糸をほぐし縒りを正し思い出を手繰るその筆致…だが、少し物足りないくらい恬淡としていると、始めは感じた。でも、そうして描かれた数々のエピソードがモザイクとなり繋がって、町の姿を蘇らせていく様に胸をうたれた。もうどこにもいない人々、どこにも残らぬ場所…と思えば、息を吹き返された彼らの人生の悲哀も諦念も、死も、別れも、少年の憧れも、全てがほろほろと沁みるように懐かしい
読了日:08月31日 著者:フリオ・リャマサーレス
ドナウ ある川の伝記ドナウ ある川の伝記
素晴らしい読み応え。水源から大いなる海に注ぐ川の終焉までを、寄り道を交えながら丹念にたどる、まるで小説のように味わい深く些か風変わりな紀行文だった。二つの町のドナウ源流をめぐる本家争いの章に始まり、訪れる町々の歴史をひもとき検証する。セリーヌやゲーテ、カフカ、ニーベルンクの歌、シュティフター、カネッティ…と、各々の場所に縁の文学や作家たちについて語る。と、その内容がとても心に響いて、自分がなぜ東欧の文学に魅かれるのか…という問いの答えを指し示すような文章に幾度も出会え、はっとした。またいずれ辿り直したい。
読了日:08月29日 著者:クラウディオ・マグリス
青い脂青い脂
二の句が継げなくなる場面や展開の目白押しだったが、大変に楽しんだ。ふ…。クローン作家たちのグロテスクな設定から、それらが生み出すいささか不気味に過ぎる各々のパロディ作品までの件が、私にはとても面白かった。まさにここは真骨頂なのだろうな…と思いつつ嗤い堪能した。何というか、弛んだままに蔓延る通念の悉くを裏返して見せること、破壊してしまうこと…に満ち満ちた作品ではある。しかし、どうしてここまで突き抜けてしまうの(溜息)。
読了日:08月28日 著者:ウラジーミル・ソローキン
水晶 他三篇―石さまざま (岩波文庫)水晶 他三篇―石さまざま (岩波文庫)
素晴らしかった。ちいさなものたちへ注ぐ静かな眼差しと、その中にある揺るぎない畏敬の念が伝わってきて、ふるりと心ふるえた。「水晶」は、とにかく全てが美しい…。「石灰石」の、世事にうとく、ひたすら慎ましい生活を送り続けた牧師のことが、愛おしくてならない。
読了日:08月24日 著者:シュティフター
とどめの一撃 (岩波文庫)とどめの一撃 (岩波文庫)
撃ち抜かれ言葉もなかった。カタルシスも得られぬ凄まじい悲劇だが、だからこそ人の真理の一面を衝いているのだ…と説得力があり、思わず唸る。それにしても最後の一文、一瞬殺気を覚えるほどのエリックの憎らしさと言ったらどうだ…。主人公エリックが反ボルシェヴィキ闘争を回想し、気なしな仲間たちに語ったのがこの物語である。エリックを心底軽蔑しながら虚しく愛し、身をまかせようとした娘ソフィーとの相剋。その弟コンラートへの強い愛着。懺悔でもなく嘘もない代わりに、あえて語り及ばなかった部分があるのだろう…と読後の思いは尽きない
読了日:08月22日 著者:ユルスナール
ブラウン神父の知恵 (創元推理文庫 (110-2))ブラウン神父の知恵 (創元推理文庫 (110-2))
とりわけ好きだったのは「ジョン・ブルノワの珍犯罪」。あとは「通路の人影」と「機械のあやまち」「紫の鬘」がよかった。
読了日:08月21日 著者:G.K.チェスタトン
カスティリオーネの庭 (講談社文庫)カスティリオーネの庭 (講談社文庫)
とても魅了された。布教も儘ならぬまま、乾隆帝に宮廷画家として仕え続けた宣教師カスティリオーネの、数奇でもの哀しい物語。彼が制作を命じられたのは様々な趣向の絵画に留まらず、噴水を西洋楼を、ひいては西洋庭園の設計を手がけることとなる。だが、切れっ端の如き場所に本来の庭園が実現するべくもなく、帝の偏った意向に沿う壮大な紛い物でしかない…。不可解で残酷な神のように君臨する、乾隆帝の造形が素晴らしい。西洋を憎むと同時に、カスティリオーネたちの俊才を愛でた。その遥かな消失点を見据える眼差しは、あまりにもはかり知れない
読了日:08月18日 著者:中野 美代子
ブリギッタ・森の泉 他1篇 (岩波文庫)ブリギッタ・森の泉 他1篇 (岩波文庫)
とてもよかった。あまりにも清らか過ぎる…とまでも思ったのに、心の弦を優しくかき鳴らされて、その音色だけでもう満たされてしまった。ありふれた白さになど気持ちは露も動かない。どこまでも気高く、ただ真実の愛のみを望み坦々と生きる人たちの姿が、美しくも峻烈な自然の中でここまで突き詰めて描かれている…ということに、感歎した。そして、世俗の汚れたもの一切を斥ける作風に、少し胸が疼く。至純なものだけを希求してやまなかった、そんな詩人の魂について、思いを馳せずにはいられない。貴くて儚くて稀な、宝物のような魂…。訳文も素敵
読了日:08月16日 著者:シュティフター
オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)オウィディウス 変身物語〈下〉 (岩波文庫)
変身というテーマにこだわりつつ、トロイア戦争からローマ建国にまで話が繋がっていく様に圧倒された。とりあえずは、大変に満足(しかし覚えきれない…)。下巻に入っているのは、オルフェウスの死、ミダス王の出てくるエピソード(驢馬の耳)、ウェヌスとアドニス、ピュグマリオン、アキレウスの死、などなどなど。あの話がここに!という愉しさも。
読了日:08月15日 著者:オウィディウス
瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集
おおお面白かった。あり得ないイメージめくるめくシュールな展開、なんてまあ変梃りんなことよ…と。テーマ捕りと知り合った語り手が、自分を登場人物に…と申し出る「しおり」。表題作は恋愛における男女の心理を、風変わりな方法で描く。文字通り、瞳孔の中へと入っていく。着想と言いそれを文章化する技と言い、驚嘆した。アンチ・ユートピアの「支線」は、悪夢の重工業が栄える街に迷い込んだ男の話。「噛めない肘」は、人生の目的が“自分の肘を噛むこと”である男をめぐる一騒動(国家まで絡んでくる!)のグロテスクな話。嗤えて好きだったわ
読了日:08月14日 著者:シギズムンド・クルジジャノフスキイ
かめくん (河出文庫)かめくん (河出文庫)
じんわりと、とてもよかった。色んなことを考えている、かめくん。いじらしくて、勘所をくいっと掴まれた。
読了日:08月11日 著者:北野 勇作
無分別 (エクス・リブリス)無分別 (エクス・リブリス)
しばし言葉を失う。“ものを語る”ということの力と、その恐ろしさをまざと突きつけられた。何となればこの語り手は、自国の内戦を発端とするジェノサイドから生き逃れた人々が、淡々とありのままの事実を述べる言葉たちにぐるぐる巻きにされ、徐々に精神の平衡を失っていくのだから…。想像を絶して凄惨な内容の報告書を修正するのが、彼に与えられた仕事だ。冒頭で“おれの精神は正常でない”という文章に激しく揺すぶられた彼は…。妄想にとり憑かれつつ、軽薄な色恋沙汰に右往左往する姿に笑えるのが救いで、決して重いだけの読み心地ではない。
読了日:08月09日 著者:オラシオ・カステジャーノス・モヤ
ケルトの薄明 (ちくま文庫)ケルトの薄明 (ちくま文庫)
“もし美が、生れた時にわれわれを捕らえた網から逃れる出口でないとすれば、それはもう美ではないだろう。”(116頁) 初イエイツ。ケルトの哀しみの声、ケルトの憧れ。妖精の存在を信じるだけでなく、その姿を目にしたり、言葉を交わした人々の話が集められている。本当に独特で不思議な想像力だなぁ…と感じ入った。風土ありきなのだろうけれど、そう考えてもやはり不思議だ。私も神秘の森に迷い込んでみたいような、怖いような…。ぞくっと魅かれる眺め。
読了日:08月08日 著者:ウィリアム・バトラー イエイツ
うたう百物語 Strange Short Songs (幽ブックス)うたう百物語 Strange Short Songs (幽ブックス)
素晴らしい。溜め息を吐き尽した胸が軋む。怖い…と思う心の隙間を懐かしさが浸し、おぞましい…と立ちすくむ傍から愛おしさがこみ上げる。そんな百の掌篇と短歌百首。始めは掌篇に気を取られてうとり浮遊していたが、だんだん短歌の底知れなさに引き寄せられ、響き合いに感歎した。選り抜きの短歌にふれられる嬉しさも。生者と死者とあやかしとが互いを呼び合う姿は淋しげで、そんなところも好きだ。一つ一つはとても短く、伸ばした指先からするりすり抜けなかなか捕まえさせてはくれないけれど、尻尾が掠めて逆剥けた。いつまでもひりつけばよい。
読了日:08月07日 著者:佐藤弓生
オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)オウィディウス 変身物語〈上〉 (岩波文庫)
個々には見知っている変身譚や悲恋物語のあれこれが、数珠繋がりになっているのが殊のほか面白楽しい! 例えば、話の要の部分は知っていても、その前後に連なる因果について知らずにいたり、どこかで読んだはずなのにすぽっと忘れていたりするものだなぁ…と思った(また覚えきれないけれど)。そして数珠繋がりとは言え話が移る時にその話者も替わったり、そこにまた誰かが余興に語った話…という入れ子のエピソードもあったりで、時系列にも変化がある。カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』からの流れなので、なるほどおおお…と頷くことが多い
読了日:08月06日 著者:オウィディウス
黒死荘の殺人 (創元推理文庫)黒死荘の殺人 (創元推理文庫)
ふふふ、面白かった。ヘンリ・メリヴェール卿が好きですわん。
読了日:08月04日 著者:カーター・ディクスン
ウォルター・スコット邸訪問記 (岩波文庫)ウォルター・スコット邸訪問記 (岩波文庫)
本人にとっての至福の日々を回想する文章は、幸せな気持ちが伝わってくるほどに、少しだけ胸がきゅんとする。スコットへ寄せる思慕の深さ、薄れていってしまう記憶への愛惜…。まず最初の章で、著者がスコット邸の前で馬車を止めて紹介状と名刺を届けさせると、すぐに屋敷の主人スコットが姿を現し、一旦去ろうとする著者を強引に朝食に誘いつつ邸内に招き入れ、しばし会話を交わすうちに数日間の滞在が決まってしまった…という展開。何なのこの時間の使い方の素敵に気儘な贅沢さ…と、惚れ惚れした次第。スコットの人柄がしみじみといい。
読了日:08月02日 著者:W. アーヴィング
湖の麗人 (岩波文庫)湖の麗人 (岩波文庫)
とても素晴らしかった。陶然たる余韻。あくがれる魂が遥かな時を超え、古の蘇格蘭まで彷徨っていく心地は格別だった。心昂るがままに言葉が湧き出でた即興歌の豊かな詩情を味わいつつ、竪琴の旋律をうとり…想像しながら隅々まで堪能した。歌を愛する人々の物語。角笛の響く湖上、銀の波間に落ちる月、ヒースが靡くもの寂しい山腹、エニシダの叢、岩また岩の荒野原…という、峨々たる稜線に囲まれた風土の、峻烈な美しさも忘れがたい。血腥い戦や男たちの争いを描く昏い色調の中、“湖の麗人”エレンの花のような可憐さが白く際立っていて感嘆した。
読了日:08月01日 著者:スコット

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フレッド・ヴァルガス、『彼の個人的な運命』

 『彼の個人的な運命』の感想を少しばかり。

 “「わかってる。どうもその男は近づく人間に混乱を感染させるらしい」” 54頁

 ふふふ、これも面白楽しかった! 三聖人たちそれぞれ、本当に好きだなぁ…。とにかく彼らは、会話のセンスが尋常でない。それに、いかなる時でも自分の専門である時代の淵に片足突っこんだまま抜こうとせず(そんな必要感じてないw)、残る一方の片足もちゃんと地に着いてない…みたいな、そんなところが好き過ぎる。
 さらにこの話では、元内務省調査員のルイが、友人で元売春婦のマルトに持ち込まれた厄介事の所為で、落ち着きを失くして調子を狂わせてるのがおかしかった。思いっきり飛躍して着地する(ルイが受け付けないくらい)、リュシオンの見せ場はお気に入りの一つ。…個人的に。
 老ヴァンドスレールのグラタン食びたいよう…。

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