恩田陸さん、『ユージニア』 再読

 真昼。涼しくもない風が徒に肌をさわる。曇りないレンズみたいな夏空を見上げると、暑気に煽られて微かに揺れる百日紅の花。
 百日紅を見ればこの作品を思い出す。残暑厳しい頃になったら…と、楽しみにしていた再読。
 『ユージジニア』、恩田陸を読みました。

 “彼女は幼い日、このブランコの上で誰かと取引をしたのだ。誰かが、ブランコを漕いでいる彼女に、おまえの何かと引き換えに世界をやるがどうだい、と彼女に話し掛けたのだ。” 139頁

 初読時の印象は…丹念に編まれた繊細なレース、或いは蜘蛛の巣。縦糸と横糸の織りなす模様の美しさに目を瞠った。その大きな蜘蛛の巣を陰から支配する美しい存在があり、見え隠れする神秘的な姿にすっかり魅了された。実際、彼女の魅力に取り憑かれた人たちに語られる少女は、奇跡のような存在だった。

 そしてこの度の再読。
 第1章の導入が、やはり巧みだと思った。女が誰かに向かって話している。どことなく気だるげで、それでいて感覚の鋭そうな女の話し方は、読んでいて微妙にこちらの神経に引っ掛かってくる。理由のわからない不安を煽られる。しかも聴き手の姿は一切出てこない。いったいこの女は誰と話しているのか…と、落ち着かない気分にさせられる。作品全体を覆う不気味なひずみの中に、ここで既に捕り込まれてしまうのだ。
 そしてまた他の誰かへと視点が移っていき、様々な角度から語られるかつての大事件とその周辺。誰が何を目的に訊ね回っているのか…?
 流石に再読なので、ぱたり、ぱたり、ぱたぱたぱた…と、随所に散りばめられた仕掛けが其処彼処で連動し、さらに大きな絡繰りへと繋がっていくさまを、少し上から見渡しているみたいな快感があった。やはりこの作品は凄い。

 何となく、敢えて音が消し去られている…という印象を受けた。ちゃんと音はあるはずだけれど。
 篠つく雨が降っているのに、それがまるで無声映画のシーンのように描かれている。潮騒を聴いている二人が本当に耳を澄ましているのは、潮騒が鎮まった後の無音に包まれた世界の静けさ…。と、そんな気がしてならない。阿鼻叫喚だった事件の場面からさえ、実は音は殆ど伝わってこない。たとえばその場にかかってきた電話すら、呼び出しの音を立てる前に注意深く受話器を取り上げられている。
 音を消し去られた世界で、忘れられない使い方をされているのが色だ。白黒の無声映画の中に、後からそこだけ色を足したよう。劇的な効果で脳裏に焼き付く、鮮やかな赤、雨にけぶっても目に飛び込む黄、ツユクサの青…。
 かつての女王は言う。子供の頃に見た、記憶の中の色だけで充分だったと…。彼女が憎んだ雑多な音は物語の中から丁寧に拭われ、現実よりももっと美しく鮮やかな色ばかりが選ばれている世界。全て、女王のお気に召すように…。

 ――世界はかつて、自分のものだった。 
 それは、何という傲慢だろう。羨望に値する傲慢だ。でもきっと彼女にとっては、誇張でも何でもない真実だったのだろう。
 かつての女王は、盲目の美少女。そして名前が、青澤緋紗子。青と、緋…。
 (2006.8.23)

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