中野美代子さん、『奇譚十五夜 眠る石』

 “眠る石”とは、廃墟の石のこと。いにしえに滅んだ王国の、石の建造物たちのこと。
 中野美代子さんの短篇集。ほんの少しずつ極上の甘味美味を、ついばんだような気分です。ひとつひとつの物語はとても短く、悠久のまどろみの中にある石たちの夢のあぶくのように、束の間浮かんではかき消えてしまうのでした…。  

 『奇譚十五夜 眠る石』、中野美代子を読みました。
 

〔 一千番目の石像と化した王女、韃靼人の文字が密かに描き込まれた聖画、最前景に異形の物体が浮遊する肖像画、“死の塔”の最初の受難者…など、七世紀のタクラマカン沙漠から二十世紀のカンボジアまでの時空間に、寺院・礼拝堂・回廊・草庵の建築。絵画縁起を基軸にして、地名への偏執を死への親和性によって編みあげられた、摩訶不思議な、十五の夢幻の物語。 〕

 収められているのは、「ロロ・ジョングラン寺院」「スクロヴェーニ礼拝堂」「楼蘭東北仏塔」「ボロブドゥール円壇」「ビビ・ハヌム廟」「泉州蕃仏寺」「ウェストミンスター・アベイ」「シャトー・ド・ポリシー」「龍門石窟奉先寺」「カリヤーンの塔」「アンコール・ワット第一回廊」「ベゼクリク千仏洞」「晋江摩尼教草庵」「ザナドゥー夢幻閣」「プリヤ・カン寺院」、の15篇。
 すでにこの目次がすべてを語る…。跋によればこの物語たちは、中野さんの“地名への偏執の所産”なのだそうです。なるほど。
 私は幻想文学が好きなので、幻想譚として楽しみました。一つ一つはばらばらな物語だけれども、“眠る石”によって数珠つながりになった幻想譚。でも、地誌や歴史への好奇心も、巧みにくすぐってくる作品だと思います。

 “第一夜”の「ロロ・ジョングラン寺院」の冒頭は、まるで私の好きな残酷な童話が始まりそうな妖しい気配が漂っていて、く~っと惹き込まれてしまったのですが、本当に好みな逸品でした。

〔 王女は、しかし、マタラム王国から略奪してきた奴隷のひとりと道ならぬ恋に陥ちていた。王女の閨房は、石造りの王宮の二階にあった。月の出ない夜、王女は閨房の小さな窓から綱を垂らす。奴隷はその綱をたどり、石壁をつたって王女の閨にしのびこむ。鶏鳴が昧爽を告げるまでのつかのまの逢瀬に、ふたりは愛を貪った。 〕 11頁「ロロ・ジョングラン寺院」

 他に、“第三夜”の「楼蘭東北仏塔」は、実は語り手が玄奘さんなのですが、最後まで読むと…! ラストで痺れてしまいました。こういうラスト、私は大好きだ~。
 “第八夜”の「シャトー・ド・ポリシー」には、だまし絵でも有名なハンス・ホルバインの「大使たち」という絵画が出てきます。これ…、だまし絵が隠されていることの使い方が素晴らしくて、最後までどきどきしながら読んでいました。
 でも、考えてみるとこの髑髏のだまし絵は、この一冊に収められた15夜分の物語すべてに隠されている…と言うことも出来ます。死の気配はどの物語にも濃厚でした。そして最後に残るのは、“眠る石”ばかりなり…。

 遺跡等の写真も見られますし、一話毎の扉絵もとても美しく、文庫本サイズなのがちょっと残念でした。

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多和田葉子さん、『きつね月』

 たぷん…とぷん…と、まろやかなお湯にくるまれながら、一人で声に出して読んでみる。そこに紡がれた言葉たちを、湯気の向こうへとはなってみる。
 自分の口からこぼれてくる思いがけない響きに、全身を澄まして耳を傾けて、ゆだりそうになりつつうっとりすること。響きの連なりがいつしか物語を編みだすから、心は彷徨い小さな旅をする。湯舟の中、漕ぎいだす小舟…。
 多和田さんの作品は音読が楽しいです。自分の好きな小品は、ちゃんと音を味わいたくなります。

 そしてこのタイトルが好き。
 『きつね月』、多和田葉子を読みました。
 

 収められているのは、「鏡像」「たぶららさ」「遺伝子」「詩人が息をしている」「電車の中で読書する人々」「ねつきみ」「ギターをこする」「辞書の村」「魔除け」「有名人」「かける」「船旅」「台所」「シャーマンのいる村」「乙という町」「ハイウェイ」「オレンジ園にて」「舌の舞踊」、の18篇です。

 多和田さんの作品は、つい先日『旅をする裸の眼』を読んだばかりですが、どうにも後をひいてしまいました。全然違う味わいの短篇集だったので、それも嬉しくて堪能しました。小説というよりはむしろ散文詩のような、かなり短い作品も収められています。
 どの作品も好きでしたが、「その一 鏡像」ですっかり浮き立ってしまいました。

〔 泳ぐことは誰にでもできますが、溺れることができるのは、水にかたちがないことを知っている人だけです。
 溺れることができるのは、身体にかたちがないことを知っている人だけです。
 溺れることができるのは、読書する人だけです。水と身体にかたちがないことは本にしか出ていないのです。
 経典は水の中に沈んでいます。 〕 18頁「鏡像」

 ここに揃った作品の中には、初めから日本語で書かれたものと、ドイツ語から日本語になおされたものとがあり、区別のつかない様に並べられています。「ふむふむ、これなんてドイツ語っぽいのでは…?」なんて、根拠の弱い推測などしながら読んでみるのもまた面白いです。

 多和田さんの作品については、“異化”という言葉が一つのキーワードになっているようですが、ふうむ異化…、日常語の異化…言語間の…イカ…。 
 一応それなりに意味はわかるものの、私に使いこなせるキーワードではないので、この際難しいことはおいておいて…。
 あれやこれやのしがらみを脱ぎ捨てた言葉たちの、何と生々しく何と匂いやかなことでしょうか。カタカタと歌ったりサワサワとさざめいたり、ピョン!と何処かへはね返ったり。その読み心地はまるで、二度と同じ模様にならない万華鏡をのぞいているみたいです。

〔 字が読みやすい手紙は配達する気になれないのだそうだ。今どき、ここまで自分の信念を貫くことのできる人がいるというのは、嬉しいことだ。汚い靴下の方が、アイロンをかけていない手紙よりは、ありがたいと思うのが人情だが、遊びが中心となった感謝の社会では、そういう常識も少しずつ変わってきている。アイロンは、やさしく炎に接吻する。じゅっと脅すように迫ってくる熱気も、管理人のいない部屋の中では、誰にも邪魔されずに、自分だけの音楽を聴くことができる。 〕 42頁「遺伝子」

 「電車の中で読書する人々」は、是非とも電車の中で思い出したい内容でした。今度電車に乗ったら、まわりを見まわしてみよう…。

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麺喰いの日々 その11 (つるてん生楽、しゅはり…)

1月27日、日曜日。晴れ。
 寒い…。冬ごもりをしたくなるような日々が続く。雪こそ降らないものの。 
 家でぬくぬく冬ごもり。たまにはそんな日があってもいいような気がする、すっごくする。だらくぅ。

 話は変わりますが。だんだん無茶な呑み方はしなくなってきたので、ひどい宿酔いというのもだんだんなくなってきました。でも、軽い宿酔いとは縁が切れることはありません。…何だかな。
 今日も今日とて、朝起きた直後には自覚症状がなかったのに、意識が明瞭になってくるのと同時に頭がいたい…。昨夜は久しぶりに福島で焼肉をいただき(焼肉そのものじゃなくて夜の焼肉が久しぶり)、二軒目のおでんやで熱燗でしたの(冬はこれこれ)。 

 そんな訳で、今日のランチはどうしましょ~?と話していたらだーさんが「蕎麦が食べたいなぁ」とのたまいました。ぐらぐら気味な私には、お蕎麦はとても宿酔いにふさわしき選択に思えたのでした(あの粋な軽妙さが)。
 さっそく我が家のグルメムックを引っ張り出し、さくさくと決まったお店は…。

 元町にあります、「つるてん生楽」というお店でっす。
 元町方面はいつにも増して人出が多く、賑わっているようでした。お店への道順は、南京町へ入って横道に入ってすぐ。
 暖簾をくぐり店内へ足を踏みいれ、「ん?満席?」と思うひまもなく「お二階へどうぞ~」と声がかかりましたので二階へ。
 一階とはうって変わって静かなお二階。 

 「“おかめ”って何だっけ?」と言いつつ、だーさんは“おかめ”。  上にのせるいくつかの具材を、おかめさんの顔に見立てたことから“おかめ”と呼ばれるようになった…というのは、ただの通説なのかな?

 私のは、“天ぷらおろし”の温かいのです。お蕎麦屋さんに入ると割合高い確率で、天ぷらが欲しくなります。普段、揚げ物って頂かないし。
 衣がサクサク。お蕎麦もつゆも美味しかったですよん。

 こちらのお店、一番人気があるのは“ぶっかけ”なのですって。ふうむ。私の出身地愛知では、“ぶっかけ”は認知度が低かったような気がします。名前だけは知ってても、「で、“ぶっかけ”って要するにどんなの?」という人もいると思います(だーさんもそうでした)。ま、愛知も特殊らしいから…(地元の人は自覚してないけれど)。
 そう言えば引っ越してきたばかりの頃は、“ぶっかけ”と“ぼっかけ”は同じものなのかと思っていました。

 〆のお楽しみと言えば蕎麦湯ですが、こちらのお店の蕎麦湯は今まで頂いた中でも、飛びぬけてさらさらなので吃驚しました。私もだーさんも蕎麦湯はどろどろ派で、どろどろであればどろどろであるほど嬉しい…くらいなので、残念でした。うぬーん。

 えっとついでに、昨日のお店。
 3回目の「しゅはり」でっす。
 お目当てはこれ! 冬季限定の“大人の灘潮らあめん”でした。ずばり、粕汁風の一杯です。  灘の酒蔵から、搾りきっていない酒粕をわけてもらって作っているというこだわりの一杯、美味しくないわけがないっ。これで身も心も温まりました。

 大好きな平打ち麺と、大好きなシャケ♪

 さらにさらについでに、昨夜の画像をば。 
 福島の「匠味屋」というお店です。小洒落ていましたけれど、飲み放題があるのが素晴らしかったです(え、どこでもありますか?)。
 

 ホルモンの盛り合わせ。
 メニューを見ながら「赤センマイって何?」と思ったのですが、ギアラのことなのね。ギアラならわかります、真ん中がギアラでした。あとはミノ?シマチョウ? わからない…。

 二軒目のおでんやさんで、エイひれなど頂きました。
 酒の肴は、親父趣味全開が正解ですな。

 このような結果の宿酔いなのでした。生中2、焼酎ロック…熱燗…。

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多和田葉子さん、『旅をする裸の眼』

 いつのまにか、本当にいつのまにか、迷子になる夢を見なくなったなぁ…。
 それは迷子になると言うか、間違えようもないはずの道を辿っているのに、歩けども歩けども家にたどり着けない…とか。自分の家が見えてくるはずの角を曲がったのに、全く見知らない家並みの中で一人立ち竦んでいた…とか。そういう夢を、昔はよく見た。悪夢と呼ぶのは大げさだけれど、そこで味わう不安やあせりは目が覚めてもまだ肌に沁みついていて、見たくない夢のパターンではあった。
 この作品の中にある何かが、そんな遠い記憶の紐をずるずると解いてしまったらしい。ひどく視覚的な多和田さんの作品世界には、夢の中を流れていく景色の断片をつなぎ合わせたような、摑み所のない印象が私にはあるので、それもむべなるかな…と思いつつ。

 エッセイなのかと勝手に思い込んでいました…。
 『旅をする裸の眼』、多和田葉子を読みました。
 

 もしやカトリーヌ・ドヌーヴの映画を観たことがない私には、わかり辛い内容なのかな…という心配もしつつ、けれども読みだしてしまえばすぐに、誰にも似ていない語り口の物語にひきよせられておりました。
 この作品の中で主人公が、“あなた”と語りかけているカトリーヌ・ドヌーヴは、たぶん実在のカトリーヌ・ドヌーヴとは何ら関係のない漠然とした象徴になってしまっているのですし(作中、ドヌーヴという名前は出てきません)。彼女の出てくる映画ですら、主人公の眼を通して語られ始めるとともに、実際のものとは違う別物に塗りかえられていくのでしょうから。それでいてそれらは、ひどく魅力的でしたが(映画の方も観たくなりました)。

 でも…。あっ気なく拉致されてしまった主人公がその後、自分の置かれた状況がどんどん寄る辺ない方向へ押し流されていくことすら、どことなくうわの空のように受け入れていく様子に、あの迷子の夢の中で覚えたような不安感を煽られずにはいられませんでした。本当にどうしても帰りたいならば、ちゃんと何とかなるのでは…?というもどかしさを噛んでいるうちにだんだん、結局この人は、流離うべくして流離っているのかと、潜在意識がさすらいたがっているのか…と、思えてくるのでした。 
 そしてそれは、“わたし”がスクリーンに映された“あなた”に自分を重ね合わせようとすることの作用で、更に強められていった衝動かも知れません。言語もわからない国に住んで、故郷の国への帰属感すら失っていった主人公にはもう、カトリーヌ・ドヌーヴの映画を追うことだけが、確かな世界とのつながりを確かめる手段になってしまったのだから。

 主人公のいる現実と映画の中の世界が、だんだんねじれ合わさっていくような構造には、とても読み応えがあります。一筋縄ではいかない面白さ、でしょうか。
 それにしても多和田さんの作品って、感想が書き難いです。何だか尻切れ蜻蛉ですが今宵はこの辺で…。  

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ドリス・レッシング、『破壊者ベンの誕生』

 先日、近所の本やさんでこの本を見かけて、この表紙には見覚えがあるぞ…と、手に取っていました。そしてそこには、“祝!ノーベル文学賞受賞”の文字と、著者近影が。そうか、この作家の作品だったのか…(疎いな)。去年、ノーベル文学賞の話題で知り、いつか読んでみたいと思っていたのにころりと忘れていました。ま、結局こうやって出会えたからいっか…。

 『破壊者ベンの誕生』、ドリス・レッシングを読みました。
 

 な、なるほど黙示録か…。
 一体全体これはどういった寓話なの…?何か教訓はあるの…?と、途方に暮れそうになりながら読んでいました。いや、話そのものは面白かったです。荒々しい理不尽な力を持つ、まっ黒な童話のようでもありました。

 まず登場するのは、若きハリエットとデイヴィッドの二人です。ここで個人的に言わせてもらうと、“人の幸せは明るく賑やかな家庭を築くこと、これっきゃない!目指せ大家族!”的なこの二人、自分のそばにいたらその独善ぶりはかなりうざそうなので、お付き合いは遠慮させていただきたい…です。何か…融通のきかない野暮ったい真面目さを感じます。
 実直な二人は実直な恋に落ち、お互いの人生を重ね合わせた青写真を思い描くのですが、これが途中までは、本人たちがご満悦になるほど順調に現実のものとなっていくわけです。 

 でも。そんな順風満帆がいつまでも続くはずはなく。
 何だかそもそも、父親の援助を受けて分不相応な大きな家を手に入れておいて、あなたたちって無計画…?と呆れるほどの子作りをしているあたり、あまり同情の余地がないのですが、五人目に生まれてくる三男ベンの存在で、その絵に描いたような幸せ家族が、ずんずんと崩壊へ向いつきすすんで行くこととなるのであります。
 この、ベンという子供、母親の胎内にいる段階からすでに怪物のように描かれていて、さらに生まれてくるとまさに怪物そのもの!という、とことん容赦ない筆にも驚かされてしまいました。本当にシュールです。
 そして、そんなベンの異形とともに異様に浮かび上がってくるのが、母親であるハリエット自身の存在が、他の家族や親戚たちから、“怪物を産んだ女=諸悪の根源”のように見なされていく、ということです。これには流石に同性として、酷い…と思いつつ読んでいました。でも、ここからがこの作品の凄いところかも知れないです。ハリエットが、母親としての義務感に真面目過ぎて、愛してもいないベンの所為でだんだん孤立していくところとか、読んでいて何だかうそ寒い気持ちになります。 

 登場人物がまあまあ多かったわりに、その大半が夫婦を中心とした親戚関係で占められているところも、まるで昔の閉塞した村社会の縮図みたいで、読んでいて何となく息苦しかったです。階級社会のイギリスにおいて階級差のある結婚だったことも、皮肉がピリッと効いていましたし。

 それにしても、ベンって何者だったのでしょう…。と、途方に暮れちゃうこと請け合いの一冊です。

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皆川博子さん、『鳥少年』『乱世玉響 ――蓮如と女たち』

 心ゆくまで存分に、皆川ワールドに溺れていました。ずぶずぶずぶ…。
 古本で入手したおとっときの二冊を、ええい!とたて続けに読んでしまったわけです。好きな作家の本を読んだ時、「本当はこの一冊だけでは物足りないなぁ…もっとこの世界に浸っていたいなぁ、もっと…!」と思うことがあります。今回はそんな気分の勢いに、素直に乗りました。

 単行本に未収録になっていた70~80年代の作品を収めた短篇集と、91年に発行された時代ものの長篇という組み合わせで、図らずも、皆川さんの作風の幅広さや多彩さを堪能する結果と相なりました。今と昔を縦横無尽にかけめぐるその文章の、イメージ豊かなことと言ったら…! うっとり。

 『鳥少年』と『乱世玉響 ――蓮如と女たち』、皆川博子を読みました。
 

 「火焔樹の下で」「卵」「血浴み」「指」「黒蝶」「密室遊戯」「坩堝」「サイレント・ナイト」「魔女」「緑金譜」「滝姫」「ゆびきり」「鳥少年」、の13篇。この一冊は装画も大好きです。装丁と言うか、レイアウトなんぞも素敵です。北見隆さんの装丁は、本当に小説の世界と響き合うような色調があって見惚れてしまいます。いいなぁ…。 

 収められている作品群は、皆川さんの短篇の中では割と情念ものっぽい作品が多いような印象でしたが、皆川さんの手にかかればやっぱり、妖しい狂気をまとった小昏い蠱惑のめくるめく世界が、そこに描き出されているのでした。 
  私が好きだったのは「火焔樹の下で」や「密室遊戯」、後は美文調に酔える「ゆびきり」とか。特に「火焔樹の下で」は、精神病院を舞台にして、一人の男性が受け取り続けた書簡だけで進んでいく話なのですが、じわじわ~っと誰かの狂気が炙りだされていくのだけれども、真相がなかなかわからない…という書き方が、なんとも巧みな逸品でした。 

 でも実はこの本は、解説で…。
 『聖女の島』を書いた頃の皆川さんがかつての編集者に、「書きたいことは書くな」と言われていた話にも触れられていて、すっごく憤りが込みあげてくるのでした。ぐるる…。

 そして二冊目。
 
〔 室町時代に真宗王国を築き、権勢を振るった本願寺の法主、蓮如は5人の妻に、27人の子を産ませた。本書は後に足利義政の側室となる娘、万寿の目を通して、産み疲れて死んだ母への憐憫、教線をひろげるためにわが子を利用する父への不信・憎悪を凄絶に描く。書き下ろし長編歴史小説。 〕

 す、凄かったです。まさしく凄絶。ところどころ鬼気迫るものがありました。でも他ならぬそれこそが、夢中で読ませてくれたのでしょう。
 “襤褸(らんる)”という言葉がときどき出てきたのですが私は、主人公万寿が、十人の子を産んで産み疲れて(!)死んだ母親のことを、“男、即ち、父によって、母は襤褸となった”と思うところで、おぞぞぞ~っと総毛立ちました。未だかつて“襤褸”という言葉が、こんなに怖く見えたことはありません(皆川さんの言葉の選び方には容赦ありません)。 
 女の体を襤褸にする、絶倫男の我執っていったい…! 産み疲れて死んだ妻が四人って…!

 そう言えば、初めてこの本を手にしたときには、この表紙の絵が私には少し怖かったのですが、この凄まじい物語を読み終えた今ではしっくり来ます。堕ちてゆく少女の姿に、万寿や乙女が重なります。   

〔 乱世を生きざるを得なかった少女に視点をおいて、この物語は紡がれました。 
 大人の傀儡であることを拒否し、時代に流されることを潔癖に拒む少女に、蓮如との娘という枷を嵌めました。 〕 あとがきより



 年末に出た「このミス」、ぱらぱらっとめくってから皆川さんのページだけ立ち読みをしました。読めば哀しくなってしまう内容ですけれど、その中で、“歴史小説を書かされていた時、楽しんで書いたのは『妖桜記』と『花闇』だけです”というようなことが書かれていて、切なさで胸がぎゅっとなりました。
 私は『妖桜記』と『花闇』が大好きですが、この『乱世玉響』も素晴らしいと思います。でも、言っても詮無いことですが、皆川さんがずっと書きたいものだけを書かれていたなら…と、どうしても考えてしまいます。

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桜庭一樹さん、『少女には向かない職業』

 一気にざくざく読めてしまいました。桜庭さんの作品を読むのはこれで3作目です。

 金曜日に読み終えた作品なので、報告程度ですが。
 『少女には向かない職業』、桜庭一樹を読みました。
 

 ラストで思わず、うぎゃ…と呻いてしまった作品です。主人公と一緒に脱力して、がっくりと膝をつきそうでした。でも読んでいる間はぐんぐんと、まるで何かに背中を押されているように前のめり気味になって文字を追っていました。
 桜庭さんの文章にはやや荒削りなところがあるかも知れませんが、それを補って余りあるほどの、「この物語を書くんだ!」という心向きの強さが作品全体に満ちているように感じます。何か…きっと少女たちがいるのと同じような崖っぷちでこの物語を書いていたんだろうなぁ…と思わせてくれる強さが、その読み応えの中にあったから。『私の男』もそうでした。

 限界まで追いつめられた少女たちの心が、一矢報いんとて精一杯の牙を剥く姿に、ずきっとくるものがありました。子供であり少女であることの無力さは、痛いほどにわかるよ…と。 
 もう2度と決して、相手が大人であるというただそれだけの理由で、尊敬出来ない誰かの命令をきかされることはないのだと思うと、暗い喜びを感じるくらい…私もまた、自分の無力さを憎んで地団駄踏んでいた少女だったから。

 ちょっと個人的に残念だったのは、私が所謂ゲームというものを一切したことがなく、だから主人公葵がゲームに夢中になっていることに、共感はおろか理解も出来なかったことでしょうか。ゲームの話がイヤな訳ではなくてただどうしても、ちんぷんかんぷんになっちゃうのですよ。“バトルモード”とか、おおよその意味はわかるけれど、肝心なところでゲーム用語みたいなのが出てくるのはちと辛かったです。
 章のタイトルがちょっと可笑しくて、そういうバランス感覚も好きでした。物語の主旋律はシリアスなのに、ちょっとしたところでクスッと笑える。どうして静香はゴスロリなんだろう…とか。

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雨のドライブ、そして芦屋の「漁師屋らーめん」

1月2日、日曜日。出かけてみたら、雨が降りだした。雨が冷たかったよ…。

 昨夜はだーさんと、近くのお店で呑みました。ビールと熱燗。そして帰り道ではしゃぎ過ぎたと言うか何と言うか(追いかけっこした…)。帰宅後もじたばたしていたような記憶がありますが、それで今朝は寝坊です。やでやで。

 実は昨日は、まず夕方からお芝居を観たのでした。阪神・淡路大震災をモチーフにしたお芝居ですが、声をかけてくださったのは「趣味は読書。」でお付き合いをさせていただいている方でした。つまり、昨日が初対面で…。ほんの一寸の挨拶しかしなかったのが、今思い返すと勿体ないことをしたなぁ…という感じです。でも、面映ゆかったのです。
 で、そのお芝居の方はと言えば、切々とした想いの伝わってくる素晴らしい内容でした。ううむ、私はお芝居の事がよくわからないですが、演出とかも面白かったです。阪神間に住むことになったのも何かの縁だと思うので、観られてよかったです。
 当り前な日常の繰り返しが、愛おしくて仕方なくなるようなお芝居でした。昨夜はしゃぎ過ぎたのは、その所為だったのでしょうかね…。


 それで今日は、ゆっくり目の出発となりました。車で目指したのは伊丹市のらーめんや…でしたが、振られました(ふっ)。道を戻りがてらにお店を探してみましたあげく、とうとう芦屋に帰ってきてしまったのでした。ぐる~りとドライブをして二時も過ぎてから、やっと近場のお店でお昼ごはんです。そんな日もあるさ。

 そこは、「漁師屋らーめん」。 
  だーさんが頼んだのが、店名そのままの“漁師屋らーめん”です。  白菜かと思いきや、キャベツが入っていました。 

 私が頼んだのは、“魚潮らーめん”。久しぶりに塩らーめんが頂けて、なかなか嬉しかったのでした。
 でもオキアミって、あまり香らないですね…残念。

 つくねが美味しかったです。あと、麺が私好みでした。   だーさんのらーめんとは麺が違いましたよ。
 だーさんのコメントは辛口でした。曰く、「惜しい!」。


 くだんの実家から届いた菜の花を茹でたら、青木玉さん『幸田文の箪笥の引き出し』の中の「すがれの菜の花」が読みたくなり、がさごそと探してしまいました。

〔 「菜の花の健康優良児か」
 お腹を捩って涙がこぼれるほど母は笑った。
 確かに見れば見るほど茎は太く、葉はもり上って、花は花弁の一つ一つに力がみなぎっている、天晴れな菜の花であった。立ち上って着物を体にまといつけて母はにこにこしてこっちを見た。
 「人の着てない着物だね。これを着る時は、前の晩にしっかり御飯たべて、よく寝ることにしよう」 〕  

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福永武彦、『塔』

 初めて読んだ福永作品は『忘却の河』でした。その時の記事を見てみたら、全集を図書館で借りたけれど手を付けられずに返却した…とあります。ああ、そう言えばそうだった…。
 その際に一番読んでみたかった作品と言うのが、この作品集の表題作なのでした。この度手にしたのは、古本の文庫本です。 

 『塔』、福永武彦を読みました。


 一歩一歩踏みしめるように、端正な詩のような文章を丁寧にたどる。心の水面を静かにして、どこへいざなわれていくのかと秘かにあやぶみながら…。
 けれど、いざなう場所などこの地上にはないと言わんばかりに、だんだんに色を失う景色の中から現われてくるのは、絶望の淵だけだ。諦めてのぞきこむ、すると、暗澹たる水底から冷たく見つめ返す虚無のまなざし、蒼ざめた顔。背筋が凍てつき、動きは差し止められてしまう。そしていつしか私はただ、沈むまなざしに魅入られているのだった。 
 いや、そこにあったのは本当は、絶望と呼ぶべきものではないかも知れない。絶望の顔ならば、もっと醜いのかも…。

 私が読んでみたかった表題作「塔」は、実際に読んでみるとこの作品集の中では異色ですが、まるで幻想文学のような作風でとても好きでした。冒頭から完全に引き込まれ、気持ちがぴたりと“僕”に寄り添ってしまって、息も吐けないような完璧な作品世界にのまれてしまっていたようです。

 “僕は塔の中にいた。塔は一つの記憶だった”。七つの鍵にすべての希望を託し、未知を解く情熱に身を委ねた“僕”。その前に開かれた扉の向こうに待っていた、塔の遍歴が“僕”にもたらしたもの、それは…。
 豊潤な語彙に繰り広がられていくイメージの連なりにうっとり溺れかけながら、最後には足を取られ引き摺り下ろされ、本当に溺れてしまう。そんなラストに愕然とする作品でした。それでいてやはり美しい。“僕”をおそった恐怖の肌触りには抗えなく、未だに魅了されています。 あの、迫って来るような筆致!

 福永作品の魅力…。私はまだ二冊しか読んでいないので何とも言い難いですが。 
 物語の流れはいつも、哀しい…虚しい…どうにもならない…すくいの見いだせない…そんな場所にたどり着くばかりなのに、それでも私は、そこにある哀しみがいつか希薄になって透き通ったら、どんどん透き通っていったなら、最後にはその向こうに何か美しいものを見つけ出せるみたいな、そんな気がしてしまいます。まるで、手に届かない憧れをしつこく信じるみたく。
 なぜだろう…。どこかしら根源的なところで胸を打たれるから、そんな風に思いたくなるのでしょうか。
 「水中花」という作品がとても好きだったのです。どうしてこんなに儚い物語に心をひかれるのか…と、少し考えてみたけれど、やっぱりちゃんとした説明にはなりませんね。 


 今日は夕方にもなってから思い立ち、三宮のジュンク堂まで出かけました。前回空振った新刊を、しっかと手に入れましたよ。もえがみぶんこんふ、ふふふ…。

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マーシャ・メヘラーン、『柘榴のスープ』

 とりあえず昨日、おでんを仕込みました。だーさんが新年会だったので一晩じっくり寝かせました。
 何しろ実家から届いた野菜(農家ではありません、母の趣味です)は、青梗菜に春菊に菜の花に、太くて甘そうな葱二本。ずしりと重たいキャベツが一玉に、ずしずしと太い大根が二本。まあまあ大き目サイズのジャガイモ四個に、人参二本。柚子三個。二の腕のようにぶっとい大和芋一本。…なので、せっせと消費しなければなりません。根菜は日持ちするけれど、場所をとるのでとりあえずおでん。食材があふれていると、結構プレッシャーです。
 でも、いつもスーパーで買うときとは違う状態(なめ〇〇の赤ちゃんがいるとか…バタッ…)で送られてきた野菜たちを眺めていると、“食べる”ってまさに、他の命を頂くことなのだな…と、うっかり忘れがちなことを思い出させられました。感謝しながらいただきます…。

 さて、記事にするタイミングがずれてしまいました。読み終えたのは一昨日の朝です。
 まず、この魅惑的なタイトルに惹かれました。柘榴のスープっていったいどんなスープなの…?と、一度気になったら読んでみたくなったのです。

 『柘榴のスープ』、マーシャ・メヘラーンを読みました。
 

 この物語、私は大好きでした。今日が返却日だったので夕方バタバタと返しに行きましたが、装丁がとても好きだったこともあり手放しがたい一冊でした。
 章ごとにレシピが紹介されている様々なペルシア料理は、実際に小説の中でもその調理の段階からそれを頂くバビロン・カフェの人々の様子まで、まるでスパイスやハーブの芳香がこっちへ漂い溢れてきそうなほど美味しそうに描かれています。読んでいると始終、涎がじゅるる…となります。そして主人公・マルジャーンが作る香り高い料理たちは、ただ美味なだけでさえなく、それを味わった人々にとても素敵な作用を及ぼすのでした。
 この、食べることが人々の心に何かしらの働きかけをし、忘れ去られた遠い記憶や夢を引き出すという描き方は、面白いなぁ…と思ったし共感出来るところもありました。所謂ファンタジーとしての設定ではなく、本当に、“食べる”ってただそれだけじゃない何かしらの力だと思うから。食べることと心の間には、不思議なメカニズムがひそんでいるでしょう?

 命の営みの一環として“食”は基本中の基本ですから、とても大切なことだと思います。でも私にとってそれは、当り前な生活に根ざした当り前の食生活が、楽しく美味しく送れればそれが有り難いことであり、それ以上に執着するべきことでもない…という感じでしょうか。
 自分の体の中に摂り込むものだからこそ、色々こだわるべきところもあるでしょうけれど、そのこだわりだけが独り歩きをしないようにしておきたい。わくわくしたり、ほっこりしたり、楽しくなったり笑みがこぼれたり、そんな気分的な“食”の効能を大事にしていられれば、分不相応な美食なんて私には必要ないはず。で、つまるところ辿り着くのは、やっぱり家庭料理だなぁ…と。

 この物語の主人公たちは、生まれ育ったイランから逃れアイルランドと言う異郷の地で、いつか帰るという当てもない故郷の家庭料理を自分たちの店で作りながら、三姉妹それぞれの新たな道を模索していきます。マルジャーンに料理の才能があったことは大きいですが、異郷の地で故郷の家庭料理が彼女たちの独立を助けるという設定には、切ないようで嬉しいようで、ほろりとするものがありました。 
 物語を読み進むにつれて、なぜ三姉妹がテヘランを出なければならなかったのかという事情が、だんだん明らかになっていきます。実は三姉妹には、人に言えない重く辛い過去があって、単に革命の騒乱を逃れてきただけではなかったのでした。癒えない傷、慣れない土地、それでも人はいつか顔を上げて、歩いていかなければならない…。 
 物語全体の印象が少しも重くならなかったのは、全篇をおおう美味しそ~うな家庭料理の匂いと、立ちのぼる湯気の温かさの所為かも知れませんね。

 いやそれにしても、たとえレシピが掲載されていてもなかなか味の想像がつかない料理ばかりで(特に柘榴のスープ!)、ぎゅるる…食べてみたいよぉ…と私の好奇心と食欲がほどよく刺激され、疼いてしまって治まらないのでありましたよ。
 余談ですが、作者も美しいです。

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