美味しいパスタ♪ 「とまと座」その1

9月30日、日曜日。雨のち曇り。とうとう9月も終わりますね。 
 昨夜は寝るのが遅かったので、目が覚めたのは7時頃でした。窓の向こうは雨降り。
 お風呂から上がるとだーさんが起き出していたので、もぞもぞと毛繕いを済ませてランチに出かけることとしました。向かいましたのは、元町にありますパスタのお店です。

 はいそこは、元町の鯉川筋を少し北上しましたところにあります「とまと座」でっす。
 奥のテーブルに居心地良くおさまり、手書きのお品書きに頭を寄せ合う二人。味のある字が個性的過ぎてちょっと読みにく…(あ、撮ればよかったなぁ)。
 珍しくだーさんが迷っていたので「これも、美味しいらしいよ」と一点を指差すと、「あ、これよさそうだねぇ」と決定。二人ともセットでオーダーをしました。

 まずはサラダ、そして白パン。
 
 パンに付いてくるのは、ミルクのジャムです。

 スープ好きなだーさんが頼んだ、“完熟とまとのスープ”です。
 オリーブオイルが蓋の役目を果たしているので、中はあつあつです。

 そしてお待ちかねのパスタです。
 こちらはだーさんの、“香りキノコとほうれん草の焦がし醤油かけ”でっす。
 ほうれん草とベーコンのゴールデンコンビは、だーさんのお気に入りです。 
 柚子の絞り汁が入った小瓶と一緒に出されていました。だーさんはそれが甚く気に入ったようで、何度も振りかけていました。繊細な柚子の風味が、焦がし醤油の風味にふんわりと溶け込んで…おお、なんて美味しそう。

 こちらは私の、“霜降り黒毛和牛とエリンギ茸のクリームパスタ 黒胡椒風味”でっす。
 クリームソースと牛肉は相性がいいですねぇ。
 程よくマイルドなクリームソースは、スパゲッティとの絡みも抜群でした。私ったらば、夢中で食べちゃったなぁ。

 ご馳走さま~♪とお店を後にすると、「旨かったな~」と開口一番、だーさんの感嘆のこもった声です。おおっ。これはちょいと久し振りに、再訪したいお店が増えた手応えばっちりで嬉しいわん。ぜひとも次回こそ、店名にも冠されたトマトを使ったパスタを頂いてみたいです、るんたた♪
 そしてこちらのお店は、コスパにうるさいだーさんが絶賛するほど、どのパスタにも良心的な価格が付いているのです。な、なんと、全てのパスタの単品価格が、680~980円の間で納まっているのですよ。しかもこの内容ですから吃驚! 良いお仕事をされていますね。
 (2007.9.30)

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シオドア・スタージョン、『一角獣・多角獣』

 『一角獣・多角獣』、シオドア・スタージョンを読みました。

 収められているのは、「一角獣の泉」「熊人形」「ビアンカの手」「孤独の円盤」「めぐりあい」「ふわふわちゃん」「反対側のセックス」「死ね、名演奏家、死ね」「監房ともだち」「考え方」、の10篇です。 
 いや~これがまた、スタージョンいいじょん。この一冊は〈異色作家短篇集〉の復刻版第3巻ということですが、なるほど異色ってこういうことか…と思い知りました。奇妙奇天烈な10篇。何しろ“異”なもののオンパレードみたいです。異形と言いますか、異質な発想による物語ばかりでぐでんぐでんに酔ってしまうけれど、抗えない魅力があります。  

 読んでいてかなりぞっとしたのは、「熊人形」と「めぐりあい」です。
 「めぐりあい」は、他の短篇集では「シジジイじゃない」というタイトルで収録されているそうですが、この“シジジイ”というものにこだわった作品には、「反対側のセックス」もあります。何て言うか…、たぶん初めて出くわした概念なので戸惑いつつも(ゾ、ゾウリムシの生殖方法?)、面白く読みました。
 凄く好きだったのは、「孤独の円盤」や「死ね、名演奏家、死ね」、「考え方」。どの作品も独創的ですが、とりわけ「考え方」は、発想が独特過ぎて考え方が奇妙な男が出てきて(女に扇風機を投げつけられたら、女を扇風機に投げつけ返す、とか)、先がまったく読めません。何とな~く不気味な予感を漂わせながら話は進み、最後に違う“考え方”で思いっ切り突き落とされる作品でした。

 ぞっとするような話ばかりではなく、私の好きな「孤独の円盤」は胸が締めつけられるような作品です。「その発想を使ってこのラストですか、凄い!」と嘆じつつ、じ~んと打たれました。この話は、海で自殺しようとしている一人の女が、通りかかった男に助けられるという冒頭から始まるのですが、ではその女を自殺へと追い詰めた出来事とは…? と、そこから驚くべき女の事情が、語られるのでした。
 (2007.9.28)

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クラフト・エヴィング商會、『らくだこぶ書房|21世紀古書目録』



 『らくだこぶ書房|21世紀古書目録』を読みました。

 “〈21世紀のギリシア神話〉と銘打たれたこのシリーズは、「老眼鏡をかけた神様たちのものがたり」というキャッチコピーが示すとおり、いつのまにか時代の片隅に取り残されてしまった「ギリシア神話」の登場人物たちの、その静かなる老後を描いた大人の神話です。
 『老イカロス氏最後の旅』 
 『老アガメムノンの7人目の妻』
 『老タイタンのあたらしい航海術』
 なぜか死んでも死に切れない――つまりは、誰もが忘れてしまったころに、とつぜん再生させられたりして――いささか疲れを覚えはじめた「彼ら」の物語。” 28頁

 目の前の未来は着々とたゆまなく、私の背部へとなめらかに流れ去る。過去は積み重なっていく。未来が懐かしいということは、未来がいずれは思い出のうちになっていくことを前もって知っているから…なのだろうか。
 “懐かしい”という感情に、なぜこんなに心が揺らぐようになったのか私にも分かりません。誰かに、何かに、懐かしさを感じるということは、目に見えない何かしらの繋がりを感じるということかしら…なんて、思ったりします。孤独を受け入れられるようになったら、懐かしい存在たちが見えてきた。

 ああ、肝心の本の話…。クラフト・エヴィング商會の作品は、いつも懐かしさがぎゅうぎゅうに詰まっているから好きです。例えばこの本は、「未来から届いた古本が、なぜかこんなに懐かしいよ…」というコンセプトの一冊なのです。
 未来から届いた古本たちは、まあ実際にはクラフト・エヴィング商會の作品なわけですから、書影を眺めるだけでも楽しいです。紹介されている21世紀の古書は、21作品。中でも一番私が中身を読んでみたかったのは、「老アルゴス師と百の眼鏡の物語」でしょうか。
 あと、タイトル買いをしてしまいそうなのは『羊羹トイウ名ノ闇』です。しかも装幀が羊羹そっくりなんて、私きっと買うわ。読んでみたかったのは、『茶柱』とか『7/3横分けの修辞学』でした。7/3横分けって、見かけなくなりましたね。
 (2007.9.25)

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佐藤哲也さん、『ぬかるんでから』

 『ぬかるんでから』、佐藤哲也を読みました。

 “改めて指摘するまでもないだろうが、我々がこうして夜を日に継いで過ごしているこの世界は意外なまでに不可解で、いつもどこかに危険な謎を潜ませている。その不可解な部分に果たしてこの世界の本質が隠されているのか、それとも世界の本質によってその不可解な部分が隠されているのか、だとすれば世界の本質とはなんなのか。” 211頁

 おおお面白い。面白すぎる…。佐藤さんの本は二冊目です。連休中に少しずつ読んでいたので、一つ一つの物語の旨味をゆっくりとしゃぶり、じ~んわりと全身に浸透させながら楽しむことが出来ました。愉楽愉楽♪ やっぱり私はこっち側がいいな。整いすぎた世界よりも。

 収められているのは、「ぬかるんでから」「春の訪れ」「とかげまいり」「記念樹」「無聊の猿」「やもりのかば」「巨人」「墓地中の道きり」「りす」「おしとんぼ」「祖父帰る」「つぼ」「夏の軍隊」、の13篇。
 白いページから盛り上がってきそうなほど、文章が緻密で分厚くて、それでいてガツンと突きつけてくるリアリティは有無を言わさぬ直球です。兎に角文章に力があるので、どんどんひき込まれて前のめりになりそうですよ。
 たった一つの文章で、目の前の世界が一変する。足元がぐらついて膝を突き、次に目を上げたときにはもう目の前の景色は、いっそ“不条理”いうタイトルをつけて額に入れて飾ってあげたいぐらいに、ただただ不条理なのです。ううむ。

 始めの方の4作品が夫の視点から描かれているのですが、「男の人の立場から見ると、妻ってこんなに不条理な存在なの?」と思って、一瞬頭の中が真っ白になりました。いやいやいや、そんなことないでしょ…。でも多分夫婦なんて、時々相手が謎の塊になることもあるし、それはそれで楽しいことなのでは…などと、結婚5年目の若輩者は思うのでした。…ま、いっか。

 私が好きだったのは、「無聊の猿」とか「やもりのかば」。それから「巨人」も笑った笑った。「祖父帰る」にも多いに笑い、「つぼ」の長過ぎる前置きがまた堪りませんでした。うだうだと前置きばかりが続いて、話がなかなか始まらないのに、その前置きの中でふるまわれる薀蓄が、どこまで真面目なんだかわからないけれども妙に面白くて、語られんとしている物語への期待が高まってしまうのです。で、その期待がピークに達したところで突き落とされると言う…。
 またぱらぱらと読み返していると、どの作品も冒頭が素晴らしいです。いきなり核心近くまで引きずりこむような書き方もあれば、読み手を煙に巻いて戸惑わせるようなそれもあるし。そしてまた、ラストとの呼応がとても見事な作品もあります。
 (2007.9.24)

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伊井直行さん、『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』

 『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』、伊井直行を読みました。

 “小説の目的とは何か? となると面妖な話題になりそうなので素通りしたいところだが、小説を読んで愛やら癒しやらを感じるとしても(あるいは逆に、非常な残酷さや恐怖、また笑ったり泣いたりすることでもいい)、そういったものは小説の本質そのものではないと私は考えているのである。このような要素が小説の魅力になるなら、それは素晴らしいことだ。だが、なくたって構わない。” 13頁 

 収められているのは、「ヌード・マン」「掌」「ローマの犬」「微笑む女」「えりの恋人」。
 まず驚かされたのは、作者による前書きです。肝心要の作品に入る前に初出等に関しての説明を読まされたりするので、これは甚だ無粋なのでは…と思いながら読んでいますと、作品集のタイトルについても言及されていたりしまして、これが面白かったです。“感情の上がり下がりの補助用具”とか、なるほど辛辣ですが言い得て妙です。

 最初の「ヌード・マン」が私にはかなり愉快な作品でした。主人公の行動がとても素っ頓狂に飛び込んできて愕然としちゃうけれど、そこで一気にぐいっと摑まれるわけです。そして、ラストがまた…ね。かなり気に入った一品でした。
 あと好きだったのは、「掌」や「ローマの犬」。特に「ローマの犬」は、摑みどころのないとぼけた感じが、不思議とツボにくる小品でした。

 読みながら何故かぐらぐらしたのが、「微笑む女」と「えりの恋人」です。特に「えりの恋人」は、読んでいる内に頭の中がボーッなって、えりのブルーが乗り移ったかのように具合が悪くなっていささか困りました。いったいあれは何だったんだろう…? 
 実はまだ消化不良気味なので、反芻しています。小説集のタイトルの意味を、あらためて噛みしめました。
 (2007.9.21)

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松浦理英子さん、『葬儀の日』

 表題作は、78年に新人賞を取った作品である。当時松浦さんは20歳で、この処女作を書いたのは19歳の時になるらしい。 
『葬儀の日』、松浦理英子を読みました。

 “肥満した体のどこがどう嫌なのかは唯子自身にも充分に説明できない。(略)立ち上がるとゼリーのように床に崩れてしまいそうなところとか、いくらでも嫌な点は挙げられる。自分の体をつくり上げて行こうとする意志が少しもなく、ただ放恣に自らを外へと拡げている無神経さが耐えられない、と理屈をつけることもできる。が、それだけでは言い尽くせない。” 176頁

 収められているのは、「葬儀の日」「乾く夏」「肥満体恐怖症」の3篇。
 表題作は、とても悩ましい作品でした。これは凄いぞ凄いぞ…とぐいぐい引き込まれていくのだけれど、そこに描かれている寓意を推し量ろうとすると、指の隙間からすり抜けてしまいそうな感じです。冒頭ですぐに、主人公が葬式で泣くのが仕事の「泣き屋」であることがわかります。で、泣き屋の風習って実際にあるところもあったし…と思い、あまり引っかからずに先へと読み進んでいくと、「泣き屋」という存在とは別に、葬式における皮肉な演出を担う「笑い屋」という仕事があることもわかってきます(この設定が面白い!)。そして彼らの世界には、最高の組み合わせとなる相手がいるらしいことも。

 まるでお互いの鏡像のような、「泣き屋」の私と「笑い屋」の彼女の関係。本来ならば一人であるはずのところの人格が、二人に分裂してしまっているから、くるおしくも離れがたく結びつき合ってしまうのか。それとも、誰もが生まれつき抱えている空隙を埋め合える、唯一の存在である魂の片割れ同士が、幸か不幸か出会ってしまったから、どこにも行き場がなくなってしまったのか…。
 どんな隙間も残さず完璧に寄り添い合える相手。何も与えず何も受け取らない、名づける必要すらない圧倒的な関係。もし、本当にそんな存在を知ってしまったら、人はその場所から動くことが出来るのでしょうか…? そして、彼女たちは?

 「乾く夏」は、全く設定は違うけれどもやはり「葬儀の日」で扱っているような、“強烈に惹かれ合い離れ難い二人”が出てくる、ヒリヒリとした作品でした。この、ある意味完璧だけれども破滅へとしか向かって行かないような人間関係って、松浦さんの作品では欠かせないモチーフとなるようです。

 で、「肥満体恐怖症」ですが、これはかなり好きでした。タイトルだけでも喰いつきますね。
 大学寮の通称タコ部屋で3人の先輩と共に暮らす主人公唯子が実は肥満体恐怖症で、なのに何の因果か同居人たちは3人が揃いも揃ってかなりの所謂デブである。と言う設定で、唯子の中に渦巻く拭いがたい3人への嫌悪感は、センシティブであると言ってもいい程ですし、またそれを煽るような3人の描かれ方が凄いです。文章に迫力があると言うか、主人公が3人から受けている圧迫感が、行間からこぼれ出しそうに迫ってきます。肉感とか体温とか。
 すっかり圧倒されながら読んでいくと、そもそも何故唯子は肥満体恐怖症になってしまったのか?という核心へと、近付いていくことになります。一気に読ませる力を持つ、読み応えのある作品でしたよ。
 (2007.9.20)

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魚住陽子さん、『動く箱』

 『動く箱』、魚住陽子を読みました。

 魚住さんの作品は、3冊目です。収められているのは、「動く箱」「雨の箱」「流れる家」「敦子の二時間」、の4篇。
 どの短篇にも共通しているのは、主人公たちが専業主婦であること。「流れる家」の場合は、夫からの独立を図ろうとしている女性が出てきますし、「敦子の二時間」では、家庭から飛び出していこうとしている女性の、実行までの息詰まるような二時間が丹念に描かれています。袋小路に迷い込んで、何とかそこから抜け出そうともがいている姿でした。 
 でも、袋小路からの逃げ道なんて本当にあるのでしょうか? 大木に絡みつくようにしか生きられないのであれば、それ自体がもう袋小路なのかもしれない。そんな行き詰まり感が、作品の其処此処に影を落としているようでもありました。

 “動く箱”とはつまり家のことです。女性に特有の家への拘りが、凄く巧く描かれていると思います。自分の気配が充満した家の中で、文字通り棲息しているような、取り込まれているようなあの感覚。部屋の壁や床や天井が、妙に馴れ馴れしく有機的になって自分に寄り添ってくる…生ぬるいあの感覚。その居心地の良さへの、抜け出しがたい執着。
 (家に一人でいると、ふと、外から切り離された小さな空間に自分だけが取り残されて、どことも繋がっていないような気分になる。絶え間なく流れ動いていく世界と私を閉じ込めたこの空間とは、何の関わりもないのかもしれない。意識だけがぼ~っと膨らんで、この部屋いっぱいになる。部屋の壁と自我の壁が、重なり合っていくみたいな錯覚に陥る。)

 私が特に好きだったのは、「雨の箱」と「流れる家」でした。静かで淡々とした語り口から、立ち昇ってくる不穏さが堪らなく素晴らしいです。特に「流れる家」なんて、自分の家が欲しくなった主婦が友人と一緒に、田舎の物件を下見に行くだけの話が、どうしてこんなに不穏になるの…と、舌を巻きました。
 (2007.9.19)

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ジャック・ケッチャム、『隣の家の少女』

 『隣の家の少女』、ジャック・ケッチャムを読みました。

 気付けば目が離せなくなっていた。これ以上のことを知るのは嫌なのに、読まないわけにはいかない。やはり凄い作品だ…と、思い知らされながら。
 冒頭の滑り出しはほぼ順調だった。「夏休み」というタイトルを付けてもいいような、少年と少女のいる風景が目の前に浮かび上がる。近所の小川でザリガニを捕る十二歳の少年デイヴィッドと、彼より二つ年上の少女メグとの出会いの場面である。物語はそんな風に始まり、デイヴィッドの視点から語られていく。こちらの予想通り、「夏休み」の風景画は一瞬のきらめきの後、どんどんどす黒く塗り込められていくことになる。
 実際にあった事件をモデルにしているという事実が、いつも重く圧し掛かってきた。メグを虐待するルース、それに加わる数人の子供たち、メグに好意を持ちつつも傍観し続けるデイヴィッド。全く救いがない。ストーリーは至ってシンプルで、物語はただただ陰惨さと残酷さをエスカレートさせながら、読み手の恐怖心を煽り立て追い詰めるように突き進んでいく。 

 唯一の望みをかけられるのはデイヴィッドであるが、邪悪さに免疫のない彼は、魅入られたように動くことが出来ない。
 この作品におけるデイヴィッドの存在は、やはり素晴らしくよく描かれていると思う。デイヴィッドの不誠実、情けなさ、自己欺瞞。それらを容赦なく暴き出していく筆は、平凡な人間の凡庸な弱さや狡さを突きつけている。「さあ、見ろ」、と。ルースや他の子供たちがモンスターになっていたとしても、デイヴィッドだけはちゃんと想像力のある当たり前の人間のままでいたはずなのだから。

 結局、メグだけが、彼らとかけ離れた存在だったことが悲劇を生んだと思う。生まれ持った素質に恵まれ、容姿も優れていた。知的で都会的な雰囲気を持ち、何よりも性質が高潔で誇り高い。本来ならばルースやルースの子供たちとは、何の接点もない世界で生きていけたはず。
 ルースの女であるがゆえの嫉妬は、ある意味単純でわかり易いが、子供たちを虐待へと駆り立てていったものは捩くれていてもっと気持ち悪かった。本来だったら自分たちが相手にされるはずもない美しく魅力的な少女を、好きなように存分に痛めつけることに中毒性のある快感を覚えていたのだろうし、そこには自分たちの劣等感を打ち消そうとする働きもあっただろう。そう、メグは彼らにとって、魅力的であればあるほど、それを認めたくない癇に障る存在、無意識の内にある劣等感を刺激する目障りな存在になってしまったのではないか。 
 子供たちにきっかけを与え、先頭に立って導いていったのはルースだとしても、子供たちの方にも充分に、受け入れる素地は出来上がっていた。そして虐待する側に少女(たぶん、美しくはない)が加わることで、彼らの不気味さはますます深まる。

 ルースと子供たちの間には、時折齟齬が生じる。虐待への欲望の出所が、彼らの間では違うから当然である。それでも二つの邪悪さは手を取り合って、戻れない道を突き進んでいく。私に救いがあったとしたら、メグの高潔さだった。
 忘れていいとは思えない、凄い作品でした。ふう。
 (2007.9.18)

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室生犀星、『蜜のあわれ われはうたえどもやぶれかぶれ』

 『蜜のあわれ/われはうたえどもやぶれかぶれ』、室生犀星を読みました。

 “「愉しいことでございます、と、息をいれずにひと息に仰有るのよ、おじさまったら、歯がゆくてじれったいわよ、人を好くということは愉しいことでございますと言うのよ。」” 46頁

 収められているのは、「陶古の女人」「蜜のあわれ(後記 炎の金魚)」「火の魚」「われはうたえどもやぶれかぶれ」「老いたるえびのうた」、の5篇。
 「蜜のあわれ」は、ずっとタイトルに惹かれていました。会話ばかりで成り立っている小説です。主な登場人部は、小説家の“おじさま”と、庭の池に飼われている金魚の化身の“あたい”(仮の名前は、赤井赤子ちゃん)。小気味の良いじゃれ合うような会話が楽しいのですが…。

 金魚の化身少女のお喋りは、あっちへ転がりこっちへ転がる気まぐれな鈴の音。おしゃまだったり我が儘でおきゃんだったり、テンポもちゃきちゃきでとてもキュートで、“おじさま”に言わせれば“ちんぴら”で。それでいて、“おじさま”を着実に手玉に取る術も身に付けているので、案外に年増女のように狡猾な面も具えている様子がちらりちらり…見え隠れします。それもそのはず、どうやらこの“あたい”は“おじさま”が望むところをよくよく心得て、年端もいかない少女の振りをワザとしていたりするのでした。その強かさ…。
 “おじさま”の体の上で遊んだり、キスをねだって“のめっとしていいでしょう”などと囁くあたり、すごく幻想的で色っぽくてもはや何も言えません。未成熟な少女の表の顔に、成熟した女の知恵が時たま覗く。そんな女に翻弄されるのって、男の人にはいいものなのですかね…。

 これが晩年の妄想の世界と思えば、また違った凄味と味わいも感じられようというものです。究極の“女のひと”の“あたい”と、全篇に漂う死の気配。死とエロスが隣り合う、美しくて怖いようです。
 ぷつっと途切れるように小説は終わります。後日談のような「炎の金魚」と「火の魚」では、悲哀に満ちていながらも、犀星さんの「蜜のあわれ」という小品への愛情が感じられてしんみりとしてしまいました。

 「われはうたえどもやぶれかぶれ」も読み応えがありました。少し読み進むと語り手の事情がわかってくるのですが(癌ですね…)、ご自身の老いと病に向き合う姿勢と、そこからどうしても滲み出てくる滑稽さや愚かさまで、己から突き放しながら容赦なく文章化してしまっているところに、老詩人の執念を見るようで目をそらせなくなりました。“やぶれかぶれ”の意味が、だんだんわかってきます。
 (2007.9.16)

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小川洋子さん、『夜明けの縁をさ迷う人々』

 『夜明けの縁をさ迷う人々』、小川洋子を読みました。

 “故郷に銀杏の切り株を残し、夜を越え、朝を越え、自分は何と遠くまで旅をしてきたのであろうか。ここほど彼が野球をするのに相応しい場所はない。たった一個のボールのために捧げられた聖地だ。いよいよ彼は未踏の頂に第一歩を印すのだ……。” 195頁

 収められているは、「曲芸と野球」「教授宅の留守番」「イービーのかなわぬ望み」「お探しの物件」「涙売り」「パラソルチョコレート」「ラ・ヴェール嬢」「銀山の狩猟小屋」「再試合」。
 ううむ、どれも好きです。秋雨前線とは関係のない、私の中のいつもの雨降り。その静かな場所を慰撫してくれるのが、小川作品です。いつまでも雨が降り止まない場所の、遠く懐かしい気配とかそけき雨音に、耳を澄ますようにして物語に沈み込む…。 

 「涙売り」は再読になりました。不思議な設定の、不思議な味わいの一品でした。  
 そして一読してみると、色んな雰囲気のお話が読めた気がして大満足。朝にも属さないし夜にも属さない、この世界を朝側と夜側に分ける境界上のそのさらに縁では、どこまでも引き伸ばされた白い夜明けだけが、今も続いているのでしょうか? 新しい手付かずな一日の手前で、永遠に立ちすくんでいる夜明けの世界が。

 人の眸にはなかなか映らない何かを、いや本当は見えているはずなのに誰の意識にも残らない忘れ物のような何かを、どこからか丁寧に掬いとって差し出してくれるのが何て巧みなの…と、しみじみ感嘆しながら読みました。それはまるで優しくて慎ましい、小がかりな手品のようです。見物人もつられて息をひそめるほどの…。
 そうして差し出されるのは、例えばラ・ヴェール嬢の足の裏だったり、エレベーターの中のイービーだったり、リンパ液のさざ波だったりします。それらはあまりにもささやかで控えめな存在で、普段ならば私にも見えないものばかりなのに、差し出された途端に懐かしくなるような、ずっと探していた失くし物に出会えた気持ちにさせてくれる何か…なのです。

 私が好きだったのは、「お探しの物件」「ラ・ヴェール嬢」「銀山の狩猟小屋」「再試合」かな。 
 「お探しの物件」は、風変わりな曰く付きの物件ばかりを扱う不動産屋の、その物件の紹介の内容。「ラ・ヴェール嬢」は、作家Mの孫であるラ・ヴェール嬢の形見分けとして、M氏の全集十五巻を受け取った“私”が、生前のラ・ヴェール嬢から聞かされた奇妙な回想をたどる物語。「銀山の狩猟小屋」は、洋品店の女主人から別荘にと勧められ、狩猟小屋を下見に行った“私”と秘書のJ君が、そこで遭遇した異様な人物と出来事の話。
 で、「再試合」なのですが。これ、凄くよかったです。語り手が十七歳のときの、夏の出来事。通っていた高校の野球部が、七十六年ぶりに選手権大会へ出場することとなり…。終盤に物語が思いがけない方向へねじれていく、その切り替えしの描き方が素晴らしかったです。
 (2007.9.11)

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