倉橋由美子、『婚約』

 昔から桂子さんシリーズが大好きで、もっと読まねば…と作品を遡っている倉橋さんの作品集。古色蒼然なる新潮文庫の古本、奥付を見ると私の生年月日にかなり近い日付の発行日…! 定価130円なり!

 『婚約』、倉橋由美子を読みました。


「あたしはいままであたしがいた場所、紐つきの胎盤、この世界から逃げ出したいのです。ここにあるのとは別の世界をつくりたいのだわ。なにもない、どこにもない場所にいって、世界の贋物をつくること、ある形を生み出すこと……」 〕 151頁 

 収められているのは、「鷲になった少年」「婚約」「どこにもない場所」の3篇です。
 「鷲になった少年」は、これは読んだことあるかしら…?とデジャヴに襲われた作品です。たぶん実際には初めて読んだはずですが。ギリシャ神話の悲恋ものを彷彿とされた逸品でした。姿の美しさと魂の美しさを完全に切り離し、美少年Kの姿の美しさのみを愛でるLの冷酷な姿に、思わずうっとり…。

 そして表題作の「婚約」は、初っ端から意表を衝かれて舌を巻いた作品です。こんなありきたりなタイトルも、倉橋さんの手にかかるとこんなに不条理な話になってしまう…!
 制度としての結婚について、男女間の愛情が不可欠とされる世の中の建て前なんぞを一蹴するような、とても諷刺性の高い作品でした。しかし、滅法面白い! 何だろう何て言うか、私はやはり、常識の皮をペロンと剥いて裏返して見せてくれる、そんな倉橋作品の迷宮が大好きです。余計な固定概念を頭の中にはびこらせない為には、時々倉橋作品を読んでこそぎ落としてもらうのがいいかも…。
 主人公KのモデルはF・カフカなので、ところどころでカフカの断片が使われています。

 そして「どこにもない場所」。これはぐらぐらしながら読みました。3作品の中でも一番長い中篇です。
 家出をしてきた主人公Lが、精神病院に入院している母親を見舞うところから始まるのですが、いつの間にかLも患者になっている…。身体喪失の理想を実現しようとした、Lの試み。
 親切な解説によるとこの作品は、サルトルの美学が文学的背景となっているそうです。タイトルとなった「どこにもない場所」は、“〈奇妙な意識が棲むにふさわしい場所〉すなわち純粋想念の世界”なのですって。ふむー。
 自由にこだわり過ぎて不自由に陥ることの愚かしさから、一等縁がないであろうLの奇妙な軽やかさに惹かれつつ、眉毛をよじりながら読みました。

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笙野頼子さん、『母の発達』

 タイトルからして、尋常ではない…。
 超絶的に面白いという評判は以前から知っていたが、タイトルでびくついていた。だからさ、駄目なんだってば母娘ものは。身につまされて痛いんだってば痛過ぎるんだってば。…てな訳で。

 結婚してやっと親元を離れて、よく見る夢のパターンがあった。いや、パターンという言い方は正しくなく、ただ終わり方だけがいつも同じ夢。 
 今より若かったり子供だったりする自分が、唐突に登場する実母から酷い叱られ方をする。実際の昔のままに。だんだん胸が苦しくなってどうにもならなくて、「もうイヤだ!自分が焼き切れる!」…という限界でやっと目が覚める。最悪である。朝より夜中のことが多く、そのまま泣き寝入ることになる。
 特に結婚してから、一人でいると回想に沈み込んでしまうことも多くなった。昔のことを掘りかえし、「どうしてあんなに否定されなければならなかったのだろう」「どうしてあんなに貶されて…」「どうしてあんなに傷付けられて…どうして…」と。それで気が付いたのだ。家族との関係が、自分のトラウマや歪みになっていたことに。
 最近漸く、あの夢は見なくなった。

 『母の発達』、笙野頼子を読みました。
 

〔 ――あーおかあさんというものは、物質化するしかなくっ、キノコか猫の糞の固めたのか、雀に着物を着せたようなものか、あわれで、ごちごちして、わけのわからんものなりー。 〕 19頁 

 ほんの少し読んでみて、やっぱり痛い…と思ったのは束の間だった。…うははははは!胸がすく! お母さんが縮む縮む。ち、ちぢむと可愛いー。うははのは。お母さんを縮めてしまうところまで追い詰められていた主人公の状況を考えたら、笑ってばかりもいられないけれど、「あ痛たた…」と顔を顰めながらも笑ってしまうわー。
 笙野さんの作品は凄過ぎてひりひりして、私のしんねりモードなんて吹き飛ばされて宇宙の藻屑です! いったい何なんだろう…この逆説的な癒し。 
 この作品、お母さんのことを刻んでいるようで実は己をも刻んでいて、それが大きな遠回りをしながら自分自身のことを癒していく…みたいな、そういう感じ。生まれ変わる為の痛み、とか。

 完璧な親に育てられた人には、その人にしかわからない悩みがあるのかも知れない。どんなにそれが理不尽に思えたとしても、自分の心は自分で癒していくしかないのかも知れない。
 佐藤亜紀さんがこの作品について、“鎮魂(たましずめ)でしたね、まるっきり。お母さんをお母さんの枠組みから解放することによって、娘も娘の枠組みから解放される。”とおっしゃっていて、この作品を読み終えて、なるほどこういうことか…と得心した。

 とりわけなストーリー展開と言うのはほとんどなく、主人公ヤツノとその母親(であった存在)との関係性の変化…というか、まさに母親(であった存在)がいかに解体され変容していくか…という話に終始している。が、これが滅法面白い。かつて主人公の母親であった新生お母さんが、縮んだり分裂したりしながら、どんどん超絶になっていく!
 章題は、「母の縮小」「母の発達」「母の大回転音頭」となっている。何と言っても「母の発達」における、「あ」から「ん」へ、お母さんを順繰りに分裂させていく為にヤツノが物語を紡いでいく件は、圧巻であった。

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G・K・チェスタトン、『木曜の男』

 大変大変、おもしろうございました…。
 チェスタトンを読んだのはこれで二冊目ですけれど、いやー無類! 読んでいて何度私は、頭の中ででんぐり返しをしたことか…! ああ、振り回されて楽しかったわん♪
 この作品、推理小説としては唯一の長篇なのですって。 

 『木曜の男』、G・K・チェスタトンを読みました。
 

〔 無政府主義者の秘密結社を支配している、委員長〈日曜日〉の峻烈きわまりない意志。次々と暴露される〈月曜〉、〈火曜〉……の各委員の正体。前半の奇怪しごくな神秘的雰囲気と、後半の異様なスピードが巧みにマッチして、謎をいっそう奥深い謎へとみちびく、諷刺と逆説と、無気味な迫力に満ちた逸品として、一世を驚倒させた著者の代表作! 〕

 この驚きに満ち満ちた異様な物語は、ロンドンのサフロン・パークに二人の詩人が現れる場面から始まります。詩人ルシアン・グレゴリー氏曰く、「芸術家は無政府主義者も同じなんだ」。あらたにあらわれた詩人ガブリエル・サイム氏曰く、「なんでもうまくいくということが詩的なんだ」。片や無政府主義者の詩人と、片や法律と秩序に味方する詩人。この二人の出会いと対立から、最初の歯車が回り出す。ぎしぎしぎしガタンゴトン…。
 ガブリエル・サイム氏が乗り込んだのは、無政府主義中央会議の秘密の会合でした。そして幹部たちの一人一人が曜日名を名乗る中央会議で、あらたに選ばれようとしていたのは〈木曜〉の後継者…すなわち木曜の男です。
 しばらく読み進むと、“○○と××はきっと△△△△だよなぁ…”という大まかな仕掛けが見えてくるのですが、それがわかっただけで好い気になってはいけなかったのでした…! とんでもない!

 あれよあれよと駒が翻っていくオセロの盤面が、何度も脳裏に浮かびました。そしてその眺めに、あんぐりと口を開いて見惚れているような具合の読み心地でした。最後の最後まで、煙に巻かれたような気もするし…。広げられた大風呂敷がちゃんとあれでまとめられたのかどうか、いま一つ私にはわからないまま物語のゴリ押しにただただ圧倒されました。あー、面白かったー。びっくらしたー。

 『詩人と狂人たち』を読んだときにも思いましたが、アイロニーが多用されていたりやたらと理屈っぽいところとか、毒のある独特なひねくれ方をしているところとか、とてもイギリス的な感じがします。この感じは凄くイギリスっぽいのじゃあないかしら…という印象が、読み始めて割とすぐに意識にまとわりついてきます。 
 でも、それを巧く説明できない。気になるので少々調べてみましたら、イギリスの大衆文学の伝統として、アンプレザントネスと呼ばれる露悪的な傾向や悪趣味な嗜好があるそうです。ほう。私が「イギリスっぽい?」と引っかかっていたのはその傾向なのですね、得心。あとそれから、政治的な寓意も相当に散りばめられています。 
 であるからして、たぶん好き嫌いは分かれる作風かな。そんなに読みやすくもない文章ですしね。

〔 彼自身も仮面を着けているのだろうか。人間が仮面を着けるということがあるのだろうか。一人の人間というのは、いったい何なのだろうか。人間の顔が黒くなったり、白くなったりして、その姿が日光を受けてふくれ上がり、影になって消えていく、外の日光のあとでは単に影と光の混沌でしかないこの魔法の森は、サイムにはこの二日間、彼が生きてきた世界の完全な象徴に思われた。 〕 161頁

 
 さらにさらにチェスタトンは、私は未読ですがいずれ読んでみたいディクスン・カーの創造した探偵、ギデオン・フェル博士のモデルとされているそうです。うわー、読みたひー。がんばってたどり着くぞー。

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『八つの小鍋 ― 村田喜代子傑作短篇集』

 しゅ、しゅごい…と、終始おののきながら。 
 村田さんの描くおばあさん達には、足元から根っこが生えているかも知れない。あまりにも長く生きたから、根っこが生えてしまったのかも知れない。…と、想像したらぞくっとした。そんな得体の知れなさが茫々と漂う作風で、そこが読み応えだった。

 『八つの小鍋 ―村田喜代子傑作短篇集』を読んだ。
 
〔 青草の上に、落葉の上に、由美子の尿の一滴が降りかかる。わたしは歩きながらうれしくなった。由美子の股はなんだか世界の天井みたいではないか。ふっくらした柔らかい、湯気ののぼるような天井である。   
 「凄いね、由美ちゃん」
 手をつないで振りながら、わたしが由美子に話しかける。
 「りっぱなおちんこ」 〕 162頁

 収められているのは、「熱愛」「鍋の中」「百のトイレ」「白い山」「真夜中の自転車」「蟹女」「望潮」「茸類」。
 村田さんの作品を読むのは今回が初めて。短篇集となっているが、比較的長い「鍋の中」や「白い山」はなかなか読み応えがあり、この二つの作品で薄めの一冊になってもおかしくない…と思う。

 一話目に収められている「熱愛」は、全体を読み終えてみるとこれだけ作風が違う。これを最初に持ってくるところが心憎い。この作品、兎に角圧倒された。
 幼馴染の青年二人が、閉鎖された海の遊歩道へツーリングに行く…というそれだけの話で、オートバイに興味はないので読み始めは全然ぴんとこなかったのに、いつの間にか引き込まれていた。ラストまで読んで、タイトルに胸を打たれる。はあ…。
 「鍋の中」もとても好きだった。田舎のおばあさんの家で、夏休みを過ごす4人の孫たち。そうなったきっかけは、ハワイからおばあさんに届いた一通のエアメールである。差出人は、行方の知れなかったおばあさんの弟の息子…だったが。
 おばあさんの背後にある、気が遠くなるほどの長い年月。その重み、そして記憶と忘却。生きながら老いゆくこと、忘れながら生き続けることの底知れなさを覗き込んでしまったような、ふわふわとした心地になる不思議な作品である。“おばあさんの鍋は怖しい”…。

 どの作品も独特な味わいで忘れがたいが、とりわけ「蟹女」は凄かった。
 一人のおばあさんが、病院に入院している。お昼ご飯を終えると、てくてくと担当の医師のところへ行ってしばらく話をする。どうやらそれは治療の一環らしい。自分の昔の話をしているはずなのに、昨日と今日で語る内容が噛み合わないことから、認知症かな…と事情がわかってくる。
 院内食を食べ終えたおばあさんが先生のところに行くと、ちょうど先生は食事中で、これがまた働き盛りのガッツリした食事ばかりだ(牛丼とかトンカツカレーとか)。先生の食事の内容とおばあさんの存在感とが、あまりにもちぐはぐな感じがして、ものすごく奇妙な場の雰囲気を醸していて印象的だった。
 そして、毎日毎日おばあさんの一人語りは続き、その世界はいつの間にやら大変なスケールへと押し広がっていく。おばあさんの語りのパワー、壮観である。

 そして「茸類」。この作品…夫婦の深淵みたいなものを描いているのかな。ラストでぞぞ~っとしたけれど、怖さの中に魅了されるものがあり思考が停止してしまった。

 自分が子供の頃、祖父母に全く懐けなかったことを思い出す。会う機会が少なかったので無理もないけれど、実は年寄りが怖かったのだろうな…。幼い子供の目には、おじいちゃんもおばあちゃんも、ずっと昔からその姿のままでいたとしか考えられないほど、自分とはかけ離れた存在に見えていた。皺も、がさがさした肌も、どこかしら重々しい佇まいも、近寄りがたくて怖かった。…と、ふと思い出させられた一冊でもある。

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今日はインド♪ 岡本の「GAUTAM(ゴータム)」

2月24日、日曜日。一応晴れ?
 空には少しの雲。日射しもあるのに、空中をふわふわと細やかな雪が漂っていました。
 昨日の夕方、かなり草臥れてだーさんが帰ってきました。ソファーに座ったらそのまま、ずずず…と滑り落ちてしまいそうな疲れ具合でした。そんな時にはカレーでありますな(強引)。よしっ、今日のランチはカレーだい。

 だーさんが「お店決めて」とのたまうので、慌ててネットで調べてみたら、いつも車で通っている道沿いに評判の宜しげなインド料理店を発見! おお、あの旗の店は実は気になっていたのよ~と、決定いたしました。

 今日私たちがお邪魔いたしましたのは、神戸市は岡本と呼ばれている界隈の端っこあたり、
「GAUTAM(ゴータム)」でっす。近くのスーパーに車を停め、100歩ほどで到着。黄色い壁とインドの国旗が、なかなかキッチュでキュートな外観です。
 テーブル5つのこじんまりとした店内に先客は二組。でも、私たちがオーダーを済ませる頃にはどんどん来客があって、あっと言う間に補助席のようにテーブルが一つ増えていました。    
 やや落とし気味の照明に慣れてくると、周りが気になってきょろきょろ見まわしてしまいます。壁のいたるところインド色濃厚です。もちろんBGMはインド歌謡。 
 私の席の右側の壁、
 上の絵はたぶん女神さまですが、実はこの左側にでっかいおじさんの写真が…! ああ、この人知ってる誰だっけ誰だっけ。帰宅してからわかりましたが、サイババさんでした(サイババさんの左側に松たか子のビールのポスターが貼られていました)。

 店内観察で時間を潰していたら、お待たせしました~♪と運ばれてきました。
 こちらはだーさんの、ランチセットのCです。


 シーク カバブとタンドリ チキンとタンドリ ジンガ(海老)。
 

 私はこちら、ランチセットのBです。
 パパダ、ライス、サラダ、カレー二種(チキン・日替)、タンドリ チキン。だーさんのセットはシーク カバブと海老が多いですが、そのシーク カバブを半分貰いました。
 カレーは、チキンカレーとダール(豆)カレー。チキンカレーも充分美味しかったですけれど、私たちが気に入ったのはダールカレーです。ライスに合うのー、うまーい。これは、ムーング豆(緑豆)ですかね。青い香りと味わいが楽しめて、しかも辛味との調和が絶妙♪ 白くて細いのは生姜…だと思います。

 駄菓子菓子、ナンてなんてでかいんだろう…。
 ←だからはみ出す…。 
 もちもちさせたナンではないので、左程重くはなかったけれど、少しだーさんに助けてもらいました。 
 最後に出てくるラッシーまで、とても美味しかったですわん。

 こちらのお店、インド人のご夫婦が切り盛りされているようでした。で、給仕担当の小柄な奥さんが、なんとも可愛らしかったです。お勘定してお店の外へ出ると、ドアのところで見送って頂いてしまいました。
 ご馳走さまでした♪

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塩辛パスタ♪ 

 今年になってから和風パスタにはまり、平日のブランチにいろいろ作っています(半ば実験)。和風パスタなんて、材料の組み合わせ次第でいく通りでも出来ちゃいますから、そこが楽しいです。  
 今、一番のお気に入りは納豆パスタ。誰が作っても絶対美味しいであろう納豆パスタ。大根おろしやなめたけも合いますし、私のおススメは春菊。納豆は、かけるだけでもいいかも知れませんが、私はパスタと一緒に軽く炒めます。でも、納豆パスタの話はおいておいて。

 先日、美味しそうな塩辛を見かけたので、わくわくと注文してしまいました。
 ここでも買えるようです。「珍味や」。
 届いたのは木曜の夕方。塩辛と言えばやはり酒の肴!…ですが、まずはご飯に乗っけて頂いてみようかしら…と、翌日の朝食にいざ食せんと瓶を手に取り…自力で蓋を開けられなかったのでした。だーさんが出張で二泊ほど留守なので、これでしばしのお預けかとがっかりしつつ、諦めきれずに何度か挑んでいたら、四度目くらいでやっと蓋が開きました!

 そんなわけで今日の一人ブランチは、噂の“塩辛パスタ”でっす。   お、おおお、美味しかった…。

 えっとですね。
 用意したものはスパゲッティ60g、イカの塩辛大さじ1強、春菊、ニンニクのみじん切り。いただき物のトマトのスパゲッティを使ってみました。  
 私の和風パスタは、スパゲッティを少なめにして青菜で嵩を足しています。瓶詰めのニンニクを使いましたし、実母手製の春菊は短めでしたので、包丁要らずでした。

 オリーブオイルにまずニンニク、香りがたったら塩辛を投入してほぐす程度に火を通す。茹で上げたスパゲッティと春菊を投入して、さらにパスタの茹で汁と醤油少々で出来上がりです。スパゲッティは短めに茹でて、30秒~1分程度春菊を一緒に茹でてしまっていいです。
 最後の仕上げに刻み海苔をかけるつもりでいたのに、出来あがってみたらまんまと忘れて、あっと言う間に平らげてしまいましたー。
 イカは多少小さくなるし、入れ過ぎるとまさに塩辛過ぎ(注意!)ですから、具材としてはほぼ期待できません。でも、口にしてみて吃驚仰天するほどに、独特の癖が引き下がり旨味だけがど~んと押し出されてくる風味でおいすぃ~ですよ! 
 納豆パスタに負けず劣らぬ、“誰が作っても絶対美味しいであろう塩辛パスタ”でした。おススメです♪

 ちょっと検索してみると、少しずつ違うレシピが見られます。生クリームを入れる作り方も人気があるようですが、私は豆乳で試してみようかな。でもその前に、先ずは晩酌に…。

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ロバート・シェクリー、『残酷な方程式』

 古いSFの短篇集です。読んだのは月曜日でした。 
 移動中や待ち時間に読んでいて、特に新幹線の中の無機質っぽい空気感とか音とか振動とか…そう言ったもろもろが絶妙にしっくりくる読み心地で、大変に楽しかったです。 
 去年の東京創元社の復刊フェアの本の中で、一等表紙が気に入って即買いだった一冊。丹地陽子さんのイラストで新装されています。

 『残酷な方程式』、ロバート・シェクリーを読みました。
 

〔 手違いで惑星基地から締めだされた探検隊の一員。融通の利かないロボットを言いくるめなければ命が危うい。彼のとった奇策とは? 表題作ほか、気弱な男の突拍子もない人格改造術「コールドが玉ネギに、玉ネギがニンジンに」、大戦以後失われた文学の〈記憶〉を売る男と村人の交流を描く「記憶売り」など、黒いユーモアとセンチメントが交錯する、奇想作家シェクリーの佳作16編。 〕

 収められているのは、「倍のお返し」「コードルが玉ネギに、玉ネギがニンジンに」「石化世界」「試合:最初の設計図」「ドクター・ゾンビーと小さな毛むくじゃらの友人たち」「残酷な方程式」「こうすると感じるかい?」「それはかゆみから始まった」「記憶売り」「トリップアウト」「架空の相違の識別にかんする覚え書」「消化管を下ってマントラ、タントラ、斑入り爆弾の宇宙へ」「シェフとウェイターと客のパ・ド・トロワ」「ラングラナクの諸相」「疫病巡回路」「災難のテールパイプ」、です。
 こうして改めてみると、タイトルの付け方が尋常ではない…てか、面白過ぎるのですけれどー。特に「消化管を下ってマントラ、タントラ、斑入り爆弾の宇宙へ」なんて、肝心の本文はたったの4ページしかない小品なのに、タイトルのこの長さ! ちなみにこの小品、人を喰ったようなもの凄~く奇妙な味わいがなかなか好きでした。

 SFとひと口に言っても切り口は幾らでもあって、私の場合はちょっと読みづらいSFもあるのですが、ここに収められている作品はどれも面白くて!とても満足でした。奇想を展開させていく作風が、私のツボでした。
 奇想と言ってもたぶん、最初の着想はとびぬけて奇抜なものではなく、むしろ「ああ、こんなSFありそうかも…」というデジャヴを感じるような作品もあります。でも、そこからどう料理していくか…というところに一ひねりも二ひねりもあって、かなり楽しませてくれます。

 私がとりわけ好きだったのは、表題作「残酷な方程式」とか「架空の相違の識別にかんする覚え書」です。
 「残酷な方程式」は、ロボットのロボットゆえの融通の利かなさと、一方の人間は人間だからうっかり間違えたり忘れたりする訳で…ロボットを使いこなせずに困ったことに!という図式の皮肉たっぷりさに、まずはにやり。でも、何とかしてロボットの論理の隙間を見つけ出して突破しないと、窮地に立たされた主人公は惑星基地で干上ってしまう!いったいどうしたら…?と、もうページを繰る手が止まりませんでした。う~ん、面白かった。
 「架空の相違の識別にかんする覚え書」は、机上の空論を逆手に取った作品で、私はこれがとても気に入りました。正反対の特徴を持つ二人の囚人が(フランス人とドイツ人)、如何にして看守の目をあざむきお互いに入れ替わるか…という話で、何度も何度も頭の中で絵を作りながら読み進まないと、簡単に頭の中がこんがらかってしまうのです。で、そこが楽しい。しかもとても短い作品なのに、ラストでまた仕掛けがあって目が回りそうでした。ロジックの遊びにくらくら。
 東京創元社の復刊フェアの本はこれで二冊目。まだ二冊も積んでいます。楽しみ♪

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田中啓文さん、『蠅の王』

 弱音を吐きながら、なんとか読み終えました。
 田中さんの作品だから…と期待を寄せつつも、げぼげぼかも知れない…と怖れ慄きつつも、好奇心には勝てずに手を出してしまいました。え~ん。正直に言って今は“蠢”という漢字を見るだけで、勘弁してくれ~という気分です。 

 そもそもね…こちらのコンディションが良かったとはとてもとても言えません。 
 名古屋の実家に一泊して義母の入院に付き添ったのですが、独特な疲れ方をして帰ってきました。義母は身内に頼みたいことを口にするのを躊躇うような人ではなく(なはは…)、その点はむしろ楽だったのですが…。まあ、病院での付き添いに全然慣れてないから、無駄に力んでいたのかも知れません。そんなコンディションを甘く見てしまい…。

 『蠅の王』、田中啓文を読みました。
 

〔 「ベルゼブブとは、蝿の王のことである。」 ある遺跡で、無数の赤子の骨と一つの壺が発掘された。その封印が解かれた時…この世は底知れぬ“悪意”で満たされた。突如、東京で頻発しだした奇怪な児童殺人。地底から幼児の呪歌が湧き上がる異常の街に、悪魔教団が姿を現す。その頃、一人の少女が身に覚えのない妊娠をした。生まれ出ようとしているのは何者なのか?そして、巨大な呪いは誰のものか?想像もつかぬ真実がついに解き明かされたとき、“蝿の王”が出現した。 〕

 『ベルセブブ』というタイトルで刊行されたものに、加筆訂正がされているそうです。
 ああ・・・。もちょっとは笑えるところもあるのかと思いきや、読みだしてすぐにずど~んと突き落とされちゃって、でも放り出せなくて、解放されるには読了するしかない…と必死で読みました。ホラーとしては面白い…のだと思います。何て言うか、人の感情の中でも恐怖って、すごく原初的なものじゃあないですか。だから、まさにその恐怖をこれでもかこれでもかと煽り突きつけてくるホラーと言うジャンルは、読み手を呑みこんで逃がしてくれないのですね。イヤと言うほど思い知らされました…(え~ん)。

 たぶん、胸くその悪さではケッチャムの方が上ですけれど、純粋な気持ち悪さではこっちの方が強烈でした。
 そ、そもそも…。ごく幼い子供は虫をほとんど怖れませんが、多くの人々は大人になる過程のどこかで虫が苦手になったりします…よね。いや、異様に好きになっちゃう人もいらっしゃるわけですが…。何かその、昆虫という、自分たちとはあまりにもかけ離れた外観や構造の生き物に対して抱く、相容れなさや不気味さは、私たちの無意識層に共通して潜んでいるのではないかしらん…なんて、思ってしまいました。ほら、適当に省略された虫の絵はまあまあ可愛くても、近くで見ると本物はグロテスク…。“虫が人を襲う”という妄想は、恐怖としてはかなり単純で原初的なものだと思いました。ううう、もう虫の話はこの辺にして…。

 物語は三つの章から成っています。第二章あたりから『ヨハネの黙示録』もどきの存在も絡んできて、そういう話だったのか…!という展開が、お、面白い…です。やーでも本当に、無事に読み終えた時は泣きそうでした。

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皆川博子さん、『ジャムの真昼』

 今日はだーさんがいないので淡々と過ごしました。そして明日からは私もちょっくら地元なので、この記事は報告程度にさせていただきます。

 『ジャムの真昼』、皆川博子を読みました。
 

 収められているのは、「森の娘」「夜のポーター」「ジャムの真昼」「おまえの部屋」「水の女」「光る輪」「少女戴冠」、です。
 実はこの本の表紙にはちょっとひいていました。少し調べてみましたら、すごく人気のある幻想絵画家ジェラール・ディマシオの作品でした。でもやっぱり怖い…。
 “一枚の写真、一枚の絵から、物語を紡ぎだす”という試みによる作品集です。表紙の絵は、表題作「ジャムの真昼」のイメージとなったもの。

 頽廃や官能、甘美で幻惑的な皆川ワールドが堪能できました。最近和の時代ものを読んでいましたが(「乱世玉響」とか「倒立する塔の殺人」とか)、久しぶりに皆川さんのヨーロッパの時代ものを読むと、また違った妖しさがあってこれがいいのだなぁ…と。時代が近い所為もあって、『総統の子ら』の雰囲気を思い出しました。
 とりわけ、「ジャムの真昼」や「おまえの部屋」が好きでした。あと、「夜のポーター」も。どの物語にも、選ばれた絵や写真との響き合いにうっとり…してしまいます。
 最後に収められている「少女戴冠」だけは、語り手の“私”が皆川さんご自身のことのような小品で、少し他の作品とは色合いが違うのですけれど(舞台もニューヨークです)、とても印象深く読みました。

〔 「白が善あるいは正を意味するなら、逆は黒でしょう。わたしは灰色なの。だから、白のなかにいたら、私は自分が黒に近い存在であることを始終意識しなくてはならない。他人と親しい関わりをもてないのは、悪いこと? そうらしいのね。他人を愛さないのは悪いこと? そうらしいのね。でも、世界の本質が黒であったら、灰色もそう悪くはないわ」 〕 186頁

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岸田今日子さん、『二つの月の記憶』

 なるたけゆっくり読むのがいいようでした。岸田さんのあの声を思い出しながら読むと、えもいわれぬ香気に包まれるような按配になり、さらにさらにいいようでした。 

 唐突ですが。
 ごく幼い頃、蜥蜴の尻尾を踏みつけたことがあります。雪柳の緑したたる夏の庭。当時は爬虫類を怖がるような子供でもなく、本当に噂通りに尻尾だけを残して逃げるのか見てみたいという好奇心ばかりでした。でも…尻尾は切れなかった。私は敏捷な子ではなかったし、そもそも子供ごときの体重でいちいち尻尾を切っていたらば、いくら丈夫な爬虫類といえどもやってられないですね。  

 これはとても薄い一冊なので、ここに収められた七つの物語はさらにさらにとても短くて、不用心にさくさくと読みあげてしまったならば、するりとこの手からすり抜けてしまいそうな気がしたのです。その時に慌てて手を伸ばしても、物語の尻尾は摑めない。だから湯舟に沈みこむような心地で、ゆ…っくりと読みました。物語が逃げてしまわないように、しばしその煌めきがこの指に留まるように、ゆ…っくりゆっくり。
 それで、先のような子供の頃の夏の一場面を、芋づる式に呼び覚ましてしまったのです。物語のラストでざわざわと戦慄が走って、今のは何…?と慌てて手を伸ばす瞬間は、蜥蜴の尻尾を踏みつけるみたいだなぁ…なんて、我ながら変な連想をするものです。 

 先日書店にて、一目惚れをした一冊です。
 『二つの月の記憶』、岸田今日子を読みました。


 収められているのは、「オートバイ」「二つの月の記憶」「K村やすらぎの里」「P夫人の冒険」「赤い帽子」「逆光の中の樹」「引き裂かれて」、の7篇です。
 どの物語も、大変に好きでした。妖しくてエロティック、滑稽なのだけれどちょっぴり哀れ。時には愛おしい時間、時にはゾッと背筋が凍りつく時間。そしてもっともっと、なんて言うか…深い深い記憶の沼へともぐっていって、誰かの胸に仕舞いこまれた遠く切ないおとっときの思い出を、優しく丁寧に掬いあげてくるような作風に、酔いしれてしまいました。

 まず最初に収められている「オートバイ」には、もう一つ入れ子の物語があります。そのもう一つの物語が少しずつ挿入されてくる具合が、心憎いほどに絶妙で素敵です。私は岸田さんの文章を初めて読んだのですけれど、何の前置きもなく場面や時間軸が変わるのも、いかにも女優さんならではという感じの不思議な味わいがあってよかったです。とても愛おしい気持ちになれる、逸品です。
 あと、これは是非とも岸田さんの情感溢るる朗読で聴いてみたかったな~と思った私のお気に入りは、「P夫人の冒険」です。これ、主人公のP夫人ってつまり雌豚なのです(しかも美人らしい)。で、雌豚のP夫人が、ハーレークインロマンスばりの恋と冒険をする、という…。けれどもそんなユーモラスな物語を待ち受けているのは、塩っ辛いラスト! 涙なしには読めない…というのは大袈裟ですが、嗤いの中にも一粒の涙が…。うははは(思い出し笑い)。
 「赤い帽子」もよかったなぁ。赤ずきんちゃんが下敷きになっている、老少女の色香にむせるような作品でした。

 全体的に言えるのは、ラストの暗転の素晴らしさ。一瞬本当に、衝撃に打たれたように茫然と立ち尽くしてしまう、そんな作品ばかりでした。 
 そんな中でもとりわけ「引き裂かれて」は、本を閉じてからもしばらく恍惚と放心してしまう、魅惑の作品でした。 どこかしら幻想譚みたく、でもどこからが幻想なのかはきっとご本人にしかわからないんでしょうね。この作品はある女優が、かつてポーランドの演劇祭を訪れた日々を回想する形で語られていくのですが、当地で出会った脚本家・N氏との会話の中でA・K原作の映画にふれられていることから、岸田さんご本人のことであるとわかります。 
 N氏の蒼い眼の湖にどんなに強く心を惹かれても、叶うはずのない幻のような約束。そうして再び会うこともないままに、15年の月日はそれぞれに流れる…。最後の3行はただただ溜め息でした。
 
〔 「あなたの映画を観ました」と、N氏は通訳のCさんを通して言った。「あの映画は、わたしたちの伝説です」。A・K原作のその映画が、東欧で爆発的な人気を呼んだことは通訳のCさんからも聞いていた。 〕 90頁

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