蜂飼耳さん、『紅水晶』

 時々本やさんで見かけては、詩集をぱらぱらとめくっていたが、今回初めて小説集を手に取った。

 『紅水晶』、蜂飼耳を読みました。


〔 枝先で、石榴が割れている。空の不安な位置に掛かっている。後悔のように紅い実が、詰まっている。 〕 173頁

 研ぎ澄まされた言葉たちが並ぶ硬質な文章には、常にそこはかとなくピリリとした緊迫がある。まるで追い詰められたぎりぎりの崖っぷちで、凛然と屹立しながら誰かを待ち伏せているようだ。耳を傾けようとする者に容赦なく囁きとり憑いてくるのは、詩人の感性によって選び抜かれたその言葉たち。耳元からぽとりぽとりと、注ぎ込まれる…。
 耳元からぽとりぽとり、注ぎ込まれる囁かれる。それは誰かが内に秘めてきた、毒の言葉なのかも知れず…。時折振り払いたくなりつつ、痺れたように動けなかった。

 一話目に収められた「崖のにおい」は、しょっちゅう森の奥を歩く女性サエコが語り手である。 
 森をただ歩く女という設定が、符牒のように心に引っかかった。森という場所は、実際にそこで暮らす命たちにしてみたら、きちんとした食物連鎖の輪が出来上がった棲み処だろうけれど、人間の勝手な意識には、剥き出しなままの混沌がそのまま其処にあるような場所ではないか…と、そう、思ったから。
 「崖のにおい」に限らず、この作品集で描かれた女たちの内側には、そんな手付かずなままの野蛮で混沌とした場所がある。だから森の中を歩く女は、何も気付かぬうちに、自身の無意識をうつすような様相の森深くへと、足を向けずにいられないのではないか…と、そう、思った。森の奥へとさまよえば、彼女は誰かに会うのかも知れない。或いは、会わないのかも知れない。何かを拾うかも知れないし、或いは拾わないかも知れない…。らんちゅう愛玩者が脱魂した後、その妻がとった行動に戦慄した。

 「こぼれ落ちる猿の声」は、バンコクの空港で、50代の女性が東洋人の若い女に声をかけられる場面から始まる。初対面の相手に向かい、個人的なことを語りだした彼女の話とは…。
 これは、かなりきつい話だった。カウンセラーとして働く主人公が、長い長い時間をかけて澱のように溜めこんで押し殺し続けてきた憎悪のようなものが、時折透けて見えるような気がした。憎悪、のようなもの。憎悪ではないかも知れないが、他に名付けようのない心の澱…。かつて自分を「冷たい女」と呼んだ、元夫への思い。マリ・クワタへの羨望。 
 ラストで打ちのめされた。彼女の体中で遺伝子の鳴る音に、私の体まで引きずり込まれて痛くなるようだった。

  5篇がどれも凄いと思うが、圧倒されたのはやはり表題作の「紅水晶」。
 これは、薬剤師として薬局に勤める百音(もね)という女性が主人公だが、実は昔のバイトでストリッパーをしていた、という設定にはかなり吃驚した。それはちょっと唐突で強引過ぎないだろうか…と、思ってしまったのだ。ところがその設定が、百音という女性の抱えた断裂的(心と体とか愛情と憎悪とか今と過去…)で破綻しそうな部分を描く過程で、とても説得力のあるものになっていくのには舌を巻いた。物語の底流にあるうねるような凶暴な力と、繋がり合っているのだ。
 石のベッド、とりかぶとのにおい。“だれを殺そうとしているの?”。

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佐藤哲也さん、『熱帯』

 これまた脱力的に面白かったです。へなへなへな…。
 そもそも表紙がこれですから、読む前から少々脱力気味でした。一体何ものですか、このしとたちは…と(あ、人じゃないか)。 

 『熱帯』、佐藤哲也を読みました。 
 

 冒頭に出てくる多々羅群島では、一年の半分が真夏日となるそうな。だからそこに住む人々はせいぜい知恵をギュウギュウしぼって、島それぞれの方法で夏を凌いでいたのであったとな。たとえば夏眠(冬眠があるのだから夏眠もある…)を取るだとか、氷を背に載せて涼を取るだとかして(その氷はどこから…?)…だが、しかし。
 では、この愉快な群島がこれから始まる物語の中心になるのかな…と思いきや、あっという間に物語の舞台は本州へと上陸してしまう。でも私、この多々羅群島のプロローグがすっごく好きだった。相当に馬鹿馬鹿しいけれど、そのいじましい愚かさが可笑し過ぎて…。くくくっ。タイタニックだし(ん?)。

 本州に移った物語はまず、多々朗島出身の多々見寸前の長男である多々見不運の身辺へと移る。多々見不運(29歳、妻一人)が働くのは、政府機関の一つである不明省。不明省とは、“国家安全保障の要”であり、“不明の事象をいつでも受け入れ、誰も知らない奥深い場所へと運び去る” “行政の失敗を飲み込む。計画を飲み込み、通達を飲み込み、報告を飲み込む”…という訳で、とんでもなく無敵な機関である。
 ところがその無敵の誉れ高き不明省に、機能低下が見受けられるようになったという。そしてここに、コンピューター・システム改修を図るプロジェクトは立ち上がった…! 

 さてその一方、愛国的気象論者の全国組織である大日本快適党なる連中の存在がある。我々はテロリストではない!と言い張りながら、エアコンの破壊に心血を注ぐ、相当に胡乱な輩の集まりであるが、その党領袖は多々利無運。どこまでも伝統を追及していく(という建前)主義主張の彼らがその為に目指す、“事象の地平”とは、つまるところ何ぞ…?

 気が遠くなるほど不毛な会議の場面が延々続いたりして、時々げんなりさせつつ、CIAの諜報員やら神(!)やら何やら…と、話があっちこっちで絡み合いながら転げていく。そもそもどうしてこんなことになったんだ? 確か発端はかなりしょうもないことじゃあなかっただろうか…?と惑わされながらも、やっぱりずーっと笑いっぱなしだった。いや、嗤いかな。 

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T・E・カーハート、『パリ左岸のピアノ工房』

 いずれ読んでみたい…とは思っていたが、さる理由で宿題になった作品。
 読みだしてすぐ、ピアノが弾きたくなった(単純です)。私の歌を忘れた指では、白い鍵盤の上をコロコロと無様に転びまろぶだけなのはよくわかっているけれど、「私のピアノ」と呼べるピアノが、今ここにあったなら…! 
 当り前のようにピアノのある生活が、延々と続くようにしか思えなかった遠く幼い日々。私はその有り難さを少しも感じることが出来なかった。でも、そんなものかも知れないな…。

 『パリ左岸のピアノ工房』、T・E・カーハートを読みました。
 

〔 実際、このピアノは〈けなげ〉に、楽器のシンデレラみたいに見えた。 〕 37頁

 浮ついたところが微塵もない、誠実で謙虚な音楽への愛情。あまり多くは望まない、慎ましくささやかなその愛情。そして、大好きな音楽、とりわけピアノ、に触れていられることへの心からの喜びが、とても真っ直ぐに伝わってくる素敵な作品だった。まるですべての頁から、著者のピアノへのやむことない一途な憧れが溢れてくるようで、私まで温かな気持ちになってしまう。

 文章の端々にまで、しみじみと共感できるところが多々あった。自分が子供の頃、ピアノの練習があまり好きではなかったことにも、ちょっと合点がいく気がした。なんだかね、音楽そのものを心から楽しむことと、ただ一方的に強いられながら訳もわからずにレッスンを重ねることとの間には、埋めがたい溝が横たわっていたのだなーと思い、ほろりと切なくなった。だから人は、大人になってからもう一度、ピアノに向かい合ってみたくなるのかも知れないな…(叶うか叶わないかはおいておいて)。
 音楽は、特別な才能に恵まれた人たちだけのものじゃない。それはすこぶる、当たり前のことだが。例えばこの著者のように、誰に聴かせるでもなく、他人の耳を意識しないですむよう、誰もいない時間に一人で演奏することを何よりも好む、そんな音楽の楽しみ方だってある。人と優劣を競うこととは無縁な、優しい音楽のある生活。そんな中で、己に向けられた秘かな向上心。素敵だなぁ。  

 タイトルにもあるように、ピアノの部品や修理工具、そして中古のピアノなどを扱うピアノ“再生”工房での場面が多い。一本筋の通った職人リュックの元には、様々な時間を重ねた古くて愛らしいピアノたちと、そんなピアノに魅入られてしまった人々が常に集まってくる。ピアノがとり結ぶ、出会いと交流。そこに差し挟まれる、ピアニストや作曲家の逸話。などなどなど、隅々まで楽しめる一冊だった。

 そしてファツィオーリ、世界最高級のピアノ。もうすぐ見られるの。音も聴けるかな。

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大衆中華の老舗♪ 「焼賣太楼」

10月26日、日曜日。雨と曇り。 
 今日は随分と涼しかったです。朝から少しのどの痛い私、しっかりと首まわりを守って出かけました。紫色のひらひらしたマフラーで、グルッと一巻き。そしてそして、今季初のタイツ(あ、タイツも紫…)。
 小雨がそぼ降る街をコツコツ歩いていると、軽いコートを羽織っている人たちをちらほら見かけました。秋が深まってるね。  

 今日は梅田に12時。お祭り参加の為に地元に戻っていただーさんと落ち合って、お昼ご飯を食べに行くこととしました。 
 折角ここで待ち合わせたのに、場所を変える私たちです。
 ←私が着いたのは12時だったので、動いていました(これは前回の画像)。

 さてさて、私たちが向かいましたのは、ホワイティ梅田にある「焼賣太楼」でっす♪ 先日桜橋店にお邪魔した際、アラカルトが頼めなかったのが残念だったので、別の店舗に乗り込んでみた次第。
 入口から覗き込んで店員さんに、「単品も頼めますかぁ?」とたずねて、「土日だけですが単品もあります…」という答えでしたので、よっしゃ!


 さくさくと基本をオーダーします。まずは“手作りしゅうまい”と“焼ぎょうざ”。
 やっぱり美味しい! しっかり赤味のお肉なのに、そんなに重くないのですー。

 餃子も普通に美味しく、あっと言う間になくなりました。


 さらに頼むことになって、“手作り揚げしゅうまい”と“五目春巻き”。
 揚げもの…。外はパリパリッ、中はトロッ…!

 だーさんが呑みだした紹興酒を、私もちびちび舐めました。お祭りの土産話に耳を傾けつつ…。
 中華に紹興酒はいいですねー。

 さらにさらに頼むことになって、“ほうれん草のグリーン炒飯”と“麻婆豆腐”。
 この炒飯は、こちらの人気メニューですって。どんどん食べられちゃいそうな味です。

 これも美味しかったですー。
 だーさんが凄い勢いで頬張っていました。昨日のお祭りのテンションが続いていたのか、単なる呑み過ぎか…。

 今日はこちらの一軒で、とても満足~♪ てか、だーさんが歩きながらでも眠ってしまいそうな状態だったので、ちゃっちゃと帰路につきました。 

 
 すっかり暗くなったころ、外から「ドーン! ドーン!」という音が聞こえてくるので、「まさか…?」と思いつつ窓を開けると、南の方の空に季節外れの打ち上げ花火が…。

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アマドゥ・クルマ、『アラーの神にもいわれはない』

 書影を目にしたときには逃げ腰になったが、結局縁あって手に取ることとなった(再度の推し押しをいただいた)。 

 『アラーの神にもいわれはない』、ァマドゥ・クルマを読みました。
 

 寓話として描かれた作品であると了解してはいても、確かな事実が下敷きにされている作品だけに特有な、ずっしりとした重みを常に感じながら読んでいた。いやむしろ、これほどまでに衝撃的な内容を持つ物語は、事実に基づいているからこそ語られるべきなのだとさえ思う。そうでないのなら勘弁して欲しい…と思うほどに、残酷過ぎるのだ。これは現に起こったことだと、容赦なく突きつけてくる語りの力こそが、この作品の核だと感じた。  
 呼吸すらも辛くなる、むき出しのまま斬りつけてくる語り口。それでいて、掴むべきところを巧みに掴んでいる。

 語り手である少年兵ビライマは、10歳か12歳であるという。生まれた村を出るまでの彼は、“おそれもとがめも知らない通りの子”だったという。母親の死をきっかけに村を出ることになったビライマが、巻き込まれていく部族戦争の酸鼻をきわめる実態。その異様なまでの残酷さを目の当たりにしながら旅を続けるビライマも、その残虐性から一人、まぬがれていられるはずはない…。彼らが足を踏み入れたのは、先にやらなければ自分がやられる世界なのだ。 
 行く先々で知り合った子供たちが一人、また一人と敵に殺され味方に見捨てられていく中、文字通りに銃弾をくぐり抜けてビライマが生き延びて旅を続けていられること自体が、あり得ない奇跡のように思われてきて、だんだん怖ろしくなった(だからそこが、寓話だと思うが)。 

 私が“純粋”という言葉から目を背けるようになったのは、大人になってからだった。純粋な魂が美しいなんて、空恐ろしい勘違いだと思うようになったのは…。一色に染めたい対象に、余分な混じりっ気がなければないほど、それは染め上げることを図っている誰かにとっては好都合となるのではないか。そしてそれは、人も同じなのではないか。
 こんな、血で血を洗うような残酷で狂信的で異常な世界で、子供たちの魂があまりにも易々と染められていくことのおぞましさが忘れられない。はたしてビライマの魂に、安らかな回生の日は訪れるのだろうか…?

 訳者解題が長くて驚いたが、その内容がとても丁寧で、私が一人では気が付けないようなことにまで触れられていたので嬉しかった。自分が訳すべきだと心から思える物語に出会った訳者の、真摯で誠実な姿勢が伝わってきて胸を打たれる解題だった。

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蕎麦日和に♪ 「そば処 卓」 その2

10月19日、日曜日。晴れ! 
 天高く…気持ち良く晴れた秋の日は、蕎麦日和です。新蕎麦の楽しみな秋ですもの♪

 今日は元町~三宮に少々用事がありましたので、ランチもそちらでいただくことにしました。 
 だーさんからインドカレーの案もあがったのですが、電車を待っているときに、「そう言えばカレーは食べたばっかりだなぁ」とのたまうので、「え、気が付いてなかったの…?」と呆れてみたり。「元町だったら『卓』もいいなぁ」「うんうん、もう新蕎麦だしね」…という呑気な会話がありまして、足が向かいましたのは今日で二度目の「そば処 卓」でした。
 店内が満席でしたのでしばらく待ちまして、それからカウンター席に案内されました。前回が奥まった席でしたので、全然感じが違います。お店の方たちが厨房で、お蕎麦をゆでたり出し巻を作っている様子が、ちらちらとうかがえる席でした。それもまた楽し。

 すぐに出していただける最初の蕎麦湯は(あっつあつ)、ビールもありますから呑めないのですが…。
 でもこれは、お店の個性として好きです。

 今日も二人でエビス。 
 だーさんは、この瓶を空けた後は熱燗でした。私もちょっとだけ…。熱燗はひさしぶし。

 だーさんに任せたらツマミは前回と全く同じ、出し巻とそばずしでした。この二つが美味しいからいいのです。
 海苔と蕎麦とが引き立て合っている塩梅が素晴らしいのですよ。くくっ。

 お酒をゆるゆるといただいてから、さてさてではお待ちかねのお蕎麦を。
 二人とも“田舎もりそば”にして、だーさんは白。私は黒です。
 “白”と“黒”が一緒に並んだ眺めは、とても綺麗でした。どちらもお皿の色に、よく映えています。
 美味しいんだなっ、これが。
 だーさんの“白”の味見をもらったら、そちらも美味しかったです。両方あったらついつい“黒”にしてしまうけれど、“白”もいいわー。

 ちゃんと〆の蕎麦湯まで、本日も残しませんでしたよ。


 用事を済ませた帰路、二人並んでうつらうつら…。いや、長閑長閑~♪
 そして帰宅後は、やっと衣替えに手をつけ始めました。この辺りはまだまだ案外温かいので、時期としては遅くなってしまったかも…。仕舞う前には、最後の点検を!ですね。

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人気の回転すし、「磯寿司 くるくる丸」 その6

10月18日、土曜日。晴れ。 
 ほんと、お天気がいい…。 
 今日は濃紺のビーズ付きツインニットに、京風プリントの軽いスカート。涼しい風に、プリーツがゆれますー。  

 昨夜はまたまたチャット。12時ちょい前から参加したのですが、実はそれまでにひと眠りしていたので終わってからも目がギンギン。結局眠りなおしたのは未明4時でした。私が参加するチャットは、「やっぱり本を読む人々。」のコミュなので、本の話ばかりという訳でもないのに宿題本が増えます…。やでやで。
 今朝は流石に起きるのが遅くなってしまい、だーさんが床屋へ行っている間にゆるゆる湯舟に沈みこみまひた…。ぶく。

 あ、さて。 
 今日は久しぶりに車で出かけて、所用を済ませてからもう一度出直し。阪神電車で毎度お馴染みの「磯寿司 くるくる丸」へと行ってきましたー。

 奥まったカウンター席に腰を落ち着けると、まずはこれ。
 今日は“ヒラメ”からいただきました。実はすごーくお腹が空いていたので、ひるるるる~と底なしの井戸に吸い込まれたみたいになくなってしまいました(本当にそうだったらいいのに…)。

 人心地ついて二皿目、“ひもつき赤貝”。
 これ、美味しかったです! 歯応えさいこーよ。コリッコリ~♪

 三皿目はあぶりもので、“豚トロ”です。
 お肉が甘いですのう。 

 トロ繋がりで、こちらはだーさんが頂いた“中トロ”。
 これは綺麗です。

  私の四皿目、“ふぐ白子”。 
 うひひひひ。 

 五皿目に、あまり頂いたことのない“子持ちしゃこ”。しゃこって、見た目がちょっとねー。
 …といいつつ、気に入りました。

 で、〆に「トロ鉄火」。 
 薄ーいピンク色のトロ、美味しかったですー。 
 そう言えば、最近山葵が食べられない人が増えているという話を、少し前に小耳に挟みました。うーむ、山葵がきいていないお寿司なんて私は考えられないよう…(無理!)。
 こちらのお店、何を選んでも美味しいのでお邪魔し甲斐がありまする。ご馳走さまでした~♪

 
 西宮駅のあたりをぶらぶら歩いていたら、和菓子祭りというイベントが催されていたので冷やかしてみたり、あんまきを二人で半分ずつ。


 ふわっとしているのかと思いきや、周りはサクッとしていましたよ。
 出来たてのほやほやなので、ほんのり温かでした。甘いものを、仲良く半分ずつね。

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小池昌代さん、『ことば汁』

 いわゆる恋バナを楽しんだことがない。不自由な恋の為に他愛なく浮き沈みを繰り返す彼女たちの話を、冷めた思いで聞いていたような気がする。そんな自分の方が、縛られていないのだと思っていた。 
 この作品集に出てくる女性たちのほとんどは、恋少なき女たちだ。そして、その少なさ故にこそ、底なしの溶鉱炉を抱えながら生きているのだった…。くわばらくわばら。

 『ことば汁』、小池昌代を読みました。
 

〔そんなことを想像すると、彼を、いきなりバナナのようにむきたくなって、そんな自分にびっくりした。〕 78頁

 (バナナって…!)
 どの話も途中まで読むと、足元をすくうように妖しい幻想の世界へと転げ落ちてしまう。長い年月をかけて築いた自己欺瞞という名の楼閣は、一瞬の波にもろく崩れ落ち、般若の素顔をさらした女たちは、現実から足を踏み外していく。ふらりと、目の前の垣を乗り越えていく。 
 それまでの生活があまりにも普通だからこそ、ぞくぞくするほど怖かった。駆りたてるような狂気への移行に、もはや躊躇いは感じられない。怖くて、刺し止められるほど目が離せなくなった。彼女たちの目覚めたばかりの暗い欲望に、魅入られていた。 
 女が女であることの底知れぬ深淵からは、出来ることならば遠のいていたいけれど、生きている限りどこまでも付いて回る不穏さからは逃れきれない。難儀なことだ。

 どの作品もとても好きだった。例えば「つの」は、30年以上も一人の詩人に秘書として尽くしてきた女性の話である。彼女は、その手のかかる詩人(先生)のことを、己が支えて守り続けてきたのだと自負している。仕えても仕えても何ら報われないことすら、もはや自虐の喜びである。
 30年も押し殺し続けてきた欲望に、注意深く施した欺瞞のメッキ。不意打ちのきっかけたった一つで、なんとあっ気なく剥がれ落ちていったことか。
 女の爪の伸びるのが異様に早いというところ、凄かった。目に見えるところから変容していく…という、息を呑む後半の展開に効いてくる。

 「すずめ」も、突き落とされるほどに素晴らしかった。こちらは、一人でカーテンの専門店を切り盛りする50代の女性の話である。それまで禁欲的に生きてきた彼女が、新しい顧客のお屋敷でのパーティに招かれたことから、知らずに押さえていた新鮮な欲望にめきめきと目覚めていく。
 珍しい貝の料理を貪る、美しく着飾った裕福そうな人々の群。謎めいた美少年の存在と、パーティには姿をあらわさない主人滝沢氏の不可解さ。この作品もまた、一度に全体がぐにゃりと歪むような切り返しが見事である。これは悪夢なのか、ただれた欲望の果てなのか。支配されてゆだねきる、堕落への欲望。“わたしはすずめ”…。昔話のアレンジが凄い。

 「野うさぎ」は、突然小説が書けなくなった女性作家の話である。ある日、森の中で老婆に出会う。そして老婆から聴かされる円環の時の話が、かつて自分が書こうとしていた物語に似ていると思う。名前もしがらみもいつしか失くし、どんどんタガが外れたように彼女は自由になっていく。 

 はっきりと納得のいく原因と結果(なぜ、そんなことになったのか?)など、実は何処にもないということが、彼女たちの魂の揺らぎや飛躍をよく表している。女が物騒になるのはいつも、理屈を超えたものに突き動かされるとき。例えそれが、墜落を意味するものであったとしても。

 詩人らしい言葉遣いと音の響きが、官能的かつ感覚的に使われたこの一冊に、このタイトルを持ってくるのも面白いと思った。そのままでは手の付けられない具材をどんどん放り込んで、ぐつぐつぐつ…どろどろに煮込んで渾然と溶かしてしまったスープのイメージ。

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野阿梓さん、『兇天使』

 野阿さんの作品はずっと気になっていたのに、この度やっと手に取った。随分と遠回りをしてしまったことよ…。

 『兇天使』、野阿梓を読みました。
 

 すっごく好きでした…。美文調で繰り広げられる豪奢な物語に、うっとりしながら幾度もため息をこぼし、耽美なる贅を尽くした全篇にときめいてしまいました。眩しいほどの驚異、妖しいほどの邂逅。 
 まず読み始めてすぐに、めくるめく綺羅なイメージの中、聖なるものと俗っぽいものとが分かちがたく絡み合うがままに描かれる独特な世界に、鷲摑みにされていました。壮大で神々しきスペクタクルと、妖しく爛れた天使たちの情事にくらり。黒皮のジャンパーを羽織った熾天使の背には、純白の翼が…! その、聖俗を楽々とかけ合わせてしまう意外性に、またくらり。

 こちらを翻弄せんとばかり、章ごとに鮮やかに移っていく舞台。熾天使の見事な翼ならば、ほんの一羽ばたきでしょうか。夢中で追いかけながら、「これは漫画作品にしても素敵だろうな…」と思わされる場面も多かったです。昔のように萩尾望都さんの表紙だったら…なんて。
 金色の虹彩、猫のひとみの熾天使セラフィの傍らに、羞恥に頬を染めた華奢な肢体の小さな天使…(ぽ)。蒼ざめた憂愁の剣士ホレイシォの傍らに、誇り高き薄倖の王子ハムレットとか…(ぽぽ)。いや、それだけじゃないですよ勿論。どこまでものび広がって覆い被さってくるような、SFらしいイマジネーション溢れる場面なんかも、二次元で表現されたらどんな風かしら…?と、何度も脳裏につたなく思い浮かべていました。 
 
 悪龍ジラフを追跡するセラフィの行く先々の物語に交叉する、剣士ホレイシォを主人公とする小説版「ハムレット」。この二つの並行するストーリーがどこでどうして繋がるのか…というのは、なかなか見えてこないものの、どちらの内容にもどっぷり魅了されてしまいます。「ハムレット」の解釈が面白いのは言うまでもありませんが、作品の其処彼処に散りばめられたペダントリーも読み応え充分です。

 思いがけない展開と、壮麗に重なり合う構造。最後の最後まで揺さぶられ続け、耽溺しました。
 かくも美しくかくも絢爛な、裏切り。神々の特権…。

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神戸の老舗パスタ♪ 「RYU‐RYU TRENO」 その2

10月11日、日曜日。晴れ後曇り。 
 駅までの道々、街路樹の影の下。だーさんがうっすら笑んでいたので、「何? うれしそうに」とたずねると、「今が一番好きだなー」という答え。涼しくなってきたのが嬉しいらしい。今日は風の温度が低めだった。

 昨夜、「明日は何をしようか?」とお喋りしてもこれといった案が出なかったので、県立美術館のシャガール展に行ってみることに。シャガールを観るのは久しぶり。凄く好きなわけではないものの、やっぱり本物を観ると面白かった。10代の頃はもっと好きだったなぁ。空に浮かんだバイオリン弾きとか恋人たち、緑色の羊、さびしいサーカス…。 
 今回は、「街の上で」が観られたので満足。下の方の街並みが、あんなに愛らしくて夢のように淡やかな色遣いで描かれているなんて、本物じゃないとわからないと思う。あと、劇場を飾った壁画シリーズも楽しくて良かった。それから負傷兵が薄笑いをしている小さな作品は、怖すぎたけれども忘れがたい。あの眼。
 しかし、どうにも作品の数が多過ぎて、仕舞いには疲れてしまった。

 絵を観たのがお昼ご飯の前だったので、タクシーを奢って三宮へ移動。高架下の「RYU-RYU TRENO」で遅めのランチ。
 美術館にいるときから、のどが渇いていたのよう。

 だーさんが即、赤ワインに切り替え。RYU-RYUのハウスワイン。
 中身は神戸ワイン。オリジナルのラベルが可愛い。

 だーんさんが頼んだのは、“にんにくとうがらしベーコン”。
 一応大盛り。

 そして私が頼んだのは……。
 えええっ、これじゃありませんっ。
 “ゴボウビーフ”を頼んだはずなのに、“ゴボウベーコン”が運ばれてきてしまった…。しばし大人げなくジタバタしたが、そのままいただくことに。
 ベーコン、美味しいじゃん…。だーさんの方にもベーコンが入っているので、「きっとビーフよりも美味しかったって」と、フォローされちゃった。

 ごぼうは香ばしくって歯ごたえがしっかりあって、なかなか良かった。
 ネギがとても合う醤油ベース。

 お腹がペコペコだったので、赤ワインを呑みながら黙々と平らげたよ。 
 中休みもないし、使いやすいパスタのお店。またいずれ。

 食後は二人でジュンク堂。だーさんがもうすぐ社内旅行で道後温泉に行くので(羨ましくてしょうがない)、お土産チェックに立ち読み。私は軽く巡廻。

 そして休憩(休憩、早っ)。
  このお店は、作りたての“生厚揚げ”がよろしい。前回頼んだ時はお店の人が、「世界の生厚~!」と奥に向って叫んでくれたのだけれど、今日はそれはなしだった。

 この後だーさんには先に帰ってもらって、近くのお店でお買い物をする。ふふふ、秋もの秋もの♪

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