田中啓文さん、『銀河帝国の弘法も筆の誤り』

 『銀河帝国の弘法も筆の誤り』、田中啓文を読みました。

 収められているのは、「脳高速」「銀河帝国の弘法も筆の誤り」「火星のナンシー・ゴードン」「嘔吐した宇宙飛行士」「銀河を駆ける呪詛」の5篇。いやはや面白かったです。

 どの作品も相当に馬鹿馬鹿しくて、噴飯する気力も萎えるほど馬鹿馬鹿しかったです(ほめ)。けなせばけなすほど讃えてしまうというジレンマに陥りつつ甲乙付けがたい(?)ものの、私が一番気持ち悪くて感心したのは「嘔吐した宇宙飛行士」です。スペースオペラ的スケールの嘔吐ですよ。スペースオペラ的スケールの漂うゲロで(あら失礼、でもこんなもんじゃなくてよ)、凄いことになりますですよ。
 一番脱力して感心したのは「銀河を駆ける呪詛」でしょうか。スペースオペラ的スケールの呪いネットワークですよ。そんな、そんな、そんな…そんな親父ギャグ以下の駄洒落の為にそこまでするかーっ!と、首がかくかくしそうな虚脱感に襲われました。

 そうそうたる顔ぶれの解説が差し挟まれているのですが、「SF作家・田中啓文批判」とか「悪趣味作家・田中啓文批判」とか、そんなのばかりです。う~む。
 凄まじい着想だなぁ…としばし気圧されるほど面白くて独創的なのですが、それらが全て駄洒落に収斂されていくところが天晴れです。もう、それしか言えません。『蹴りたい田中』の衝撃再び、でした。
 (2007.7.31)

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桜庭一樹さん、『青年のための読書クラブ』

 ほとんど表紙買い。装幀買いと言うか。
 『青年のための読書クラブ』、桜庭一樹を読みました。

 “名門お嬢様学校の、禁断の部屋へようこそ。”というのが帯の惹句です。どうです、思わず手が伸びるのも無理はないではありませんか。それに、読書日記を読ませてもらっているわけで、兎に角すこぶる本を読む人であるとわかっていました。ですからこのタイトルを見て、期待の鼻息も高まろうと言うものです。

 聖マリアナ学園の、異端者たちの吹き溜まり。殆どの生徒から忘れ去られた崩れかけの赤煉瓦ビルの三階のそのまた奥、不気味なアルミのドアの向こうに待っているのが、異形の少女たちが集う「読書クラブ」。いざ、そのドアを開けん。 
 この作品は五つの章から成り、「読書クラブ」が受け継ぎ語り継ぐ〈クラブ誌〉に残された書記からの抜粋という形になっています。最初に登場するのは、1969年度における、学園の表の歴史からは葬り去られたある偽王子の物語です。章を追って少しずつ時代が現代へと近付きます。 
 モチーフに取り上げられているのが『マクベス』や『緋文字』(あ、昔読んだよ)といった古典作品です。フランスの戯曲を原書で読む少女が登場したりする辺り、時代錯誤な文学少女趣味がかいま見えて心憎くも面白いです。

 読み始めてすぐにご満悦になりました。特にこの、投票で決められ“王子”と呼ばれる存在の設定は、女の子の心理を巧妙に掴んでいて秀逸だ…などと感心しつつ。…なのですが、途中までいったところで少々具合が悪くなり、どうしてかしら…としばし立ち止まりました。話を面白くするために何かを犠牲にしているような気がして、それが引っかかりました。少女たちのキャラクターとか、ちとデフォルメされ過ぎでは?とか。烏丸紅子の内面の描き方にもすっきりしなかったり。
 ところが。第一章をラストまで読んで、二重三重の皮肉が効いた話だったことがわかりました。再びご満悦。
 学校という閉塞された場所の特異性を巧く扱って、まるでファンタジーの如くありそうであり得ない世界が描かれていました。

 〈クラブ誌〉の、それぞれの語り手たちの一人称が“ぼく”なのが、何だかしみじみと懐かしい。
 (2007.7.30)

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多和田葉子さん、『溶ける街 透ける路』

 『溶ける街 透ける路』、多和田葉子を読みました。

 多和田さんはベルリン在住となっていますが、私のイメージではいつも旅人です。あらゆる時間のどこを切り取っても旅の途中のようで、空を渡る鳥を見上げるのにも似た気持ちで、素敵だなぁ…と思います。

 日経新聞に連載されていたと言うことで、一つ一つのエッセイは凝縮されたように短く、街の印象やエピソードの数々が端整な文章で綴られています。そして各々の街の名がタイトルになっているのですが、その数の多いことと言ったら。聞いたことのない街の名もあります。大半の街は観光地でもなく、小さな本屋さんが始めたブックフェアに招かれたり、馴染みの書店での朗読会に参加したりしながら、幾つもの街を通り過ぎていく。 
 例えば朗読会で訪れたデュッセルドルフでは、帰る前に思わずラーメンに箸を伸ばす。そんな最後の一文に、ふわんと笑ってしまいました。

 言語へのこだわりは、やはり隅々に感じます。うわっ…と反応してしまう箇所が幾つもあったのですが、今回は付箋を付ける手間を惜しんで、するする読み進んでしまいました。後になってからもう一度その箇所に戻ろうとしても、砂浜で落し物のピアスを探すような按配ですね。いつか再読する暁に。
 (2007.7.27)

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恩田陸さん、『木洩れ日に泳ぐ魚』

 装幀が気に入りました。恩田さんらしい題名もいいです。
 『木洩れ日に泳ぐ魚』、恩田陸を読みました。

 “本当の僕は、罪悪感も自己嫌悪も感じていない。” 163頁 

 これは一組の男女の別れの話。そしてそれは、たった一夜の話だ。主な登場人物もたったの二人ならば、回想部分を含めても絡んでくる人物もごく僅かで。物語はその二人の、入れ替わりの一人称によって語られていく。朝が来たならば明け渡すばかりとなった、空っぽのアパートの一室で。 
 互いの真意をさぐり合いながら、水面下での心理的かけひきを繰り広げながら、どうやら何か…過去に起こったらしい事件のまわりをぐるぐると、遠回りの範囲を少しずつ狭めつつ対峙する二人。して、この二人の関係は…? 

 この二人の関係は、始めの印象通りのものなのか? 過去に起こった事件とはいったい何なのか? なぜそれが二人の上にそんなにも重くのしかかっているのか?
 出し惜しむように情報が小出しにされる度に、それがまた新たな謎に繋がり、二人の微妙な関係もその都度に変容してますます緊張感はいや増す。始めから纏わり付いてきた不穏な気配が、煽る抒情と心理戦で濃度を高めていく。そして暴かれるのは、人の記憶の曖昧さと不思議な作用…。 
 雑誌で連載された作品ですが、各章毎の引きが巧妙すぎて、連載時に読んでいたら毎回の引きで頭の中に“?”と“!”が溢れかえってのた打ち回ることになりそうです。 

 “自己嫌悪が単なるアリバイ作り”…とかも、やっぱり凄い。登場人物の造形に容赦がないというか、深くて怖いです。 
 人の心は、一筋縄でも二筋縄でもいかないほどに複雑で、本当はねじれたり断裂したりしているけれど、その様をここまでリアルに描いてしまうところに私は舌を巻きます。ぎゅるぎゅる。
 そして、どんな場所に着地するのか全然見当も付かなくて、不安が拭えずはらはらと読み進みましたが、私としてはあの着地はいいなぁ…と思いました。人それぞれ受け止め方は違いそうです。
 (2007.7.26)

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米原万里さん、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

 先日読みました『オリガ・モリソヴナの反語法』がいたく気に入りましたので、手に取りました。 
 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、米原万里を読みました。

 生き生きと鮮やかに描かれる、ソビエト学校時代の級友たちとのエピソードの数々。ばらばらになった後の彼らの身に降りかかった現実の苛烈さが胸に迫り、ずしりとした読み応えでした。 
 『オリガ・モリソヴナの反語法』でははっきりと触れられていなかったことですが、米原さんは共産党員の娘で、1960~64年にプラハのソビエト学校に通っていたのはその為でした。50カ国以上の国の子供たちが通う学校なんて、ちょっと想像もつきません。そしてまた日本に戻り、日本の中学校に通い、目の前の学校生活や受験に対処し適応しようとしていく中で、少しずつソビエトの友人たちとの文通は途絶えていきます。ところが、それからの年月が社会主義圏の国々における激動の時代に重なるため、安否を気遣う親友の消息さえも摑めなくなったのでした。

 本当にこれがノンフィクション…?と疑いそうになるような偶然に助けられつつ、ついに友人たちとの再会を果たす箇所では胸が熱くなります。そして、彼女たちが語る話には、現実の重みがあります。思わずうな垂れてしまいました。
 斎藤美奈子さんの解説の中に「歴史の証言の書」という言葉が使われていましたが、まさにその通りだと思います。
 (2007.7.25)

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ドナ・ジョー・ナポリ、『野獣の薔薇園』

 『野獣の薔薇園』、ドナ・ジョー・ナポリを読みました。

 『美女と野獣』の野獣側に視点が置かれた、新解釈の物語です。ペルシャの王子がライオンの姿そのものに変えられてしまうという設定が、とても秀逸であると感じました。
 物語の前半は、ペルシャの王国の様子があれこれと華やかに描かれ、人々の習慣や王族の暮らし、風習についての記述など、珍しい話が盛り込まれていてとても興味深く読みました。そしてそこに登場するのが、薔薇をこよなく愛する心優しき王子オラスミンです。両親からの愛情を存分に受け、王子としての矜持にあふれる真っ直ぐな若者なのですが、ちょっとやっぱり、まだまだ未熟者かな…という印象も抜きがたいです。まだ、何かが足りない感じ。例えば彼は、結婚や女性の愛については、いつか王である父親が与えてくれるものとしか、考えていない節があります。 
 ですから、姿を変えられた王子が、呪いを解いてくれる女性と出会う為に長い旅をしなければならないのは、傍から見ていると修行みたいです。誰かの力を必要とすること、誰かの存在を大切に思うことを学ぶためには、まずは孤独を知らなければならなかったのでしょう。わざわざ(?)ライオンになって…というところが、かなり過酷ですが。

 私は幼い頃から『美女と野獣』の話がとても好きで、当時まだあまり知られていなかったこの話の絵本を持っていました(野獣はゴリラの顔でした)。その後、ジャンコクトーの映画を観てすごく気に入ったのですが、その映画『美女と野獣』の野獣がとても素敵だったので、「普通の人間の男に戻るより野獣のままの方がずっと格好良いのに!」と思ったことに、今の自分に通ずるものを感じますねぇ。
 でも実際、このお話の魅力はそこにあると思うのですよ。 
 特にこの作品では、王子が姿を変えられるのはライオンそのものなので、美女と野獣の組み合わせがより一層幻想的で、とても美しかったです。そして二人が遠回りをしながらも歩み寄っていく過程が、可愛くて切なくて本当に素敵でした。
 元の話がわかっているのに、ちゃんと先が気になる展開になっているところが凄いです。
 (2007.7.24)

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奥泉光さん、『鳥類学者のファンタジア』

 『鳥類学者のファンタジア』、奥泉光を読みました。

 “ためらったり迷ったりしている暇はなかった。といういい方は正確ではない。そうではなくて、フォギーは「いま」しかないと全身全霊で感じとっていた。” 628頁 

 主人公霧子さんの一人称による語り口は、自分のおとぼけ振りを自ら突っ込んだりしていて、気取りない(なさ過ぎるほど)キャラクターにぐっと親近感が湧きます。そして面白いのが、その語り口の文の長さ。一つの文の中に起承転結が入っていたりして、文章が全体的にうねっているみたいな、面白いリズムを作っていると思います。う~ん、それはもしかしたら、霧子さんがジャズ・ピアニストであることと関係があるかもしれません。だって何か…ジャズってうねり?

 音楽、とりわけジャズについての蘊蓄も楽しめるこの作品は、タイムトラベルものとしても存分に堪能できます。師匠霧子さんと愛弟子のハイパー佐知子ちゃんが、時間軸を遡ってドタバタと大活躍です。楽しい!
 (2007.7.23)

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皆川博子さん、『水底の祭り』

 『水底の祭り』、皆川博子を読みました。

 収められているのは、「水底の祭り」「牡鹿の首」「赤い弔旗」「鏡の国への招待」「鎖と罠」。初期の頃の短篇集で、単行本が出版されたのは1976年でした(私が入手したのは10年後に出版された文庫本)。そして主な物語の舞台になっているのは、高度経済成長期の日本。

 時代を感じるのは、例えば戦争が残していった黒い影が、まだまだ人々の足元まで不気味に伸び続けていること。当時子供だった世代(戦中派?)がいい大人になり、それでも何かしらの心的外傷を癒やしきれずに抱えていたりする。それが人の命に関わるような内容なので、ずしりとした重みでのしかかっているのです。
 この頃はまさに、昭和らしい煩雑さといかがわしさに満ち満ちた時代ですが、この短篇集に一貫して流れている空気から感じられるのは、勢いのある時代の華やかさに隠された、底知れぬアンダーグラウンドのいかがわしさかもしれません。

 男から性を買う女性剥製師、勢いを失ったミュージカル・グループ、堕ちていく偶像。とぐろを巻いた、血なまぐさい妄執。どの作品の中にも、あらがい難い退廃の空気を嗅ぎ取ってしまう。そして、ずくずくと果実が爛熟して、ゆっくりと腐敗していく姿をまざまざと見せつけられているような落ち着かなさ。それなのに決して目を逸らせなくなるほどに、悪魔的な魅力に捕り込まれてしまう。それでかねての思惑通りなのだけれども。
 爛熟と腐乱も、美も醜も、行き着く先では一つに混じり合う。魅入られたように背中を押されながら、滅びへの誘惑に足を向ける彼らも。彼らの醜い(のか、美しいのか)姿を描ききる筆の、容赦のない冷徹さったらどうだろう。

 表題作の「水底の祭り」は飛びぬけに秀逸だなぁ…などと恐れ多くも思いつつ読み進んで、「鎖と罠」で再び突き落とされた。救いのなさに、ゾクリとする。冴え渡る凄味に、射竦められる。
 熱いのか冷たいのかすら、もうよくわからなくなる。皆川さんの描く女たちの情念は、激しい温度差を孕み持っていつも危うく揺らめいている。その測りがたい温度差に幻惑されるのが、私は怖い。
 (2007.7.19)

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服部まゆみさん、『時のかたち』

 『時のかたち』、服部まゆみを読みました。

 初期の短篇集である。収められた作品は、「『怪奇クラブの殺人』」「葡萄酒の色」「時のかたち」「桜」「服部まゆみノート」。服部作品の魅力と言えば、うっとり濃度の高さ。視覚的で耽美で、いつも酩酊させられる。とても美しいけれども翳りを含んだ一幅の絵画が、目の前に浮かび上がってくる…そんな素敵な作風なのだ。服部さんは画家でもいらっしゃるので、それもそのはず(表紙の装画はご自身の作品でした)。
 かの澁澤龍彦を髣髴とさせる人物が出てくる「『怪奇クラブの殺人』」は、幻想文学好きな作者の悪戯っぽい笑みが見えてきそうな一篇。「葡萄酒の色」や「桜」は、描写される情景や、話の中心となる女性の繊細な美しさが切なくて、余韻も格別な二篇。 
 そして何と言っても、表題作は素晴らしかった。トリックがあって、でもそれもあざとくはなくて。蛾を採集してコレクションしている人物が出てくるのだが、そのイメージの使い方も巧妙だった。蛾の妖しい美しさにとり憑かれた人と、醜さを嫌悪する人…。作品全体を蔽う鱗粉の、妖しく不吉な煌きが忘れられない。

 最後の「服部まゆみノート」には、服部さんのエッセイやインタビューが入っていて、これもすごく嬉しかった。服部さんのエッセイを読むのは初めてだったし、インタビューは短いけれども、北村薫さんや若竹七海さん…たちが聴き手で、とても満足な内容だった。

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マーガレット・アトウッド、『侍女の物語』

 『侍女の物語』、マーガレット・アトウッドを読みました。

 読みだしてしばし、「わたしは」「わたしは」「わたしは」「わたしの」「わたしが」…と、1頁に何度も「わたし」が出てくるのが何だか無性に気に障った。輪郭がくっきりしていて意志的で、みっちり濃密に中身が詰まっていそうな「わたし」が、絡みついて畳みかけるように何かを訴えてくる調子が、そう…少しばかり鬱陶しくなった。重苦しくて。
 慣れるしかない…と気を取り直し読み進んでいくと、ストーリーが動き出すのと同時に左程気にならなくなったものの、出だしで感じたその重苦しさは、そのまま拭われることなく続くことになった。 

 不穏で不気味な世界。主人公の感じている、常に追い詰められているような不安、何もかもを管理され物のように扱われ、自由や尊厳をもぎ取られたことへの憤りと哀しみ…彼女の中で疼くそれらがどんどん押し寄せてきて、捕り込まれてしまう。
 物語の舞台は、女性の殆どが不妊になってしまった近未来の世界で、そこに住む人々はきっちりと身分階級で区切られている。その身分を示す色の衣服を身に纏うことしか許されてはいないらしい。ということは、だんだんわかってくる。でも、こんなに極端な管理社会国家が出来上がるまでの過程について、なぜこんな世界が…という疑問への説明はされないまま、それでも少しずつ物語は動いていく。
 本来の字義から乖離して、便宜上使われ続けている虚偽の言葉たち。〈侍女〉〈目〉〈天使〉…。虚偽の言葉では隠しおおせない、恐怖による支配がそこにはあった。 

 今、こちらの世界が正常なのだと仮定すれば、あちらの世界はあまりにも異常である。悪夢か、病んだ心の描く妄想か。酷くおぞましく、あまりにも気持ちの悪い世界だ。でも、私がこんなに嫌悪感をかきたてられたのは、グロテスクな人間のカリカチュアを見せられたからだ。確かにそこに人の本性が暴かれていると、思わずにはいられない。 
 こちらでは一見、人が人それぞれの価値観を持った上で辛うじてでも共存していられるようだ。それは本当は、とても微妙なバランスで危なっかしく遂げられていることかもしれない。もしも世界が覆ったら、異常が正常にとって代わることはあり得る。生き延びる為の手段として、たった一つの価値観の元に誰もが生きなければならなくなることだって。歴史が繰り返してきたことの一環として。  
 そして心配していたラストですが、この物語の終わらせ方は私は好きでした。何てこったい…と、呟かずにはいられなかったとしても。
 (2007.7.17)

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