人気の回転すし、「磯寿司 くるくる丸」 その3

5月31日、土曜日。雨のち曇り。 
 今年の五月もとうとう終わりますね。大人になってからやっと好きになれた誕生月(学校の五月が大嫌いで…)、末日の今日は雨でした。 

 お昼は回転寿司を頂いてきました。回転寿司、最近利用が増えているような気がします。
 今日は三度目のお店、「磯寿司 くるくる丸」(阪神西宮店)にお邪魔してきました~。朝直送の新鮮ネタが売りの店です(ということは、そうじゃない店も結構あるということか…)。 

 お店に着いたのが1時ごろですが、待ち時間なし! 嬉しい空腹な私でした。そして今日は電車なので、先ず生ビール…。カロリーダウンの希望はここで儚く散りました。


 回転寿司でも、握りたてを狙う私。“さより入りま~す”の声につられ、一皿目はさより。

 
 こちらも握りたての、こち。
 最近は淡白なお魚が好きです。

 関西に越してから気になっていた“いかなご”を、小鉢で頂きました。初めて食すいかなご。
 めちゃ淡白。だからこれ、関西の人たちは佃煮(くぎ煮?)にして食べるのね。

 これも握りたて、だーさんと同時にそそくさと取りました。活鯖です。
 〆てないのに意外にもあっさりー、で美味しかったです。

 注文してから炙ってもらう、うなぎ白焼。


 軍艦が頂きたくなったので、白えびを注文。
 白えびは、富山湾の宝石なのですって。

 だーさんに倣って私も、〆に巻物を。トロ鉄火でっす。  やっぱり定番の美味しさですね。

 実は私、“のれそれ”が気になったのですが、ず~っと回っていたので逡巡して取れませんでした。のれそれって、穴子の稚魚のことなのですね。いつかまた見かけたら、いただいてみよ~っと。
 だーさんは途中から熱燗でした。私は流石にそれは…してません。

 
 西宮駅から帰ろうとしたら、CDや書籍を扱っているお店があったので入ってみました。でも…突然だったので、チェックしたかった歌手の名前が思い出せない…。
 しょうことなくぼ~っと眺めていたら、安藤裕子さんのところに新しいアルバムが! きゃあ。私って全然情報入手出来てないなぁ…と思いつつ、嬉しくてしっかと握りしめてました。相変わらず、ジャケットも可愛ゆし。
 で、帰宅後しばらくDVDを観ていたのですが、あまり安藤さんのことを知らないので、感じ入るところが沢山あって涙腺がゆるみっぱなしでした。とても素敵だったなぁ…。CDはこれから聴いていきます。楽しみ!

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

多和田葉子さん、『変身のためのオピウム』

 大好きな多和田さんの作品。
 やはり多和田さんの作品は手元に置きたい…と、所有欲は抑えがたい。この一冊は、図書館本の払い下げという遍歴で私の元へとたどり着いてくれた。

 『変身のためのオピウム』、多和田葉子を読みました。
 

〔 陶酔状態が透き通るほどの明晰さで現われると、事物はチューブのように金属的で弾力性のある輝きを帯びてくる。様々な色が出てくる。トマトケチャップ、歯磨粉、靴磨き用クリーム、辛子。どの色も、別の色が始まるところで、押し返されて終わる。ふたつの色の間には空白はない。 〕 86頁

 どこまでも続く思いがけない言葉の連鎖は、気まぐれな詩人の呟きのようでありながら精緻でもある。織り上げられていく見たこともない奇妙な模様は、境界を越え、こちらの手足にまで伸びて絡みついてくるようだった。  
 茫洋と果てなく広がる、不可思議な、心を捉えて離さないイメージの海。その言葉の波に身をゆだねてしばしの漂流をすれば、目の前の彼女たちの世界だけが本物になって、私をいつの間にかとり込んでしまう…。そしてその場所では、ぐんにゃりした曲線ばかりに囲まれて、何もかもが有機的に変容していくのだ。

 追うべきストーリーらしきものはほとんどないが、語り手の“わたし”が、色々な女性の元を移り渡っていくらしい(詳しい説明はない)。“わたし”の身体の中では、何かが製造されている。その物質(オピウム?)の所為で、陶酔状態に陥ることもあるという。“一種の麻薬製造工場”になってしまったのだという。
 登場する22人の女性の名前は、ギリシャ・ローマ神話からとられている。なかなか全ての人物まではわからなくて、後で調べてみた。
 変身譚で縁取られたギリシャ神話の女神や妖精たちのように、彼女たちの姿形は確固としたものではなく、まるで流動的に移り変わっていくようで捉えがたい。浴室で白鳥のようになるレダ、自分自身からはみ出し溢れ続けるイオ、突然縮み始めるイフィス…。
 次から次へとこぽこぽ溢れだすふんだんなイメージは、堰きとめるものもないままどこまでも広がり、次のイメージに重なり呑みこまれていく。何と勿体ない!いや、贅沢な一冊だろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ルネ・ドーマル、『類推の山』

 阪神電車で移動中、唐突に目の前の物語が、私を置き去りにして類推の空の彼方へ消えてしまった。ぎゃあああっ、うぐっ…と呻きそうになったほど、それまで夢中で読んでいた。面白かった!

 『類推の山』、ルネ・ドマールを読みました。

 おお、この風変りでキュートで愉っ快な物語よ。
 そも、神話的伝承のなかの〈山〉というものが問題なのである。それは〈地〉と〈天〉とをむすぶ絆の象徴的な山として、地理学的にも実在しているはず。…だなんて、書いた本人ですら与太を飛ばした程度の意識しか持ち合わせていなかった記事(『化石評論』の五月号)を、真にうけた人が一人いた。あまつさえその人物は、共に「探検を試みよう」などと、主人公の“私”に誘いかけてきたのである。あ、さてさて…。
 書いた本人すら塵ほども信じていなかったことを、これでもかこれでもかと説き伏せていくソゴル師の、わかったようなでもやっぱりわからないロジックに、目が回りそうになりつつ、何やら愉快な気分が乗り移ってきて、気付いたら私も登る気満々! の、〈類推の山〉。 
 この辺の展開が、シュールレアリズム文学なのかしらん…? 途轍もない法螺話に巻き込まれていく快感。

 しかし、とんでもない探検計画だ。
 仲間を募り旅立つ彼らの行く先は、あくまでも想像の中の〈類推の山〉である。それなのに、航海から始まる冒険に向けての周到な準備やら、どうしたら空間の歪みによって外側から見ることの叶わない〈類推の山〉のある島に乗り込めるかの仮説の組み立てやら…と、あり得ない設定のまま、あり得ない冒険行が幕を開けてしまうのだから。
 そんな中、メンバーたちの間でだんだん隔たりが無くなっていく様子が描かれる箇所は、とても微笑ましくて楽しくて、この作品の大きな魅力になっている。

 ときどきメンバー内の誰かが語りだす、不思議な神話や伝説。この話中話の挿入がとても面白く、非常に寓話的な世界の中にまた別の神話や伝説が入れ子になっているという構成は、とても読み応えがある。そして彼らの空想の産物が素晴らしいったら…! “携帯用野菜畑”とか。
 もう少し読みにくいかと構えていたのに、ただただ彼らと一緒に楽しい時間を過ごしてしまったみたいである。ううむ、未完だなんて…(ああ、あそこで)。
 ヴェラ・ドーマルの後記や覚書と読み合わせることで、またとりとめもなく〈類推の山〉に思い馳せてしまう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

福永武彦、『夢みる少年の昼と夜』

 福永さんを読むのは3冊目。まずはこのリリカルなタイトルに、ぐっと掴まれた。しかもこの装画、棚から引き抜いて一目でぎょっとしてしまった。そしてぎょっとした後は、何度もしげしげ見入ってしまう絵なのだが。 

 『夢みる少年の昼と夜』、福永武彦を読みました。


〔 なぜ十八歳ときめてしまったのか、太郎にも分らなかった。しかし死ぬことは少しも怖くはなかった。大人になるよりも、その方が何だか綺麗でさっぱりしているような気がした。 〕 37頁

 表題作がとても好きだった。秘密の魔法の世界を胸に潜ませた少年太郎は、もうすぐ転校しなければいけない。仲良くしてくれた友達とも別れなければならない。そんな彼の過ぎゆく一日が、声に出さない独り言を差し挟みつつ描かれていく。まだ矯められることを知らない素直な伸びやかさが愛おしくて、とても優しい気持ちで読んでいた。
 少年の、心を強くするための呪文は、ギリシャの神々の名前で守られている。夜にしのびよる不吉な死の影からも、ペルセウスの呪文でどこまでだって逃げられるだろう。だってそれが、少年だから。  

 何処にもすくいのない暗澹とした作品の多い中、印象に残ったのは「幻影」や「鏡の中の少女」、そして「世界の終り」である。 
 とりわけ「世界の終り」は、たとえば、誰もいない原野に一人ほうり出されて、慴然と立ち尽くす自分の虚ろな後姿を、思い浮かべずにはいられなかった。うそ寒い殺伐とした心地に包まれながら、いつの間にやら他人の孤独と絶望にのまれそうになる。…そんな作品だが、なぜか、いやだからこそ、忘れがたい読み応えだった。 
 傍の家族たちから見れば、すっかり心を病んでしまった女。それはかつての恋人だ。彼女の絶望の瞳に映っている、彼女にしか見えていない光景の意味。なぜ、彼女の世界は終わってしまったのだろう…。答えのわからない恐ろしさが、ひたひた足元から迫ってくる。誰が悪かったわけでもないのに、彼らの現実は闇へと転げ落ちていく…。怖かった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

梅田でお好み焼き♪ 「ゆかり」

5月25日、日曜日。曇り。 
 雨上がりの日。帰宅後一旦家でまったりしてから、自転車で図書館まで行ってきました。雨にぬれた咲き初めの紫陽花の姿を愛でながら、るるる~♪
 光が射したら、自転車の影が。

 明日から二週間ほど書庫整理の休館となるので、随分と沢山人がいました。かく言う私も、いつもより返却期限が延びるのを見こんで、張り切って借りてまいりました。 
 今の気分で選んだ4冊を膝に乗せ、図書館の大きな窓を背に一人掛けの椅子に座って、しばしぼんやり。その4冊の本を何度もぱらぱらめくっては、ひたひたと寄せてくる心地よい高揚感に浸かっておりました。1週間か2週間か、3週間後くらいには、私はこれらの物語を読み終えているのかなぁ…と思うと、何だか無性に嬉しくて。 

 さて、少し時間を遡りまして。
 今日のお昼ご飯は、梅田でお好み焼きでした。なかなかお店が決まらなかったとき、だーさんが「粉もん…」と呟いたので、以前行ったことのあるお店まで足を伸ばしてみました。梅田でお好み焼きって、いつも店の前の行列に怖気づいてしまうのに、今日は少し待たされただけ。すぐ後に列が出来ていたので、ラッキー♪でした。
 はい、そこは「お好み焼き ゆかり」(ホワイティ梅田店)でっす。

 まずはビールでのどを潤し、お好み焼が出来上がるのを待ちます。店員さんが目の前で焼いてくれるので、わくわくしながら待つのも楽しいですよ。

 だーさんが頼んだ“イカネギ焼き”と、私が頼んだ“チーズトーフ”。
 

 さらにさらに、だーさんが頼んだ“塩焼きそば”…。えっ、焼きそばも? 
 店員さんが、焦げないように隅の方に盛ってくれました。麺がもちもち。私はソースに執着ないので、塩焼きそばの方がむしろ好きかも知れないな。

 両面が焼かれていきます。あと、も少し…。


 出来あがりました~。“チーズトーフ”はマヨネーズ少なめに、“イカネギ焼き”はポン酢です。


 ビールも二杯目。

  
 途中でだーさんに、「辛子かけなくていいの?」とうながされて辛子をかけたら乙な味になり美味しかったので、どんどん辛子を増やしながらいただきました。流石にふわふわ! 

 今日はやはり食べ過ぎです(夜になってもお腹空かない…)。でも、休日のランチは美味しいのが一番!ですね。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

リチャード・ブローティガン、『芝生の復讐』

 ブローティガンは3冊目。1冊目だった『西瓜糖の日々』が、やはり藤本和子さんの訳でした。

 『芝生の復讐』、リチャード・ブローティガンを読みました。
 

〔 じぶんで公園を立ち去るかわりに、わたしはそこに立ってシャボン玉が公園を去るのを見ていた。シャボン玉たちはとても死亡率の高い脈搏を打つ。いくどもいくども、わたしは彼らが歩道の上、そして車道で不意に死んでしまうのを見てしまった。――虹の横顔が消えてしまう。 〕 225頁

 短いものはたったの2行、長いものでも数ページほどの作品ばかりが集められていました。自伝的色彩の濃い作品集だそうです。
 “裏切られた王国”としてのアメリカ…。かつてのアメリカに生まれ、アメリカで育ったことが、こんなに致命的なメランコリーとして蒸留し、言葉のはしばしや文章のすみずみにまで落としがたく沁みつき、渾然としてそこにある。愛らしい詩のような小品やシュールな設定に引き込まれてしまう掌篇にも、その底には安らかな絶望がひそりとうずくまっている。 
 きっと私は、出会うべくしてブローティガンに出会ったのだ。ここに描かれた喪失感に、どうしようもなく優しく癒されてしまうから…。

 いやそれにしても、おお勿体ない…と、こぼれおちていく綺羅の雫を受けようと手を差し伸べるみたく、何度でも掬ってしまいこんで置きたくなる、素敵な文章の多いことといったら。“虹の横顔が消えてしまう”…なんて。 

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

『エッセンス・オブ・久坂葉子』

 少し途方に暮れて立ち尽くす。この一冊についての感想は、苦しくて声にしづらい。

 『エッセンス・オブ・久坂葉子』を読みました。
 

〔 「明日はいい子になります」と、いった日はいつだったろう…… / 神様、私は、お約束を破って / こんなにこんなに罪深い女になってしまいました。 〕 プロローグより

 ぱらりとめくったらいきなりこんな(↑)言葉にぶつかって、かーっと逆上せてレジへ直行した。亡くなった年から計算すると、これは17歳のときに書かれた詩ということになる。
 早過ぎる死を自ら選ばずにいられぬ類の才能とは、何と痛ましい鋭さを持っているものだろう…と、胸が締め付けられる言葉たちだった。自分自身にすら向けられる両刃の、刹那の、こぼれ落ちる言葉たち。 
 
 稀な天分に恵まれていながら、その才能が大輪の花として咲き誇れる時期を待たずして、早咲きしてしまったような狂おしさ。或いは、無理やりこじ開けられた傷んだ蕾の、ひりりとした痛み。 
 そこまで考えてはいけないのかも知れない、先入観がそう感じさせてしまうだけなのかも知れない…。若くして自ら逝った人の才能を前にして、「嗚呼、何と儚げだろう。どうして周りの人たちは、この今にも消えてしまいそうな儚さにもっと気付けなかったのだろう」…と思ってしまうのは、後の時代から見通すことの出来る者のあまりにも勝手な言い草だから。

 自殺をした人の真実は、生き続けていく私にはわからない。ただ、この世の中で、生き延びるにはあまりにも細すぎる、ガラス細工のような繊細さをまとい生まれてしまった人が確かにいる、ということはわかる。
 いわゆる恋多き女性…だったのだろうか。何となくこの人の恋愛は、庇護を求めて泣いている、頑是ない子供のようなところがあったのではないか…という印象を受けた。己の中に、どうしても満たされない部分があって、そこを埋めるてくれる誰かにしがみつきたくて、ただがむしゃらに手を伸ばす…そんな、不器用な恋をしていたのではないか…と。本当は、真摯に生きたかっただけだろうに。

 エッセイや短篇や詩、そして「幾度目かの最期」(亡くなる日の朝に書きあげられた作品)が収められている。代表作とされる小説は入ってなかったので、いずれそちらも読もうと思う。
 早川さんの後書きにあるように、『華麗なる一族』を地でいくような名家に生まれ、“かかとの高い靴をはき、シルクのいでたちだったので、まさか歩くわけにもゆきません”と、さらりと書く優雅を備えつつ、収入が上がってからあえてゴールデン・バットを愛飲するという粋も持ち合わせていた。21歳の女性が、である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

長野まゆみさん、『カルトローレ』

 大好きな長野さんの新刊。
 何て綺麗な本なの…と、また一冊、単行本という名の美しいオブジェが本棚に増える嬉しさで胸を弾ませました。

 『カルトローレ』、長野まゆみを読みました。


〔 どうかしましたか? ワタが顔をあげてきく。外衣のへりがつくる波がたの影のなかで琥珀色の睛を潤ませている。眼縁からひと粒の珠がおち、青い外衣のひだのなかにおさまった。なにかめずらしい香油をしたたらせたようだった。……どうかしたのはきみのほうだよ。なにがきみを哀しませているのかな。ちがいます。歓んでいるのです。ぼくが求めている図案をあなたがきっとご存じのはずだと信じられたから。 〕 82頁

 さら、さら…さら……と、沙の流れこぼれる音が耳元で囁くみたく、いつも聴こえてくる気がしていた。端整な佇まいの、その文章の透き間から。 
 きび色にそまる沙の段丘の眺めが、まなうらに沁み透ってしまった静かな時間。あの、絶えず変わりゆく沙の稜線をたどって、どこまでも彼らと一緒に歩いていきたいような、そんな切ないあくがれを抱いたまま、最後のページにたどり着いた。 
 少し久しぶりな長野さんの新作を読んで、またあらためて物語の隅々に行き渡る独特な美意識に嬉しくなりました。無機的に端整な部分とやわらかくしなやかな部分とのバランスが、この上なく洗練されていて素敵です。ああ、うっとり…。

 銀灰色の鳥が風をとらえる冒頭に始まり、天空と地上をかけ繋ぐ存在として鳥たちの姿は随所で描き込まれていく。語り手の青年タフィは、かつて天空の《船》に乗っていた長寿な集団の中の若者だった。彼は、救済委員会のプログラムを終え、きび色の沙地の見わたせる土地へと移ってきたところだ。
 伝承による魔よけの為の丹念な刺しゅうをほどこした布で、身体とタマシイを守る人々のひそやかな美しい物語と、数百年前に地上をはなれて《船》に乗った結果、心穏やかで長寿となった人々の失われそうな物語とが、縦糸になり横糸になり綾なす紋様は、まるで一幅の精緻なタペストリィを見るような心地へといざなっていく。そしてその中で、ほぐれていく秘密。

 布や衣装についての描写が大好きなので、丹念な刺繍や緻密なヴェールが魔よけの役割を担いもすれば、沙漠とともに生きる人々の姿を伝える記録であり書物である…という設定には、とても勘所をくすぐられました。そう、“縫う”とか、“編む”とかいった作業には、それだけではない、何か祈りに通じるところがあると思う。

 水のありかをさぐる術を知るワタと呼ばれる人々(個人の名前は身内にしかあかさない)の中で、タフィたちと交流を持つことになる“年少のワタ”は、銀の刺繍をほどこした青い外衣を身にまとい、黄や紅や紫の羽をもつゴシキ鳥を外衣のひだや肩の上におさまらせています。長い髪も印象的で、年齢不詳な少年です。この少年がいるだけで、絵になるというか、一つ一つの場面が鮮やかに生き生きと色を帯びていく様は、とても素敵でした。 
 そしてやっぱり長野ワールドは、料理が美味しそう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

内田百けん、『続百鬼園随筆』

 いつの間にやら雨が降っていた。
 けれども重い腰を上げ、買物ついでに図書館まで足を伸ばす。てくてくてく…パン屋さんってどうも、月曜定休のところが多過ぎるような気がする、けしからぬ…てくてくてく…。雨が降ると荷物が一つ増えて手がふさがる…傘…傘っていったい何だろう…雨を避けるものか…てくてくてく……。
 雨の日に外を歩くと、気分が茫洋とまとめ難くなってしまうのは私だけだろうか…。

 『夜のみだらな鳥』が強烈過ぎたので、他の小説を読む気がなかなかおこらず、百先生の随筆を。

 『続百鬼園随筆』、内田百けんを読みました。


 百鬼園先生、好きだ…。
 かなり変わってるし頑固ですし、機嫌を損ねたら梃子でも動かない感じ。融通の利かなさといい加減なところが渾然一体となっていますが、ご本人の中には確固とした自分律があったのでしょう。その自分律の仕組みがわかりにくかったことが、周りの人々を惹き付けたのでしょうか。…すみません、ここまで前回書いた私の文章です。百さんについて書きたいように書いてしまった…。

 古めかしい言葉を拾う楽しさも、百さんを読む際の旨味です。例えば。
 タイトルに、“南蛮鴃舌”と書いて、“ちいちいぱっぱ”と読ませる。何かごもっともな曰くがあるのかと思ったけれど、意味を調べたらそのまんま! してその文章の内容は、独逸語教師だった頃の外人教師たちとの交流と、百気園先生の独逸語は限定された相手にしか遂に通じなかった…という、暴露話でした。
 なんばん-げきぜつ 【南蛮▼鴃舌】とは…。「鴃舌」はモズの鳴き声のこと。うるさいだけで意味の通じない外国語を卑しめていった語。ですって。

 ただ、時々、百さんの随筆を読んでいると、やっぱりこの人の文章から立ちのぼる空間は、あの可笑しくて不気味でそこはかとない恐怖がふわふわ漂う短篇の世界とも地続きなのだなぁ…と感じさせられ、はっとします。くすくす笑いながら無防備に歩いていくと、突然目の前に、向こう側の暗闇にすり抜けていく帳が現れて、背筋が少しばかりひんやりする。
 この一冊の中では、例えば「雀の塒」がそうでした。どうしようどうしよう、このままだと向こう側へ行ってしまう…と思いつつ読んでいたら、ほんの手前で引き返してくれて、ふうっと脱力してしまった。飄々としながら不意に怖い暗闇を思い出させてくれる。底知れない…。

 20代の頃の友人への追悼文が二篇収められていて、早くから喪失感とともにある人生だったのだなぁ…と改めて思いました。ご本人は長生きだっただけに切なくもありますが、一方ではいつもたくさんの友人教え子に囲まれて、さびしさの紛れる日々を飄々と過ごしていらしたのかしらん…?なんて、勝手に想像してみたり。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

麺喰いの日々 その13 (RICE PASTA kitchen、麺座 ぎん)

5月18日、日曜日。晴れ後曇り。 
 兎角この時期は眠くなりやすい。帰宅後二人して昼寝してしまいました。平和~♪(単に呑み過ぎ…)。

 毛づくろいを済ませたお昼前、「さて今日はどうしようか…」と話していたらだーさんが、「神戸祭りでも冷やかしてみよう」と提案したので三宮まで繰り出しました。…のですが、神戸祭りについては黙。凄い人出でした、とだけ。

 いつもはここまで来ない、市役所近くの花時計をパチリ。
 日傘を高くかざし、大賑わいな人混みをすり抜ける。途中で一度ビール休憩したけれど、吃驚するほど泡の多いビールでございました(あこぎな商売をして…)。

 「お昼は何にしようか~?」と、てくてくぶらぶら元町まで流れ、以前満席で入れなかったお店にたどり着いたのでドアを押してみましたらば、店内はがらがら…。どうも人が神戸祭りに流れているようでした。まあ、私たちにとってはラッキーです。

 はい、今日のお昼は「RICE PASTA Kitchen」でっす。
 他の来客がないうちに、店内をパチリ。
 通りに面した窓からの採光が綺麗でした。

 まずは水分補給(また)。私は久しぶりにキールなんぞ。
 

 二人ともパスタランチなので、有機野菜のサラダにレンズ豆のフォカッチャとバゲット。フォカッチャは温かいうちに頂きました。
 
 お酒を黒板の赤ワインに変えて…。
  私にはやや重かったけれど、美味しくいただけるワインでした。

 はい、こちらはだーさんのオーダー“鶏ミンチと有機竹の子のスパゲティ”です。
 一口食べてすぐさま「これ美味しいよぉ」と、味見をさせてくれるほど気に入ったそうです。 

 そして私は、“鯛と浅利と有機アスパラのトマトソーススパゲティ”です。  こちらも美味しかったですよ~。さっぱりしたトマトソースなので、最後までニコニコ頬張れます♪ アスパラのほくっとした柔らかな食感が、トマトソースにぴったり。
 旬の有機野菜を使ったパスタが楽しめるお店、でした。

 お腹が満足した後は、腹ごなしにメリケンパークまで足を伸ばしましたが、何をするでもなく三宮に戻っていつもの店でビール休憩(おい)。その後、帰路に着きましたとさ(その後、昼寝…)。

 そしてこちら~、昨日のお昼に頂いたラーメンでっす。
 堺市の「麺座 ぎん」にて、これは私が頼んだデフォのラーメン。
 太麺がもっちり~♪ とろみのあるWスープは魚介風味が襲ってくるほどで、これも美味しゅうございました…。

 週末のこれがなければ、ダイエットなんてしなくてもいいのに…ぼそっ(でもやめません!)。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ