ピーター・ラフトス、『山羊の島の幽霊』

 たっ、楽しかったっ…! 
 …って、最後にお腹から笑いがこみ上げてきた。 くくく…。  

 荒唐無稽、なのかな? つっ込みどころも存外満載、なのかな(いや、むしろそこが楽しいのじゃ)? でも私は、こういうお話が大好きです。 大真面目なのに馬鹿馬鹿しくって、どこかしら惚けている味わいが憎めないこと憎めないこと…おほほ。 

『山羊の島の幽霊』、ピーター・ラフトスを読みました。  

 “死ぬためにこの島へ来た”――こんな一文から、物語は始まる。 
 最愛の妻に死なれ、それ以来故郷の町がいやでいやで堪らなくなった主人公は、野生化した山羊の島へとやってきた。 いっそ自分もそこで死んでしまおうと思い決めたのに、覚悟が出来ない。 まるで失意のどん底に“の”の字でも書いているみたいに、うじうじくよくよと情けない男。 そんな彼の前に忽然と現れたのが、何十年も前に自殺に成功(?)したという、古めかしい三角帽をかぶった幽霊だった…。
 
 死にきれない男と、何十年来の復讐心に燃える(なんと執念深い…)幽霊との出会い。 幽霊の口車に乗せられ復讐を請け合ってしまった主人公シプトンは、その為に“大学”へと向かう。 黒雲をまとう巨大な建造物、途方もない高さと底知れぬ地下を持つ大学には、迷路のような巨大図書館が…。

 知性の場であるはずの“大学”が、理不尽極まりない決めごとがまかり通る場所だったり、学問の序列をめぐるいざこざが絶えなかったり、その為に図書館員が突然暴徒と化したり…。 呆れてしまって開いた口が塞がらないほど、可笑しくってあり得ない展開なのだけれど、何だか理屈抜きでとても楽しかった。 
 あと、散りばめられた設定が細部に至るまでことごとくツボだった。 ガラスの球体の中に封じ込められた“最高の世界”とか、“死せる本たちの墓場”とか、療養所における万能薬のごとき“オレンジ”とかとか…。

 胸にこぼれ落ちて忘れがたいのは、地底湖の怪物が悲しげな声で呟いた言葉。 そして、“最高の世界”をのぞきこむ望遠鏡の向こうに、シプトンが見ることの出来た光景の一部始終が、彼の最後の仕事、驚愕…!のラストへとつながるのだと思った。
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アンジェラ・カーター、『シンデレラあるいは母親の霊魂』

 野蛮で自由で残酷で、いつまた新鮮な血が流れてもおかしくない。 そんな、少しでも油断して向かいあっていたら、今にも斬りつけてきそうな作風に、ぐいぐいとひき込まれてしまった。 しゃきんと背を伸ばして、息をのむばかり。  

 実のところ、「なんて恐ろしいタイトルだろう、ゆめゆめ近寄るまじ…」などと、このタイトルを見かける度に思っていたものだが、それってつまり、本当は気になっていることの裏返しなのかも?と思い当たってしまい、ついに図書館で手に取ってみた。 すると、その場でぱらぱらぱら…とホンの少しめくってみただけで、とても濃厚で美味しそうな匂いが立ち昇ってきたので、私はつかまってしまった次第である。

 遺作として発表された短篇集、なのだそうだ。
『シンデレラあるいは母親の霊魂』、アンジェラ・カーターを読みました。

 童話や戯曲、そして実在した女性を描いたものなど、元となる題材を翻案したり語り直した作品が多く、大変に面白く読んだ。 とは言え、その元の方を知らない場合もあり、新鮮でもあったのだけれど。

 やはり表題作「シンデレラ、あるいは母親の霊魂」の、容赦のない生々しさ鮮烈さは忘れがたい。 そもそも童話や昔話において、母親の存在やその影響が占める部分はとても大きいのだが、そんな中で従来の「シンデレラ」における実母の影は、優しい魔法使いの向こう側にうっすらと感じられる程度かと思っていた。 まさかこんな解釈が出来るなんて…と大いに驚きつつも、説得力のある迫力に圧倒されてしまった。 胸を突かれるほど怖い。
 手加減なく描かれていく母娘の絆の異様な強さ、とりわけ母親から娘にそそがれる無償の愛のおぞましさには、背筋が凍る。 そしてまた、母親の期待にはどこまでも忠実に応えようとする娘の姿にも…。
 誰にでも親しめるようにほど良く毒気を抜かれてお行儀よく整えられてしまう以前の昔話には、身も蓋もない先人の知恵や警鐘がこめられていたのだろう。 人の営みあるところに潜む罠を、あばくように。 …凄まじいけれども鮮やかな解釈を突きつけられて、慄然としながらそんなことを考えた。

 劇作家ジョン・フォードの戯曲「哀れ彼女は娼婦」を、アメリカの映画監督ジョン・フォードが西部劇にリメイクしたら…という、何とも洒落た仕掛けの作品「ジョン・フォードの『哀れ彼女は娼婦』」は、題材となった本来の作品への関心もかきたてられる内容。 悲劇なのだが、痛ましくて美しいと思った。 

 その他、とっても好きだったのが「プラハのアリス、あるいは奇妙な部屋」。 十七世紀のプラハ、その“偏執狂めいた”都の錬金術師通りは魔術師の塔に住む錬金術師ディー博士と、その弟子である鉄仮面ネッド・ケリー。 二人は各々の思惑によって天使を探していたのだが、ある日、“現在、過去、未来のすべてが映し出されている”水晶玉から飛び出してきたのは…。 マニエリスムの画家アルチンボルドまで加わって、三人の男たちがアリスの出すなぞなぞに翻弄される…という、楽しい楽しいお話であった。

 そう言えば以前、長篇の作品『夜ごとのサーカス』を読んだことがあった。 そして今、他の作品も読んでみたくってうずうずうず…。 
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森福都さん、『楽昌珠』

 も一冊続けて、森福さん。  
 これはこれはまた、あわせ鏡の迷宮からどんどん抜け出せなくなっていく…そんなお話かな。 謎は、謎のままに美しく儚く、ざわめく水面にどこまでも水紋を広げていく。 こちら側から覗くあちら側は虚ろ、あちら側から覗くこちら側は幻、ならばいったい果たしてどちらを真とすればいいのだろう…。 

 ええ、私好みな作品でした。
『楽昌珠』、森福都を読みました。

 翡翠、金色の猿、そして白虎。 美しき獣たちが各々に水先案内人となり、三人の幼なじみ同士をひき合わせる冒頭。 彼らが導かれた先には、満開の桜が霞のように連なり、まさに桃源郷を思わせる光景が広がっていた。 
 思いがけない再会を喜び合う、蘇二郎、廬七娘、葛小妹。 桃畑の真ん中にしつらえられた宴席を囲み、酒を酌み交わすうちに、慣れない酒に酔った二郎はいつしか深い眠りへと落ちていく…。

 年の近い幼なじみであったはずの三人が、全く違う年齢と立場で“睡夢の世界の住人”となる。 桃林でのうたた寝が見せた生々し過ぎる夢かと思いきや、現実の重みを増していくのはむしろ夢のはずの世界の方なのであった…。
 
 都で官人になるという夢の叶ってしまった世界で目覚めた二郎、しかしその先に待っていたのは険しい立身出世への道だった。 渦巻く権謀術数をかいくぐり、如何に賢くずるく立ち回り生き残っていくか…。 目の前の事柄への対処に追われていると、夢が夢のままに手付かずだった10代の頃の、桃林の世界はどんどん遠のいていくのであった。
 武則天の時代の宮中にうごめく陰謀、そのどうしようもなくドロドロした雰囲気とかはとても楽しめた。 官人の二郎に続き七娘と小妹が、それぞれの立場で宮仕えをしていくのも面白い。

 二つの世界を繋ぐ、不思議な力を持つ珠“楽昌珠”。 桃林の世界で夢見たことが、睡夢の世界で叶う――というからくり。 ああ、何だったんだろうなぁ…。 
 何もかもを説明し尽くすのも無粋。 解き明かされないからこその美しさって、私はあると思う。 そんな迷宮に迷い込んで、いつまでも彷徨っていたい。
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森福都さん、『赤い月 マヒナ・ウラ』

 私にしては珍しく(夜は呑んじゃうから…)、「あと少しあとも少し…」と最後の章を夜更けに読んでいた。 そうして余韻をひきずりながら眠りについたので、何だかよくは覚えていないけれどもとても綺麗な夢を見た。 赤い月じゃあなくって、赤い花が出てきたような…。 ロマンチックに閉じた物語が、少しだけ流れ込んできていたのかなーと、やや強引に繋げてみた。  

 森福さんの作品は今までに何冊か読んでいるのだけれど、実は中国を舞台にしたものばかりだった(好きなんだものー)。 ので、中国もの以外の作品を手に取ったのは今回が初めてである。
『赤い月 マヒナ・ウラ』、森福都を読みました。

 自身の大往生から二十年近くも経った平成という時代に、曾孫の意識内で俄かに覚醒してしまった“私”の魂が彼に語りかける。 “どうか頼みを聞いてくれ。 おまえの曾祖父が抱えてきた九十年来の謎を解き明かして欲しいのだ”――と。 

 時は大正、ハワイを舞台に日系移民たちを描いたミステリー仕立ての物語が繰り広げられる。 一つ一つの謎解きは、決してあっと驚くようなものではない。 ほうっとやわらかな溜め息がこぼれてしまうもの、ほろりとした切なさに包まれてしまうものばかりである。 
 そうして幾つかの謎は解けたのに、最後まで真相が明かされることのなかった哀しい死を、当時の少年はいつまでも忘れることはなかった。 事件のよすがに残された形見は、亡き人の美しい指を飾っていた、大きな緑色のガラス玉で作った精巧な模造品である指輪一つだけ――。

 その、曾祖父は語る。
 両親に呼び寄せられてハワイに渡ったものの、後に孤児になってしまった新宅直吉は、ホノルル一繁盛している日本人向け旅館・白木屋旅館の奉公人となり、旅館の主の次男坊である磯次郎に可愛がられていた。 名うての遊び人でもある磯次郎と、十五歳の少年・直吉。 そんな二人がある事件をきっかけに、探偵の真似ごとを始めることとなる。 ハワイで成功した大富豪の若き美貌の後妻・濱田リヨが、海岸で謎の死を遂げたのである。 秘かに彼女への憧れを抱いていた直吉は、事故死という磯次郎の断言に最後まで納得すことは出来なかったのだが…。 果たして最後に残された謎は、直吉の曾孫・慶一によって解き明かされることになるのか。

 ハワイ移民の歴史について詳しいことを何も知らないのが幸いして、いい具合に肩の力を抜いて興味深く読むことが出来た。 郷里を離れて海を渡った人々それぞれの、かつて胸いっぱいを満たしていたはずの夢と不安と思惑。 いつしか年月は流れ、苦労して財を成した者もいれば、思いも寄らなかった変転をたどって再び日本へと戻る者もある。 大きなチャンスを摑んだ人、厳しい現実に打ちのめされた人。 どちらの立場にあるものの、異国にあって時には手を取り合い助け合っていた。 当時の日系移民社会ならではの、そんな勢いをも感じさせられた。

 行方の知れなかった大粒なエメラルドの指輪のこととか、最初の方に少ししか出てこないリヨの清楚で華やかな白いドレス(ホロムウ)姿のイメージが、最後の最後まで付き纏ってきてロマンチックな気分に浸れてしまった。 私にとっては、素敵な終わらせ方だった。 ひたひたと温かな波が、静かに胸に寄せて来るような。 
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鹿島田真希さん、『黄金の猿』

 久しぶりに苦しかった一冊。 
 実際に頁を繰っている最中は、目の前の文章から全く目が離せなかった。 のめり込んだ、と言ってもいいだろう。 だからきっと私は、その間はとても面白く読んでいたのだ。 ややもすれば、興奮混じりに。 ただ、読み終えてからあれこれ反芻していると、胸の辺りがもやもやしてしまっていささか困る。 
 愛に渇いたふりで孤独に耽り、それでも誰かに執着している――。 自身を守る殻に対してのものであろうと他者に対してのものであろうと、こんな風に欺瞞に満ちてそれでいて狂おしい身勝手な執着など、理解出来ない。  

 それでもやっぱり、気になる作家さんである。
『黄金の猿』、鹿島田真希を読みました。

 ここには、5つの作品が収められていた。 その内の3作品が「黄金の猿」三部作となっている。 そして特に「ハネムーン」は、倉橋由美子『暗い旅』へのオマージュとあり、大変に興味深く読んだ。 “黄金の猿”とは、三部作に共通した舞台ともなるバーの名前である。
 特に「ブルーノート」と、三部作の中の「緑色のホテル」が忘れがたい。 思いやり深い男女が向かい合って(しかし、その視線が真実交わることは決してない)、ごくごく優しく真綿でくるむように互いの息の根を止め合うようだったから。

 例えば愛への不信と過信、飽きることと餓えることとの間で自家撞着に陥っているようにしか思えない思惟が、たらたらと徒に垂れ流されていく。 いやむしろ、どこへも流れ着かずに澱んでいくような印象すら受けた。 袋小路のような澱のような。 紡ぎだされていく言葉たちも、まるであらかじめ行き場を失っていたかのようで、呑みこもうとするたびに喉に詰まるのだった。 
 そしてまた女性として、“性”というテーマにかなり囚われているんだな…ということが、痛いほどに伝わってきて息苦しくなるほどだった。 研ぎ澄まされてひりひりとした作風には大いにひき込まれるのだけれど、呑みこみ切れない気持ちの悪さが残るのは如何ともしがたい。 …と言いつつ、反芻のし甲斐があるのだからこれまた困る。 
 苦しかった一冊――なのに、心をかき乱される楽しさがあったことは確か。
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小沼丹、『村のエトランジェ』

 少し前に読んだ堀江敏幸さんの『彼女のいる背表紙』にみちびかれて、『黒いハンカチ』を図書館で借りて読んでみた。 作者は小沼丹、読みは“おぬまたん”。 
 『彼女のいる背表紙』にて紹介されていた『黒いハンカチ』で活躍する可愛い探偵さんが、ニシ・アズマ(!)という名の女学校の女教師であったこともあり(ちなみにその妹は、ミナミコと云ふ)、何となーくのイメージで女性作家であろうと思い決めていたところが、実際に読み始めるホンのちょっと前になってようやくその思い違いに気付かされるといういきさつ(…って言うほどのことでもないけれどさ)があったりした(すみません、何も知らずに解説の中の著者近影を目にしていたら眩暈で倒れていたかも…)。 …ま、作家の性別の思いこみ違いはよくあることではある。 

 『黒いハンカチ』からの流れでもう一冊、『村のエトランジェ』、小沼丹を読みました。  

 この一冊は短篇集なのであるが、どの作品もとても面白く読んだ。 サラッと読ませてくれる、飄々と洒脱な語り口。 それでいてしみじみと面白いって言うか、けれんみのないままに何処かしら粋なひねりを感じさせるところとかが、なかなかに心憎かったりするのであった。 

 稀覯本をめぐる犯罪と、それに振り回される人たちの姿に思わず知らず苦笑いのこぼれる「バルセロナの書盗」。 話の発端からずーっと滑稽で可笑しみに溢れているのに、生真面目過ぎる法師の蒙昧な一途さが、そこはかとなく哀しくって…でもやっぱり笑ってしまう「登仙譚」。

 「白孔雀のいるホテル」は、綺麗なタイトルから勝手に想像していたのとは全然違う内容なのにのけ反ったりした。 大学生になったばかりの主人公が、かなり珍妙な人たちとばかり関わりながら宿屋の管理人を勤める話なのである。 まったく現実を見据えていない経営者・コンさんが語る、空中楼閣こそが“白孔雀のいるホテル”。 あまりにもその夢ばかりが壮大で、読んでいる内にだんだんいじらしいような微笑ましいような楽しい気分になってくる話。

 表題作の「村のエトランジェ」は、終戦をはさんで小さな村で繰り広げられた大人たちの三角関係の顛末を、疎開してきた都会の少年と村の少年が一緒にのぞき見る…という話。 これも面白く読んだのだが、終戦を挟んでいるというのがちょいとミソだなーと思う。 疎開のために東京からやってきた姉妹も詩人も“僕”も、村側から見ると“エトランジェ”。 そして夏と共に去っていく。
 妙齢の美しい姉妹(姉の方はやや薹が立っているらしいけれど)がいったいどうして…?と考えた時に、戦中だから他に男がいなかったのね…と思い当たってちょっぴりほろ苦い気持ちになった。 煮え切らない男がなぜもてる!とか…。


 こちら、洒落た文庫本である。
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谷崎由依さん、『舞い落ちる村』

 まいおちる――の、その言葉の響きがとても好きで気になっていた作品。 
 “まいおちる”って聴くとそれだけで、何か木の葉のように軽やかなものがくるくるくる…と、文字通り可憐に舞いながら落ちてゆく様がまなうらに浮かぶので。 じゃあ、くるくるくる…と舞いつつ落ちる村って、いったい何のことだろう…と首を傾げていた。

『舞い落ちる村』、谷崎由依
を読みました。

 出だしからぐいぐいと、異質な空間へと押し込まれていくような感覚が鮮烈であった。 身構える暇もあらばこそ、ホンの数行読んだだけで、語られていることの異様さと村の雰囲気にじわじわと侵されていく心地がした。 暦が曖昧であるとか、齢の重ね方が人によっててんでばらばら…とか、無秩序にふくれたり減ったりする大所帯のこととか。 
 “わたし”のふたつ上の姉の、多過ぎる髪と淫蕩な赤い唇のイメージが、くねりと絡み付き纏わりつく。 そして彼女はむかしは、“わたし”の妹だったという。
 そんな村で育った“わたし”が、外の世界へ出て大学へと進む。 名前を持たなかった(!)自分を自ら名付けて――。

 外の世界に出た“わたし”は、己の育った村の特殊さを知ったり、朔という名の友人を得るが、その身体は徐々に不協和音にとり込まれたように壊れていく。 まるで、馴染みようのない外の世界から、異質な物として吐き出されるように。

 限られたものしか名前を持たない女たちの住む村。 そしてその夫たちはと言えば、影か何かのように顔を持たない存在としてしか扱われていない。 血のつながりも定かではない大きな家族――。
 名前を持たない女たちの意識は、だらだらとその境界線を失くして溶けあい(或いは、だらしなくもたれ合って)渾然一体となり蠢いているのではないだろうか…という印象があった。 そしてそう考えると、村全体そのものがまるで有機体のように、静かに脈打ち変容し続けているのではないだろうか…とも思えてくるのであった。 暦や言葉を持たない人々を閉じ込めて、歪んだ空間の中をどこまでも、静かに舞い落ちていく美しい村。

 “語る代わりに紡ぎ、書く代わりに織る”ということに、心惹かれずにはいられなかった。 遠過ぎて、憧れる。

 もう一つの作品、「冬待ち」も面白かった。 女同士ならではの、隙間のない緊密な繋がり。 まさに、それゆえの脆さとか。
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今日は中華♪ 「中華料亭 敦賀」

8月9日、日曜日。 雨のち曇り。 
 ようやっと夏らしくなってきたと思っていたのに、今日は朝からぽつぽつぽつ…。 よくわからない天気なので少しばかりイラッとして、晴雨兼用傘で出かける。 もしや、カルシウム不足か…。

 そう言えば、もうすぐだーさんが夏休みに入る。 最近(やっぱり、引っ越し以来ね…)、外食と買い出しを済ませたらそれ以外に出かける場所もなく、お昼下がりは自宅でまったり…という休日ばかりが続いているのがささやかな不満なのだが(と言いつつ、今日は昼寝をしてしまった…!)、夏休みに入ったら入ったで、“地元→実家…”というお決まりの流れが待っているので気が重いことである。 はあ…。 そういうことを考え出すと、情緒不安定気味になるぅ。 …うだうだ。

 さて、気を取り直して。
 今日のお昼ご飯のお店は、近場の中華料理やさん「中華料亭 敦賀」でっす。 先日お邪魔したお寿司屋さんの隣で、流行っているのかどうかいまいちわからないまま(この辺のお店は、口コミも少ないのよね…)やってきてしまったよ…。
 (久々紹興酒♪)

 開店して間もなかったので、私たちが一番乗り。
 飲みもののお品書きがないのでちと戸惑ったが、お店の方の「だいたい揃っています」との力強い言葉にちょっとびっくり。 では、どこにでもある生中を…。
 ぐびび。

 お料理のメニューに顔を寄せ合って、ぼそぼそと作戦を練る二人。 まず選びましたのは、前菜の3種盛り。 前菜って好きなのよねー。
 …と、これがかなり美味しかったのだ。 クラゲの酢の物は歯応えも良く辛子の効き具合が絶妙だし、蒸し鶏は軟らかくて下にきゅうりが敷かれていて丁寧な感じ。 海老マヨも、意外とあっさりしていて食べ易いのよ。

 前菜で、かなり気を良くしてしまった私たち。 お次は春巻き♪
 ふふふ、これ美味しい♪ 胡椒塩が添えられていたけれど、何も付けなくってこのままでいけるいける。 ぱっくん。

 さらにさらに、「豚肉レタス炒め」。
 うーん、これも美味♪ レタスがジューシーで、いくらでも入りそうだったわん。

 そして〆に「炒飯」を。
 むむ、これは堅実に美味しい炒飯。 見た目の派手さはないものの、ご飯のパラパラ具合とかしっかりとした味付けが嬉しい〆の一品であった。

 なんか…、あまりお客さんが来ないのがちょっと意外でもあり不思議だった。 途中で常連さんらしい人たちが一組いらしていたけれども。 もしかしたらこちらでは、夜に外食する人の方が断然多いのかしらん? 


 昨日のお昼は、家飯。 
 近くのパン屋さんでバケットを買ってきて、すっごーくお腹が空いてしまったので待ち切れずにパンを齧りながらスパゲッティを作った。 そして、すっごーくお腹が空いていたのでサラダまで手が回らなかったのが残念(兎に角、早く食べたかったのー)。
 オイルソースのパスタ、“帆立貝とフレッシュトマトとバジリコ”(バジリコ、隠れちゃったわ)。
 図書館で落合勉さんのレシピ本を借りたので、内容に素直に丁寧に作ってみたらば、これが存外美味しく出来た♪ オイルソースはあまり作ったことがなかったので、なるほどこうするといいのかーと思った。 駄菓子菓子、パスタの重さを測ってみたかった(乾麺の状態と茹でた後を比べてみたかったのね)ので早めに茹でた結果、アルデンテのタイミングを外してしまったのが至極残念。 
 で、ビールと白ワインを呑んだ後でバケットをおかわりしたくなって、ぎこぎこと硬いパンの皮を切っていたらば、ついでに自分の指もスパッと切った。 思い切り良くスパッ、とね。 腹側じゃなくって爪側から、爪を削ぎつつ下のやわな皮膚まで切ってしまって流血(実は直視出来なかった…なはは)。 飲酒していたので血がどばどばっ…、というのはいささか大袈裟だが。 そんな訳で、左手の人差し指にはばんそうこう。 なかなかに痛くて不便である。 ちゃんちゃん♪
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森福都さん、『狐弟子』

 狐少年、かわゆしかわゆし…。 ぎゅう。  

 久しぶりに森福さんが読みたくなりました(記事にはしていませんが、「漆黒泉」の文庫本以来)。 とりあえずは、装画がとっても可愛らしいこちらの短篇集を手に取ってみました。 
『狐弟子』、森福都を読みました。

 古の中国を舞台にした幻想的な物語が七話。 滋味きくすべし、いぶし銀の如き渋い耀きを放っているものもあれば、則天武后(とその実母)や漢の皇帝武帝の妄執生霊(?)幽鬼が跋扈する妖しい幻想譚もあり。 やはり何と言っても、その時代の中国ならではのいかがわしさや世知辛さ、そして、誰もかれもが陰謀をめぐらし合っていたかのような、油断ならない妖しい雰囲気を描き出して見せるのが巧み!である。 ミステリアスな作品はひんやりと美しく、滑稽さの中にしんみりとした味わいを秘めた作品は仄かに温かい。

 いつも感嘆せずにはいられない、森福さん描くところの女の強かさやしなやかな強靭さ、狡さと可愛らしさが存分に味わえる「鳩胸」や「股肉」。 ラストでぞくり――と背中が凍る、「雲鬢」…。

 表題作「狐弟子」は、唐の嗣聖年間の頃が舞台。 全真寺と呼ばれる破れ寺に住み着いた、狐の化身らしいと言われる老人・毛潜の元に、狐への化身志願の魯鈍そうな少年がやってきて…。 
 腹黒いけれども根は悪人でもない毛潜が、あくまでも雑用をさせる程度の思惑で受け入れた弟子の少年が、師の業の種明かしに気が付きつつ触れつつ成長していく過程がとても可憐な一篇である。 むふー。

 心ゆくまで堪能したのが、最後に収められた「鏡像趙美人」。 まず、双子の画師がいて、あまりにもその力が拮抗していたので一度は独立することを断念した二人が、その評判故に意にそわない技量比べを時の皇帝から強いられる話である。 後宮へ入るべく見出された美女・趙美人の魅力を余すことなく写しとることが出来たのは、兄か弟か…。
 えっ、そういうことだったのぉ?という驚きの展開もあり、森福さんの作風が隅々まで堪能できる逸品であった。 
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堀江敏幸さん、『ゼラニウム』

 先日読んだ「河岸忘日抄」がとても好きだったので、短篇集も読んでみた。 端整な装丁をまとった静かな佇まいの一冊、ざらりとした紙質も素敵。

 そも、初めて読んだ堀江さんの作品が『彼女のいる背表紙』という本にまつわるエッセイ集だったので、この作家さんのエッセイと小説との分け方の淡やかさのようなものは、「河岸忘日抄」を読んでいる時点で感じることがあった。 ああ、これは全く同じ人の話なのではないかしらん…、という感覚。 本の話題がふんだんに盛り込まれていたので、尚更。 さて、短篇集ではどうなのでしょう…。

『ゼラニウム』、堀江敏幸を読みました。

 あ、そっか。 女と水に、古い映画や小説の内容が絡んでくるという趣向の短篇集だったのですね。 とても好みな短篇集でした。 

  淡々とした喪失感がひたひたと押し寄せてくるような「薔薇のある墓地」は、フランスのアルクィユで“私”が目にした水道橋の描写から始まる。 そして語り手は水道橋のことを、まず、“なんと不思議な建造物だろう”と感じさらに、“胎内に水が流れていることはわかっていながら、本当の水面は知らずにいる橋”と思ってしまう。 そしてこの印象が、本当はお互いにもっと通い合わせられる何かがあったのかもしれない一人の女性への、追想へと連なっていく。 強く抱きしめたら儚く雲散してしまいそうなもの哀しさが、最後の場面を縁取っている。

 「さくらんぼのある家」は、日本における“桜”と異国での“さくらんぼの木”が、かなり似ていても非なるものなのかな…?でも、どこかでその本質は通じ合うのでは…?と、とりとめもなく思いめぐらせたくなってしまう一篇であった。 恋人がいても常に《友達》が必要な、ファムファタル。 水槽のオブジェ作りにのめり込んでいく男。 そこはかとない狂気に、いつしか“私”も…。  
 日本の有名な文学作品が使われていて、その箇所も忘れがたい。

 で、一番好きだったのは表題作の「ゼラニウム」。 ペーソスあふれるユーモアって、こういう作品を指して言うのかしらん…? そしてこの短さで、盛り上がりと着地の見事さと言ったら…! 
 ことの発端は、“私”が朝刊を買って戻ってみたら、部屋の前が水びたしになっていたこと。 はて、この水はいったいどこから…?ということで、なかなかスムーズにことが運ばないものの、何とかかんとか配管工を呼ぶことが出来たのであったが…。 配管工の名前や一家心中のむにゃむにゃ…にも大いに笑ったけれど、やっぱり何と言ってもマダム! いやはやー、ぎりぎりまでにやにやしていたのに、ラストは凍りついた(固まった、と言うか)。 なるほど、これもまた女と水の話である。 


 『彼女のいる背表紙』の中に、今手元にあるわけではないので正確に引用は出来ないけれど、ある人から「あなたは引きこもりがちな人が好きなのですね」と言われたことがあるという話があった。 「そう言われてみれば…」と思い当たることがあった、というような内容だった。 私はその件が、何故かとても印象的だったのである。 この短編集に出てくる五人の“私”の人となりも、やや引きこもりがちで受け身担当なのかも知れないけれど、私もそういう人が割かし好きである。
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