倉橋由美子さん、『夢の浮橋』

 とうとうこの作品を読んでしまった。おお。
 『夢の浮橋』、倉橋由美子を読みました。

 “人間は生まれながらにしてさまざまなclassに属してゐるのに、この厳然たる等級の差には目をつぶって、萬人が同じclassに属するかのやうにいふ平等主義者を桂子はひどく嫌つてゐる。” 234頁

 「桂子さんシリーズ」の、第一作です。35歳の時の作品だそうですが、もう完成形に近い精緻な文体をつくり上げられていたことがわかります。桂子さんが大学を卒業するまでの一年間と、卒業後に山田氏と結婚するまでが描かれています。
 そして、『交歓』や『シュンポシオン』における、オリュンポスもかくやな美しい人々の饗宴がくり広げられる世界の、萌芽を孕んだ作品です。たとえば、桂子さんの両親と、桂子さんの元恋人宮澤耕一の両親という二組の夫婦…。彼ら4人の優雅な戯れに、桂子さんを始めとする登場人物たちが、知ってか知らずか巻き込まれていくこととなります。

 後々のシリーズでは堂々たる女神然として君臨する桂子さんですが、この作品の中では流石にまだ、時には可憐にも儚げにも見えるうら若き乙女です(またその風情が堪らなくよいです…)。けれども熾烈で厳しいところは、やはり桂子さんです。
 ここではその時代の全共闘が取り上げられています。渦中の群衆へ向ける冷ややかな視線の中に、桂子さんの、しいては倉橋さんの、刃のような美意識が感じられるのでした。

 快楽の隣に死あり…。麗しい戯れの舞台裏では、登場人物中の誰かが順番に抜け落ちていく。結婚の準備をしている桂子さんと、自分の死期を迎える準備をしている人物とが向かい合う場面に凄味がありました。
 快楽はいつも死と隣り合わせ、当たり前のように容赦なく。
 (2007.2.27)

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倉橋由美子さん、『城の中の城』

 『城の中の城』、倉橋由美子を読みました。
 
 “病人が病人でありつづけるための必要から偉大な病人に帰依してありとあらゆる奇妙な治療――決して病気そのものを消滅させるための治療ではなく病気を一層強く固定するための治療――に身をゆだね、自らも例えば祈りのやうな治療儀式を行ふことを桂子さんは否定しない。それが宗教といふもので、各人がその病気の有無、軽重に応じてある宗教にはいることは自由だと思ってゐる。” 110頁

 この物語は、桂子さんの三十歳の誕生日から始まります(おお、桂子さんがお若い)。大学の師であった夫君山田氏との間に2児をもうけ、優雅な日々を悠々と送っているかのように見えるのですが…。
 文士倉橋由美子の凄味を感じさせられた作品でした。感服。ひたすら唸ってしまいました。まず何が怖いかって、この作品で描かれているのは夫婦間の家庭内宗教戦争なのですが、その中で語られるキリスト教への批判がですね、舌鋒鋭すぎて読む快感を通り越してぞくぞくと背中がそそけてきます。いや、本当に怖い。ペンを武器に切り結ぶような…! 
 作中、登場人物たちの会話の中で何度も“キリスト教”が“キリスト病”と呼びかえられていて、「そこまでゆふか…」と呟き慄きながら読んでいました。

 文学だって、誰かを傷付け得る表現方法なのだ。そのことを辞さず恐れることなく、一歩も退かない姿勢で自分の立っている場所を明白にする覚悟と強さを持っていることが、文士の資格であるような気がします。何て厳しいことでしょう。 

 生前の山田氏の姿をあまり知らなかったので、この作品を読むまではどんな巨怪人かと想像を膨らませていたのですが、予想以上に複雑で繊細な人でした。そして、夫君の入信に衝撃を受けて揺れ動く桂子さんの姿は、時に可憐で時に勇ましく、また違う面を見たような気がしました。まあ、何しろ若いですものね。桂子さんの年を追い越す前に読んでみたかった気もします。
 (2007.2.22)

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倉橋由美子さん、『夢の通い路』

 古い本を引っ張り出しました。久しぶしの倉橋ワールドに浸るべく。
 『夢の通い路』、倉橋由美子を読みました。

 “目には不思議な光があって、桂子さんは視線が合った瞬間、感電しそうな魔力を感じた。柏木を殺すほどの威力を備えた源氏とは本当はこういう男だったのだろうか。” 172頁

 文学史上屈指の佳人、山田桂子さん。とりわけお歳を重ねてからの彼女は、まさに憧れの女性であり聖女であり妖女でさえありますが、この連作集の桂子さんは大輪に咲き誇る30代半ばです。
 私が思う桂子さんの魅力は、たとえばそのモラルからの優雅な逸脱ぶりです。「あちらの世界」の方たちとの妙なる交歓には、倫理やらモラルとは何と無粋な既成概念でありましょうや…などと思いつつ、うっとりしながら読んだものです。いくら「あちらの世界」でのこととはいえ、桂子さんの奔放振りには魅了されずにはいられませんでした。その点、月日を重ねた今も同じ思いでございます。 
 「あちらの世界」とは、この世とあの世との中間辺りにでもありますようで、そちらの住人の中には、ちょいと地獄へと足を伸ばすお方もいるかと思えば、紫式部も六条御息所もエリゼベート・バートリも棲んでいらっしゃるという…まさに夢の時空間です。そして、そちらとこちらを自在に出入りしているのが桂子さんです。ちっぽけな小娘が憧れるには、余りあるほどの存在でしょう?

 久し振りに手にとって少々意外だったのは、目次における題目の多さです。そんなに話が分かれていたっけ…と、一瞬考えてしまいました。実際に読んでみるとそれぞれの話が連鎖していて、ぷつんぷつんと途切れているわけではありません。最後の方の4作ほどには桂子さんは登場しませんが、所謂短篇集ではなくオムニバス形式にまとまっている一冊だと思います。

 光源氏の登場場面の鮮烈な印象も、この一冊が忘れられなかった理由の一つです。稀代の鬼女妖女たちを、穏やかでなくする魔性の男…!
 (2007.2.21)

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『笙野頼子三冠小説集』

 この一冊、いつものようにお風呂で読んでたら本当に目眩がしてきました。
 『笙野頼子三冠小説集』を読みました。

 “医者に行かない理由はどこからでも出てきた。例えば医者に行って、何をしているのか訊かれたら困るのだとか。だって正確に言えば、やはり私はナニモシテナイのだから答えに詰まるのだ。” 150頁

 文学賞には疎いのですが、三冠というのは芥川賞と三島賞と野間文芸新人賞のことでした。それで三冠…なるほど。
 芥川賞をとった「タイムスリップ・コンビナート」、実は未読のでした。主人公が“マグロと恋愛する夢を見て”始まるこの作品は、現実と非現実、うつつと夢の世界がぐでんぐでんに混濁する話です。

 面白かったのは再読の「二百回忌」と「なにもしてない」です。特に「二百回忌」は、流石…と唸りたくなる程、抱腹絶倒の面白さです。二百回忌とは、主人公沢野センボンの父方の家で行われる、“死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて”出席するという盛大な法事のことで、そもそも主人公の家は、“こういう法事のためにだけ存続してきた”と語られます。しかしだね…。
 その肝心の二百回忌のしきたりとは、“しきたりを重視する他の法事と異なり、無礼講が身上”で、“本家の人々も命懸けで、出鱈目な事をしなくてはならない”というものです。くだくだしくは説明しませんが、兎に角凄まじいしきたり破りな法事です。古臭い共同体の概念のあれやこれやが容赦なく破壊されていく様が、胸がすくほどに天晴れです。ただただ面白楽しくてしかたありません。この破壊力のすさまじきことよ。

 「なにもしてない」もとても面白かったです。“ナニモシテナイ”主人公が接触性湿疹になったときの話で、面白いと同時にかなり気持ち悪かったです。普通、接触性湿疹でこんな風に話が発展しますか? シュールな描写が続き、背中の辺りがそそけて来ます。
 (2007.2.15)

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森見登美彦さん、『四畳半神話大系』

 森見作品もこれで3作目なので、とりあえずお腹一杯。『四畳半神話体系』、森見登美彦を読みました。

 “猫ラーメンは、猫から出汁を取っているという噂の屋台ラーメンであり、真偽はともかくとして、その味は無類である。出没場所をここで明らかにするには何かと差し障りがあろうと思うので、細かくは書かない。” 11頁
 
 所謂オムニバス物…です。周到な仕掛けがありまして、かなり楽しめました。4話からなっているのですが、その話同士の関係性とリンクに面白い試みがあるのです。
 相変わらず登場人物たちがすこぶる愉快で(樋口師匠やらあのお方は、『夜は短し』でも登場するあの人たちなのね?)、文章も魅力的です。そして、何度も何度も出てくる猫ラーメンが兎に角すっごく美味しそう! 猫ラーメンのブラックな味、大いに気になるところ。

 そう言えば学生だった頃、ある教授から「大学生はモラトリアム状態」なのだと言われて「なるほど…」と思ったものだけれど、それは兎も角としても、学生という立場は確かにある意味曖昧で不思議ですね。変なエネルギーがあるみたいで、持て余していたり、無駄に爆発させて誰かとぶつけ合ったり…しているのかも。そんなことが出来る時期は人生の中でもきっと限られるし、それはやはり特殊な限定期間であるような気がします。
 で、それが極端な例になると、この作品の登場人物たちのように、傍から見れば凄まじくくだらないようなことにさえ、血道を上げたりしちゃう訳でしょう? だから題材として面白いのかなぁ?
 (2007.2.8)

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森見登美彦さん、『夜は短し歩けよ乙女』

 『夜は短し歩けよ乙女』、森見登美彦を読みました。

 “「出版された本は人に買われる。やがて手放され、次なる人の手に渡る時に、本はふたたび生きることになる。本はそうやって幾度でも蘇り、人と人をつないでいく。だからこそ時に残酷に、神は古本を世に解き放つ。不心得の蒐集家たちは畏れるがよい!」” 89頁 

 まず言いたい。おともだちパンチにロマンチック・エンジンですよ! 兎にも角にも愉快痛快に楽しいですよ!  
 ふふふ、とても良かったです~この作品。大変オモチロウ(借用)ございました。ロマンチックとニヤニヤ笑いが、止まりませんがな…。

 京都で繰り広げられる愉快なこの物語は、二人の主人公による一人称で交互に語られていきます。かたや片思い中の大学生“先輩”、かたやその想われ人の黒髪の乙女です。この二人を始めとして、続々と現れる奇人変人な登場人物たちがすこぶる魅力的なのが、ハチャメチャな楽しさをいっそう際立たせます。 
 そして舞台となる普段着姿の京都が素敵です。観光客側に向けた顔とは一味も二味も違う、古都ならではの懐の深さと妖しさに迷い込んでしまいそう…。例えば第一章の中に立ち現れてくるのは、なんて魅惑に満ち満ちた先斗町の夜でしょうか。うっとり…。こんな京都に行きたくなります。

 流石は日本ファンタジーノベル大賞の作家さんだな~と納得してしまう、めくるめくファンタスティックな仕掛けもテンコ盛りに溢れています。よくある爽やかな青春もの恋愛ものとは一線を画すといいますか、はみ出しているといいますか。
 ず~っと笑いながら読んでいたのに、ラストではじんわりとしていました。オモチロ可笑しくて、けれどもちょっぴりキュン…な作品でありますよ。
 “本が人と人をつないでいく”と言っているところが、何だかいいな~と思ったのです。
 (2007.1.28)

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『須賀敦子全集 第2巻』

 『須賀敦子全集 第2巻』読みました。

 “「終点にだれもいないより、神さまがいたほうがいいような気もするわ」
 そう言われてみると、結局はそういうことかと胸にひびくものがあって、やわらかな母の信仰がうらやましかった。” 216頁 

 須賀さんのエッセイをこれまでに、『トリエステの坂道』『ユルスナールの靴』『須賀敦子全集 第1巻』…と読んできました。ですから自ずと、この人はどんな10代を過ごしたのだろう…どんな過程を経てこんな人生を歩むことになったのだろう…と、賛嘆の思いの中で小さな疑問がむくりと頭をもたげます。戦後間もない時期にヨーロッパに遊学してしまうあたり、ちょっと想像を絶する勇気です。

 ミラノやパリで過ごした日々と、日本で家族と共に過ごした更に遥かな記憶との間を、章から章へと渡っては時にさかのぼり時に戻ってくるその筆。時空間を軽々と飛び越えて、追憶同士が繋がってしまうことも。…もしやそこには、記憶の綾なす精巧なレース模様が残されているかもしれない…。
 思い出がまた別の記憶へと通じる扉となる。そこにあるのは、追憶の波のたゆたいそのもの。 

 作品全体を通して、父親を描くことに重点が置かれているような気がするのは、作者自身が“父への反抗を自分の存在理由みたいにしてきた”と語っていることからも、無理のないことかもしれません。
 けれど私は、身勝手な夫に翻弄されていたようで不思議なしなやかさを持っていた母親の方に、より惹かれるものを感じました。
 (2007.1.9)

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笙野頼子さん、『幽界森娘異聞』 再読

 文庫化につられての再読です。大好きな佐藤亜紀さんの解説なので。
 『幽界森娘異聞』、笙野頼子を読みました。

 “「お茉莉は上等」だから愛されました。もし下等になったら、それでも森父は愛してくれたでしょうか。泥棒もお茉莉は上等ってそう言う森親父は、「泥棒は悪い、だからお前も悪い、でもお前は私の娘だからたとえ悪くっても」とは言わなかった。上等でなければ娘ではなかった。森娘を上等に保つために、父は娘のしっかり持つべき現実に位置を替えねじ曲げ、目隠しを付けた” 281頁

 幾冊かの森茉莉作品を愛読していたから、かつてこの作品のことを知った時には居ても立ってもいられなくなりました。笙野さんが描くところの森茉莉ですと、読みたい読みたいそりゃ読みたい…なんて。
 でも、森娘=森茉莉ではありませんでした。あくまでも、森茉莉はモデルです。ここにおける森娘の正体は、笙野さんの妄想から生み出されてきた、少々ヘンテコな“おさない”老婦人です。 

 作中、森茉莉作品の引用が随所に散りばめられているのですが、それらを読み進んでいくと、笙野さんと森茉莉とは何と異質な組み合わせだろうか…とその対の妙に打たれます。不協和音は聴こえてこない。ただ、互いが際立たせ合うとでも言いましょうか。笙野さんの筆によって森娘はますます奇妙に魅力的になっていくし、笙野さんの森茉莉への思いもちゃんと伝わってくる作品なのです。

 途中、たとえば栗本薫の『真夜中の天使』にまで話が及ぶ箇所などもあり、ついついにやにや。
 そして佐藤亜紀さんの解説が、読み応え満点でした。この作品への理解を深めてくれて、笙野作品を読むときの指南にもなるような解説でした。
 (2006.12.31)

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恩田陸さん、『中庭の出来事』

 『中庭の出来事』、恩田陸を読みました。
 
 “人々は、見ることで消費する存在であるのと同時に、見られることで消費される存在でもある。見る者と見られる者は、いつなんどきひっくり返っても不思議ではない。外から鑑賞する目と内から鑑賞される目を持ってしまった現代人は、その二つの目に常に引き裂かれたままになっているいのだ――” 222頁

 誰を主人公とも名指せない群像劇。同じところを回らされているみたいな、迷路に迷いこみ抜け出せなくなっていく…めくるめく眩暈感。一人一人の登場人物に深入りする為の記述もなく(その必要もなく)、誰も彼もが最後まで謎めいている。それもまた魅力でした。

 女優がいて、その芝居の中でも女優の役を演じている。女優としての演技をしながら、さらにお芝居をしていたりする(二重三重の芝居? ああこんがらかる…)。では彼女の本当の顔は、どこかで晒されているのでしょうか…? 全てが虚構の上塗りだけに終始して、迷い込んだ読み手はただひたすら迷宮を歩き続ける…のが、つまるところのオチなのかしら? と、考えれば考えるほどにますます混乱しながら、兎に角読みました。作者の思う壺? 

 もしかして、それぞれの章をばらばらにして別の並べ方を探し出せたなら、絡まった糸が気持ちよく一本になるように、話も解けていくのかしら。…と、糸口を掴んだつもりでたどっても絡まってしまう。中庭のさらに奥深くに、引きずり込まれているのでした。
 演じるものと演じられるものは、いつでも交替可能な立場なのか。それどころか。一介の読者に過ぎない私も、束の間かりそめの鑑賞者の役を振り分けられ、その役目を忠実に演じていただけなのかもしれない…(ああ、こんがらかる…)。
 (2006.12.11)

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スコット・フィッツジェラルド、『グレート・ギャツビー』 再読

 訳者が違うが、十何年ぶりかの再読である。
 『グレート・ギャツビー』、スコット・フィッツジェラルドを読みました。

 “「なんて美しいシャツでしょう」と彼女は涙ながらに言った。その声は厚く重なった布地の中でくぐもっていた。” 171頁

 冒頭がとてもよかったです。もの哀しさの中に漂う語り手の厭世観に、何故か易々と持っていかれていました。村上作品にも通じる匂いを嗅ぎ取っていたのでしょうか? 
 この作品を好きとは、正直まだまだ言えません。哀しすぎて虚しすぎて…と言うのが、今の気持ちにぴったりくるのです。虚しさって、本当に捕まってしまったら心底怖ろしいから。…怖い怖い。でも、確かにこの作品との新たな出会いが果たせたような気がするので、それで満足です。 

 忘れがたく哀しい、美しい場面もありました。偉大にも愚直なギャツビーがひたすら恋焦がれ続けた相手は、つまるところ、思慮の足りない浅はかな女性だった。でも…二人が再会を果たした後で、ギャツビーがデイジーに見せようとして無造作に放り投げた色とりどりなシャツの、柔らかく豊かな堆積。そしてそこに顔を埋めてデイジーが泣きじゃくる場面が、好きでした。  

 この作品の文章の美しさは、村上さんの真心のこもった新訳のお蔭でしっかと伝わってきました。
 デイジーの不誠実も、水面に遊ぶ光のように頼りなく気まぐれなそのきらめきも。そのもろさと、儚く散りやすい花のような魅力も。その全部をひっくるめて、人の弱さや不器用さを愛せるようにならば、愛おしいと思いました。そう思う傍からとても哀しくなるのでした…。
 (2006.12.5)

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