城夏子さん、『また杏色の靴をはこう』

 実際の17歳は、蝶を追いながら花を摘むようなわけにはいかない。私の場合、手探りをしながら日々をやり過ごすので精一杯だった。それはそれで勿体ないことをしたのかも知れないけれど、現実なんてそんなもの…。
 でも! 城さんの素敵な言葉たちを読んでいたら、まだまだ取り戻せるような気がしましたわっ(図々しい)。これはまさに、その為の本だから。

 『また杏色の靴をはこう』、城夏子を読みました。
 

 67歳で老人ホームの生活を選んだ城さんの、70歳を過ぎてから綴られた、“17歳のエキスがたっぷり詰まったときめきの小筐”、ですよ…!

 最初の章で、老人ホームでの暮らしの素晴らしさや楽しさをとても朗らかに伝えようとする内容なので、実は少々吃驚した。はっきり言って時代が違い過ぎて、その辺の話が自分の後学になるとも思えず、「え、もしやこのままずっと老人ホーム絡みの話…?」と、少しばかり腰が引けそうになっていたら、ちゃんと次の章からころころと話が転がり始めたので、最後まですっかり愉快痛快だった。
 それにしても本っ当に、なんて朗らかな文章だろう。お茶目な文章たちが白いページの上で、うきうきわくわく今にも踊りだしそうだ。これは大袈裟じゃなく、それほどまでに明るいお人柄が、文章の隙間から溢れてこぼれてくるようなのだもの。ああ楽しい。

 なーんて言いつつ私は、「茶目っ気と毒気にぞっこん」のこんな冒頭を読んで、うしし…とほくそ笑んだわ。

〔 よく人が言う。あの人は決して他人の悪口を言わない。感心ですと。私はそうは思わない。他人の悪口も言わないような人を私は信用しない。多分心の中では人の言う悪口の十倍位もその人を罵り嘲っているのだろうから。第一そんな人間面白くない。よくよくユーモアのない人であろう。私は悪口大好きである。と言えばあの悪口の達人清少納言の名が浮かぶ。 〕 30頁

 (と、途中から清少納言の話になるのでそちらも面白い)
 ああ、わかるわかる。自分の保身のために誰のことも悪く言わない人って、傍から見ると裏表ありまくりなのが分かりやすいものだ。本人は隠しているつもりでも。
 ぴりっと鋭い人間観察に基づきつつ陰湿にならない人物評なんて、女のおしゃべりには欠かせないスパイスなのにね(それをまた世の男たちは、何でも一からげに“女は悪口が好き”というのだ)。
 美しいものとお洒落が大好きで、常に憧憬で胸を膨らませていた城さん。少女趣味でキュートな方だったのかしらん?と思っていると、こんな風に威勢の良い気っ風が飛び出すので、やっぱり可愛いじゃなくて格好良いと評すべきかしら…?と印象を改めさせられたり。ああ、きっとどちらも兼ねていたに違いない。可愛くて格好良い、中身は17歳の80歳…! ぶらぼ。  

 美しく愉しく年を重ねる秘訣は、“いまが一番好き”という心意気にあるようだ。そしてそこには、城さんが実践し続けたパレアニズム(少女パレアナの、何でも喜びに転ずる遊び)のお蔭もあるそうな。 
 この、“ときめきの小筐”に詰め込まれているのは、今を愛してよりよく生きることへの、尽きることない伸びやかな希求。きっと、誰にでもそれを語りかけてくれる。楽しく明るく、ときに悪戯っぽく。

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矢川澄子、『兎と呼ばれた女』

 私が初めて目にした“由比が浜にてコイコイに興じる”二人を撮った写真は、澁澤龍彦特集号の「太陽」に載せられていたものだった。矢川さんのお顔は帽子に隠れているけれど、そのすんなりした肢体はとても清らな印象で、私は魅了された。 
 その当時の私は、それが、“人並みの幸福を追いもとめるのはやめようね”という約束の言葉で編み上げられた繭の内に憩う、二人ぼっちのアンファンテリブルの姿であることをまだ知らなかった。

 今日の昼下がりの雨は、賑々しい雷を伴っていた。神さまと兎の物語に、いかずちのBGMとはね…。
 『兎と呼ばれた女』、矢川澄子を読みました。


〔 さればこそ、翼ある身ともなれたのではないかしら。わたしたちの結合はもともと天使的な結合、わたしたちの生活はいわば天上の生活で、世間並みのくらしをするため、子孫を生みそだてるために結ばれたばあいとは、まるきりちがっていましたもの。 〕 19頁

 二人の男に愛されて、全身全霊で愛し尽くした女性の心の軌跡。  
 極端な事柄には、心を動かされる。それが自分とはかけ離れた世界のお話ならば、尚更に。 
 美しい言葉でるる綴られているのは、愛とおそれのない混ぜになった純粋過ぎるほどの思慕。すべてを受け入れることと自身を捧げ尽くすことの、命がけのような思念に、ただただ声もなく揺さぶられた。ぐらり…と、まるで地面が傾いだようだった。純粋という名の綱渡りの怖さについて、思いをめぐらす。

 女が男にそそぐ愛に、完璧な形などあるのだろうか…。 
 たとえば私なら、女として相手に向けているつもりの愛情が、支配されて依存することの享受へとすり替わっていくことを考えてみるだけで、厭わしくなってしまう。寄り添い合うのは素敵なことだと思いながらも、ゆだね過ぎることへの抵抗を捨て去るなんて、慮外だ。けれどもおそらく、きっとおそらく、きっときっと…。ここに描かれているのは、そんな次元の話ではないのだ。

 ここにある激しい歓喜も苦悩も、こんな下界の万に一人の女にさえ手に入れられない、この世にあるまじき輝きをはなつ稀な宝石のようにすら見えてきた。だから、この心優しく純粋過ぎた佳人の魂を、痛ましいとさえ感じることが出来ない。私にとってこの作品の怖さは、まさにそんなところにある。
 誰にでも通用する常識や道徳なんて要らない。そんなものから遠く隔たった場所で、この世から追放されて、世界に二人しかいないように互いだけを求めて生きることが本当に出来るものならば。

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スペイン料理の老舗♪ 「カルメン」

7月27日、日曜日。晴れ。 
 帰宅後、いつの間にか二人して夕寝をしていた。夏だなぁ…。目が覚めて、一瞬朝かと思ったくらいぐっすり寝ていた。  

 今日のランチはだーさんの提案で、三宮のお店「カルメン」へ行ってみることになった。1956年から続く、日本で最初に出来たスペイン料理のお店だそうな。 
 駅からしばしてくてくてく…。ちょっとひと気のない枝道に入ったところに、こんな入口が見えてくる。
 なかなか摩訶不思議な老舗であった。

 階段を上がって店内に足を踏み入れると、手前のテーブルに座っていらした御老人がやおら立ち上がり、私たちを案内してくれたのでかなり吃驚!した。そして席に落ち着くと、奥のテーブルでどうみても何かの打ち合わせ中な人々を目にして(卓上には書類しかなかった)、「ここは事務所か…?」とさらに吃驚!  
 先の小柄銀髪の御老人がメニューを持ってきてくれたので、「おお、この方が本当にフロア担当なのか…」と思いつつ、だーさんがビールを頼んだら相当にお耳の遠いことが判明したので、さらにさらに吃驚! ある意味ふっ切れる私たちであった。何なんだろう、この老舗…。
 
 とりあえず呑もう。
 ランチもあったけれど、単品で3品と赤ワインを頼んだ。えっと、だーさんとご老体がメニューの番号を確認し合いながらのオーダーである。

 ワインは流石にソムリエの給仕。「リオハ」という赤。
 ライト。

 先に運ばれて来たのは、だーさんが選んだ“タコのトマトソース”。
 すっごぉく美味しいのでまたまた吃驚~(失礼な)。タコが柔らかでマッシュルームたぷーりで、スープ代わりにもなった。

 私が選んだ“フラメンカ・エッグ”は、ご老体によるチャッカマンからの点火付き。ブランデーから青い焔がめらめら。
 焔が鎮まるころに、玉子が固まるのかな? 玉子好きには嬉しい一品だった。でもヴォリュームはないのですぐになくなってしまった。

 年月を語る窓枠。燭台も渋いし。
 そう言えば3品とも、計ったようなタイミングでちゃんちゃんと運ばれてきたなぁ。結局お客さんは、途中で一組のご夫婦がいらしただけなので、厨房が忙しくなることもなかったでしょうけれど、それにしても。

 そうしていよいよ、二人のお待ちかねの登場♪
 …なのであるが、こんなに具材が乗っていたのが最後の吃驚よ!
 これは、“パエリア バレンシアナ(魚介、手長エビ、鶏肉入り)”。ご老体のおススメだったわ。  

 パエリアパンは底が浅いので、これだけの具材があっても二人でぺろりといけちゃいました。あちらはお米もおかずの扱いだから、まあ当然なのかな。
 所狭し…。
 私は甲殻好きなので、エビの頭をばりんばりんと頬張るのであった。キトサン摂取。  
 どれもこれも美味しかったよう。ご馳走さまでした♪

 
 そんなこんなで色々と楽しく印象的だった店をあとにして、元町へと散策。先日たどり着けなかった「箸屋」にて、外食用のマイ箸を選ぶ。だーさんが見つけてくれた乙女っぽい箸を、一膳購入した。

 「さっきの店、散財した割にお腹膨れなかったなぁ」「そう言えばそうだねー」「ワインとパエリアで(料金の)半分以上だったもんなぁ」「あはは…」。
 ちょっと歩いてから“元町ヱビス”で休憩。“鶏の南蛮揚げ”やら“ゴーヤと桜エビのかき揚げ”を頂いてしまう私たちなのであった。
 衣がサクサク~。 

 すっかりお気に入りになった、赤玉ポートハイボール。
 二人で過ごす夏の1ページが、今日もこうしてめくられたのであった…。ちゃんちゃん。

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皆川博子さん、『蝶』

 あえかな声たちが、確かに届く。 
 見えない力に押しひしがれながら、誰に向って何を嘆くでもない、あえかな声が聴こえてくる。これは、そんな一冊だった。
 
 装丁がとても美しいので、なお更に沁みてくるものがある。
 『蝶』、皆川博子を読みました。

 完璧な世界など楽園など、どこにもない。時は移れども人の棲む世とは、理不尽を孕み矛盾を抱え、そして集団が無自覚なままに溜めこんだ悪意は、常により弱き者へと向かいながらその首をゆっくり締め上げていくのだろう…。
 一話目の「空の色さえ」を読んですぐに気が付いた。“教科書で教わった歴史なんて、本当の歴史の上っ面でしかない。スポットライトが当てられた局面の裏側には、暗くて長~い影があって、その影の方へ追いやられた市井の人々の内にこそ、深い悲しみや苦しみがあったはず…ということを、私は随分と皆川さんの作品から教えられたように思っています”…というのは、先日書いた講演会レポからの引用であるが、そんな長篇の代表作が『総統の子ら』であるとすれば、この一冊は日本とドイツで背中合わせになっている短篇集かな…と、思ったのである。

 「蝶」で描かれる復員兵の男は、家に残っていた妻と、親指を切断したことで召集を免れたという妻の情人に拳銃を向ける。そして本当の話は、ここから始まる。戦中内地にいた人々が、自分たちの為に戦って戻ってきた復員兵に対して、如何に酷くあたっていたかという話も講演会でされていたことを思い出しつつ読んでいた。子供心に胸が痛んだという話を。
 そして圧巻のラスト。男が背中を押される場面の圧倒的な説得力に、ただただ打ちのめされた。

 「想ひ出すなよ」は、語り手がとても本好きな少女なので、その早熟ぶりに皆川さんの面影を探しつつ読んでいたのに、どんどん不穏な雰囲気になっていく。この少女を取り巻く遊び仲間の子供たちにしろ、彼女の両親を始めとする大人たちにしろ、普通なのに何だか嫌な人たち…という感じが凄くリアルだった。 
 少女の小さな社会に少しずつ、目には見えない悪意の糸が蜘蛛の巣のように張りめぐらされていくのが、何とも息詰まるような作品だけれど、見事なラストによって忘れがたくなった。

 それぞれの作品に詩や俳句が使われていて、それがまた味わい深いので嬉しい。特に「想ひ出すなよ」や「妙に清らの」「遺し文」でそれらをしみじみと読んだときには、愕然とした。

 そそがれた視線は、湿度が高くて分かりやすい同情に充ちたものでは決してない。ただ、為す術もなく大きな流れに巻き込まれた挙句に、世間から差別を受け、その存在を踏みにじられるような運命を背負った人たちが、歴史の裏側にはいつもいたという事実を忘れ去らせまいという思い。人の都合のよい忘却によって、道端で黙って踏みしだかれる草花のように慎ましく儚く散っていった人々のことが、誰も知らない過去に葬られていくのを冷徹に眺める、静かな哀しみをたたえた眼差しを感じた。
 もちろん、妖しの幻想美も存分に堪能した。夢幻の美しさと悲哀が溶けあった、素晴らしい作品集だった。

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長野まゆみさん、『左近の桜』

 桃は、熟してしまえば傷むのがとても早い。それもまたこの果物の、愛おしい特徴ではある。
 指で上手に剥けた皮の下から、驚くほど潤いを秘めた果肉の柔肌があらわれる。目で存分に愛でてから、舌で味わう。ふふふ。読み終えたばかりの作品の世界を、もう一度呼び寄せ楽しむように…と言ってしまうと、いささか問題があるだろうか(変態…)。

 いそいそと買い求め、いそいそとページを繰った。
 『左近の桜』、長野まゆみを読みました。


〔 「遠慮するなよ。舐めれば、すぐに肌合いも知れる。丹念に化粧をした肌は、利きがいいからさ。」
 どうすればこのやっかいからのがれられるのか、桜蔵は頭を悩ませた。 〕 129頁

 連載中に文面をささっと斜め読みしたことがあって、あららら…これは…と思っていたのであった…。 
 しかし、情景の一つ一つの、まさに桜の精が悪戯に見せる宵夢のように、浮世離れて美しいことと言ったらどうだ。この世のものとも思えぬ妖と美は、現にこの世のものでない者たちが持ち込んでくるのであったりするから、当然と言えば当然か。
 そんなあやかしの怪しからぬ輩どもに、やたらとモテモテなのが主人公の桜蔵。敷地内に幾種もの桜(緋寒桜、豆桜、江戸彼岸、染井吉野…)を植えた、風流な宿屋「左近」の長男である。…と言ってもこの「左近」は、知る人ぞ知る忍びごとや逢瀬のための宿なのだが。 

 あられもなくあらわになったかと思えば、ついと隠れる。隠されたかと油断していると、またもあらわに見せつけられている…。そこのところの駆け引きのような絶妙の塩梅は、これはもう長野作品でしか味わえない色気である。はう…。桜蔵、あやうし…。
 その桜蔵を取り巻く渋くていけない大人たちが、父親の柾や常連客の浜尾だ。さらに、その正体がなかなか掴めない学校の教師・羽ノ浦の存在も絡みつつ、その気がないはずの桜蔵がどんどん追い詰められていく可憐な様を、読み手は固唾を呑んで楽しむ、もとい読み進んでいくわけである。ふふ。
 
 湯に浮かぶ花だまり、蝶捕り師の鱗粉の転写、質屋での雨宿り、人の体を乗っ取る紙魚の雲母蟲(きらむし)、初雪に埋める白雪糕…。随所に散りばめられたアイテムと情事のお膳立てでも、長野作品ならではの品と粋が堪能できる。桜で始まり、桜で締めくくられる。

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中島たい子さん、『漢方小説』

 文章が面白くて読みやすいので、さくさくと読めた。  
 語り手の思考や発想がところどころひねくれていて、そのひねくれ具合が何ともユーモラスにとぼけている。そんなところが良かったなぁ。 
 
 『漢方小説』、中島たい子を読みました。

〔 「最近なにかストレスを感じるようなことがありませんでしたか?」
 真顔で聞くようなことだろうか? と、私は思った。最近呼吸をしましたかと聞いているに等しい。 〕 18頁

 主人公みのりのずっこけ具合とか、とほほ…な現状を描きながらも深刻になり過ぎない、少しずつ笑いを差し挟んでいく語り口に好感を持った。生きていく為の健やかな知恵、みたいなものも感じる。 
 それから、ちょっと東洋医学についての簡単な入門書的に読める部分もあるにはあるが、安易に東洋と西洋とを殊更に対立させているようには感じなかった。ただ、やはりどうしても、ややもすれば医療の進歩が肝心の患者を置き去りにしていくイメージのある西洋医学に対し、あくまでも患者自身に寄り添い少しずつ治していきましょう…というスタンスであたってくれるのが東洋医学なのかな…という印象はあった。一概に言えることではないと思うけれど、その人の状況や症状次第では、そんな治療の方が効を成す場合が本当は沢山あるのかも知れない。

 ただちょっと、31歳でたまたま恋人がいないことがそんなに大変なのか?…という素朴な疑問もあった。むむ。そんなに卑屈になる必要があるのだろうか…とか、ところどころで思った。多分主人公のみのりは、その辺りが人一倍素直な人なのかも知れない。世間一般の大ざっぱな価値観を、そのまますんなり受け入れてしまうと言うか、強がりきれないと言うか。元彼の結婚の報告が絶妙なタイミングで、たまたま泣き所を突いてしまったことも大きいだろうけれど。  
 その一方、心身の不調が重なるという話には、経験上とても共感出来た。そんな時の辛さなんて、所詮本当のところ本人にしかわからない。まず先に心が痛めつけられているから、立ち向かうのが困難で挫けそうになるのに、周囲の理解はえてしてなかなか得られないものだ。

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『鈴木いづみプレミアム・コレクション』

 鈴木いづみという名前が気になりだしたのは、去年の春の頃。それですぐにこの本を買ったわけでもないが、1年ほどは寝かせていたことになる。とても好きそうな予感と、エキセントリックさの方向が私の好みじゃなかったら…という不安とが、いつもない交ぜになっていた。

 『鈴木いづみプレミアム・コレクション』を読みました。
 

 たぷんとぷん、たっぷん…と、すっかり気持ち良く浸かりきっていた。
 とても、とてもとても、独特で不思議な味わいのあるSF作品を堪能出来たので、大変に満足している。懸念していたどぎつさは感じなく、むしろ何処かしら孤高というか、高潔な雰囲気すら漂っているように思われた。確かに風変りでセンシティブだけれど、そこのところに押し付けがましさは全くない。さらりと切ないほど、乾いているのである。まるで読み手に対してすら、何も期待していないかのようでもある。

 どの作品も面白く、インパクトの強いものばかりだったが、私がとりわけ気に入ったのは、「夜のピクニック」や「ユー・メイ・ドリーム」「ペパーミント・ラブ・ストーリィ」あたり。
 「夜のピクニック」には、やたらと“地球人らしさ”にこだわる4人家族が出てくる。彼らはどういった経緯からか、地球からの入植者が立ち去ってしまった異境の星で暮らす、最後に残った人々であるらしい。滑稽なほどに地球のことを知らず、ビデオや本から知識を得ようとするものの、それもまた間違いだらけだったりする。では、なぜこの一家族だけがこの星に残されていたのか…という疑問については、物語の最後に明かされる。可笑しさの中に紛れこんだ、ほんのぽっちりの彼らの哀愁。その匙加減が絶妙だった。

 「ユー・メイ・ドリーム」は、“冷凍睡眠”なるものが、政府の人口局によって人々に施されるようになってしまった未来が舞台になっている。さらにそこにもう一つ、ちょっと変わった仕組みが絡ませてあって、読み応えがあった。心理サスペンスっぽい。

 そして「ペパーミント・ラブ・ストーリィ」、この作品の底流をなす切なさと透明感については、何とも説明しがたい。8歳の少年想が、20歳の〈彼女〉の姿を見たときから、彼らの長い長い物語が始まる。どんなに二人の上を時が流れ過ぎ去っても、〈彼女〉は想にとっては永遠に12歳年上の“きれいな女のひと”であり続けるのか…。物語の終わらせ方とかも、とても好みな逸品だった。

 
 いやそれにしても、これほどに、本人のポートレイトと切り離して作品を鑑賞することが困難な作家も、珍しいのではないか。挑むような表情から受ける印象と、作風に対しての感想とが、どうしても頭の中で渾然一体となってしまう…。それらすべてをひっくるめ、この稀有な作家の作品であるということかも知れない。

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『幾度目かの最期 久坂葉子作品集』

 『エッセンス・オブ・久坂葉子』で出会った作品たちには、ひりりとした痛みを抱えながらも、余りあるほどのきららに凄烈な魅力があった。その鮮やかさはいつまでも忘れがたく、もう少し読んでみようとてこの一冊を手に取った。ゆかりの地に近くたまたま私が住んでいることにも、不思議な縁を感じてしまう。 

 『幾度目かの最後 久坂葉子作品集』を読みました。
 

 人を惹きつける危うげな雰囲気を纏い、やんちゃで刹那的で、もしも無理やり型に嵌められたなら翼がもげてしまいそうな…そんなもろさ故にこそ、誰よりも生き生きと須臾の時を駆け抜けた一人の女性。享年僅か21歳。
 ここまでおめおめ生きてきた私に、何が言えようか。いや、生き続けることこそ大切だと、心底思ってはいるものの…。

 「幾度目かの最期」だけが再読となったが、自伝的な作品「灰色の記憶」からの流れで読むと、抜き差しならない状況がますます胸に迫ってくるようで、あらがう術もなく圧倒的に惹き込まれていた。
 「灰色の記憶」を読んで、自らを破滅へと向かわせてしまう衝動は、子供時代から幾度も繰り返されていたことが分かった。そしてまた、最も多感な年頃に(彼女の場合、多感なままで生涯を閉じてしまうのだが)、頭を押さえつけられるように右へならえを強制され、息の詰まりそうな戦中の日々を送っていたことも。 
 そして戦後の、溝の深まる両親との冷ややかな関係。偽りを纏うことでしか生きていけない、女という性への嫌悪感や、活路を開けぬまま“メランコリイの幸福感”に耽る自分自身への憎悪などが、身を切り刻むような筆致で書かれていく。最後の文にたどり着くまで、息も吐けないような苦しい作品だった。

 いったいどこで、かけ違ってしまったのか…と、遠い昔に逝ってしまった人なのに、歎ずることをとめられない。何らかのかけ違いが、その短い人生のどこかの時点で生じていたとして、何故それが修復されることなく、破綻へと転がっていってしまったのだろう…。 
 神戸の名門に生まれ、人に抜きん出た才能を天から授かっていたような少女。賞讃と羨望をあびるべくして生まれてきたような、女の子だったはずなのに…。
 死への希求があまりにも強い人が、普通に生きていくことが如何に困難であるか。私にもある程度の想像は出来る。結局は、そういうことなのか。

 “自分の死と文学をこれほど一致させた作品がほかにあるだろうか。”(解説より)
 死を目前に見つめた三日間に、憑かれたような勢いで書き上げられた最後の作品。 

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神戸の老舗パスタ♪ 「RYU‐RYU TRENO」

7月21日、海の日。晴れ。 
 今日は6時の起床。よしよし。  

 本日のランチは三宮方面である。先日下調べが足りなくてたどり着けなかったお店に、再度向ってみた。
 それは、神戸では老舗のスパゲッティ専門店「RYU‐RYU」の、三宮TRENO店。

 「RYU-RYU」と言えば相当昔からあるよね…と、なぜ名古屋出身の私が知っているかと言えば、昔「小山荘の嫌われもの」という漫画を読んでいたからだったりする。男子高校生の下宿先の大家が経営する喫茶店のサンドイッチが美味しそうだったり、放課後の寄り道でスパゲッティ(ここがRYU-RYU)やらクレープやらを頬張ったり、女の子たちが悉くお洒落で可愛らしいところが、今にして思えば神戸を舞台にしているからこその漫画だった。

 だーさんの提案で、本日初めての訪店となった。場所は三宮の高架下なので、なるほど少し分かりにくい。でも、私たちが着いたのがちょい12時前で、それからあっと言う間に3階席は満席になっていた(実際にはお店の2階)。所謂隠れ家的な店らしいが。
 ランチセットばかりだったので、単品のお品書きを所望し、まずはビール。
 ビールの名前を忘れてしまった…。ぐびぐびぐ美味。

 白い壁に古い洋画が映されていた。チャップリン…だよなぁ?と思いつつ、タイトルもわからない残念な私。


 お酒をかえて、白のハウスワインをボトルで。白は久しぶりな気がするけれど、もともと私はよく冷えた白ワインが一等好みのお酒だったりする。


 神戸ワインだった…。


 正確には名前を覚えていない、“健康野菜のサラダ”。
 ビーンズが色々入っていた。

 先に来たのは私のパスタ。“生ハムとエリンギ茸のペペロンチーノ”に、茶美豚のソーセージを追加してしまった。
 パルメザンチーズがかかっている。ちょっと、生ハムがごわごわしてるのがイメージと違ったわ…。でも味はグーよ。

 だーさんは、“フレッシュホウレン草ベーコン”の大盛り。
 一口味見をもらったら、醤油ベースの分かり易い美味しさである。

 メニューが多いことは知っていたけれど、本当に悩むくらい種類があって、他にもいただいてみたいものが幾つかあった(ゴボウビーフとか)。お手軽な感じなので、またお邪魔してみようかな。
 ご馳走さまでした♪

 食後は元町までぶらりぶらり歩いて、またまたリーバイスをひやかしたり、私がノジェスをひやかしたり。以前見かけた箸の専門店を探してみたけれど、つけられなかった(ココだな、次回こそ)。 

 そして休憩。ここは二度目の「元町ヱビス」。いい場所なのよ、駅の目の前で。
 こ、これは…“フィッシュ&チップス”…。吃驚。えええ、本場のと似ても似つかない。

 ビールの次は“赤玉ポートハイボール”。赤玉ポートと言えば赤玉先生。
 
 こうして3連休が終わりました。暑い三日間、呑みっ放しやないか~ (カチ~ン♪) 今、呑んだらもれなくお約束の髭男爵で〆を…。

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暑くてもらーめん、「 北海道旭川ラーメン とっかり2」

7月20日、日曜日。晴れ。 
 今朝も昨日にひきつづき、7時の起床。私にしては遅い…。PC前の窓際の定位置に座ると、命短き蝉の声がじゃわじゃわじゃわかまびすしい朝であった。  

 毎度のランチ話の前に、ちょっとだけ重い話(面倒でしたら飛ばして下さい)。 
 お風呂で本を読んでいたら、いつの間にか目の前の作品から心がふわふわ離れて漂い、私自身の子供時代の追憶に耽りだした。呼び起こされて、どうにもとめられなかった。その作者と私の共通点を探してみても、さほど見つかる訳でもないのに、彼女の子供時代からの親との心の隔たりと孤独が、酷く辛く胸にこたえた所為か。
 今でも飲み下せない遠い過去の、この身に降りかかったあれやこれやを思い出して、憤りや悔しさが爆発。シャワーを浴びながら思わず、顔を覆っていた。こんなに時を経た今になって、どうしてこんなに溢れ出してしまうのだろう…。
 そう言えばこないだ、『母は娘の人生を支配する―なぜ『母殺し』は難しいのか』という本を教えていただいた。あまりにもあまりなタイトルなのでひいたけれど、色んな漫画や小説が引き合いにされていて、面白いらしい(面白いって…)。涙なしでは読めない「イグアナの娘」もとり上げられているそうな。…ふむ。
 毎回冗談の飛び交うチャットだが、この本の話題になったときは流石に真面目な雰囲気だったので、やっぱり母娘って色々あるのだなぁ…と思った。ただ不思議なのは、全然そんなことを意識することなく生きていける女性も、世の中にはごまんといるということ。私は彼女の娘として生まれたときから、こちら側の住人になることを定められたのね…。 
 改めて、自分の中の時間が、ことこの問題に関しては止まっているような気がする。だからして、『母は娘の人生を支配する―なぜ『母殺し』は難しいのか』という凄まじいタイトルの本も、読んでみようかと思う次第…。ああ、でもやっぱり怖いな。誰か一緒に読みませんか?(こら)   

 はい、ここからご飯の話。平和なご飯~♪
 今日は車で買い出しを済ませてから、大阪方面へ出かけることに。お昼ご飯のお目当ては、東淀川区にある豚骨らーめんのお店(再訪)。…だったが、臨時休業でやっぱり振られる。そく、もう一つの候補だったお店へと向かったものの、炎天下の徒歩移動はなかなかきつかった。 
 そうしてふらふらとたどり着いたのは、「北海道旭川ラーメン とっかり2」。北海道旭川って、耳には涼しそうな響きがあるけれどね…。

 我々の気分はすっかり砂漠の旅人。ひふー。
 二人で1本は、焼け石に水の如し…(なはは)。

 冷たい麺が欲しい気分だったのに、つけ麺しかないので諦める。
 

 こちらはだーさんの、“醤油ラーメン”。スープの色がやや濃ゆめ。
 後で聞いたところ、「醤油の味が強過ぎる」らしい。 でも、他は良かった!とか。

 私は当然、“塩ラーメン”。一口スープをすすってこれは美味しい!と。
 ああ、味玉が崩れてかかってるわ。

 スープの味はしっかりしていて、子供の頃に禁断だった味わいも仄かにする…(はっきり書けないけれど、〇〇〇麺等は母親に禁じられていた)。
 モチモチした太めのちぢれ麺が、私の好みであった。

 汗がどどっと噴き出そうだったので、近くのスーパーで火照りを抑えてから(『とっかり』の店内は涼しくなかったの)梅田へ移動。二人で「NU Chayamachi」でしばらくぶらぶらして、私はCDを購入。だーさんはリーバイスをひやかしたものの収穫なし。

 そうして例によって休憩。
 だーさんの背後のテーブルにて、男の子3人による“持てないトーク”が盛り上がっていた。とほほ…。 
 
 うなぎのかば焼きとか。


 エノキの肉巻きとか。
 つくねとか、ねぎ巻きを頂いた。 

 またまた帰路の電車でうつらうつらしてしまうのであった…。長閑だな。長閑イズベストだな。  

 きっと私は今、だーさんとの生活の中で心の平安をほぼ手に入れている。だからその他のもろもろについては、ゆっくりと向かい合っていこうかな…。

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