人気の回転すし、「磯寿司 くるくる丸」 その9

1月31日、土曜日。曇り。 
 一月ももうおわり。今日はあまり寒くなかった。  

 今週の火曜日は、だーさんが車検の用事で休みをとったので、お昼ご飯にらーめんをいただいた。大阪は東淀川区まで出かけていき、お目当ての店にたどり着いたら臨休…。いずれ行ってみようと常々話していた有名店へ、さらに足を伸ばした(お蔭で沢山歩けたわ)。
 そこは、「無鉄砲 大阪本店」。平日のお昼時でも、しばらく並んで待つ繁盛ぶりだった。

 スープのこってり具合や麺の硬さ、ネギの量が選べるようになっていた。スープ普通、麺ハリガネ、ネギ普通で、“とんこつラーメン”を。
 豚骨スープ、こてこてどろんどろんー(これで“普通”)。ねっとりー。きっと、コラーゲンたんもりよ。 
 何だかネタっぽい(?)気もするけれど、存外美味しかった。ご覧の通り、見た目ももちろん美しくないし、一口二口で口まわりがべたべたしてくる感じで、食べていても美しくない。でも、ここまでこってりしている豚骨は、他のお店ではいただけないからね。その点でかなり満足。いつか機会があれば、Wスープも試してみたいものだ。あ、女性客は私一人だったわ。

 
 さて。
 今日のお昼ご飯は、毎度お馴染みの「磯寿司 くるくる丸」。車で所用を済ませた後なので、ちょうどお昼時ぴったり。ぎりぎりセーフの待ち時間なしで、カウンター席の端っこに座れた。 
 最初はビール。この一杯を乾してからは、熱燗で。

 お客さんの多い時間帯だから、握りたてがどんどん流れてくる。こちらのお店は、ちゃんと職人さんたちが握ってくれるのも嬉しいところ。そして職人さんが渋い。

 「流します」の声に反応して、すかさずとった“よこわ”。 
 鮪の幼魚ということで、癖がなくてやわらかい。
 “寒ぶり”。
 脂が邪。体に悪そうな美味しさ。

 中鉢で、“本ずわいのカニ爪”を。
 ふふふ。 

だーさん: 「何か頼みたいのはないの?」
私: 「じゃあ、のれそれ」
だーさん: 「・・・は? 何それ?」

 はい、“のれそれ”はこれ。あなごの稚魚。
 見たままの通りに味は淡白だが、独特なぬめりがある。ちょっと調べてみたら、淡路島では“洟垂れ”と呼ぶそう。いやーん。

 前回もいただいた、“生牡蠣”。
 美味。

 だーさん一押しの“〆鯖”。
 〆鯖って、やっぱり美味しいー。

 ついつい欲張って、“たら白子”。
 クリームのような食感。とろける。

 〆はやっぱり、“紫蘇巻き”。
 中鉢を入れると全部で八皿。ちと食べ過ぎた…。

 西宮駅のエビスタで、スリッパを買って帰路。今夜は蒸し鍋の予定だったが、だーさんが寝てしまったので延期。今日も長閑長閑。

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佐々木丸美、『雪の断章』

 久しぶしの佐々木作品。
 佐々木丸美、『雪の断章』を読みました。
 

〔 少女のために一月を越えて二月を越えてそして三月を越えたマツユキ草、それなら私のために春を越え夏を越え秋を越えて待っていてくれた冬に感謝しなければならない。雪が私のそばにいてくれなかったら、私はとうにその真実の冷酷さに負けていただろう。 〕 201頁

 とても好きだった。とり憑いてくる文体に引きずり込まれ、堪能した。
 でも実は、己の殻に閉じこもった主人公飛鳥の頑なさや、世間への憤り、深い恨みと思い込みの激しさ、そして裏表ある人たちの偽りへの嫌悪感…などなど、身に摘まされるというか、痛いようにシンパシーを感じている自分に気付いて、まいったなぁ…とほろ苦笑いをこぼしていた(私、まだまだ青い…?)。
 とは言え、佐々木丸美の文章が生み出す清澄な札幌の空気感に、凍てついた孤独な少女の心理は何と相応しく哀しく映ることか。だからこそまた、彼女の心の雪解けの温かさが胸に沁みたのだった。  

 ありきたりな大人たちから、ありきたりな世間での善悪の判断を刷り込まれる前の段階の、情けも容赦もない驕慢で透明な少女。そんな少女が白昼に見る夢とは、例えば、自分がみなし子になる夢だったりする。少なくとも私はそうだった。ふと、自分の家が堪らなく嫌になるとき、「本当はこの家の子供じゃないのだったらいいのに…」と、少しの後ろめたさを感じながらも思わずにはいられなかった。空想に耽ることを、やめられなかった。飛鳥には怒られそうだけれど、よくある少女の白昼夢である。
 佐々木作品は、とてもリリカルでドラマティックで素敵だが、その作風の底流には、そんな、大きな声では言えない少女たちの秘められた願望がこめられているような気がしてならず、元少女の私はそこに魅了されてやまない。自分を育ててくれた人が理想の男性で、美しく成長した乙女がその人に恋をする…という設定も、ある意味究極のロマンスかも知れないし。

 誇り高く一途な少女が愛した、清らかな雪。あらゆるものに降り積もって、何もかもを真っ白に見せてくれる清らな雪。飛鳥の雪への思いがとても美しくて、心に残った。

 それこそ本当に私が正真正銘の少女だった頃、「森は生きている」の人形劇をテレビで観て、茫然とするほどに魅入られてしまったことがある。こんなところであの魔法の呪文に再会しようとは…。嬉しい驚きだった。

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真冬に合う♪ 「味噌らーめん専門 みつか坊主」

1月25日、日曜日。曇り。 
 今日も今日とて、風が冷たい。ひるる。 

 昨夜二人で、古くなってしまったいただきものの赤ワインをちびちびと呑んだ。そしたらば、どうも私は赤ワインとの相性があまりよくないようで、宿酔いの朝となった。やでやで。
 よれよれと毛づくろいを済ませる。今日のお昼ご飯のお店は決まっていたので、とりあえず梅田へ向かう。

 仕事の用事で一足先に出かけただーさんと、いつものKirin・Cityで落ち合って、ノンアルコールカクテル(!)のレッド・アイズ。普通のトマトジュースは苦手だけれど、ここでトマトにすがってみた。
 サンテボアソン×トマト、これが意外に美味しかった。だーさんのはホットワイン。  

 さて、一息ついてから阪急電車でさらに移動。私たちが降り立ったのは、蛍池という九つ目(確か…)の駅である。いったい何を求めてそんなに移動したのかと言うと、寒ーい真冬にこそ是非ともいただきたい、ずばり味噌らーめん!なのだー。
 関西に越してきてから、あまり味噌らーめんをいただいていない。でもやっぱりこの時期には外したくない…ということを、何日か前に私がぶつぶつ呟いていたら、だーさんが味噌らーめんのお店を調べてくれたのであったよ。むふふ♪ 関西で味噌らーめん専門店なんて珍しいから、今日はとても楽しみにしていた。

 駅からの道々風がすこぶる冷たくて、ついつい肩のあたりを強張らせながら歩く。寒けりゃ寒いほど味噌らーめんの温かさが沁み渡るはず…と、自分に言い聞かせつつ歩く。

 はい、 「味噌らーめん専門 みつか坊主」に到着♪
 素っ気ないほどシンプルな外観なので、一瞬らーめん屋って気が付かなかったよ。
 でも店内はほどよく賑わっていて、ほっとしながらカウンター席に落ち着く。で、今日はビールは省略して(だーさんはもう呑んだし)、それぞれにらーめんをオーダー。らーめんは、“白みそ”、“赤みそ”、“辛みそ”の三種類から選べる。

 目の前でらーめんが作られていくのを眺めながら待つ。例えば麺は、茹でる前に一玉ずつぎゅうっと丁寧に手もみされているし、器はしっかりと温められているし、何て言うか、見ているだけで期待と好感の高まっていくお仕事ぶり。嬉しくなってしまう。 

 こちらが私の“辛みそ”。燻製のたまご付き。
 器の色とスープの色が同じだ…。

 こちらはだーさんの“赤みそ”。たまごが隠れちゃったけれど、これで全部のせ。


 八丁味噌や韓国の味噌がブレンドされ、さらにスパイスも幾つか使われている“辛みそ”のスープは、とてもこくがあって美味。どろりとしたスープを受け止める中太多加水麺も、ぷりぷりとこしがあって負けていないし、白髪ネギの食感ともよく合うー。
 もちろん、つくねもちゃーしゅーもたまごも美味しかった。
 これはもう、わざわざ足を運んだ甲斐があった一杯ですよ。ご馳走さまでした♪
 も少し家から近くにあったらいいのに…。今度は「白みそ」もいただいてみたいなぁ。

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蕎麦日和に♪ 「そば処 卓」 その3

1月24日、土曜日。曇りときどき晴れ。 
 今日も寒いー。  
 昨夜の夜更かしの所為か、まだ宵の口に寝入ってしまった。ふと目が覚めたらミュージックフェアが始まっていて、中村あゆみと坂本冬美が「翼の折れたエンジェル」を歌うところだった。それで、何だか、とても眩しいものに目を細めるような心持ちで、ぼーっと聴いていた。くぅーっと歌の中に入っていって、うずくまって泣いている女の子の姿が見えてくるような甘苦しい気分で。歌って凄い。しかも私、流行っていた頃は特に好きでもなかった曲なのに…。あ、坂本さんの新曲もよかった。

 はい、ここから時間をさかのぼりまして。
 今日はいつもよりも早めに家を出て、元町の「卓」にてお昼ご飯。お蕎麦の美味しいお店、今日で三度目だった。開店時間のちょっと前に着いたが、お店の前で待っていたら招き入れていただけた。寒い中を歩いてすっかり体が冷えていたので、その上お腹がペコペコだったので、嬉しく嬉しく奥のテーブル席へ。 

 初めて訪れた時と同じ一番奥のテーブル席は、落ち着いて呑めるのだ。 
 体が冷えたと言いつつも、先ずはビールを少々。

 お約束の出し巻。
 お蕎麦屋さんの出し巻だもの、ふふふ、ふ…。

 すぐにお酒をかえる。熱燗♪
 この徳利、突起の部分に指をかけるととても持ちやすいという優れもの。

 そしてこちら、初めて頼んでみた天ぷらの盛り合わせ。お上品な天つゆと抹茶塩で。
 こ、この天ぷら、二人で目を丸くするくらい美味しかったのー。さくさくな衣の軽さが、兎に角素敵。  
 玉ねぎはほろほろとたいへん甘く、ズッキー二はどこまでも瑞々しく、蓮根の穴は果てしなく透徹…(何のことやら)。 

 このお店、器類にも感心してしまう。
 こういうごっついお皿、私の好み。

 これもお約束、蕎麦寿司。
 お蕎麦のぬめりと海苔の食感が、素晴らしい塩梅で溶け合う逸品。

 はい、〆のお蕎麦。 
 だーさんはいつもの、“田舎もりそば”の黒。


 そして私は、壁の貼り紙メニュー“下仁田ねぎそば”。
 温かい蕎麦はあまり頼まないが、こんな寒い日にはやっぱり良いわ。ねぎ×生姜で、ぽかぽか♪

 とっても太い下仁田ねぎは焦がし具合も絶妙で、箸でつまんで口に運べば、とろとろと舌にしな垂れてくる。そして、甘いのだー。
 ううう、美味しかったなぁ。 

 最後に出てくるデザートはみかん。 
 お店の方たちがとても感じ良くて、行き届いたサービスが何よりも美味な、お気に入りなお店の一つ。ご馳走さまでした♪

 三宮まで歩いてジュンク堂に立ち寄り、その後いつもの「多聞」でニンニク丸(だーさんのお気に入りになってしまった…)なんぞをつつく。DONQでパンを買って帰路についた。 
 空が晴れたら蕎麦日和、風が吹いても蕎麦日和、今日みたいな寒ーい日ももちろん蕎麦日和。

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クリストファー・プリースト、『奇術師』

 プリーストを読むのは3作目。
 驚きと興奮が最高潮に達したところでばしっと幕を引かれ、胸はどきどき頭はぐるぐる。ほんと、しばらくどきどきが治まらなかったなぁ…。心踊らせ、ふるえあがった楽しき時間。

 『奇術師』、クリストファー・プリーストを読みました。


〔 すでに、偽りを書くことなく、わたしは惑わしを開始している。惑わしこそ、わが人生だ。 〕 61頁

 醍醐味は、奇術師の“かたり”だ。章立てによって、がらりと趣きが変わってくるのがとても面白くて、長さを感じさせなかった。その章ごとの視点も、子孫(アンドルー)→先祖(ボーデン)→子孫(ケイト)…というように、今と過去とを交互に語る流れになっていて、しかもどの章にも謎が仕込まれているので、全く一筋縄ではいかない。何がどう繋がるのかわからないまま、どんどんひき込まれていく。

 いるはずのない双子の兄弟が、どうしてもどこかにいるとしか思えない。物心ついてからというもの、“ほかのだれかと人生をわかちあっているという感覚”が、絶えずつきまとっているというアンドルー。そして今また、ケイトに呼び寄せられた場所へと向かう彼に、双子の片割れからの歓迎の思念が届いたのは何故なのか。 
 偽りを書くことなく惑わしを仕掛けているとはっきり言い切る、奇術師ボーデンの手記は、何か大きな秘密を自分が隠していることを仄めかしつつ、その尻尾すら摑ませようとはしない。そもそもこんな文書が、何を目的として誰を読み手に想定して書かれていたのか…というのも、今一つよくわからないのだが。 
 ケイトを長年苦しめ続けてきた、子供の頃に見たある殺人の記憶の意味。そして、もう一人の奇術師エンジャが隠し続けなければならなかった、瞬間移動機を使う奇術〈閃光の中で〉の本当の秘密とはいったい。  

 二人の、全くタイプの異なる奇術師、デントン(エンジャ)とル・プロフェッスール(ボーデン)の対立の中心にあるのが、瞬間移動機の存在である。それぞれの瞬間移動機を使った、デントンの〈閃光の中で〉と、ル・プロフェッスールの〈新・瞬間移動人間〉(ネーミングの比も象徴的)。この、大がかりではあるが、やって見せること自体はとても単純(読んで字の如し、奇術師の瞬間移動)な二つの奇術が、客席に向けては同じことをしていながら、実は如何にかけ離れた方法によってなされていたか…という点を、私はとても面白く読んだ。 
 瞬間移動機を間に挟んで、こんなにも違う物語が繰り広げられていた。そして、どちらの奇術にも共通しているのは、それが何としても守らなければならない重過ぎる秘密の上に成り立っていたということだった。対立し合う彼らが、もしも相手の抱えていた秘密の重さを知ったなら(実際、知りたくて堪らなかったわけだが)、その執念と奇術師としての業の深さに、憎しみを忘れて驚嘆せずにはいられまい。そしてまた、業に捕らわれた人生を送らざるを得なかった者として、真に理解しあえる存在がお互いをおいて他にはいない…という皮肉に、気が付かずにはいられまい。 
 そして私には、瞬間移動機の存在を話の中心に据えながら、これほどまでに異なる趣きの物語を創りだし、それを一つの作品の中で並べてしまうプリーストの作品自体が奇術だった。ただただため息。     

 最後の章の短さにも舌を巻いた。残りこれだけのページ数でいったいどこに話がおさまるのだろう…と、気になって気になって仕方がなかったけれど、そんな読み手の懸念はお見通しとばかりに、ラストへ向けて容赦なく追い詰めていく筆致。煽られるように高まっていく怖さ…! はあ、思い出すとまたどきどきする。

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藤野可織さん、『いやしい鳥』

 ううむ、面白かった。でも、相当に気持ち悪かった(特に表題作が…)。  
 もっと幻想的な作風かと思っていたらば、不条理感が前面に押し出されたごっつい作品だったのでいささかのけ反りつつ。

 『いやしい鳥』、藤野可織を読みました。


 句読点の使い方が、時折ちょっと変わっている。だんだんそれに慣れてくると、文章全体が独特なうねりを持ちながら迫ってくるようで面白かった。でも、その分酔いやすいかも知れない。
(今、“とり”を変換する度に、“鳥”より先に“鶏”が出てしまうのが少し辛い。だって、いやでも食べる方を連想してしまうから。私、“鶏”肉は食べられるけれど、“鳥”肉はちょっと…。うっぷ。)

 隣人同士の、内田百合と高木成一。平凡かつ相応に詮索好きな主婦内田の視点から描かれる章と、かなり冴えない非常勤講師である高木の独り語りの章が交互にあらわれる。 
 内田側の奇数章で描かれるのは、ありふれた家庭のありふれた日常だ。内田が隣人の高木を勝手に怪しんで、その家を胡散臭げにのぞき見たりする行為も、いかにも普通のオバサンぽくて、何だかなぁ…という感じ。すぐ隣の家の中で、どんなにおぞましいことが起きているか露も知らず、呑気なことだなぁ…と苦笑しつつ、よくよく考えてみればそれはそれでぞくっと怖かったりする。高木の身に降りかかり進行中の、信じがたい惨劇とのコントラストがお見事過ぎるのだ。
 そして、読み進めばわかってくるのだが、希数章と偶数章とでは時系列にずれがあり、それがまた面白く読める仕掛けになっている。

 で、高木の独り語りの偶数章。これはもう…。 
 最初はたどたどしく感じられる高木の語り口が、己の身に降りかかったことを振り返りながら喋っている内に、次第に言葉が追いつかないほどの勢いを帯びてくる辺りとか、トリウチを徹底的に気持ち悪く描写しきっている箇所とか(変身の場面が圧巻)、凄い筆力である。
 受講生たちとの飲み会の帰り、教え子でもない(しかも感じが悪い)酔っ払いの学生を、自宅に連れ帰る破目になってしまった高木。だがその青年の正体は、“ただの凶悪な生き物”であった。 
 そう言えば、飲み会では周りの学生たちから“堀内”と呼ばれていた青年が、なぜか自分では“トリウチ”だと名乗るところから、既に不吉な展開の予兆はあって、高木の現実はゆがみ始めていたのかも知れない。

 高木のオカメインコを食べた(!)トリウチは、巨大な鳥に変身し、さらに高木を喰わんとしてその鋭いくちばしで襲いかかる。攻防と惨劇の始まりである。
 信じていた現実が目の前でこなごなに壊れる瞬間。その衝撃の深さや不条理感は、絶対に当人にしかわからないものだ。その実感は、他人には決して測れない。でも小説ならばこんな風に、読み手の前に突きつけることも出来るのだ…と思った。あえてリアルを描かないことから得られるリアルさ、とでも言おうか。そういう意味で、非常にインパクトの強い作品だった。

 あと、変身するのが“鳥”というのもミソだと思う。人が鳥類を見て、自分たちとはひどくかけ離れた存在だと感じずにはいられないあの感覚。上まぶたのないまん丸な目や、仕組みのわからない無機的な首の動きには、よく見れば人の自然な感覚との相容れなさや不気味さがある、と言っていいだろう。人間が変身するのがよりによって、その、“鳥”であるという気持ち悪さと言ったらもうもう。 
 あとの二作、「溶けない」と「胡蝶蘭」も良かった。読みやすかったのは「胡蝶蘭」。 

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鹿島田真希さん、『白バラ四姉妹殺人事件』

 以前から読んでみたかった鹿島田さん。ルネ・マグリットの絵を使った表紙と、タイトルに惹かれて手に取った。

 『白バラ四姉妹殺人事件』、鹿島田真希を読みました。


〔 自分の中に自分のものじゃないなにかがあるという感じは前からしていたわ。家や役所、そうね。それでもいいかもしれないわね。そして私に名前をつけて、独断と偏見であれこれ決めつける。だけど私はそれが苦ではないのよ。 〕 70頁

 面白かった。噛めば噛むほどじわじわ面白い、という印象。くずおれるように歪む現実の中、迷い込んだ袋小路の輪郭さえ、みるみるその形を変えていく。掴まれるものは何もなく、虚実の混淆が次第に描く、狂ったマーブル模様が見えてくるだけ…。ぐるぐる。
 いきなり冒頭から、ひどく異様な感じの女の科白が始まり気持ち悪くなる。そこにいるのは、情緒不安定でどことなく不気味な、更年期を迎えた一人の女だ。くるくるかき混ぜられてぼーっと膨らんでいく、綿飴のように茫漠とした思惟に付き合ううちに、彼女の撒き散らす不穏さに、ねっとり纏わりつかれてしまう。 

 父親の喪に服す四姉妹の家族。そこへ投げ込まれた異物としての長女の婚約者が、こっそり末娘とつき合っていて、激昂した母親に半殺しにされたという。そしてショックを受けた末っ子は、自殺をしてしまったという。 
 地域新聞に連日掲載されている、町内で起こった殺人(未遂?)事件に、同調するようにのめり込んでいく姉弟。二人はまるで劇中劇を演じるみたいに、当事者たちの物語をなぞり合い、いつしか己自身の感情との区別を見失って揺れ動く。そしてその外側には、そんな姉弟の関係をねたむ母親の狂気がある。 

 徐々に溶け合い渾然となっていく、二つの壊れた家族。その、家族という名の幻想が、形骸を晒してぼろぼろになっていく。どろりと巣食う、妬み嫉み。名前もない似通った女たちの稚拙な自我は、癒着と断裂を不毛に繰り返す(依存し合う母娘関係がもう、もう…)。
 偽り隠された真実、本当に殺されたのは誰だったのか?

 誰かに似ている女なのか、女に似ている誰かなのか。そして彼らは、未だに家族だろうか。お互い全くの別人に、なり代わってしまっているのではないか。女と女、女と男、女とママと愛人と男。まるで交換の可能な仮面のように、彼らの顔は区別がつかない。この人たち、実はどこかで分裂増殖したんじゃあないの…?と、またぞろ気持ち悪くなってしまう。
 だが、そんな劇は、唐突に幕をおろされる。

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今日はロシア料理♪ 「神戸 バラライカ」

1月18日、日曜日。曇り後雨。 
 とっぷり真冬なのに、なかなか雪は降らなくて雨になる。この辺りは本当に寒さが緩いのだなぁ…と、再認識。私はとびきりの寒がりなのに、ぬくぬく暖かい家の中から雪が降っているのを眺めるのは大好きな、我がままものなので。

 そんな今日は、遠い極寒の地に思いを馳せてみんとて、ロシア料理をいただきに行くことにしました(こじつけ)。
 ←ロシア料理と言えば、この二つ!

 玄関先にて、ブーツにするかパンプスにするか、しばし逡巡する私にだーさんが、「天気、悪くなるらしいよ」と一言。「えっ、雨降るの?」「さあ? でも、午後から下り坂だって」「傘、どうしようー」…と、そんなやり取りの後、傘を持たずに家を出た浅慮なあたくし…。ちなみにだーさんは、雨が嫌いで傘を持って出かけるのも嫌いです(仕事鞄には入っているけれど)。 

 三宮に着くと、すでに見上げる空は雨模様だったが、なんとかなるさと歩きだした。
 さて、今日のお店「純ロシア料理 神戸 バラライカ」は、北野坂を少し上ったところにある、ロシア料理の老舗。開店時間の5分前についてしまったのに、すでに入口の前には開店待ちの人たちの姿がぽつぽつ。そう言えばガイドブックにも載っていたしなぁ…。結局、お店の扉が開く頃にはかなりの数のお客さんが既に押しかけていた。

 奥まったカウンター席に座ったので、オーダーがなかなか出来ない。てか、ここ、まだメニューもないんですけれど…とぶつぶつ。こうなったらのんびり構えて、どっしり腰を据えてお食事するぞ。
 で、まずはビールと前菜二種。前菜からしっかり頼んでいるのは、私たちぐらい…(周りはセットメニューのオーダーが大半で、セットは出てくるのも吃驚するくらい早かった)。

 そんな訳で、“アグルツイ(ロシア漬キューリ)”。


  と、「ジャレンヌイ スビニーニ(焼き豚)」。
 さっぱりしていて食べやすい焼き豚。
 前菜とビールで体が冷えてきたので、温かい料理をどんどんオーダー。

 ボルシチは、お品書きには“ボルシ”と書かれていた。私たちは小カップで。
 野菜がほっこりしていて、何だか落ち着く優しい味。ビーツは入っていなかったなー。でも、すね肉がしっかりしていて美味。   

  ピロシキは2ヶ1皿なので、だーさんと1個ずつ。中の餡が美味しいのはもちろんだが、包んでいるパン生地が仄かに甘くてモッチモチなのに驚いてしまった。しかも、見た目ほど脂っこくない。


 兎に角ウォッカを楽しみにしていただーさんは、デカンタで頼んで堪能。隣で私は大人しくモスコミュール(一応、ウォッカベースだし)。 
 ウォッカベースのカクテルは好きなのに、ウォッカのストレートはちょっと呑めない。一口もらってみたけれど、注射液みたいな味じゃあないですか、ウォッカって?

 さらに一品料理から、“ぺリメニ(シベリア風ギョウザ)”。
 これは見た目通り、素朴な感じの料理だったかな。分厚い皮の食感が面白かった。

 そして、本日のメイン(?)。“カツレータ イ ガロヴィツイ(ロシア式ハンバーグとロールキャベツの盛合せ)”。
 どどーん!とヴォリューム満点。こんなの絶対、二人で分け合わないと無理ー。

 ハンバーグもロールキャベツも普通に家庭で作る洋食だけれど、こんなに肉々しかったっけ…? と言いつつ、ふんわりして優しい味なので、ついつい次の手が伸びる。
 かかっているソースが、やはり全然違う。とろとろキャベツも美味しいよー。

 しかし、この厚み。こんなのばっかり食べながら冬ごもりしていたら、もれなくマトリョーシカ体型になれちゃうんだろうなぁ…。ひえー。
 
 入口や店内のあちこちにマトリョーシカが飾られていて、私たちの席の前にも置かれていた(撮るの忘れた…)。
 ゆっくりと小1時間かけて綺麗に食べ尽くし、お店の外に出るとまだまだ待っている人たちが沢山。うーん、今度は是非ともシチューの壺焼きをいただいてみたいけれど、休日は混みそうだわ…。

 お店の入っているビルの3階から地上に戻ると、いよいよ本降りへと向かいつつある雨…! 
 ええ、二人とも傘なしのまま駅へと向かいました。だーさんは早歩き、私は小走り(の、つもり)。庇のある店から店へと、はしゃぐ小娘のように駆けていったのでした(の、つもり)。

 DONQでバタールとガーリックフランスを買って帰りました。すでに今の時点で、かなり食べられてしまいました。

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小川洋子さん、『猫を抱いて象と泳ぐ』

 ただ、コツン、コツン――と、チェス盤に駒が置かれるささやかな音のみを、想像の中で響かせてみる。ページを繰る指先からさえ沁みて伝わってきそうな、耳を澄ましたくなる豊かな静謐。

 そこにある静けさがあまりにも優しくて、ひそりと、消え入りそうなほどに慎ましいものだから、なぜなの…?と問いかけたくなってしまう。そして、哀しいような愛おしいような思いを胸に抱えたまま、その場にうずくまりたくなる心地よさ。そんな静けさの向こうから私にこたえてくれるのは、チェス盤で奏でられる詩のように美しいメロディばかり。

 やはり、好きでした。
 『猫を抱いて象と泳ぐ』、小川洋子を読みました。


〔 遠い博物館に、どこへも動けないまま哀しみに沈んでいる駒がいる。どんなに小さくても八×八の宇宙船が行ける場所は他のチェス盤と同じなのに、ガラスケースに閉じ込められたまま、無遠慮な見物人に虫眼鏡でじろじろ覗かれている。もしその駒を動かせるのが自分一人だとしたら。 〕 176頁

 いずれリトル・アリョーヒンと呼ばれることになる少年は、ごく幼いころから極端に口数が少なかった。そして、そのこととどんな関係があるのかはわからないが、少年は生まれてきた時、上唇と下唇がくっついていた。この世に生まれ落ちてきたその第一声を、咽のあたりに詰まらせたままの赤ん坊は、すぐさま手術によって急ごしらえの唇を与えられる。だがその唇は、あくまでも模造品だった。 

 生まれてきたときにはすでに、あるべきはずのものが失われていた少年。天から与えられた欠落は、天から与えられた特別な仕掛けの証なのか…? 
 あらかじめ、失われていた唇。それはまるで、その先の人生において、声も言葉もひたすら呑みこみ、ただ美しく尊い詩句をチェス盤の上に浮かび上がらせ、駒たちにメロディを奏でさせることだけが、定められた彼の役割の全てであったと指し示すかのようだ。そしてまた、その類まれな素晴らしい才能も未来の栄光さえも、決して声高に顕示されることはないであろうことを暗示するが如く。そんな彼を待っていた数奇な運命とは…。

 まだ幼い日々、リトル・アリョーヒンにチェスを教えた、廃バスの住人のマスターや、壁から抜け出してきたみたいにやせ細り、肩に鳩を乗せた女の子のミイラ。賢い猫のポーンに、屋上から降りられなくなった象のインディラ。世界の片隅のチェス盤の下に寄り添いあって、彼らはずーっとリトル・アリョーヒンと共にあった。果てしないチェスの海に身を任せて、リトル・アリョーヒンが思いを込めて指す一手一手が奏でる、崇高で慎ましやかなメロディと共に。

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丸山健二さん、『水の家族』

 旧「本を読む人々。」の読書会コミュが終了してしまった後、mixiにて新しく読書会が始まりました。で、この作品が記念すべき一冊目の課題本でした。

 『水の家族』、丸山健二を読みました。
 

 大きな大きな、それはそれは大きな宙に浮かぶ輪っかのようなものを思い浮かべて、それが二つ。めぐり続ける水の循環と、終わることのないこの世の命の循環。交叉し重なり互いを響かせ合う、気が遠くなりそうに大きな大きな二つの輪っか。…そんなイメージに浸りながら読んでいた。

 水は、生きとし生けるもの全ての命の源となり、いつか果てる命を受け入れる縁のない器ともなる。ここに描かれている草葉町という場所は、まるで完璧な水の円環の内に閉じ込められた町だ。忘れじ川の清い水は三連の大水車によって、永遠に汲み上げられ続けるだろう。同じ場所で回り続ける大水車が象徴するのは、一見どこにも辿りつけない営みの、真の豊穣さ…なのだろうか。    

 物語は、大都会でぼろぼろにされて郷里へ舞い戻った、“私”の一人称によって語られる。歓迎されるはずもないわが家を思う“私”は、廃屋に隠れ住みながら、青いノートに草葉町の水のことを書き連ねようとしていた…。だが皮肉なことに、気が付いたときには己は死者となっており、そのことによってようやく、気になる家族の元をおとなうことが叶ったのだった。誰にも覚られず。
 “私”がかつて何をして、家を出ることとなったのか。それについては、読み始めれば凡そのところはすぐに分かる。“私”が犯した罪は人として最悪で、自分を深く恥じ入り、二度と家に戻れないと思い決めているのも無理はない。そんな“私”が死して尚、魂となって青葉町の辺りにとどまっていられるのは何故なのか…? 死を司る存在(ここでは、海亀?)がどこかから見ていて、彼に、その魂を清める為の猶予期間を与えているかのようにも思われた。 

 たとえ二度と戻れなくても、“わが家”と呼べる場所はここにしかない。 
 “私”の眼を通して描かれる家族一人一人の姿は、情けないものだったり愚かしいものだったり、現状から逃げていたり誤魔化していたり。けれどもたぶん、実はごくごく普通な人たちだ。人に優れて強くもないが、さりとて心が弱過ぎるわけでもない。各々のやり方で日々をやり過ごし、身の丈以上のものを望まない知恵を、いつしか身につけただけの人たちだ。でも、生きていく上での本当のしぶとさを持っているのも、そんな彼らなのかも知れない。たとえ猾狡でも格好悪くても打算まみれでも我にかえったら虚しくても、肝心なのは生きることだから。 
 特にそう、“私”の妹八重子の、底なしな頑丈さと言ったらどうだ。罪も過去も何も背負わない八重子の生き抜く力は、その逞しさは、詩を書こうと志し挫折した“私”をあるまじき行為へ走らせた心弱さと、あまりにも対照的である。
 そして後半の八重子の歌と踊りは、清濁を水車でかき混ぜて、やがて何もかもを清い流れに変えていく、そんな忘れじ川に寄り添う生命賛歌だ…と、私は思った。

 時折やや唐突にあらわれる、“私”が隠れ住んだ庵の地下深くにうずくまり、鶴の雛を抱いている古代人の少年のイメージが、ひどく気になりつつ好きだった。だから、三千年前の少年と鶴の雛が、草葉町の命の循環の端っこに繋がった一文も、忘れがたい。
 なだれ込むようにラストの一文にぶつかり、とうとう涙がこぼれ落ちた。

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