マルグリット・ユルスナール、『ハドリアヌス帝の回想』

 古のローマへと、櫂を漕ぐ。 
 ためらいを捨てて思い切ってこの手を、その水面の下へと潜らせてみたなら、決して手が届かないようにしか見えなかった水底の宮殿にさえ、本当は触れることが出来るのかも知れない。そして、そこにかつて住んだ人々の姿、彼らの思いや秘められた内面の襞にだって、自分の意識がどんどん寄り添っていってしまう…ことすら、きっと起こり得る。というのが、優れた歴史小説を読む醍醐味なのかなぁ…と、ぼんやり思った。 

 『ハドリアヌス帝の回想』、マルグリット・ユルスナールを読みました。


〔 わたしが一九二七年ごろ、大いに棒線をひきつつ愛読したフロベールの書簡集のなかに見いだした、忘れがたい一句――「キケロからマルクス・アウレリウスまでのあいだ、神々はもはやなく、キリストはいまだない、ひとり人間のみが在(あ)る比類なき時期があった」。わたしの生涯のかなりな期間は、このひとり人間のみ――しかもすべてとつながりをもつ人間――を定義し、ついで描こうと試みることに費やされた。 〕 314頁 「作者による覚え書き」より

 素晴らしい読み応えだった。豊富な史実を繋ぎ合わせていく、緻密で繊細な美しさを持ちつつ凛とした文章。おろそかにされた無駄な文章など入り込む隙間もない、揺るぎなく整合された文体。それらが見事に再現させているのが、ハドリアヌス帝の内面世界である。その、信じ難いほどに説得力のある確かさと言ったらどうだ。再構成された皇帝の人間性が、その内省の声が、真に迫った体温を帯びながら伝わってくる感覚は、本当に凄くて圧倒された。 
 ふうっと気が遠くなりそうな時間の隔たりを、悠々と横たわるそれはそれは遥かな時間の隔たりを、ほんのひとっ飛び。そんな事を可能にしたのは、ユルスナールの類稀な筆力と、ハドリアヌス帝に惹かれてやまなかった彼の人の情熱に他ならないのだろう…と。

 天に与えられし役目からも遠のき、死を待つばかりのハドリアヌス帝が、病の床から己の人生を振り返り書き連ねていくこの手記は、未来の若き後継者へと宛てた形を取っている。目前に控えた死と向かい合わなければならない日々にあって、皇帝の波打つ心が徐々に平穏を得るまでの思惟の流れをたどる。
 素晴らしい洞察力によって肉付けされた皇帝の人格は、非常に興味深くまた、魅力に満ちたものだ。そこにいるのは、高邁であり高潔であり、若かりし頃には伸びやかな野心を、そして老いて後には唯一絶対なる覇者としての孤独を、その胸の内に一人抱え込んでいた偉大な皇帝である。だがその一方で私人としての彼は、あくまでも誘惑に弱い快楽主義者であって、時にその愚かしさはひどく人間臭い。そんな彼がこよなく愛したこと、それは、優れた文学や芸術の中から美を見いだすこと。そして忘れてはならないのが、美少年の存在…!

 とりわけ、皇帝の寵愛を欲しいままにした美少年アンティノウスの造形は、秀美である。哀しいかな、美少年に与えられし美しさとは、いつかは失われるという約束の上に、束の間開花したものに過ぎない。言ってみれば徒花で、神様の気まぐれな贈り物だ。それ故にこそ、彼らが身にまとう美しさには、哀切な翳がいつも落とされている。その陰影を、ユルスナールの筆が丁寧に描き出している。
 アンティノウスを悼む皇帝の思いを綴ったくだりは、この物語の中でも白眉な個所だ。神のごとく崇められた皇帝が、身も世もなく涙にかき暮れ悲嘆の海に溺れているのに、その文章はどこまでも冴え冴えと美しい。 

 特に前半は、本文と訳注の頁を何度も行ったり来たりでなかなか進まなかったし、人名が多いのにも閉口したけれど、こつこつ読んでよかった。
 60歳のハドリアヌス帝の息遣いと、胸の内。私はそれらに寄り添いながら、時には若かりし頃の勇姿に思いを馳せ、友情と愛情と栄光を勝ち得た稀有な人生を、心から称えたのだった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

お気に入り♪ 道頓堀の「今井」 その2

2月22日、日曜日。曇りのち雨。 
 気温はあがりつつ、お天気は下り坂。
 ←今日のお昼ごはん(ほかほか)。  

 先日ぶっ壊れた給湯設備は、木曜日に無事に直していただいた。なんか、古いタイプだから部品の取り寄せで、日数が要ったらしい。三日間の銭湯生活もちょっと新鮮だった。近所には銭湯なんてなくて車で出かけていたわけじゃが、コンビニによって家に到着するまで、全然体が冷えないので冷え性の私は甚く感心した。芯まで温まるんだなー。
 もう一つの出来事と言えば、木曜日に図書館分室の近くで転んだことか。通りすがりのおばさんに声をかけられ、えへへっと笑いつつ膝を見おろしたらお気に入りのタイツ(紫)が破れていた。 

 さて、今日のお昼ご飯は、もはや月一くらいのペースでお邪魔している「道頓堀 今井」へ。
 店に着いたのが12時10分ごろ。で、それからたったの10分程度で順番待ちの椅子に人が溢れていたので、「僅差だねー」と頷き合いつつほくそ笑む。

 いつものようにまずはアラカルトを、酒の肴に。
 “春野菜の天ぷら”と、“鴨ロースの塩焼き”。
 こごみとかタラの芽とか、いろいろ。
 大好きな鴨。付けだれの風味もよかった。

 これは、だーさんが選んで初めて頼んだ“いわしの辛煮”。
 これはご飯に合いそうな、濃ゆくて乙なお味よ。

 そして〆には、二人で“おぼろうどん”。二人のオーダーがお揃いになるのは珍しい。
 ふふふ、これはお気に入りになった。シンプルな一杯で、ビールの後にはちょうど良い感じだ。おぼろ昆布が美味しい。ほかほかな一杯、ご馳走さま。

 このあとは梅田に戻って、「NU茶屋町」で春物を少しばかりひやかした。だーさん(絶対に店には入ってこない)にも付き合ってもらって、しばしぶらぶら。ビール一杯で休憩をしてから、デパ地下でお買い物をして帰路についた。朝から空色が悪かったのが、とうとう降りだしていた。ああん、春物がじわじわと欲しくなってきたぞー。


 さらにさらに、昨日のお昼ご飯も。
 先週末はだーさんの出張等で、私は二泊分のお留守番。よって、土曜日のお昼に元町駅で落ち合ってからご飯に行きましょう…という段取りであった。去年の秋にも行ったことのある、「蛸の壺」へと足を向けたのであったよ。
 ちと混み具合の読めないお店なのだが、先客は二組ほどだったのですんなりと店内中央の大きなテーブルの端に座を占める。

 途中で新幹線の事故があり、京都駅から余儀なく乗り換えをして戻ってきたというだーさんは、お疲れよれよれ。そしてすでに呑む呑むモード(あーあ)。
 気を惹くお品書きの中から、“鯖のきずし”。


 これは“五目焼き”。定番の明石焼きに、葱とミンチを加えたもの。
 ふあんふあん…! 軽くいただけてしまう。そして出汁がいいんだな、これが。

 こちら、以前も頼んだ“蛸の煮付け”。
 あと、“出し巻き”や“れんこんの天ぷら”なども頼んだ。こちらのお店も、何を頼んでも美味しい…!

 そしてご飯もの、“蛸飯おむすび”と“蛸チャーハン”。

 呑んで食べる私たちには、ちゃんと少なめで有り難いご飯もの。どちらかと言えば、“蛸飯おむすび”の方が秀逸かな。チャーハンはどうしても、油っぽいのが気になったので。

 昨日の食後はだーさんと別行動にして(え、だーさんはお疲れなので帰っただけじゃが)、私はジュンク堂に立ち寄った。最近、本の買い方には気をつけるようにしていて、じくーっと時間をかけ厳選してから買っているつもり。そして、一度に買うのは未読本ならば二冊まで(結構大変)。「今日は見るだけ」と決めておいて、買わずに帰ることもある。 
 二冊まで、という縛りを自分に課すことにした一番の理由は、その時の気分が移ってしまうとその本が漏れなく積読本になるから…ということ。まあねえ、本屋さんに並んでいる内に買っておかないと、読みたくなった時に絶版になっていたら哀しいなぁ…とか思うことは思うが…。だからその辺も難しいけれど。
 そんな訳で二冊ほど購入した。早めに読もうっと。

 次のお休みは小旅行だ♪

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

千早茜さん、『魚神』

 いつの間にか、部屋は薄暗くなっていた。 
 斜めにさしこむ僅かな光の元で、痺れるような余韻の中をたゆたう。音の届かない水底にまどろみ、しばしの夢に溺れていたみたいだった。

 『魚神』、千早茜を読みました。
 

 物語の舞台は、ヘドロの臭いに溢れ本土からは見捨てられ、遊女屋街としけた漁ぐらいしか収入源がない島である。捨てられる子供などは珍しくもなく、白亜とスケキヨもそんな姉弟だった(本当の姉弟なのかどうかを確かめる術もなかったが)。そして二人は婆に拾われた時から、成長したら上玉として売られていくことが決まっていた。
 お互いが違う人間であることにすら、はじめは気付かないほどに、彼らは鏡のように近く寄り添っていた…。

 物心がついたときには既に、隣に完璧な半身としての他者がいた。白亜にはスケキヨが、スケキヨには白亜が。二人は名を呼びあうことで自分を知り、互いに触れ合うことで実体を発見した。それは、愛よりも凄まじい絆かも知れない。そっくり同じ魂を分け合う存在。そんな存在がいること自体、ありふれた幸せも不幸せも超越しているようにさえ思われて、彼らがあまりにも他の人たちとは違うので胸が痛かった。 
 狂おしいまでに互いを必要とし求め合う、そんな二人を引き裂いた残酷な島の掟。それは、その島に生まれてきた以上誰一人として逃れることの出来ない、従うしか生きる術のない掟だった。だがその結果、まるで二人を引き裂いたことへの贖いのように、おびただしい血が流されることになる。 

 幻想と官能にみちた、とても美しく怖ろしい世界だった。耽美な内に秘められた、血みどろで破懐的な部分に強く惹かれた。甘美な毒が全身をめぐるようで、素晴らしかった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

エステルハージ・ペーテル、『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』

 何にうながされたと言う訳でもなく、ふと読んでみたくなった。
 「これこれ其処行く者よ…」と呼びかけられ足を止め、気付いたらこのタイトルに大いに惹かれていた。まあ言ってみればそんな次第で、手にとった一冊。

 「東欧の想像力」シリーズの三冊目にあたる。 
 『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし ―ドナウを下って― 』、エステルハージ・ペーテルを読みました。
 
〔 私はだんだんと女流作家になっていくようです。ご存知でしょうか? 片目を紙の上に置きつつ、片目は男性を追いかけているのです。そう、隻眼のハーン=ハーン伯爵夫人だけは別ですが。 〕 24頁

 ハンガリーを代表する作家による、ハイブリッド小説。中央ヨーロッパを貫く大河ドナウ川を、“プロの旅人”を名乗る主人公が下っていく。でも、雇い主への旅の報告書の内容は、奇妙なものばかりだ。歴史、恋愛、中欧批判、レストラン案内、ドナウの源泉、小説の起源…。
 この物語、読みだしてすぐにとても好きになったけれど、途中はちょっと手こずった。とりわけ後半で言及の増えるハンガリーの歴史とか、次から次へと出てくる固有名詞のオンパレードとか。いや、それはそれで大変に興味深い内容ではあったものの。

 少年らしい語り口から始まる、滑り出しはとても軽やかだった。主人公の“僕”と、どことなく秘密めいていてかっこいい遠縁のおじさんが、いっしょに内緒の旅をすることになる。ドナウ川の流れに沿って、最後まで。時は1963年、少年が住んでいたのは東ハンガリーの小さな村だった。

 滔々と流れ続けるドナウを挟んで 物語は二つの時間を行き来する。どうやら大人になった後の“僕”と思われる“私”が、もう一つの旅を語りだすのだ。おじとの昔の旅をたどり直しているらしい“私”は、プロの旅人でもあり、旅程におけるあれやこれやを雇い主にむけての報告文として綴っていく。…のだが、誰とも知れない雇い主の要望に対して、雇われ人である旅人の報告文の内容は、まるでわざとそっぽを向いているかのように噛み合わない。頓珍漢なやり取りになってしまう。 
 そうして繰り広げられるエピソード、いずこへとも知れず逸れていくウンチク話の数々が、時空間の枠からどんどん溢れだしていく。ハイネからマルクスに宛てられた手紙がさらりと差し挟まれるかと思えば、フナ(!)を所望して駄々を捏ねるヒットラーと、その愛人エヴァ・ブラウンにゲッペルスの可笑しな会話(更にそこに口をはさむドナウ川…)が突如始まったり。カルヴィーノの作品からの引用がふんだんに盛り込まれた章は意外にも読み易かった。あとは、ダニロ・キシュへのオマージュも。  

 先にも言った通り読みにくいところもあったものの、途中からは吹っ切れて楽しめ。エステルハージ家とはハンガリー最大の名門貴族なのだそうで、その末裔である作者と“私”はかなりの部分で重なっているらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

今日はロシア♪ 「神戸 バラライカ」 その2

2月8日、日曜日。晴れ。 
 風が吹くと寒いけれど、陽射しは柔らかな日。
 かわゆし(ロシアと言えばチェスも…)。  

 最近、銀色さんの『銀色ナイフ』を併読している。今日はこんな箇所でにやにや。
〔 確かに、どの夫婦も、お互いに助け合ってて、生活するのに、お互いが必要みたいだ。生活共同体のようだ。そうすると、私は、それ、いやだなあ。 〕 44頁
 銀色さんのこういうところが、かなり好きだ。私はここまで潔くはなれないけれど。 

 閑話休題。今日はいつもよりも早めに出かけて、三宮の旅行会社でまず所用。それからコーヒー1杯で時間をつぶし、先月お邪魔したばかりの「バラライカ」へと向かったのであった。
 「バラライカ」再訪は、だーさんの強い希望。でも、私もかなり気に入ったお店なので、るるる~♪とその案に乗っかってみた次第。

 …が、実は着くのが早過ぎた。ここは12時開店。
 入口の隣に飾り棚があって、マトリョーシカのチェスが並んでいる。 

 読みかけの本を開きつつ雑談しつつ待って、やっと開店。わーい。
 今日は一番奥のテーブル席。壁の隣で落ち着く。
 待ち時間で体が冷えたと言いながら、とりあえずビール。このテーブルだけ浮いてる…(周りはロシアンティー)。 

 ビールのお供は、前菜のサシースカ(ウインナーソーセージ)、マリノーバナヤ・リーバ(魚のマリネトマト風味)。
 マリネ、随分しっかり冷えていたよ…(冷菜だからしょうがないか)。

 ここでお酒を替える。だーさんは、楽しみにしていたズブロッカ。私は気まぐれを起こしてブラッディマリー。
 トマトジュースは得意じゃないのに、アルコールが入るとちゃんと呑める。

 さらにさらに、ビフストローガノフ(牛肉細切クリーム煮 フレンチフライポテト添)。
 混ぜながらいただく。私は美味しく頂いたけれど、だーさんが想像していたものとはちょっと違ったらしい。

 ガルショチク・ボーバラライカ(海の幸クリーム煮つぼ焼・サラダ付)。今日、私が楽しみにしていたのはこれかな。だーさんが興味なさそうだったので迷ったものの、頼んでみたらこれが予想外に好評で…。
 これこれ、この蓋になっているパイをシチューに浸していただくのが私は大好き。…なのに、ウォッカですっかりご機嫌なだーさんにほとんど取られちゃったわよ、ふっ。いいえいいのよ、あなたがお気に召したのならば…(棒読み)。

 そして〆。コースの順番に逆らって、最後にピロシキを一つずつ。美味しいものは最後のお楽しみ…、ということかな。
 旨いんだな、これがっ。

 今日も1時間ほどかけて、ゆるりとしたためたのであった。美味しかったよぅ、ご馳走さまです♪

 ズブロッカでだーさんが超ご機嫌になってしまったので、何だか心配でお買い物を諦めて一緒に帰った午後…(その後のことは書けません)。 

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

キアラン・カーソン、『シャムロック・ティー』

 今、この美しい本が手元にあることが、また改めて嬉しい。

 『シャムロック・ティー』、キアラン・カーソンを読みました。


〔 そこには分裂というものは存在しえない。真実の世界では、万物がそれ自身以外のあらゆるものを指し示し、おたがいに関係を結び合いながら、永遠に歌いやむことのない讃歌に似た連鎖を形づくっている。世界はひとつの果てしない物語なんだ。 〕 254頁

 繋がり合う物語が、世界を包み込んでいる。絡んで解れるその糸を、何処までもたどり続けたら、どんな物語にも本当の終りなんてないのではないか…と、気持ちのよい浮遊感の中でふと思ったりした。
 繋がり合う数多な物語たちが織りなす、その繊細な模様の網。この物語の中の全ての日、一日一日が余すことなく、様々な逸話を持つ守護聖人たちの張り巡らせた霊力に、絡め捕られて守られているように。美しい蜘蛛の巣の如く精巧なレースの如く…。

 「ヒ素系鮮緑」、「ドラゴンの血」、「アイルランドのバラ」…と、色に関連させながら、さらにイメージを喚起させる魅力的な章題が並ぶこの書記は、カーソン姓を名乗る少年(元少年か?)によって綴られている。時折少しだけ、二度と戻れない時間を振り返っては懐かしむ気配が、ふっと伝わってくる語り口である。そこはかとない郷愁に好感が持たれ、心地よく身を委ねたくなった。

 切手収集家で、探偵小説とゴシック小説の大ファンでもある叔父のセレスティーン、その娘の従姉妹ベレ二ス。ベレ二スの誕生会に招かれた“ぼく”は、セレスティーン叔父さんの書斎の壁に掛けられた一枚の絵の前で、シャムロックの模様をつけた嗅ぎタバコ入れからパイプに詰められたタバコの、謎めいて鋭い香りの煙を吸い込んだ。すると、ぼくとベレ二スはゆっくりと上昇し…。 
 神の手を持つ男と呼ばれたヤン・ファン・エイク、そしてその名画「アルノルフィーニ夫妻の肖像」。物語にはこの有名な絵画が、付き纏うように繰り返し何度も現れる。通常人の目では見て取ることが出来ない細部まで、執拗なまでに見事に写実したヤン・ファン・エイク。特に、カーソン少年とベレ二スと、カーソン少年が寄宿学校で知り合うメーテルリンクの三人の過去には、明らかにこの画家の影がちらついている。 
 そこにさらに散りばめられたのが、コナン・ドイルやオスカー・ワイルドにチェスタトン…と来ては、どこまでが本筋でどこからが枝筋なのかもどうでもよいくらい、酔うように夢中で読んだ。こんなに隅々まで楽しめる物語の中心に、“神は細部に宿る”をそのまま作品にして見せたヤン・ファン・エイクを持ってくるというところ、心憎い。

 何処までも付き纏う「アルノルフィーニ夫妻の肖像」に隠された秘密、そしてシャムロック・ティーとはいったい何なのか。その二つが明るみにされるとき、このままたゆたい続けるかのように見せかけていた物語が、ごとりと音立てて渦巻くシャムロック・グリーンの中へと突き進み始める。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

小島てるみさん、『最後のプルチネッラ』

 先月読んだ『ヘルマフロディテの体温』がとても良かったので、こちらの作品も。
 そうそう、『ヘルマフロディテの体温』は、妖しくて耽美な作風かと勝手に想像していたのだが、どうしてどうして、官能的ではありながらもすこぶる真摯な意思を持った作品で、甚く胸を打たれた。 

 全く違った題材を扱いながら、もう一つの真摯な“からだ”の物語。
 『最後のプルチネッラ』、小島てるみを読みました。


 小島さんの作品には、教え諭すよりももっと優しいいざないがある。己の体と心に、きちんと向き合い見直してみること。その意味を改めて考えてみることに、それとなくいざなってくれている…と思った。 
 美しいものを見るのも、心地よい音に耳を傾けるのも、芳しい香りを楽しんだり美味しいものでお腹を満たすのも。好きな人にふれ、ふれられ、手を繋ぎ、胸を踊らせたり締め付けられたり、新しい本の扉をめくり、温かさに包まれるのも…。当り前過ぎて意識することなく過ごしているけれど、人生から得られることの全てが、“からだ”あってのこと。もしも私が霊的な存在で、性欲や食欲なんぞに煩わされることもなかったら、命や心はいったいどんな意義を持つというのだろう…とか、そんなことをつらつら考えさせられた。そうして、自分の体が愛おしくなる。少しばかり不満なところがあっても、自分の体を愛おしみたいと素直に心から思った。

 昔からナポリで愛されてきた有名な道化プルチネッラとは、即興仮面喜劇の登場人物のことである。仮面も服装も性格も動きも決められている登場人物たちの中、プルチネッラは黒い仮面を付けている。そしてその表情は、苦しみもだえる悪魔のように気味が悪い…。皆を笑わせる道化なのに、何故なのか?
 ルカの祖父は、〈最後のプルチネッラ〉と呼ばれたマリオ・マリンゴラ。〈最後のプルチネッラ〉とは、喜劇役者に贈られる最高の称号である。だがその孫であるルカは、子供の頃は天才子役と呼ばれていたものの、母親の命に従い舞台からは退いていた。一方貧しい下町のスペイン地区に住むジェンナーロも、偉大なプルチネッラの息子である。観光客相手の大道芸で稼ぎつつ、いつか父親のように偉大なプルチネッラになることを心に決めていた。そんな2人がある日から、〈最後のプルチネッラ〉になることを目指してしのぎを削り合うライバルになるのだが…。 

 本篇とは別にもう一つ、転生し続ける道化の物語が章ごとに挿入されている。こちらの道化のたったひとつのお役目は、“〈ご主人様〉を笑わせること”。そして道化はあらゆる役を演じるために、〈からだ〉を与えられて〈舞台〉という名の地上に何度も生まれては、幾つもの人生を経ることになる。
 この、色んなことを知って少しずつ変わっていく道化の物語が、私はかなり好きだった。無垢であるが故に残酷でもあった魂が、どんどん人間に近づいていく一連の物語は、とても愛らしく切なかった。

 ナポリの街についてその歴史について、驚くほど知らないことが出てきて読み甲斐があった。今のナポリが抱える諸問題はあまりにも根が深いけれど、だからこそ笑いを必要としてきた(辛いことすら笑い飛ばすように)というところに、ナポリッ子の逞しさも感じた。笑うことさえ忘れなければ、大概のことは乗り越えて生きていける、と。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

レーモン・ルーセル、『アフリカの印象』

 今年、最初に読んだ本が『ロクス・ソルス』だった。それですっかりご満悦になったので、こちらの作品も。

 『アフリカの印象』、レーモン・ルーセルを読みました。
 

 そこは、この地上のどこにもないアフリカだった…。夢の中にしか存在しえない異国から、抽出された濃厚な印象があふれだす。まるで、目の前に、それはそれは見事に精緻なタペストリーを広げられ、すみずみにまで隙間なく描き込まれた驚異の模様に、目を丸くして見惚れているような按配だった。非日常の言語空間に彷徨いこんで、なんて楽しい時間を過ごしたことか…! ああ、本当に楽しかったよ。

 こんな小説もあるのか…とは、『ロクス・ソルス』を読んだ際の感想でもあるが、またあらためて思わずにはいられなかった。子供の頃に心奪われた、万華鏡の眺め。小さな筒の奥の千変万化な模様だけに集中して、他の感覚が遠のいていくあの感覚を思い出した。今いる場所さえ忘れ、自分の全てがただ見入ってしまう。余計なことは何も考えず、次から次へとめくるめくイメージに驚嘆することばかりを、繰り返していた。一つ前の残像に後ろ髪を引かれつつも、すぐにまた新しい驚きに捕らわる。快感。

 この作品の構成は、凡そのところはわかっていた。後半に用意されている物語を、わくわく心待ちにしながら読み進んだ。
 ポニュケレ国の皇帝にして、ドレルシュカフ国の王タルー七世の聖別式。その祝祭を賑やかす様々な見世物や、風変りな処刑。あくまでも平易な言葉で綴られていく乾いた文章が描くそれらは、あまりにも奇妙奇天烈過ぎて、具体的に思い浮かべるのが困難になることもしばしばだった。時にはこちらの想像力が追いつかなくなってしまうのだが、そんな箇所で頭を捻るのさえも愉快だった。
 そして後半に入ると時間が逆戻りをして、その聖別式や処刑に至るまでの経緯や、淡々と紹介された様々な仕掛けについての種明かしと、それらに纏わる物語などが縷々書き連ねられる。それまでの内容が相当に荒唐無稽だったからと言って、この種明かし編に常識的な説明や説得力は期待できない。が、訳のわからなかった事物が繋がり合い、一連の物語に収まっていく過程には、驚きの連続で思わず知らず深々と嘆息した(おお、『ロメオとジュリエット』の未知の場面とは…!)。
 思いもよらぬエピソードの数々。幼き日々の悲恋もあれば、奸佞の者たちの人目を欺く邪な恋もあり、野心と裏切り、そして冒険の数々…。それらの中に時折そこはかとなく漂うのが、何とも言えずチャーミングな滑稽さだったりするので、一度魅了されると本当にとり込まれてしまう世界だった。

 解説によればこの作品は、地口や語呂合せを発想の出発点とした特殊な方法によって、創作されているそうだ。日本語に訳された時点で、そのことについてはさらに分かりにくくなっているが、この不思議な魅力を持つ作品が言語遊戯から生み出されたという話は、大変興味深いものだった。それからもう一つ、人物の内面を一切描かないという徹底振りにも、胸が空くような爽快さがあった。
 どこにもないアフリカに思いを馳せて、想像力をぶるんぶるん…と働かせる。ふう、愉しかった。 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

今日はインド♪ 「GAUTAM(ゴータム) 灘店」

2月1日、日曜日。曇り。 
 私はあまり寝覚めがすっきりしている方ではなく、いつも半醒半睡でぼーっとしながらじわじわと覚醒していくような起き方をしている。それで、このごろお休みの日に、先に起きただーさんがお風呂をいれてくれることがあって大変に嬉しいのだが、目を覚ましたばかりでまだ身も心もうらうらしている私に、「お風呂入ってね」と声をかけてくるのにはギョッとする。ええぇ…、心臓止まりそう…。いやでも有り難いんですけれど、ふふー。  

 今日もそんな朝。で、いつものように各々毛づくろいをして、だーさんは午前中の内に床屋さんへ。お昼時に最寄り駅で待ち合わせて、神戸のインド料理のお店に行ってみた。 
 つい最近、以前お邪魔したお店の二号店が阪神電車の駅から近いのを知って、「これは便利だねー」と話していたばかりなのだった。
 はい、そこは「GAUTAM(ゴータム) 灘店」でっす。

 強い風にはためくインドの国旗を横目に、店内へ。 
 まずは私はキングフィッシャー。だーさんはコロナビール。
 お店の方々はやはり皆さんインドの人たちのようだったので、オーナーのご家族だったりするのかなぁ…と勝手に思いつつ。 

 ランチセットがお得なのはわかっているけれど、食べたいものだけを食べたい!為に、単品でオーダーしてしまう我がままな私たちである。ふ。
 料理に先がけてチャトニーとアチャール。
 このアチャールが凄く辛くて美味しくて、ここから食が進む進む。

 私の好きな“チキンティッカ”。じゅーじゅーと音を立てている熱々が運ばれてきた。
 ふふふー。 

 こちら、サービスでいただいた“パパダ”。
 塩味のおせんべ。ぱりぱりぱり…。
 
 これは、“フライド フィッシュ”。
 真っ赤になっているが、見た目ほどには辛くはないかな。いや、でもたぶん十分に辛い。

 生ビールをおかわりしてカレーとナンを注文して、しばし待つ。


 はいー、だーさんの“チキン チリー”。
 お品書きに“(辛)”のついていたカレー。だーさんは、ナンは普通のプレーンなものを合わせていた。

 私はやっぱり羊肉で、“ラム ヴィンダルー”。こちらも“(辛)”つき。お願いしたら、「一番辛いカレーですが辛いのは大丈夫ですか?」と訊かれた。ふ。あたしを誰だと…(ぶつぶつ)。
 生姜も効いてかなり辛くて、でも辛いだけじゃなくてスパイシーで美味。仔羊肉とポテトも良い感じ。うーん、もちょっと塩味は抑えてあってもいいのじゃないだろうか…とは思ったものの、大好きな味。 

 私は、“オニオン ナン”を合わせてみた。 
 これ、今日のお気に入りー♪ 玉ねぎにホンの少し生っぽさが残っていて、それがまたいい辛味になっている。だーさんに手伝ってもらいながらも、堪能した。ここのナンは、変にふわふわモコモコしていないところもいい。 

 お腹も膨れて口の中も熱くてぼーっとしていたら、「お茶はいかがですか?」と訊かれたので、チャイをいただいた。お茶で落ち着く…。
 そしてお茶がサービスだった…! 嬉しい。

 外に出るとまた寒くなってしまうとわかっていても、しっかり辛いカレーでほかほかに温まるのはいいものであるー。しかもそこが、小じんまりとして感じのよいお店ならば尚のこと。ご馳走さまでした♪ 

 また三宮まで行ってぶらぶら歩いて、映画の前売り券を購入したりジュンク堂を覗いたりちょっとだけ呑んだりしてから帰路に着いたのであった。歩きながら手を繋ごうとすると、「冷たい!」と言って拒否られる二月の始まり。ひゅるるー。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )