インドダイニング♪ 「チャルテチャルテ」

11月30日、日曜日。晴れ。 
 11月も、今日で終わるのかぁ…。  

 うちの玄関は北向きなので(しかも5階)、扉を開けて目を上げたら、少し遠くに山並が見える。霧の朝の眺めは頗る素敵だ。それが平野育ちの私には、未だに新鮮だったりする。今日はお天気が良かったので、その山並の綺麗な紅葉が青い空に映えていた。足の怪我さえなかったら、もっと近くで眺められるのに…。くすん。 

 そう、かれこれ二週間前にこけまして。こけた…と言っても普通に転んだのではなく、かなりあり得ない状況で思いっきり足を踏み外しました。詳しくは恥ずかしくて言えません…。おそらく誰もが、「これを踏み外すのだけは嫌だな…」と思われようものを踏み外したのです。お察しくださいまし。
 あまりと言えばあまりな痛みに、近くの外科(たどり着くまでがすでに一苦労!)に助けを求めましたらば、お医者さんからは「もっと腫れあがったら膝の血を抜きましょうかね」と言われ、雨に濡れた子犬のようにぷるぷる震えあがりましたが、何とか針は刺されないで済みました…けれど、治りが遅い。平常通りお酒を呑んでいるのは、よくないかしらん…?(でも呑むのよ)。

 PCの前に座るのも億劫だったりして(椅子じゃなくクッションなので)、なかなか日記が書けなかったものの、食べ歩きはしています。ちなみに先週の連休は、小田巻蒸しやら焼肉やら。
 小田巻蒸しとは、うどんの入った茶碗蒸しのこと。美味しくないはずがないですー。 
 大好きな「道頓堀 今井」の11月限定メニューでした。

 あ、さてさて。
 そして今日のランチは、久々のインド料理です。三宮の「チャルテチャルテ」は、定番の北インドだけでなく南インド料理もいただけるそうで、どちらかと言えば私のお目当てはヘルシーな南インド料理かな。ふふっ♪

 想像していたより小じんまりとしたお店でした。賑やかな飾り付けとかキッチュなシャンデリアが、何とも可愛らしかったです。
 ←実際には、照明がも少し暗かったです。

 とりあえずのビールをいただきつつ単品メニューから二人で選んだのは、“シークカバブロール”と“マライティッカ”です。
 私、こういう巻き物には目がありませんの。チャパティー、もっちりしていて美味しかったなぁ。

 そしてもちろん、鶏にも目がありませんの…。
 とても軟らかくてスパイシーでした。ぐふっ。

 ビールのおかわりは、インドのキングフィッシャーにしてみました。


 そろそろご飯ものを…となりまして、だーさんが頼んだのは単品の“アルゴビ”です。
 じゃがいもとカリフラワーのカレーなので、これは南インド料理ですね。若干甘味があって、いかにも家庭料理な感じ。

 マサラドーサの南インドセットが頂いてみたかった私は、だーさんに「今からランチ一人分は(量的に)無理じゃない?」と懸念されて、そうはそうかも…と思って“プレーンドーサ”にしました。 
 じゃじゃん♪
 全体を画像におさめるのが大変でしたわ。 全長が50センチくらいありそうなので、だーさんの方のやや小振りなナンが、比べるとますます小さく見えます。でも、ドーサの中は空洞ですからね。米と豆で作るクレープのようなドーサは、代表的な南インド料理なのですって。

 ぱりぱりなドーサを、さらっとしたサンバ(野菜のスープカレー)や二種類のチャトニーにつけながら頬張ります。 おおお、美味しい♪
 チャトニ―は、ココナッツのものとハーブのもの。そしてサンバの具材には、苦手なオクラや蕪も入っていましたが、よく煮込まれていたので案外平気でした。そしてチャトニーとサンバは、別々でつけるのも良し、重ねづけもまた良し。ううう、思い出しているとまた食びたくなります…。ほどよく辛くて大好きな味わいでした。
 ドーサも美味しかったなぁ。マサラドーサにするとじゃがいもの炒めものが入っているので、プレーンだと物足りないかも?と思いましたが、なんのなんの、大満足です。

 隣のテーブルにいらした常連らしき白人の男性が、何度も何度も「ふう~ん、ふうう~むぅ」と、食事をしたためながらも感に堪えないような嘆声を洩らしっぱなしだったのが印象的でした。帽子をかぶった初老の男性、やわらかで楽しげな雰囲気をまとっていました。

 ごちそうさまでした~♪とドアを開けると、「サービスにご満足いただけましたらこの鐘を鳴らして下さい」という説明のついた鐘がありましたので、だーさんに鳴らしてもらいました。カラ~ン♪ ああ、あの男性が立ち去ったときになっていたのもこの鐘でしたのね。
 私の足のことを慮ってくれただーさんと、今日はサクッと寄り道もせず食事だけで帰路につきました。車窓からの眺めだけでは、紅葉が遠くて心残りでしたけれど…。くすん。

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若合春侑さん、『腦病院へまゐります。』

 もちろんのこと、タイトル買いである。不穏で面妖なこのタイトル。 
 「腦病院へまゐります。」とはね…! そんな場所に自ら赴く宣言とは、いったい誰から誰に向けられたものなのか…?

 『腦病院へまゐります。』、若合春侑を読みました。


〔 おまへさま、まうやめませう、私達。
 私は、南品川のゼエムス坂病院へまゐります。苦しいのは、まう澤山だ。〕 9頁

 極端なものに惹かれやすい故、かなり圧倒されながら夢中で読んだ。
 これは、“カフエー”の女給をしていた左程若くもない女性(傷痍軍人の妻であることが後でわかる)から、一回り年下の“おまへさま”に宛ててしたためられた書簡である。高村智恵子がゼエムス坂病院に入院した年ということなので、昭和十年前後の話。 
 二人は“カフエー”で知り合った。谷崎の悪魔主義にどっぷり心酔した青年から、変態性交の実地体験をするための道具にされた語り手は、あらゆる凌辱を加えられながらも“おまへさま”を受け入れ続け、愛を捧げてきたことを縷々書き付けていく…。 

 その内容のおぞましさもさることながら、彼女の異常なまでの一途さは、背筋が凍るほどに恐ろしい。暗愚なまでに一途。おのれをひたすら虚しくし、最後には自分を失くしてまでして相手に尽くすこと。尽くして尽くして、ただ、相手の全てを受け入れる為の空っぽな器になりおおせること…。そんな盲目な愛情は、悪徳だ。醜くて、おぞましくて、身の毛のよだつ美しさだ。 
 そんな悪徳に溺れたまま、戻ってこられなくなるのも女の性なのか。その境地に至ったものにしかわからない何かが、きっとそこにはあるだろう。蔑み憐れむのは、あまりにも傲慢か。

 旧字体や旧仮名遣いが、これほどまでに禍々しく目に映ることに、手酷く裏切られたような気分になった。とりわけ、画数が多くて見慣れない形の旧漢字がびっしりと並ぶ様を見ていると、過剰な線や点が虫の触手のようにざわざわと蠢き出しそうな気すらしてくる。つまり、描かれているものに悪酔いをしていた。そうさせるだけの力が、この作品にはある。圧倒された。  


 「カタカナ三十九字の遺書」で描かれるのも、やはり虐げられた女である。表題作ほどに強烈な作品ではなかったものの、嫌悪感をかき立てられつつこれまた読まされた。

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町田康さん、『宿屋めぐり』

 数年ぶりに読む町田さん。タイトル以外の情報は一切なしだったので、おおおこんな話でしたか…!とのけぞった。嬉しい驚き。面白かったー。
 先週の京都オフの前から読みだして、道草を喰ったりしながらちんたらちんたらと読んでしまった…。

 『宿屋めぐり』、町田康を読みました。


 どんなに斜に構えて気難しげにしていたところで、中身がダメダメじゃあ格好悪いだけだなぁ…と思いながら、主人公の不器用で滑稽で七転八倒な姿にちょいと身がすくむ。こっちまで泣き笑いが入ってくる。この人の弱さも狡さも愚かさも、私には全然責められないなぁ…(とほほ)。しかしそれもまた、愛おしいではないですか。

 癖になりそうな独特な語り口がとても面白く、そのテンポにひき込まれて物語の中に入っていけた。で、その物語の世界が、これまたすこぶる特異だった。いわゆる時代考証なんぞは、鹿十(“しかと”って、そういう意味だったのか…)してかからねばならぬらしい。大刀を権現様に奉納といえば武士の世の中かと思いきや、現代としか思えない言葉がぽんぽん飛び出すのだもの。

 冒頭からして、素晴らしい。語り手でもある主人公・鋤名彦名の与り知らぬところで、すでに異界への扉がぱっくりと開き始めているような予感に満ちている。すれ違う人また人のことごとくが、額や頬に丸い朱印を押してもらっているのに、彼一人だけが事情もわからず、その“人生がいい感じになる”ありがたい印を押し戴いてはいないのだ…。この、訳のわからない疎外感。きつねの里に旅人が迷い込む、日本昔話のような趣きの導入である。
 さらに訳のわからぬまま僧に追われる彼は、白いくにゅくにゅの帯に包まれて、いよいよ「偽」の世界へと“ばまりこむ”のであった。くにゅくにゅ…!

 物語の半ばまでは、ひたすら転がっていく話の展開が面白おかしく、くすくす笑いながら読み進めていった。雪だるま式に膨れ上がる罪状と、何とかかんとかそれらをかいくぐりながら移り変わっていく彦名の境遇。そうして徐々に気になってくるのが、“主”という存在である。 
 お調子者の主人公が、これほどまでに恐れる“主”というのはそも誰ぞ? どんな奇跡をも「“主”の差し金」とすら思わせるほどの、この「偽」の世界にまで絶大な力を及ぼすことの出来る“主”とはいったい…。
 はじめ、かつて主人公が放浪しているところを“主”に拾われたという設定から、「“主”=あるじ」と読んでいた。いささか内容が激甚ではあるが、何とか組的な主従関係だろうと解釈していたからである。それがだんだんに、「“主”=ぬし」と読めるようにも思えてくるし(主人公の名前からの連想もあり)、あるいはどう考えても「“主”=しゅ」としか読めない箇所も出てくるようになる。“しゅ”って言ったらあなた、えええ…。 
 そこのところであだこだ悩みだすと、この作品の深みにずぶずぶはまってしまいそうになる…。もしやこれは、神に試されし愚か者の受難の記なのか…?(…と考えると、あまりにも非情で残酷な罰し方は旧約聖書を彷彿とさせるが…うーん)。
 
 はっきり言って、主従関係とか忠誠心とかには共感出来るところはなかったけれど、例えば「まともでない世界でまともに生きられないものの真のまともさ」を説く“主”の教えは、大変に興味深かった。
 鋤名彦名の、最後まで諦めない底なしの健気さ。一縷の望みにすら縋りつく一途さ。それなのに結局同じ過ちを何度も繰り返しては、どんな望みもその手からするすると逃してしまう…。その、人としての愚かさを克服できない情けなさに、何故か心を揺さぶられた。笑いながらも、じんとした。諦めなくていいのだ。

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スティーヴ・エリクソン、『黒い時計の旅』

 なんと言う物語だろう…と、途方に暮れる。
 読み終えてからしばらくは、ぼーっと魂を飛ばされていた。少し落ち着いてから反芻して、頭の中でさらえてみる。するとやはり凄過ぎるので、またぞろ興奮が蘇ってしまう。背中がざわざわ落ち着かない気分で、溢れてくるものを持て余した。

 『黒い時計の旅』、スティーヴ・エリクソンを読みました。


 例えば、一つの文章に行きあたって、視界からいっきに霧が晴れたような気がする。一つの文章に行きあたって、「ああ、そういうことか! こことあそこが繋がって…!」と、天を仰いで叫びたくなる。 
 別の言い方をすれば、目の前のカードが一枚裏返ったと思ったら瞬くうちに、まわりの全てのカードがそれに繋がってパタパタパタ…ッと翻っていく瞬間。それまで見えていなかった別の光景が、一度にさあっと見えてくる瞬間。ポジとネガの反転。ただ目を瞠って立ち尽くすあの瞬間の射抜かれるような快感は、ちょっと言葉では伝えきれない…。
 と、言いつつ。
 この物語の孕んだ混淆と錯綜、その驚くべき重層性が明らかになればなるほどに、もっともっと高いところまで翔けあがって、物語の全貌を隅々まで余すところなく、一望のもとに見晴るかす視点から鳥瞰出来るものならば…!と、焦がれるように何度も思った。それを出来ない自分がもどかしくて、居てもたってもいられなくなった。何度も頭の中で整理しながら読み進んでいくだけでも充分に面白いのに、ここに描き込まれた全てを俯瞰する全能感を味わいたくて仕方がなくなるのだ。こんな風に、物語の中の神の視点が欲しくて欲しくて胸が苦しくなるほどの作品には、なかなか出会えないと思う…。

 始めに登場するのは、本土の船着場とダヴンホール島の間をかけ渡す船を操るマークである。船長であり、白い髪の水上修道士でもある。彼はダヴンホール島のチャイナ・タウンにおける唯一の白人の子供だったが、母親の足元に見知らぬ男の死体が横たわっているのを見たある夜、島を去る決心をする。その19歳のときの衝動は彼に、15年にも及ぶ年月を、本土と島を隔てる川を観光客を運んで行き来することにのみ(あと、若いうちは女の子と寝る)費やす人生をもたらしたのであったが…。
 心惹かれた青いドレスの娘を探し求めて街へ戻ってきたマークが、15年振りに母親に再会したとき、ずっと昔に死んだはずの見知らぬ男の幽霊が語りだす、二つの二十世紀とは。

 その声は、バニング・ジェーンライトと名乗る。1938年のウィーンで一人の女と視線を交わした瞬間に、二十世紀がまっ二つに切り裂かれるのを目の当たりにしたただ一人の男である。 
 インディアンの血をひく大男の彼は、罪を犯したニューヨークからウィーンへと逃れ、そこで依頼人Zの為に小説(果たして“ポルノ”と言い切ってしまっていいのか? おぞましい深淵が描かれているのであろう小説)を書き連ねなければならない立場になったいきさつを語る。依頼人Zとは、ヒトラーのことを指すらしい。
 二つの二十世紀は、各々がただパラレルに展開していくだけではなく、時折接触し侵食を起こす。そしてまた離れ、隣りあって流れていく。バニングが書き続けている小説も、徐々に現実を侵していく…。世界がそうやって複雑にねじれ重なり合うために、幾人もの男たちの夢を踊らされてきたデーニアは、三つの瞬間に同時に存在しなければならなくなる。さらにバニングが謀る復讐によっても、世界はますます歪んでいく。

 ドイツが負けた二十世紀と、ドイツが敗れずにヒトラーが死んでいなかったもう一つの二十世紀。それを並べて描くという発想自体も凄まじいと思うが、世紀の怪物ヒトラーに老いさらばえさせ、その無残な姿を徹底的に描く筆力にも、心胆寒からしめるものがある。 
 そんな驚異の物語にも、流れ着く岸辺はあった。
 そしてやってくる、カタルシスの波。読み終えてからしばらくは、ぼーっと魂を飛ばされていた。

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人気の回転すし、「磯寿司 くるくる丸」 その7

11月3日、月曜、文化の日。曇り、ちょっと雨。 
 今日は6時半起床。のどは痛くなかったので生姜湯はなし。くすんだピンクの薄いセーターに、カーキ色の上着。  
 昨日のお昼ご飯は、元町の美味し~いタイ・ベトナム料理のお店だったが、いささか大変過ぎる事態になったので日記にしかねたのであったよ…。

 今日も車で所用を片付けてから、毎度お馴染みの西宮の「くるくる丸」へ。えっと、前回は二週間前よ。 
 12時ごろに着いたので、少し待たされた。隣で待っていたお年寄りの女性、香水がきつくて閉口した。いっそ、ば〇あと呼ばせていただきたい…(お寿司を食べるのに香水なんてあり得ん!)。

 席が空いたので、気をとり直して呑むー。


 二週間ぶりでもネタに変化があったので、かぶらないように選んでみる。
 まずは、鰤。
 分厚いなー。寒鰤じゃないのに、結構ねっとりとしている。

 生げそ。烏賊はげそが好きかな。
 

 黒板にアン肝があったので頼んでみた。
 秋って言うか、冬の先取りだわね。とろけるとろける。 
 ここで握ってもらう軍艦は、やや小ぶりなので食べ易い。そもそもここは、シャリが相当少ない。

 狙っていたカワハギも握りたてで。 
 肝つき♪ これは美味しいよう…。

 海老は刺身の方が好みだけれど、好奇心でとってみた。大海老。
 これもいいわー。

 さらに黒板メニューの、なまこ。
 グロテスク? でも、これもお気に入り。食感が堪らないわ。

 だーさんと厚巻き玉子を一つずつつまんで、〆にしそ巻き。
 前回よりも、1.5皿多くなってしまった。全部美味しかったからいいのだ…!

 帰りに駅舎のショッピング街で、CDを買う。輪切りレモンのジャケット。

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蕎麦日和に♪ 「そばや 楽」

11月1日、土曜日。素敵な晴天! 
 6時にもぞもぞ起床。7時ごろに生姜湯をすする。
 今日は素敵なお天気だった。このまま切り取って額に収めて、一年中眺めていたらどうかしら…と思うほどだった。目に映る空の色といい風の心地といい、つなぐ手の乾き具合といい…。だから今日も、蕎麦日和である。はい、強引。

 本日のお昼ご飯におじゃましたのは、だーさんのアンテナに引っかかった武庫之荘のお蕎麦屋さん。乗り換えがちょっと面倒なのに、電車に揺られて行ってみた。そこは、「そばや 楽」。
 開店時間くらいに着いてしまったけれど、先客がお一人。私たちはちょっと奥まった感じの、テーブル席に落ち着かせてもらうことにした。
 先ずはくいーっ、とな。

 蕎麦屋さんに来たならば、何はともあれだし巻きを頼まなければ。
 こちらのだし巻きは、たっぷりなだしに浸かっていた。見るからに美味しそう♪ 
 お酒を鈍燗で頼んだだーさんも、待ち切れずにアツアツを口へ運んでいた。そして褒めることしきり。

 さらにおでん。私はこんにゃくと、厚揚げを。
 こんにゃく、味が沁みていて美味しかったー。

  「何か頼まない?」と訊かれたので、「じゃあ、せせり」。
 こりこりと良い噛み応え。

 さて、では〆のお蕎麦をば。
 だーさんは、もりの大盛り。


 私は、おろしのミニ盛り。ミニ盛りがあるなんて、なんてありがたい気遣いだろう。
 大きいお椀に盛られてきた。食べ易そうでいい感じ。
 辛味大根の白に貝割れの緑、かつお節もふわふわと羽根のように薄く…見るからに美味しそう。  
 繊細な蕎麦に大根おろしの辛さが絡まると、私好みの味♪ 大変満足であった。

 蕎麦湯はさらさら。
 ミニ盛りにしたお蔭か、余裕で呑めてしまった。

 店内を流れるのはレゲエ。熱燗を頼んだだーさんに、ぬる燗をすすめてくれる心配り。そして、酒呑みに嬉しい一品料理の数々。ご主人のこだわりを随所に感じる、粋なお店でありました。


 駅まで向かう途中、こんな車を見かけた。ヤドカリの絵が描いてある。
 …? 可愛い車だなぁ。
 以前ふられたお好み焼きのお店の前を通ってみたら、貸店舗の貼り紙。あらま。近くの公園に薔薇園があったので、ホンの少しだけ歩いてみた。

 梅田で休憩。
 これを呑み干すのに、難義したことよ…(ここの生中は大き過ぎる!)。

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