映画、「タロットカード殺人事件」

 今日はお昼過ぎから、梅田まで出かけて本の買い出し。ゆっくり丁寧に見て廻って、欲張ってはいけないなぁ…と自制しつつ5冊購入しました。積読本もまだまだあるのに、まるで冬籠りの準備です。 
 のどが渇いて休憩したくなったので、そんなときの為に押さえてある穴場的なお店で、一人ビールをしました。休日の昼間でもいつも空いているので、よくだーさんと一緒に利用するバー。うふふ。

 そうそう、昨日は映画を観ました。10月に「めがね」を観たのと同じ劇場でした。
 元町駅から少し歩きますが、素敵な建物なので気に入っている場所です。劇場は、建物の地下深くへともぐります。

 観てきた映画は、「タロットカード殺人事件」です。

監督・脚本: ウディ・アレン
出演: スカーレット・ヨハンソン ヒュー・ジャックマン     
    ウディ・アレン イアン・マクシェーン
2006年/イギリス/95分
配給: ワイズポリシー

〔 ロンドンの夜に悲鳴が響く…。切り裂きジャックの再来と言われる連続殺人鬼が世に姿を現す。狙われるのはブルネットの美女ばかり。そしていつも殺人現場に残されるのはタロットカードが一枚。いったい犯人は誰なのか…? アガサ・クリスティへのオマージュたっぷりに描かれるウィットとペーソスに溢れた上質ミステリー。 〕

 ふふ、面白かったです。
 観てみたくなったきっかけは単純で、“アガサ・クリスティへのオマージュたっぷり”という惹句に捉まったのでした。でもそれだけじゃなくて、イギリスが好きな人には堪らない映画かな? かく言う私もイギリス贔屓なので、堪能しましたわよ。

 占いには関心がないのでタロットカードのことも全然知りませんが、作品中タロットカードの薀蓄が少しは出てくるのかと心待ちにしていたのに、ぜ~んぜん! あくまでもタロットカードは、小物なのでした。何だか人を喰ってるなぁ…と思いきや、そもそも原題には“タロットカード”なんて入っていないのでしたよ。  
 全体的にすごく品の良いコメディになっていますが、その中でも素晴らしいのがウディ・アレンが演じる三流マジシャン・シドニーのお惚けぶり!です。いやもう、しょうもないことばっかり喋る喋る。一方、お相手のスカーレット・ヨハンソン演じるジャーナリスト志望の学生・サンドラも負けじと喋る喋る。この二人が一緒の場面は、兎に角とても楽しかったです。

 私はこういう映画が好きだなぁ。色々と複雑でむつかしくて終始はらはらさせられっぱなしの映画よりも、心に少しばかり油断や隙間があっても安心して観られる映画。 
 最後まで、「うふふ…」と笑わせてくれる映画でした。
 スカーレット・ヨハンソン、とってもキュートでした。 

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桜庭一樹さん、『私の男』

 綺麗は汚い、汚いは綺麗――。 
 目を背けたくなるほどおぞましいものに心惹かれてやまないとき、私は必ずこの台詞を思い出します。そもそも実を言えば、私の指針の一つになっているかもしれません。…ちょっと大袈裟ですけれど。
 この作品の感想も、この言葉に尽きるかなぁ…と思ったのです。

 『私の男』、桜庭一樹を読みました。
 

 桜庭さんの作品を読むのは二作目です。正直なところ、とても驚いてしまいました。兎に角凄い…!
 このタイトルにしても、装丁に使われたデュマスの絵にしても、まるで読み手に対して挑みかかってくるような大胆さを感じていましたが、きりきりと迫ってくる息詰まるような読み応えで、はったりでも何でもなかったことがよくわかりました。始めから終りまで、ただただ圧倒されていましたもの。タイトルも表紙も、これしかない…!という感じです。

 メインの語り手となる女性の名前は、腐野花。 
 腐野花(くさりのはな)とはまた、作者は何と凄まじき名前を与えたことでしょう。ぐすぐすと、腐乱し続ける“花”。死者に手向けられると同時に、じわじわと腐臭を放ち始める“花”…。そして“くさりの”は、“鎖の”にも繋がるのでしょうか。血の鎖に。
 誰の手も届かない地の底を這って、誰にも連れ戻せない闇を下って、人としてのタブーを犯し合う二人の目には、どんなにか美し過ぎる光景が映ったことだろう…とか、そんなことをつい考えてしまいました。禁忌を冒す、闇黒に選ばれし者たち。人はたぶん、そんな彼岸を垣間見てしまったおぞましき異端者たちを、嫉妬にも似た思いで糾弾するのではないか、とか。いや、嫉妬だなんて誰も認めないのは重々わかっているけれど、許すわけにはいかない…という強迫的な倫理は、人がタブーに惹かれることを強く怖れていることの裏返しなのかもしれない。

 章によって語り手が変わり、時系列を遡っていく構成になっています。そして第1章の語り手が、腐野花です。冒頭の場面がとても印象的で、“私の男”という言葉がいきなり目に飛び込んできます。“私の男”とは、腐野花の養父である腐野淳悟のことですが、この場面ですでに、エキセントリックな魅力を持つ男性であることが見てとれる、秀逸な書き出しになっていると思います。
 そしてすぐに、“わたし”と“私の男”の間で過去にいったい何があったのか…という疑問が、話の核心に触れる謎として読み手の前に立ち現れるのです。そうして話の舞台は、語り手を変えながら少しずつ、秘密を隠した過去へと遡っていくのでした。

 まるで作品全体を覆うように海の存在感が酷く大きいのも、強く心に残りました。まず第1章の半ばで、“エメラルド色の海が、鮮やかに染めたビロードの布のように”とか“燃えるような赤い夕陽”という描写が出てきたので、「こんなに陳腐な表現を使う作家さんだったっけ?」と吃驚したのですが、さらに読み進んでいくと、これもまた巧みな仕掛けだったのか…と思えてくるのです。 
 つまり、“花”がフィジーの海のことを“ばかみたいな海”と言い放った理由が、後半ではっきりとわかります。“ばかみたいな、エメラルド色の海”とは比べ物にならない、人の命をも飲みこむ北の海の容赦なき厳しさ。何度も繰り返される北の海の描写は本当に素晴らしくて、罪のないフィジーの海がちょっと気の毒になったほどです。 読んでいるだけで本当に、背中から凍えてきそうな心地がしました。

 奪い合うばかりの絆の男女が、狂おしく求め合う姿はひどくおぞましくて、そして、けれども、怖いように美しい。

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有栖川有栖さん、『女王国の城』

 15年ぶりのシリーズ第4作と言うことで、相変わらずアリスやマリアたちは学生です。ベルリンの壁崩壊の翌年にあたる事件ですから、舞台となっているのは1990年の日本。もちろん携帯電話なんぞは、影も形もありません。
 
 そう言えば、一昔前のミステリーを読んでいて、ここで携帯が出てきたら何もかもぶち壊しか…と思うことがあります。今となっては携帯は必需品になっているけれど、便利さを得たことによって、宙ぶらりんな時間の隙間がなくなってしまったという弊害はやっぱりあると思います。
 例えば、待ち合わせの相手に出会えなくってやきもきするとか、そういうのも昔はちょっとしたドラマだったような気がするのですが、今じゃあ携帯のお蔭でそんなこと不可能ですもの。大切なデートですれ違いがあって本当に泣きそうになった!なんて経験も、後から思い返せば悪くないのに…。

 『女王国の城』、有栖川有栖を詠みました。


〔 一人一人が携帯できる電話があれがいいのに。 〕 302頁

 さすがは人気のシリーズ、期待を裏切られることのない面白さ…!
 図書館の予約待ちをしていたのですが、さほど待たされることなく順番が廻ってきました。決して持ち歩きたくはない、ずしりと分厚い一冊です。でも読み始めるとやっぱり面白くて! 分厚さにめげず勢いで読んでしまいたくなり、昨夜の内に何とか読み終えました(日付はまだ今日でした)。

 木曾の御嶽山には少し馴染みがあるので、「ほお~っ」という感じで読み始めました。 
 今回の物語は、とある宗教団体の聖地へと姿をくらました江神先輩の跡を追う、ご存知EMC(英都大学推理小説研究会)メンバーの珍道中(?)から幕が開きます。アリスやマリアの先輩にあたる凸凹コンビ望月&織田のかけあい漫才がさっそく始まると、「ああ、やっぱりこれがなくっちゃ…」としみじみ。
 新興宗教の類をとり込んだ小説が時々ありますが、扱いそのものが浅はかなレベルでは、お話にならないと思います。世の中には本当に、小説よりも奇なる宗教団体さえあるくらいですから、面白半分な描き方をしてはいけないのではないか…と。その点この作品はすれすれのところで、架空の新興宗教を巧みに創り上げています。“UFOに乗って遠い銀河系からやってくる救世主を待つ”という宗旨は、どこか牧歌的なようでいて、バブル経済期の気分に迎合していたようです。そこの辺りの設定には説得力もあって、それがしっかりと土台となっているからこそ、ストーリーの面白さが存分に楽しめるのだと思います。

 EMC名物の小説談義も盛り込まれているし(カフカの『城』に触れている件が興味深かった)、「う~ん、こんな調子でまだまだ続くのぉ?」と、あまりの分厚さにへこたれそうになってくるタイミングで、待ってましたの暴れ太鼓! EMCの頭脳派武闘派が、くんずほぐれつの大活躍! はらはらどきどき、ぐんぐん引っ張られるように読み進めてしまいました。

 私はミステリ読みとしてはへな猪口なので、謎解きやらトリックに関しては点が甘いかもしれませんが、いよいよ〈読者への挑戦〉が目の前に立ちはだかった時点で、ただただ溜め息でした。私に犯人がわかるわけない…。そして回答編の最終章へ読み進み、一見ばらばらのようだった謎と謎が繋がり合うロジックに、目を丸くするばかりでした。個人的には、野坂〇〇に関するオチが一番気に入りました。ふふふ。
 そして、このシリーズで忘れてはならない魅力が、アリスとマリアの初々しさですね。近過ぎず遠過ぎずな交流が、もどかしいようで甘酸っぱいようで、いつまで経っても固まらない二人の不安定さが素敵なのかしら?

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人気の回転すし、「磯寿司 くるくる丸」 その2

11月25日、日曜日。晴れ。 
 11月最後の週が始まる。  
 毎年同じことを言っているけれど、慌しくなる12月が苦手です。平常心を心がけて、穏やかにやり過ごせるようにしておかなくては。

 さて、今日のランチは回転寿司です。ここ数ヶ月ぐらいで、使い勝手の良さが気に入ってしまいました。気軽ですし(寿司)気楽ですし(寿司)。前回7月に行ってみたお店に、再び足を向けました。「磯寿司 くるくる丸」というお店です。漁港との契約を活かし、朝直送の新鮮なネタばかりなのですって。

 前回はお店の外でしばらく並んだほどでしたが、今日はすぐにテーブル席に着くことが出来ました。わいわい♪ 
 先ずはおもむろにお茶を淹れ、お寿司のネタを見渡します。さて、今日はどう攻めようか知らん…?

 はい、一皿目はトロ鰹。
 ピンクがかった色が美しかったです。 
 生げそと、赤貝。


 期待していた牡蠣がなかったのですが、冬の味覚でアン肝。


↓どうしても、人魂の形に見える・・・。
 大トロは一貫で満足ぅ。もともと私は鮪はそんなに頂かないので、これは気まぐれで取ってみました。

 冬の味覚その2、たらの白子。
 グロテスクだけれども、好きですさ(酒がほし…)。

 厚焼き玉子を頂いてから、いつもの〆の牡丹海老。 頭にみそが残っているのが、何とも嬉しいですわい。

 今日のだーさんの〆は、お新香巻き。渋いわねぇ。
 久しぶりの回転寿司だったので、いささか食べ過ぎました。明日から節制するとします。

 

 ぼちぼちと昨日辺りから、心待ちにしていたミステリーを読んでいます。シリーズの4作目なのだけれど、作品内の時間だけが過去の日本に留まっているのが、感慨深かったりします。ミステリを読むのも、ちょっと久しぶりかも知れない。ここ最近どっぷり純文学でしたし(笙野さんと倉橋さんで)。ミステリは冬にこそ似合う、というのが私の持論なのですよ。夜長にぴったりじゃあないですか?

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麺喰いの日々 その7 (東海楼、ベルドマーニ…)

11月24日、土曜日。晴れ。
 今日は各々の用事があったので、出先で落ち合ってからお昼ご飯となった。先に家を出ただーさんに遅れること20分、私もハイヒールで落ち葉踏み踏み出かけたとさ。 

  落ち合ったのは阪神電車の久寿川駅。私の所用が久寿川駅周辺だったので、改札を出たところでだーさんを待っていたらば、通りすがりの見知らぬ老嬢に、しきりと靴を褒められたので楽しくなった。その褒め方がちょっとユーモラスで、「良い靴ねぇ、ビューティよ、ビューティフルよ」とか「足も綺麗に見えてよ、グッジよ」とか(グッジって何だ?)。小柄で杖をついていたけれど、お洒落好きな老嬢なのかな。いや、人懐っこくて飄軽なだけかも。だーさんが着いたらさっそく報告しようと思って、その通りにした。

 駅から歩いて向かったのは、中華料理の老舗「東海楼」。 
 営業中の札を横目で確認してドアを押すと、予想もしなかった綺麗なお姉さん(いや、薹は立っていた)に迎えられたので、ちょっと吃驚した。吃驚しつつ、小奇麗な店内の奥のテーブルに落ち着く。 
 車ではないので、さっそくビール。 
 実は私の今日の所用は完全に空振った。しかも、我ながら馬鹿馬鹿しいが道を間違えて真逆へ驀進し、交番に駆け込んでお巡りさんに道を訊いたりしたのであった。とほほ。ああ、私の方向音痴なことと言ったら…。

 「餃子はどーする?」「一つでいいんじゃない?」。一皿にしておいて正解だったね。
 皮がモチモチ。

 だーさんが頼んだのは、人気メニューの“レタス炒飯”。
 上にのっかっているのは、そぼろ状になった焼き豚らしい。

 そして今日の私の大正解と言ったら、この“五目焼きそば”だよ。今日は絶対にコレ!と決めていたのだものね。
 おおお、美味しかった…。
 餡の味が凄く旨くて、蒸した後で焼いてパリッとさせた麺によく絡むのじゃよこれが。目玉焼きは、片面を焼いてから裏返してあるだけ。黄身がトロトロなのだし…! 海老と貝柱に、豚肉も。
 頑張ってもりもり頂いたけれど、最後にだーさんに助けてもらった。そしたらばお店を出てから、餡かけ焼きそばを喰わず嫌いだっただーさんも、「あなたの選択は正しかった」と絶賛(?)。

 昼食後は船場へ移動し、だーさんのお買い物に付き合う。革のコートを新調。グレーのハーフ丈購入。 
 歩き疲れたのでカフェで休憩。カフェと言っても、ビールを頂く。私はエールにしたのだけれども、その名も…“禁断の果実”。 ちょっと笑ってしまった。味わいが濃過ぎて重かったかな。

  そして昨日のお昼も、やっぱり麺。
 やっぱりビール。
 以前から気になっていた、兵庫区の「ベルドマーニ」というお店。
 いくつかのランチセットの中から前菜付きを選んだ。パンがかなり美味であった。
 チーズのパンと、トマトのパン。ハーブも香る。
 前菜。


 五種類の本日のパスタからだーさんが選んだのは、“ハーブ入りソーセージと秋茄子のトマトソーススパゲッティ”。
 ほのかに湯気も写る。

 私が選んだのは、“サンマと春菊のスパゲッティ”。
 サンマの塩加減が絶妙で、美味しかったなぁ。 
 何しろ狭い店内なので、聞くともなしに他のお客さんたちのオーダーも聞こえてしまうのだけれど、“ソーセージと秋茄子”が一番人気で、“サンマと春菊”を頼んでいたのは私だけだった。そりゃあやっぱり“ハーブ入りソーセージと秋茄子のトマトソーススパゲッティ”なんて、名前を聞いただけで美味しそうだものねぇ。

 でもやっぱり、私はこれが美味しかった。
 パスタがかなり、もっちり。もしかしたら手打ちなのかなぁ?  
 ああ、三連休は食べ過ぎる…。

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倉橋由美子さん、『スミヤキストQの冒険』

 大好きな“桂子さんシリーズ”以外の倉橋さんの作品を読むのは、何年振りでしょう。再読したい作品もあるのですが、今回は未読の作品に挑んでみました。
 古本で入手しましたのは、44年に発行された函入りの一冊です。函入りですが、定価が490円ですよ。うわあ…(付箋を貼ったら紙の表面が剥がれた)。それにしても、現代仮名遣いに直されてしまっているのが甚く残念でした。

 『スミヤキストQの冒険』、倉橋由美子を読みました。
 

〔 「……抽象の壁はいたるところにありますよ、あなた……壁にとりまかれているどころではない……いたるところが壁だ……われわれは壁のなか、壁土のなかにいる……そしてわれわれのなかにも壁はあるというわけですよ……」 〕 69頁

 凄い。生半可な感想を呟く気になれないくらい、完全にのまれてしまいました。何て濃ゆい、何て圧倒的な読み応えでしょうか。
 でも、思っていたほど内容そのものは読み難くなく、むしろ面白くてぐんぐん読めてしまうのです。消化不良を心配する余裕すらなく、めくるめく饒舌な観念の世界に溺れてしまっていたようです。本当に凄いの。途轍もなくグロテスクな登場人物たちが、長いときには2ページにも渡ってしゃべるわしゃべるわ。流石は反リアリズム小説である…。 
 その長広舌をふるわれる度に主人公Qは、頭の中を思いっ切りかき回されて再び反論を立て直して…。その経過がまた詳述されていくのが、読んでいて堪らないくらい滑稽ですが、そこが面白かったりしました。

 結局Qが党員になったスミヤキ党って、いったい何だったんだろう? 
 発表当時にこの作品を読んだ人たちの脳裏には、きっと学生運動や新左翼運動のことがすぐに浮かんでいたことでしょうけれど、今私が読んでも充分に楽しめたということは、この作品に描かれた人々の姿に何らかの普遍性があるということでしょうか。グロテスクさにも、滑稽さにも。
 風刺…ということをあまり気にとめず、この作品の持つ奇妙な魅力を堪能してみました。本来ならば、取り止めもなくぐにゃぐにゃしているはずの悪夢的な世界が、倉橋さんならではの理知的な文体で容赦なく整然と語られていくのですから、これはもう戦慄ものです。特に終盤…!

 すっかりセピア色になってしまった折り込みの付録がそのまま挿まれていて、それがとても嬉しかったです。書評集になっていて、筆頭に倉橋さん自身の文章が載っていますので、作品の読了後に読んで「なるほど…」と得心したのでした。

〔 スミヤキストQはあのラ・マンチャの卿士ドン・キホーテの末裔にあたるといえます。ひとつの観念をもち、忠実にその観念にしたがって行動しようとする人間は、あの風車に挑戦するドン・キホーテ同様、純粋で愛すべきものがあって、滑稽千万であります。 〕 『スミヤキストQの冒険』付録より

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小池昌代さん、『タタド』

 今朝、久しぶりに卵かけご飯をいただきました。たまたま卵が買ってありましたので。
 日頃はパン派ですが、卵かけご飯は格別です。卵好きな私にとっては、子供の頃から追いかけ続けた原点のような郷愁の味です。子供の頃は箸でしたが、今日は横着をして匙を使いました。めまぐるしく変化し続ける世の中を知らぬげに、卵かけご飯の味は全然変わらないなぁ…などと考えながら、頬張っていたのでした。 
 冬まだきの気ままな朝、ぽつんと一人の卵かけご飯。ちなみに卵は、先に混ぜておく派。

 そんな今日読みましたのは、3ヶ月以上も前に図書館で予約をしていた本です。こんなに待たされると、あの飛びつく感じが薄れてしまうのがちと残念ですね。

 『タタド』、小池昌代を読みました。

「MARC」データベースより
〔 20年連れ添った夫婦とそれぞれの友人。 50代の男女4人が、海辺のセカンドハウスに集う。 倦怠と淡い官能が交差して、やがて「決壊」の朝がやってくる――。 表題作のほか「波を待って」「45文字」を収録した短篇集。 〕

 表題作のタイトル「タタド」は地名からきているそうですが、カタカナで表記されることによって、全然別のものを喚起させる響きを帯びている気がしてしまいます。何やら不穏な、タタドという響き…。
 海辺のセカンドハウスに半ば生活の拠点を移した、中年から初老といったところの夫婦の元に、男女一人ずつの来客がある。男の方は妻と付き合いが長く、女の方は夫と付き合いが長いのだが、何となく4人で屈託なく過ごしてしまう。彼らは時に子供っぽく他愛もなく、入浴後の女たちはすっぴんをさらしている。
 ストーリーらしいものは殆どないものの、隅から隅までの細部を味わうと、何とも言えず体に沈み込んでくる読み応えがありました。 来客側の男・オカダの登場場面から始まる「もしも猫を轢いてしまったら」という会話とか、異様にすっぱい夏みかんのエピソードとかは特に素晴らしかったです。来客側の女・タマヨがモノを失くす話も、意味深で凄みがあってゾクッとしましたし。 
 死の気配と衰えない貪欲さが背中合わせになっているような不穏さが、何かの予兆のように作中には滲み出しているのに、あえてそんなことには無頓着に振舞っている男女4人の淡い思惑。

 そして、堰き止めていたものを失くして崩れ落ちるラスト。この作品を途中まで読んだ時点で、きっとそうなるだろうなぁ…と予想していた通りでしたが、そこにたどり着くまでの流れの巧みさに溜め息が零れ落ちました。切羽詰った若さから遠く隔たった老いの倦怠と官能は、贅沢な音楽に溺れるように彼らを捉えてしまったのでしょうか。

 話そのものが楽しめたのは、「45文字」です。これは話のアイデアが面白いのかもしれません。フェルメールの絵がすごく見たくなる作品です。
 あの、「牛乳を注ぐ女」に描き込まれた細いミルクの捩れ…。見逃してしまいそうな瞬間のフラッシュバックで、今と過去が思いがけなく繋がることってありますね。ず~っと時間がたってから、やっと腑に落ちることとか。これまでも、そしてこれからも、人生なんてそんなことが続いていくのだろうなぁ…と。

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笙野頼子さん、『だいにっほん、おんたこめいわく史』 再読

 『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』を読んで、『だいにっほん、おんたこめいわく史』の復習をしたくなりました。
 何だか色々忘れてるなぁ…と、自分の記憶力に落胆しつつめくっていましたら、結局ぐぐぐ~っと引き込まれて最後まで再読していました。やっぱり、面白いのですもの。特に冒頭から巫女さんの託宣までは、本当に吸引力があります。ここで捉まって、やめられませんでした。

 今日は再読、『だいにっほん、おんたこめいわく史』です。
 
 〔 小さい私から大きく振り返るそれが文学だ。 〕 220頁(『言語にとって、ブスとはなにか』より)  

 再読だけあって多少は読みやすく、前回苦戦したので自分でもいささか吃驚桃栗でした。いやいや、私なんぞが「読みやすかった」などとのうのうと言っては噴飯ものですけれど、あくまでも初読時と比較すると…という話です。たとえば初読の時は、前触れもなく(章のタイトルに出てくるとは言え)語り手がコロッと変わるので、その文脈についていくのに必死でした。語り手たちの関連性も見えてこないまま、いきおい手探りになって読み進まなければいけなかったりしたものです。
 ところが今回の再読では、始めからそういうものだと割り切って読んでいるし、すでに先に読んだ『おげれつ記』で雰囲気や関係に慣れてしまった所為もあってか、その点はすんなり入りやすかったような気がします。

 改めてこの作品を読んでみると、作品内に内包されているものの複雑さ幅広さに気付かされて驚きました(整理するのが難しくて言及出来ませんが)。前回はあまり気に留めていなかった(てゆーか、その余裕がなかった)、F市の遊郭や遊女の話も興味深かったです。虚構世界の火星人少女遊郭と、実在したF市の遊郭。でもその両者は、“おんたこ”の存在でつながっていて、F市の遊郭で古き“おんたこ”の姿を見ていた“比丘尼の子・おたい”の語りでは、無理やりな神仏分離のことにまで触れられていて、ここで宗教の話にも繋がるし。う~む、面白い。

 あと、前回はどうしても「おんたことは何ぞや?」という方に気を取られてしまいましたが、今回は逆に“みたこ教”って凄いなぁ、なんて思いました。私は特定の宗教を信仰していませんが、時として、苦しいときの神頼みってやっぱりあると思うのですよ。何か…そういう神頼み的なレベルの、シンプルで素朴な、人類よりも大きな存在の力に縋ってみたい!という感性って、本当は失くしてはいけないものなのかもしれないと、思うことはあります。 
 例えば私は、古い大樹の前に立つとどうしても、敬虔で厳かな気持ちになると同時に、自分の存在が静かに誰かに見守られているような気がして泣きたくなる。それで私は勝手に、大樹を信仰している…と言うと大袈裟ですが、自分よりも大きな何かに対して敬虔な気持ちになったり、大いなるものに見守られている…と感じることは、普段私たちが思っている以上に大切な感性なのではないか…と思うのです。そういうことを忘れてしまうと、人は何処までも傲慢になってしまうのではないかと。 
 と、そんなことをつらつら考えてみると、“みたこ教”のゆるさ加減は興味深いです。がっちりと固まってしまった宗教にはアレルギーのある私でも、“みたこ教”だったら面白がってしまいそうです。枠のない大らかな信仰、という印象がありました。まあ何しろ、仏教とキリスト教の習合だったりしますからね。

 先日、笙野頼子特集目当てで買った「文藝・冬号」に、「佐藤亜紀×小谷真理 対談による笙野頼子全著作レヴュー」が掲載されていました。すごく読み甲斐があってうはうはな内容でした。

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今日はお好み焼き♪「せいちゃん」

11月18日、晴れ。髪を切ったから首に風が冷たい! 
 いよいよ寒くなってまいりました。私は先週の金曜日から、外出時には薄手のコートを羽織っています。 

 さて今日のランチは。
 だーさんが「お好み焼きでも…」とつぶやいたので、手元の情報誌を参考にして、東灘区の青木駅周辺へ入ってみることとなりました。お好み焼きのお店が多い界隈のようです。阪神電車で三駅。
 寒くなってくると嬉しいのは、隣のだーさんの腕の下に手を差し込んだりして暖がとれること。 

 駅を出てしばし、さ迷いました。地図をデジカメで撮っておいたのですが、わかりにくく、通りかかったお好み焼きやの前でだーさんが「面倒臭いからもうここにしよう」と、決定してしまいました。
 そこは、「せいちゃん」というお店でした。  

 外がどんなに寒くっても、鉄板の前に座ったらこれしかありません。
 

 私の目が釘付けになったのは、「カキ焼き(季節物)」です。他のトッピング(キムチとかチーズとか)が気になったのですけれど、プレーンで正解だったかな。
 TVのマラソンをぼんやり眺めながら待ちました。お好み焼きを作っているところをちらっと見ますと、なるほど広島焼きです。広島焼きは久しぶりだわん♪

 こちらがだーさんの豚焼きです。
 

 こちらは私のカキ焼きです。 
 少しカキが見えてます。
 さっそくはふはふ頬張ると、蒸し焼き状態になったキャベツが甘くて美味しい~です。粉っぽくなくて、ふわふわ。流石は広島焼き。お目当てのカキもたくさん埋もれてました。

 だーさんは、マヨネーズと一味で好みの味にしていました。お好み焼きのソースは、ちょっと甘味が強いですね。
  
 
 さらに本日のお薦めから「セセリと野菜炒め」を追加です。店主さんが「セロリ食べられますか?」と声をかけてくださったので、セロリ好きな私は期待が高まりました。セセリとセロリ♪
 やったぁセセリ♪ 鳥好きには堪らない部位です。敷かれている野菜がセロリと水菜なので、これがまた鶏肉のジューシーさに合います。香りも素晴らしい。
 程よくやわらか、
 程よく歯ごたえ。むにゅむにゅ、もぎゅもぎゅ。

 ビールも進んでお腹いっぱいです。そう言えば私、普通のお好み焼き一枚はきついのでした。くうう、食べすぎ…。 
 店主さんも奥さん(かな?)も、感じの好いお店でした。行き当たりばったりにしては満足なランチでした。
 (案の定、夜になっても私のお腹はいっこうに空かず…)


 そしてこちらは、昨日いただいた中華そばです。尼崎にある「大貫」というお店ですが、日本に現存する中では最古のラーメン店なのだそうです。
 スープを一口すすったら、赤味噌?と思ってしまいました。でも、醤油なのですって。黒いのは木耳。
 尼崎と言えば大阪の下町。私が思い出してしまうのは、宮本輝さんの『幻の光』です。

 ちょっと悩むことがあって、ここ二日ほどぼ~っとしておりました。 
 先日、せっかくの内定を断ろうと思った理由は一つではありませんが、こんな風に二人で過ごせる休日が半減してしまうこともその一つでした。何だかそんなの、私にとっては本末転倒なのです。でも、あんまし、肝心の相手にとってはそうでもなさそうで…ぶつぶつ(何でやめるの?とか言われた)。男の人って、そんなものかしらねぇ。やさぐれてやるぅ。

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笙野頼子さん、『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』

 昨日、面接なるものに行ってまいりました。  
 一件の求人に申し込みをしたのが先週の木曜日、月曜日に履歴書等を郵送したらば翌日電話があり、金曜日に面接。展開が早いなぁ…などと、感心している場合ではありません。何だか色々訊いてくるなぁ…と思っていたら、内定していました。す、すみません。詳しい説明を聞いたらきつそうな内容なので、む、無理かも。今後もマイペースで探そうかな…。自宅から近いのが魅力でした。 

 さてさてここから本の話。 
 少し復習の必要を感じて、『だいにっほん、おんたこめいわく史』もめくりました。う~ん。本当は笙野さんの作品は、もっと時間をかけて読み込まないといけないのでしょうね…(図書館の予約本がどんどん届いているし…うう)。

 『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』、笙野頼子を読みました。
   

 三部作の第二弾であります。この配色で白→黒と来たら次の装丁はやはり、燃え上がるような赤い本になるのでしょうか? いや、楽しみ楽しみ。  
 例によって身構えて読みましたが、前作よりかは読みやすかったです。その理由の一つは、埴輪いぶきの存在でしょうか。前作ではもっと複雑だった語りの仕組みが、この作品では、埴輪いぶきの視点から語られている部分が多かったので、いぶきをストーリーの中心に据えて流れを追っていくことが出来るのですね。  
 “おんたこ”に征服された日本では、すでに『だいにっほん、おんたこめいわく史』の時点にて、“国中の人間が自分の、当の本人の生き死にさえもよく判らなくなって”いました。そしてついにこの作品の中では、そんな生者たちの中に蘇ってきた死者たちが平然と立ち混じるという…そんな状況になっておりました。  
 どうやら、国家(つまり、おんたこ)から邪険にされた人ほど、死後に蘇りやすいらしい。しかも、かつて“みたこ教団”の本部が置かれていたS倉市が、死者たちにとっては色々と都合がいいらしい(生者から見られやすいとか)ので、S倉に死者があふれる。でもとりあえず国家は、あくまでも死者を見えないものとしている。どうせ税金とか取れない相手だから。  

 そして、ここに登場する埴輪いぶきもそんな死者の一人です。この人がまた、よくわからないけれども面白かったです。“自分の書いていた小説の中に飲み込まれた”笙野頼子が、死者たちを相手にして“自分の書いてしまった世界がどのように悪い世界かを講義”するのですれど、その内容に対して、俺は自我とか判らん!てな調子でぶち切れちゃうのです。一応、この中では主人公なのに。 
 このいぶきと言う死者(“息吹”なのに死者…)は、何かを滔々と語り出しそうな気配を持ちつつもなかなか自分のことを語らないです。でも、父親の埴輪木綿造が火星人落語(笑えないものを無理に笑う落語)の中興の祖なのだそうです。この火星人落語は前作でも出てきましたが、完結編ではどんなことになるのか、ストーリーとの絡みがこれまた凄く気になります。  
 おんたこ経済も冷えてきたみたいですし、少しずつ反逆の気配も漂ってきてるようですし、完結編でどうなっちゃうのか兎に角楽しみです。  

 本当は私にも、世の中に対してげんなりしてしまうことはよくある。洒落にならないくらいよくある。けれどもそういう事はやっぱり、相手を選んでしか口に出せない。私が嫌だなぁ…と感じることを、享楽している人が沢山いることも確かだから(見回せばネオリベが、おんたこが)。そんな、あれやこれやを思い出しながら読んでいたら、流石に苦しかった。時々胸が疼いた。でもだからこそ私は、笙野さんの作品を読まなければならないのだろう。 

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