笙野頼子さん、『説教師カニバットと百人の危ない美女』

 『説教師カニバットと百人の危ない美女』、笙野頼子を読みました。
 
 “巣鳩こばと会残党、またの名をカニバット親衛隊。かつては一万人を越えた、結婚願望ばかりが発達した異端の女性集団。が、今ではその数もたった百人、ああ、またファクシミリが鳴る……。” 22頁

 覚悟はしていましたけれど、だから面白過ぎますって…。
 それぞれが繋がりを持つ作品群に踏み入る為には、素通りするまじき作品でした。『文藝・冬号』で佐藤亜紀さんがおっしゃっているように、“笙野頼子という作家を考える上で重要な本”でもあるでしょうし、“ここから語り口が劇的に変わっていく”作品でもあります。…と言いつつ、読んでいる間はそんなことも考えず、ただただ圧倒されながら楽しんでました。

 笙野さんには、私小説的ではありつつ八百木千本という架空の作家が語り手として登場し、現実と虚構が入り乱れてパラレルに展開される作品群があります。そこには流れがあり、前作であの問題を取り上げたから、次作では更にこちらの方向に突き進んだのか…とか、そんな風に繋げて読める側面を持っています。
 そんな中でこの作品は、八百木千本がいわゆる“ブス物”をバリバリ書いていた頃の一冊となるでしょうか(ううむしかし、本当は“ブス”って言葉はあまり使いたくない…)。

 説教師カニバットの教えを受けた百人の一応美女(千本よりは美人)のゾンビたちから、八百木千本がまずはファックス攻撃を受けている…というところから話は始まります。じゃあ、ファックス切れば…と思っていると、ファックスを切るとあらゆる隙間から紙の蛇がでろでろと吐き出されるばかりなので、それよりはまだファックスの方がましと、千本はせっせとロール紙を買い込んでいるという、もうこの辺で何が何だか…な話ではあります。ファックスの文もしっかり読んでるし。
 説教師カニバットの教えとは、簡単に言えば“女の幸せ=結婚”。“女は夫に尽くし子を産み、良妻賢母の道をきわめるべし”なんて、前時代的化石的なものです。何て言うかもう…百人の女ゾンビたちの姿が痛ましくも涙ぐましくなりました。が…。 

 女ゾンビたちは本当におぞましいお化けなので、そのさまざまなおぞましい姿が語彙とイメージをふんだんに駆使され描写されます。彼女たちが綴る千本への手紙では、めくるめくような異様な思考が文章となってほとばしっています。凄過ぎますって。
 (2007.10.30)

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松浦理英子さん、『犬身』

 『犬身』、松浦理英子を読みました。

 心待ちにしている内に期待が募った作品、とても楽しんで読んだ。素晴らしかった。

 私は小説の紹介等は読まないようにしている。人それぞれだと思うけれど、そう来るか…と驚嘆の声を上げながら読むのが好きなので。で、私はこの『犬身』というタイトルを、所謂隠喩だと思っていた。だから途中まで読み進んで、「ええっ、これってそういう話だったのぉ~?」と驚きもすれば、そこから俄然面白くなり「これは凄い話になるかも…!」と、いささか興奮気味に身を乗りだしていたのである。

 物語は、現代の変身譚だった。そしてその着想が存分に活かされている。『親指P』のときの「発想は面白そうだったのに…」という残念さは全然なく、ラストがどうなるものか全く見当も付かなかったので最後まではらはら楽しめた。
 “種同一性障害”とか“犬生”なんて造語にもにやりとさせられるし、もう一つ唸りそうなくらい面白かったのは登場人物たちの造形である。“犬化願望”の強い主人公は、まあそれだけで不思議な人だが、それ以外の考え方とかはすこぶるまっとう。一方、一見普通そうに見える飼い主の玉石梓(『八犬伝』?)の家族たちが壊れている。 
 とりわけ、「よくもこんなにイヤな男が描けるなぁ」とその筆力に感嘆したのが、梓の兄の彬だった。女性ならば誰でも、こいつには嫌悪感でぷるぷる震えてしまうこと請け合いである。もう一人、得体が知れなくて惹き付けられた人物は、鍵を握る謎のマスター朱尾。この人と主人公房恵の会話は、なかなか読み応えがあった。

 この作品では、“種”さえも越えてしまう魂同士の結びつきと、その完璧さへのこだわりを感じた。確かに、犬的な愛情のいたいけさには胸を衝かれる。
 (2007.10.28)

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G・K・チェスタトン、『詩人と狂人たち』

 『詩人と狂人たち』、G・K・チェスタトンを読みました。

 “もし、あたり一面に付いた誰かの手の跡を見せられたら、その男が逆立ちをして歩いていたのはなぜか教えてあげましょう。が、そのわけを見つけ出す方法は、ぼくが何かを見つけ出すときに用いる唯一つの方法なのです。つまり、ぼく自身狂人であり、逆立ちをよくやるからこそ、それが分かるのです」” 205頁「紫の宝石」より

 名探偵と謳っているけれど、これは所謂ミステリーではないのでは…と惑わされる、まさにそこがこの作品の面白さでした。そんなに読み易くない文章ですが、風変わりな作風にずぼっとはまって楽しめました。
 いつも事件を起こすのが、いささか偏った思想や主義に捕らわれてしまった狂人たちならば、それを解決するガブリエル・ゲイルも、半ば狂人で非常にエキセントリックな詩人でして、だからこそ狂人たちの思考回路が理解出来る=事件解決、という8編です。読み始めてすぐに、なるほどこれはイギリス的だ…と感じ入ってしまう、一ひねり二ひねりもある緻密な文体。逆説的な思索に満ち溢れ、ある意味哲学っぽい会話が中心となり展開されていく、全く独自な世界が広がっています。いやはや、面白かったです。
 ミステリーという先入観を早々に取り払って読みましたので、他に類のないこの作品の不思議な味わいを堪能できたように思います。
 (2007.10.26)

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ゆったりん旅 由布院編

 さて、旅の2日目は由布院温泉へ。 
 博多駅にてだーさんに、「今日乗る“ゆふいんの森”、調べてみた?」と訊かれた私、マニアではないので事前に調べるはずもなく「ううん、何で?」と訊き返しますと、「まあ、見てみて」と。「え、見た目凄いの?」「う~ん、まあね」。
 と、そんなやり取りがありまして、噂の“ゆふいんの森”がホームへ滑り込んで来た途端に、「うわあっ」とデジカメを構える私。慌てて走って顔(っていうの?)を撮りました。慌てていたので上の方が切れちゃって残念です。
 一瞬二階建てかと思ったら、デッキから階段で少し上がる客室になっていました。
 客室は和な雰囲気でレトロです。暖簾が渋いです。


 大分県に入り温泉郷が近付いてくると、車窓からの眺めが素敵でした。
 由布院駅に着いたら先ずはコインロッカーに寄って即、一駅移動です。
 一両編成。
 由布院駅は賑々しかったのに、南由布駅は長閑長閑~。ついーついーっと、赤蜻蛉が漂うように飛んでおりました。


 ここで降りた目的は、ワイナリーでした。試飲をさせてもらって、赤ワインを一本と味噌漬けの豆腐を発送に。
 そしてお迎えの列車は、
 わ~い、トロッコ♪
 あれに見えるは由布岳です。

 なぜか私の中で、由布院駅周辺の散策は自転車で…というのが決定事項でした。津々浦々の観光地で見られるプチ軽井沢の様相、博多よりも余程人が多いように感じました。自転車で何度も足をつきながら、人と人の隙間を縫うようにすり抜けなければいけませんでしたが、それでもやっぱり自転車はらくちんでした。
 金鱗湖まで行ってからガラスのお店で買い物をしたり、だーさんの職場用のお土産“湯布院 野の花クッキー”を購入して駅へ戻りました。駅前で休憩(ここでビール一杯目)、タクシーでいよいよ旅館へ。

 由布院の旅館「月燈庵」は、この旅一番の楽しみでした。全ての客室が露天風呂付きの離れになっています。駅前の賑わいはどこへやら…静かな山間の宿で、もはや我々の目の前には温泉と山の眺めと心待ちなお料理しかありません。
 さっそく大浴場で一風呂浴びました。露天風呂から仰ぐ月は、半月でした。群青を深めていく空に、凍て付くような月の光。風になびく湯煙に包まれ、し、至福…。

 そして夕食は母屋へ。お料理は創作会席です。先に言っておきますと、どれも大変美味しゅうございました。
 これは先付けの“茄子豆腐 滑子べっこうあん”。


 前菜です。
 柿白和えや九十カステラ、いくらみぞれ和えなどでした。
 造りは、“豊後水道季節の盛り合わせ”。
 
 せき鯖よ♪

 だーさん大絶賛の、“大鯛頭蕪煮”です。

 豊後牛ステーキです。
 蕩けそうでした。
 さらに「地鶏麺」なるものやさつま芋の天ぷらが出て、最後の水物に“焼目もちぜんざい”。え、ぜんざい?と思いましたけれど、程よい甘さでお餅も小さめで、最後まで美味しく頂けたのでした。

 これは栗おこわ。
 旅館の夕食って、ちょっと幾らなんでも多過ぎでしょ…なんてことがままありますが、ここのお料理はきちっと節度ある量で嬉しかったです(朝食しかり、でした)。  

 食後は離れの露天風呂で、ほんのり赤く茹蛸になりました。
 

 新館のバーで軽く呑んで(コスモポリタンとか、だーさんはバーボン)、心置きなく温泉の夜を堪能したのでしたよ。 

 朝も早起きして、大浴場と離れの露天風呂と両方にしっかり浸かりました。由布岳の山肌に朝日が当たるまで、大浴場を貸切状態で心ゆくまでぼ~っとしました。お風呂から上がると朝の冷たい空気がより清々しくて、本当に気持ちよかったなぁ。

 朝食に母屋へ。離れと母屋の間には、こんな橋があります。 




 私たちが行った日あたりから、朝の冷え込みが深まったそうで、ようやっと紅葉が始まっていました。
 離れの客室は昔懐かしい日本家屋のようでしたし、サービスも行き届いて仲居さんも感じが良く、立ち去りがたい旅館でした。

 三日目は、駅前でお土産を買ったくらい(最後の最後に小鹿田焼のお皿を衝動買い)でこれと言って何もせず、大分空港から伊丹空港まで一っ飛びして帰って来ちゃいました。国内旅行っていいよなぁ…と、改めて思った小旅行でしたよん。
 素晴らしいお天気に恵まれて。
 (2007.10.24)

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ゆったりん旅 博多編

 昨日、二泊の旅から戻ってきた。気怠く疲れているけれど、楽しかった余韻が包んでくれてる。ぽやぽや~ん。いやはや、いいですね九州♪ 
 特に一日目に訪れた博多は、口にするものは何でも旨い!し、街ゆく人たちも全然せかせかしてないし、屋台はあるし、でも人いきれに酔うほど人出がないし、うるさくないし、ご飯は安そうですし。だーさんが「住みやすそう」と言うのも、むべなるかな。

 ではここからは画像中心で。博多駅に着いたら先ずは明太子を自宅へ発送し、地下鉄を使ってまっ先に向かいましたのは……。
 まあ、当然ですな。ここでした。
 基本を押さえて「元祖 長浜屋」ね。
 このお店、席に着いたらオーダーの必要はありません。どんどん運ばれてきます。作り方も豪快過ぎです。
 とうとう本場で! レンゲがないので、ちょっと照れながら丼からスープ(そんなの初めてよ~)。意外にもあっさりした豚骨でした。
 ぶらぶらと歩いて、待機中の長浜屋台を眺めたり。
 どうですかこの秋晴れ。
 一駅移動して大濠公園へ。この時だけ少し雲が出てきて寒かったです。
 待機中のスワンですわん。

 この公園、沢山の渡り鳥が到来するそうです。烏も怖ろしいほどいましたが。
 池が大きいので結構歩けます。“大濠”公園ですから城跡もありますが、私たちはこれにて駅に戻りました。

 これ、街中で見かけた変なもの。不動産関係のビル。
 
 一旦博多駅に戻りまして、チェックインまでの時間潰しにだーさんが連れてきてくれたのは、駅構内の普通の居酒屋さん。


 適当に頼んでくれた串ものを頂きつつ、このお店でビールを呑んでいたらじわじわじわ~っと、「博多いいね!」という気分が盛り上がってきました。
 そしてお店(と、だーさん)の一押し。豚足が苦手だっただーさんに衝撃を与えたという一品を最後に頼みました。その時の話を二度も聞かされたら、素通り出来るめえ。
 ふふふ、もう笑っちゃうほど美味しかったです。 
 箸で簡単に取れてくるお肉が、みよ~んとお餅みたいに伸びてモッチモチのぷるぷるよ!コラーゲンが襲ってくるけれども、ウェルカムよ!
 ごく普通の居酒屋なのに(だーさんが出張の時に、「時間がないからここで勘弁してください」と言われて連れてきてもらったそうな)、このレベルの高さ。ううう、やっぱりここに住みたいですよ。

 今回の旅はだーさんの、「色々詰め込んで忙しいのはイヤだ」という強い意向に従っています。なので、この後ホテルでゆるりと休憩をしまして、夕方から中州の街へと繰り出しました。
 準備中の屋台を横目に。
 櫛田神社をお参りしました。

 博多は海産物も美味しいそうなので、是非是非賞味したいところ。情報が少ない私たちが選んで入りましたのは、ガイドブックにも載っているお店でしたがこれまた素晴らしい味に出会えたのでした。そこは中州の「ひしむら」です。
 とても品の良い店内の雰囲気と、渋くて素敵な大将さんに期待を募らせつつ、まずはお店のつき出しを。

 栄螺の粕漬けです。 
 これで酒呑みはイチコロですって!

 さらに大将おススメの明太子に舌鼓を打ちましてから、それぞれに好物を頼みました。
 アンキモのポン酢♪ ああ、今シーズン初…。

 九十九島産のカキ酢。
 うう、もはや言葉を失くす…。

 鯨のメニューがとても充実していた中、迷った挙句に鯨のベーコンです。 
 玉ねぎに隠れているところが赤身になっていて、噛めば噛むほどに甘味の出てくる美味しいお肉でした。口の中で蕩けるものばかりが持てはやされ気味ですが。
 だーさんは、「杜氏の詩」というお酒を熱燗で。私は焼酎「坊津」のお湯割り。

 刺身盛り。何をかいわんや…。

 お店の方も感じが良くて、すっかり上機嫌な私たちの出来上がり…でしたことよ。
 
 で、〆の一杯を求めてぶらぶらとやってきました、那珂川沿いの屋台群の一画。手前のお店が有名な「一竜」です。
 ここまで来たらもう、「屋台で博多ラーメンを食べた!」という既成事実が作りたいだけです。なはは。行列に並んでいる間、豚臭い匂いがほとんど全くと言っていいほど漂ってこないので、「こ、これはもしや…?」と案じておりましたらば案の定、
 あっさりライト豚骨ぅ…。なんでやねん。

 でもまあ二杯も頂きましたから、ラーメンに関しては目的達成です。しかも夜に〆のラーメンなんて、まるで夜遊びにいそしんでいた20代の頃みたいで楽しかったです。おほほ(正直、いささかきつかったけれどね)。
 でもでもやっぱり、中洲は一晩じゃあ足りないですね! 
 ホテルへの帰り道、和太鼓のライヴがあったりして素敵な街でした。
 (2007.10.23)

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ジェフリー・フォード、『記憶の書』

 『記憶の書』、ジェフリー・フォードを読みました。

 読み終えた途端、やはり面白い…と唸ってしまう作品でしたが、『白い果実』のようなめくるめく眩暈に襲われるのを心待ちにしていたので、少々肩透かしを喰らった気分だったことは否めません…。
 『白い果実』の展開は、何処へ流れ着くのかさっぱりわからないのが不思議な魅力で、何て言うかもっと話全体がシュールに歪んでいたような気がします。その点この『記憶の書』は、相変わらずシュールですが話はとてもストレートで、主人公の目的が分かりやすい分、良く言えば読みやすいです。
 あと、主人公のクレイすっかり良い人にまとまってるのがちょっと物足りないかも…なんて思いましたが、なんとこれは、クレイの愛の物語でした…!
 (そして、『白い果実』の山尾悠子さんの訳が好きだったのに、この作品では貞奴という詩人がリライトされています。残念…。)

 天才的暴君ビロウの意識の中に構築された世界へクレイが入り込む…。着想は目新しいものではないかも知れませんが、その途轍もなくシュールな意識の世界の創りに、ただただ目を瞠る気持ちで魅入られました。美しい存在はより美しく、おぞましいものはよりおぞましく描かれた世界は、あまりにも独創的です。 
 前作ではすこぶる付きの人だった独裁者ビロウの、意外な一面が垣間見られる箇所があったり、彼の過去の話が少し出てきたところが私には興味深かったです。かつてのビロウの師であるスカーフィナティは、もう出てこないのかしら…? ああ、三部作の結末が早く読みたいです。
 (2007.10.19)

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マークース・ズーサック、『本泥棒』

 『本泥棒』、マークース・ズーサックを読みました。

 “人は幸せを盗めるものだろうか? それともこれもまた内なる、人間特有のひどいトリックなのだろうか?
 リーゼルはそんな考えを振り払った。橋を渡り、ルディに急ぐように、それから本を忘れないで、といった。” 465頁

 この物語の語り手は死神です。とても思慮深げな大鎌を使わない死神です。そして主人公の少女は、10歳で登場する本泥棒のリーゼル・メミンガーです。そして物語は、里親の元へ送られていくリーゼルが、幼すぎる死という形で弟を失う場面から幕を開けます。
 以前読んだある作家のエッセイの中に、強く印象に残った言葉がありました。正確には思い出せないのですが、それはつまり、「死というものを限りなく身近に感じている人、死に寄り添うような状況に置かれている誰かが、その気配の中で自分の作品を選んで読んでいたと知って、嬉しく感じない作家はいないのではないか?」という内容の文章でした。そういうものか…と、心に残りました。それで言うならばリーゼルは、まさにそんな状況でいつも本を読んでいたのです。
 読みながら胸が疼くのは、リーゼルが本を盗み、本を盗み続けなければならなかったことの意味が痛いようにわかるからだ…と思い当たりました。

 リーゼルを最初の一冊へと導いたのは、突然の弟の死でした。そこにたまたまその書物があった。ただそこにあったからその本を手に取った。その書物のタイトルは、「墓掘り人の手引書」でした。まだほとんど文盲だったリーゼルが初めて手に入れた書物が、よりによって「墓掘り人の手引書」だった…。そんなところにも、この作品の凄味と深みを感じます。
 そうしてリーゼルの、常に戦争の冷たい手に首筋を撫でられながら本を読む…そんな生活が始まります。彼女の置かれた環境は金銭的にも困難でしたから、いきおい同じ本を何度も読むことにもなるのですが、その読書体験の何と豊かで濃密なことか…。

 そしてまた、登場人物たちが素晴らしいです。まず、リーゼルの里親となる夫婦がいます。彼女の父親となるのは、巻煙草をこよなく愛するペンキ屋でアコーディオン弾きで必ず約束を守る人、そして何よりリーゼルを文字の世界へといざなった人、ハンス・フーバーマンです。そして母親となったのは、罵倒言葉の宝庫で愛情深き、ローザ・フーバーマン。
 さらに、高潔で愉快な少年である親友のルディに、不屈なユダヤ人の青年のマックス。被害にあいながらもリーゼルを見守り続けた町長夫人にも、私は心惹かれてやみませんでした。
 戦争の悪夢が晴れる間際の怒涛のラストは、何度も涙で読めなくなりました。でも最後には涙が晴れるのです。
 (2007.10.17)

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ケリー・リンク、『スペシャリストの帽子』

 『スペシャリストの帽子』、ケリー・リンクを読みました。

 いつか読み返すときが心から楽しみな一冊だった。収められているのは、「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」「黒犬の背に水」「スペシャリストの帽子」「飛行訓練」「雪の女王と旅して」「人間消滅」「生存者の舞踏会、あるいはドナー・パーティー」「靴と結婚」「私の友人はたいてい三分の二が水でできている」「ルイーズのゴースト」「少女探偵」。

 正直なところ、一篇目「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」を読み始めた時点では、「何じゃこりゃ?」だったのです。え、いきなり語り手は死人ですかい…と思って。それが読みすすむにつれて、感嘆と驚愕の詰まった「何じゃこりゃ~ぁ!」に一変したのでした。
 大好きなサージェントの絵画とタイトルが同じなので、どうしても意識の中にあの絵のイメージがあって、それも良かったような気がします。真っ白な花々に囲まれた白いドレスの二人の少女が、提灯に灯を入れている場面を描いた、幻想的でとても美しい一幅です。この作品を読みながら思い浮かべると、ジャポニスムの影響で描き込まれている提灯の灯が、送り火のように思えてなりませんでした。 

 これは本当に凄いかもしれない…と思い始めたのは「黒犬の背に水」を読んでいる時でした。いやもう、こんなに捉えどころがなくて訳の分からない小説に、何故こんなに気持ちがひき込まれるのか、自分でも不思議でならなかったです。ですからそう言う意味では、親切な解説を読んでやっと「なるほど、そう言うことか」と得心がいくことも多い作風ではありました。でもちゃんと理屈なしで面白い。もっと読みたい。
 「雪の女王と旅して」のように、馴染み深い童話を下敷きにしていたり、或いはその童話のエッセンスだけを巧く採り入れている作品も多く、それがまたとても味わい深き魅力になっています。「靴と結婚」にはシンデレラが出てきますが、これがまた唸るほどに見事!

 表題作「スペシャリストの帽子」もかなり変てこな話で、妙に不気味で忘れがたい読み心地でした。“八つの煙突”(エイトチムニーズ)と呼ばれる屋敷に、エイトチムニーズの歴史と詩人の生涯について本を書いている父親と一緒に住んでいる、双子の少女が出てくるのですが、この二人のお気に入りは〈死人〉になる遊びですし、そのベビーシッターは“あらかじめ死んでいる”らしい。
 そして結局、スペシャリストの帽子っていったい何だったんだろう…と、とり残されたように途方に暮れてしまう逸品でした。ああ、好きでした。

 これは解説にもありましたが、本当にとりとめもない夢の内容をそのまま文章化したみたいな物語たちばかりなのです。核心を捉えようとしても、指の隙間からするすると逃げ出しそうです。けれども其処のところの匙加減がまた絶妙なので、ただの夢物語のように退屈でも冗漫でもなく、もしかしたらどこまでも果てしなく広がっていってしまいそうな、人の意識の井戸を覗き込むような深みを湛えた物語たちです。
 (2007.10.5)

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森見登美彦さん、『有頂天家族』

 『有頂天家族』、森見登美彦を読みました。

 “花鳥風月をまねるのも風流だが、やはり一番味があるのは人間をまねることであろう。そうやって人間の日常生活や年中行事にどこまでも相乗りして遊ぶのが、なんだか妙に面白い。このやむにやまれぬ性癖は、遠く桓武天皇の御代から、脈々と受け継がれてきたものに違いなく、今は亡き父はそれを「阿呆の血」と呼んだ。” 88頁

 すこぶるに面白くて、がつがつと読んでしまいました。ご本人のブログではかなり以前から、「毛深い子」という通り名で予告されていた新刊ですが、「なぜ毛深いの…?」と素朴な疑問を抱いておりました。ですから「狸」の話と知ったときには思いっ切りずっこけました。狸かよ! ぽんぽこぽんかよ! …それってどんなんじゃ。

 物語が滑り出す冒頭からしてすでに、そう来ますか…と膝を打つほどオモシロそうな設定が明らかになり、私はその魅力に屈しておりました。“人間と狸と天狗の三つ巴”が展開されるですって? オモシロそう! “天狗は人間を拐(かどわ)かし、人間は狸を鍋にして、狸は天狗を罠にかける”ですって? また巧いことをいう…オモシロそう! …そのようにして私は、作者の術中にあっ気なく嵌り、毛深き狸どもに人間やら天狗やらが入り交じっては繰り広げる、この荒唐無稽な物語を存分に堪能することとなったのでは、ありました。

 物語の主人公で語り手でもある下鴨家の三男矢三郎には、三匹の兄弟と懐深き母上がいます。あまりにも偉大だった父上は、数年前に不帰の狸となっておりました。偉大な父親を失った、“その血を受け継ぎそこねた、ちょっと無念な子供たち”と評される4兄弟と、その子供たちの素晴らしさを信じきった母上との麗しき家族愛よ。 
 …という話になるわけです。主人公たちが狸であるにもかかわらず、まさしくこれは男の子たちの物語だなぁ…と思いました。父親と比べたら出来の悪い4兄弟だけれど、偉大な父親を憧れ続ける長男の一途さとか、引きこもりの次男の優しさとか、オモシロ主義の三男の自由さとか、甘えん坊な四男の純真さとか。結局皆、男の子。ちょっとマザコン気味に母親を大切にしているところも。

 京都を舞台にした設定のディテールも凄く凝っているし、洒落てると思わせずに洒落てるところが本当に堪らないです。
 矢三郎の恩師でやさぐれ天狗の如意ヶ嶽薬師坊(通称「赤玉先生」)は、赤玉ポートワインが何よりの大好物。そういうちょっと脱力気味の設定もオモシロいのだけれど、設定だけで終わらない仕掛けがちゃんとあるところが、流石はもりみんでありました。小物使いと独特の言葉遣いで、独自ワールドを創っちゃうのが本当に巧みな作家ですね。狸のことは“毛玉風情”とか、“阿呆の血”なんてのもありました。
 (2007.10.2)

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内田百閒、『百鬼園随筆』

 『百鬼園随筆』、内田百閒を読みました。
 
 お釣りで手渡されるお札もATMでおろしたお札も、上下裏表揃っていないと気持ちが悪い。…て、つまり私のことです。お札の向きが揃っていないと落ち着かない性分です。とりわけ几帳面なわけではないです…。このくらいのレベルの揃えたがりな人は、巷間で珍しいわけではないと思います。 
 そう、百鬼園先生の五月蝿さには、なかなかどうして凡人には太刀打ち出来るまい。
 1889年に生まれ、1971年に亡くなった百閒さんは、明治生まれの文士としては随分と長生きをされたことになります。漱石の門下生で、学生たちからとても慕われた教師だったこともよく知られています。でもその変人ぶりはかなりのもの。その随筆は全然とっつき難くなくて、むしろ「うひひ」と笑いがこみ上げてくる作風です。

 で、なぜ私が、お札の上下裏表が揃っていないと気になる…なんてしょうもない話をしたかと言いますと、もっと凄い話がこの中にあって、おおいに感服しつつ笑ったからです。いや~、流石は百鬼園先生。個人のこだわりもここまで妄想が広がると、甚だシュールであります。
 この「蜻蛉玉」という小品は、“私と云うのは、文章上の私です。筆者自身の事ではありません”という一文から始まりますが、恐らくそれを真に受ける必要はないかと…思われます。曰く、“一番いやなのは、物の曲がっている事です”ということから、紙幣を揃える話になります。曰く、“人が無茶苦茶な向きになっているお札を、そのまま懐に入れていると思うと、自分の懐の中まで変にくすぐったい様で落ち着けない”。えっ、自分の分だけじゃないの…と吃驚しつつ読んでいくと、そこから更に百閒先生の妄想が始まり…。うう~ん、面白かったぁ。

 また、「百鬼園先生言行余禄」では、ご自分のことが「百鬼園氏」として語られる中に、子供っぽく滑稽なところが余さず突き放した筆致で描かれ、教師時代の学生とのやりとりが大真面目な可笑しさを滲ませて再現されていますので、とても愉快でした。 

 百鬼園先生、かなり変わってるし頑固ですし、機嫌を損ねたら梃子でも動かない感じで、融通の利かなさといい加減なところ(借金魔、遅刻魔でもあり…)が渾然一体となっています。でも多分ご本人の中では、確固とした自分律のようなものがあったのでしょうね。その自分律の仕組みのわかり難さこそが、周りの人々を惹き付けたのでしょうか?
 表紙の装画は、同じく漱石門下のあの方によるもの。じっくり眺めました。
 (2007.10.1)

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