アントニオ・タブッキ、『イタリア広場』

 タブッキの処女作である。 とても、素晴らしかった。
 時には童話のような、時には神話のような、幻想的でありながらも大地にしっかりと結びつけられたこの年代記を紡ぐ、どこまでも淡々とした語り口は、真っ直ぐに私の胸に届き、まるで詩のように美しい…と思った。 いや、だからこれは詩なのか。

 楽しみにしていた新刊をさっそく図書館で借りたのだが、これは手元に置きたいかも…。
『イタリア広場』、アントニオ・タブッキを読みました。

 イタリアを襲った激動の時代、作者の故郷トスカーナはマレンナ地方にあった小さな村(その当時「A村」と呼ばれていた)は、この作品内では象徴的にただ「村(ボルゴ)」と呼ばれている。 この物語の舞台である。 
 30歳で死ぬ宿命と、時の権勢に決して膝を屈しない頑固さとを、併せて受け継いでいく親子たち。 主人公ガリバルドの祖父プリニオからその四人の子供たちへ、己を曲げない個性的な生き方が連鎖していく。 これは、時代の流れに翻弄されることに肯んじることなく、あくまでも「だんな」に従う生き方を拒み通し(思想的と言うよりむしろ本能的に)、太く短く駆け抜けるように生きた男たち三代に渡る、ある家族を描いた物語である。

 はからずも、先日読んだばかりの『精霊たちの家』も年代記ものだったが、こんな方法もあるのか!と驚いた。 こちらは叙事詩、だったから。
 時代背景への説明的記述はぐっと抑えられ、物語の寓話性をひきたたせている。 美しい情景の数々、幻想的で風変わりなエピソードを繋ぐ文章の美しさはまさに一連の詩…。 
 そんな中でも特に、“窓の旅立ち”は忘れがたい場面の一つだった。 情景を描写する文章の、その一つ一つに吸い寄せられそうになるほどで、胸をぎゅうっと摑まれてしまった。 窓が、こんなに愛しいものとは――と。 言葉の力。  

 
 解説によれば、双子や同名の親子などの「二重性」、アイデンティティとその交換の問題、戦争…など、タブッキの作品の重要なテーマやモチーフが、すでにこの作品で萌芽している、とのこと。 なるほど。
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イサベル・アジェンデ、『精霊たちの家』

 ごうごうと呻りを立てながら、迫ってくるような物語の力。 力強く静かに息吹き脈打つ、語りの力にただただ圧倒された。    

 「いつか読もう」がいつの間にやら、読みたくって読みたくってうずうずうず…「早く読みたい!」と、逸るような気分になっていた。 そんなタイミングで図書館の棚から引き抜いた分厚い一冊は、手に取るとずっしり…。 読み甲斐のありそうな、嬉しい重みだった。  
 …と言いつつ、当初思っていた以上にゆっくりゆっくり、時間をかけて物語を楽しんだ。 最初の一行に目を通した瞬間、遠い世界の遠い時間に眠っていた物語がたちまちよみがえり、怒涛の時間の渦へと私をいざなってくれたので、あったことよ(ごうごうごう…)。

『精霊たちの家』、イザベル・アジェンデを読みました。  

 大きくうねる歴史の濁流に巻き込まれていくこの年代記は、幻想のヴェールに包みこまれているようでいて実は、延々と繰り返される人の営みの愚かしさと素晴らしさとを、独特なリアリティでもって伝えてきてくれる。 主人公たちの情熱や愛や憎しみも、数々の印象的な情景と共にずしりと響く。  
 とりわけ、時に女たちの甘やかな罪を隠し、時に重過ぎる秘密を包みこんだ数え切れない幾千の夜の闇の美しさは、胸に沁みついて忘れがたい。 精霊たちが彷徨う、その夜の深さは。 

 しかしもちろん忘れがたいと言えば、全篇を覆い尽くしてしまいそうなほどの、幻視者ローサの存在感に勝るものはない。 手を伸ばせば触れることが出来るのでは…?と錯覚を起こしてしまうほど、ローサの存在感と不思議な魅力には心惹かれずにはいられなかった。 彼女の優しい影響力の元に、何もかもが守られているようで、読んでいる間は私もその中に含まれているようで。  

 そして、前世紀末からチリ・クーデターまでの一世紀を舞台にしたこの作品は、3世代に渡り連綿と続く逞しい女たちそれぞれの物語を紡ぎ繋げていきつつ、その傍らに、彼女たちを愛しながらも頑迷な生き方を変えられず、自身の前時代的な価値観を貫き通した男の一生を、つかず離れずに添わせているところがとても面白い、とも思った。 
 ローサの夫となる男の、屈辱の多かった幼き日々が育んだ夢と野心。 失意の後の恋そしてローサとの結婚、その先の孤独と挫折――。 読み手の同情すらはじき返してくる頑固者の男の魂に、いつか救いの日は来るのだろうか…と。  


 そう言えば、ラテンアメリカ文学には読むたびに圧倒されている。 この作品を読んでいる間、訳者あとがきにも引用されているガルシア=マルケスの言葉が、何度も脳裏をかすめた。 “ラテンアメリカには魔術的な現実がある”と…。 自分自身のこの目と耳で確かめられないのが残念で仕方ないくらい、「そんな世界が本当にこの地上にあるのか…」と、焦がれるような思いで胸がいっぱいになってしまうのだった。   
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ベトナム料理♪ 「ベトナム屋 DZO!(ヨー)」

10月18日、日曜日。 曇り。 
 のんびり休日、おうちでまったり…。 
 今日のお昼ご飯はかねてからの予定通り、お家でお好み焼き♪でした。 お好み焼きってめったに作らないので、あーでもないこーでもないとばたばたしてしまいましたが(簡単な料理なのに…てか、料理ですかね?)、なかなか楽しかったです。 だーさんにも手伝ってもらったりして(『手がすべる~』と言いつつ、フォーク使いで長芋をすってくれました)、ワイワイと焼きました。 お好み焼きも自分たちで作れば、お店みたいなこてこてソースをべったりと塗らなくって済むし、野菜も存分に入れられるのがいいなぁ。 ちなみに〆は、サイコロステーキとカチョカヴァロチーズ。  


 で、ここからは折角なので昨日のランチのお店のことをば。 
 昨日は二人で、ちょっくら大阪まで出かけて来ました。 目的はほとんど私のお買いもの(北陸の真冬を乗り切るためのコートとかね、お楽しみの新刊とかね)♪  
 途中、コンビニの店先にて俄雨の雨宿りをしながら時間をつぶしたり(私の隣りのだーさんは、“雨にぬれても”の口笛でご機嫌だった…)、小降りになった雨の中を走ったり…。


 そんな昨日のお昼ご飯のお店は、「ベトナム屋 DZO!」でっす。 地下鉄本町駅から少し歩いたところにあります。
 だーさんが、お店のご主人の奥様のことを以前の職場で存じあげております…という、言うほど太くもないけれどさほど細くもない…つながりで知ったお店です(なはは…)。

 ベトナムのビール、「333(バーバーバー)」でのどを潤し…。
 呑みやすいんだな、これが。

 日替わりのランチが気になりつつ、黒板のアラカルトメニューから先ずは「茹で塩豚」。
 見た目はシンプルな一皿ですが、レタスの上にパクチーと一緒にのせて、くるんと巻いていただくとこれが美味♪ 海老みそダレも乙なお味ですよ。 

 どーしてもどーしても外せない、大好きな生春巻き。 
 定番中の定番のはずなのに、お店によってちょっとずつ味わいが違いますね。 ここの生春巻きは、きゅうりとナッツの食感がよかったです♪ こういうの、自分で作れたらいいのに…。

 さらにさらに、ご主人のおススメがアサリだったので「アサリのレモングラス炒め」を。
 香り良くとてもあっさりしているので(だ、駄洒落では…)、あっと言う間にいただいてしまいました。

 そして〆に、日替り皿飯のランチを…。 
 今日のおかず一品に、サラダとスープとご飯がついています。 一人分しか頼まなかったのに、二人分のスープを付けていただいてました。 さり気ないお気遣い、嬉しいですね♪
 今日のおかずは、「イカと高菜の炒め」でした。 このおかずとご飯をですね、スプーンで思いっ切り混ぜて混ぜていただくのです。 具材の旨味の移った汁が、ご飯に行き渡ります。 こういう食べ方は、私の好きなスタイル。 むほほ。

 このランチ、二人でシェアするつもりで頼んだはずなのに、だーさんがすでに呑み過ぎ状態!でして、半分以上は私がいただきました…。 イカは柔らかで高菜の辛味も塩梅良く、とっても美味しかったので完食しちゃいましたけれどね。
 トマトの酸味が絶妙で、またいいのですよー。 ああ、美味しかったなぁ…。  

 食後は梅田に移動して、だーさんとはしばしの別行動。 私はもちろん、ジュンク堂♪でした(やっぱり私、リアル書店がいいよう…)。 お気に入りシリーズ「東欧の想像力」の新刊の他、いつもブログを拝見させていただいている方のお料理本もばっちり入手して、時間は短かったけれども高揚しながら書店逍遥を堪能いたしました(はあ…)。
 だーさんの呑み過ぎ状態には、実のところおかんむりになりかけましたが、通り過ぎてしまえばそれもまた楽し…なのでした。 …うふふ。 

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ミロラド・パヴィチ、『風の裏側 ― ヘーローとレアンドロスの物語』

 はあ…。 と、思わず溜め息がこぼれる。 
 とりあえず読み終えて本を閉じて、でもまたすぐに何度でも開いてしまう(ひっくり返しながら)。 あの場面この場面を反芻してぐるぐると思い巡らせてみたりして、またまた溜め息がこぼれるのであった。 周到なからくりと驚きとをその懐に秘めた、とても不思議な小説だった。  

 砂時計に閉じ込められた乾いた砂がさらさらさら…と、未来から過去へとこぼれ落ちていく要の場所。 あの、砂時計の真ん中の、未来と過去とを厳然と分かつくびれた部分に名前はないのかな…? その、くびれの部分にもあたる水色のページをぼんやり見つめつつ、余韻に浸りつつ、そんなことをふと考えたりもした。
 恋人たちを隔てる、綺麗な水色。

 東欧の想像力シリーズで知ったセルビアの作家。
『風の裏側 ― ヘーローとレアンドロスの物語』、ミロラド・パヴィチを読みました。
 

 この本に、裏表紙はない。  
 片側の物語を読み終えたならば(どちらから読んでも良いのです)、そのまま逆さまにくるりと本をひっくり返す。 この作品を読み通すためには、そんな動作が必要になる。 …ということから、砂時計や水時計に例えられることもあるようです(作者自身“水時計小説”と呼んでいたそうです)。
 古代ギリシャの悲恋物語をもとに、ドナウ川とサヴァ川が合流する古都ベオグラードを舞台に繰り広げられる、現代に生きる女子大生のヘーローと、17世紀に生きた石工レアンドロスの物語とが、時空を超えて呼応する。 まるでそう、互いが互いのいる“風の裏側”を探し求めずにはいられないかのように…。 けれども本人たちは、それと知らぬままに。    

 こちら側にヘーローがいるならレアンドロスはあちら側、あちら側にヘーローがいるならレアンドロスはこちら側。 どこまでも背中合わせな二つの物語は、いつかは本当に、巡り合うことが出来るのだろうか――と、その切なさに胸がしめつけられる。 そんな、とてもロマンティックなはずの設定なのに、どこまでもカラリと乾いた風だけが吹き抜けていく。 悲恋物語が下敷きになっているとは言え、何故か読み心地は何となしに爽やかですらある。 そうまさに、だから“風の裏側”の物語。  

 「一回半読むのが好ましい」とは、この作品についての作者からのアドバイスであるそうだが、一読して最初の物語に舞い戻らずにいられるような読み手が果たしているのだろうか…? 二つの物語が呼応し合うシグナルは、ただ一読しただけではそうそう読み取りきれるはずもなく、もう一度最初の物語に目を通した時にあらためて、「こんな場所で呼び交わし合っていたのか…」と、哀しくも愛おしい気持ちにさせられるのだから。 

 思わず笑みがこぼれてしまう、独特な魅力を持つ言い回しが楽しかった。 そしてまた、其処彼処に散りばめられた作者自身の思いが滲み出ているような素敵な言葉たちが、暗い海を渡る恋人たちの先行きを仄かに照らす道標のようにキラキラと光って見えてくるのだ。  
 〈死〉だけが取り持つ二人の邂逅は、一瞬のすれ違いなのかも知れないし、いつかは永遠に結ばれ合うのかも知れない。 それをどうとらえるかということも、私自身の心持ちにゆだねられているような気がした。



 個人的に気になったことを一つ挙げるとしたら、繰り返し出てくる“4”と言う数字へのこだわり(そこに何かが足りない状態を示す場合の“3”もよく出てくる)。 4番目の椅子、四色に塗り分けられた左手の爪、四重奏、四人組の商人、宇宙は四つの町…? 四つの印章の話も興味深い。 
 ヘーローの兄マナシアが言うには、偶数は死者の数字ということにもなる。 ヘーローとレアンドロスに、マナシアとデスピーナが加わると四人になる。 マナシアはレアンドロスの、そしてデスピーナはヘーローの、反対側の世界へ投影された不完全な姿(まるで鏡の影みたく)、のようにも感じた。

風には表と裏があってな、雨の中を吹きぬけても風には乾いたままの部分がある。 それを風の裏側という。 「レアンドロス」 P.14

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小浜にて♪ 「リストランテA」

10月10日、土曜日。 晴れときどき曇り。 
 今日のお昼ご飯には、小浜市にあるイタリアンのお店まで足を伸ばしてみた。 お店には何日も前から予約をしていたので全く偶然なのだけれど、またまた小浜市がちょっと話題になっているみたいですな…。 ふふふ。  

 初めて利用した小浜線に、ゆられゆられて小一時間…。 いやはや、あんなに揺れる路線だったとはねー。 図書館で借りたばかりの本を読んでいたら、字が細かいのでかなり疲れてしまったよ。 でも、車窓からの長閑な眺めはなかなか良かったかな。 

 (食後の帰り道は、何もない海岸通りをぽくぽく歩く…)  

 お店までの往路は小浜駅からタクシーにしたのだけれど、運転手さんが、「あー、たぶんあそこだ。 わかったわかった」と、もぐもぐ言いながら連れて行ってくれたのは、予想に反してイタリアンのお店っぽくない外観の建物だったので、二人して束の間きょとん…としてしまった。 しかし、意表を突かれつつ扉の前に立つと、「本日は予約のお客さまで満席に…うんぬん」との貼り紙があり、俄かにぐんっと期待が高まるのであったよ。  

 はい、そこは「リストランテA」というお店でっす。 
 静かで落ち着いた雰囲気の店内は、テーブルの数も少なめに抑えられている。 そんなところも嬉しかったり。  
 お昼はランチコースのみのようなので、二種類のパスタをそれぞれ選んで、まずは私はビール。 だーさんはさっそく、赤ワイン。 好みを訊いていただきながら決めたのは、北イタリアのワイン。  
 重めが好きなだーさんにはやや軽かったみたいだが、割と渋みもある赤ワイン。 だーさん曰く、「料理の内容に合わせてくれたんだよ」。 むむ、私にはわからない…(確かに呑みやすかったけれど)。  

 葡萄のフォカッチャと、胡麻のパン。 お腹がペコペコだったので、すぐさまぱくつく。
 ふかふか。  

 前菜は、「サワラのカルパッチョ カボス風味のサラダ添え」。
 白身の魚が好きなので美味しくいただく。 むふー。    

 そしてパスタ♪  
 こちらがだーさんの、「和牛のトマト煮込みのパスタ」。
 パルミジャーノたぷーり具材もたぷーりで、見るからにこっくり。  

 私が頼んだのはこちら、「アコウと甘長とうがらしのパスタ」。 アコウって、こっちに越して来るまで聞いたことがなくって、食べてみたかったのー。
 彩りも良く、目にも美味しい♪ もちろんお味の方も、これはすっごく美味しかった。 魚の旨みがソースにもしっかり移っていて、流石は港町のお店。 アコウもまた食べてみたいなぁ。 

 ちょっとずつ味見をしてみたらお互いのパスタがあんまり美味しいので、残り少なくなった時にこっそりお皿ごと交換してしまった…。 だーさんの方のパスタは、トマトのソースにハーブの風味がよく合っていて、こっくりと美味しかった。  

 ドルチェはティラミス、…だけじゃなくって。
 

 私たちの呑みっぷり(?)を見こんでくださったのか、ご主人が出してきてくれたドルチェに合うお酒(うーん、何て言ってたかなぁ…)。
 そうそう、グラッパ。 
 これをちょっぴり啜ってからティラミスをいただくと、これがまた堪えられない味に…! 二人で大絶賛。 お会計時にそのことをご主人に伝えると、「本当に美味しいグラッパを知って頂きたくって…」とのこと。 おお、知りましたとも。  

 ご馳走さまでした♪
 

 お店の近くで催し物があったのでちょっとだけ冷やかして、駅までのんびりほろ酔い気分で歩く。 
 いっそ清々しいほど、何もない海岸通りだった…。 風だけが心地良く。 鼻歌は、Coccoちゃんの「強く儚い者たち」。 海を見るとあの大好きなメロディーが出てきてしまう、単純な連想ではある。 
 帰りの小浜線ではついついうたた寝、何でもないけれども穏やかで優しい一日だった。
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リチャード・パワーズ、『舞踏会へ向かう三人の農夫』

 私もまた、この写真に足を止めてしまった一人ではあるのか。
 『舞踏会へ向かう三人の農夫』、リチャード・パワーズを読みました。

 みっちりぎっしり何だか色々詰まっていたなぁ…というのが、素直な読後の一言だった。二十世紀というテーマの元、何処までも押し広がっていく思索についていくのは大変だったけれど、重厚な読み応えであった。

 ぬかるんだ畦道を行く正装姿の男が三人。先を歩く二人は若者と呼んで差支えないようだが、少し遅れて歩く一人は年齢不詳である。前者二人の様子はちょっと気取っているようにも見え、後者はもっさりした感じ。そんな一枚の写真の中に、可逆性を持たない時間が一瞬掬いあげられ、その結果、レンズの向う側で足を止めた彼らの目に見えていたもの全てが失われた今でさえ、その眼差しだけが永遠に刺し止められている…。
 偶然目にした一枚の写真の、そこに捉えられた何かが気になって仕方がない。まるでとり憑かれたように。そんな不可解な感覚に、何故かふと身に覚えがあるような気がした。…とは言え、三つの物語が並行して語られていくこの作品は、読みやすくはなかった。物語の繋がりが易々とは見えてこなかった所為かも知れない。

 三つの物語の共通点は、1914年にドイツの写真家によって撮られた写真の存在を据えていること。件の写真にとり憑かれた“私”の、外堀を埋めていくようで実はどんどん拡がっていく探求と思索。真相に近付く為の鍵を握っていた、思いがけない人物との交流。戦場と言う名の“舞踏会”へと向かわされていく三人の男たちの軌跡と末裔。そして、1984年のボストンで業界誌記者の仕事に携わるピーター・メイズが、パレードで見かけた謎の赤毛の女を追い求めることから思いがけない方向へと話が転がっていく物語。

 一枚の写真が幾重にも重なり、一枚ではなくなっていく過程に息を呑んだ。そしてその流れが様々な事柄を押し包みながらの濁流となり、二十世紀の俯瞰へと繋がっていく。

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今日は釜飯♪ 「釜蔵」 その2

10月4日、日曜日。 晴れ。 
 気持ちのいい季節になってきましたね。 出かけるのももちろんいいけれど、窓を開けて部屋で過ごしていてもなかなか快適です。 こんな時期は短いからこそ、この清々しさをちゃんと堪能しておかねば…。   

 少し汗ばみそうな陽気だった今日は、前にも行ったことのある鯖江市のお店で、秋の味覚をいただいてきましたよ。
 今秋初…。 

 お邪魔しましたのはこちら、「釜蔵」でっす♪
 このお店、駅から結構歩くんです…。 田んぼの多い長閑な道のりを、あまり急がずにおしゃべりしながらてくてくてく…と歩いていくと、20分くらいかかってしまいます。 
 …だから、ビールが美味しいんのですー。
 小さな中庭の見えるテーブル席にて。

 今回のお酒の肴は、私が選んだ「鶏の唐揚(竜田揚げ)」に、
 

 だーさんが選んだ「鯖の味噌煮」。 ……また鯖!
 だーさんは、ここぞとばかりに熱燗でした。

 さてさて、この辺でそろそろ釜飯を頼みます。 釜飯は、ちょいと時間がかかりますのでね…。 おかわりをしたグラスビールもなくなる頃に、お待ちかねの釜飯の登場♪

 こちら、だーさんの「山菜釜めし」。 これで釜飯のデフォなので見た目が少々地味でありますけれど、本人はかなり満足していたようです。


 そしてこちらは私の、「松茸釜めし」でっす。 るるるん♪
 蓋を取った瞬間、もわんと香りがたちますですよ。 思いっきり、吸い込んでしまいました。 くんくんくん…。
 そうして鼻で楽しんでから、おもむろにご飯をよそうのでありました。 秋の味覚、美味しかったですー。 むほっ。


 帰りの電車では、ついついうたた寝。 平穏な秋の一日なり。 
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近江牛♪ 「松喜屋」

10月3日、土曜日。 やや曇り。 
 今日は予てからの予定通り、滋賀の大津まで出かけてきました。 前日にチェックした時の天気予報では、雨の確率が結構高かったように覚えているのだけれど、雲が多めながらも少し青空ものぞけるお天気で、よかったです。

 食後は腹ごなしもかねて、紫式部ゆかりの石山寺まで足を伸ばしたのでした。 なかなか勾配のきつい坂を歩かないといけなかったりして、期待以上思惑以上の腹ごなしになりましたことよ。
 式部さんがここで源氏物語の構想を得た、とか、言い伝えがあるそうです。 紫式部展では、屏風や絵巻も見てきました。 紫式部御筆(!)の大般若経、とかね…。   

 大津までわざわざ出張ったそもそものお目当ては、「松喜屋」でいただくお昼ご飯です♪ 目の前でお肉を焼いてもらうスタイルの、カウンター席にて舌鼓を打ってまいった訳でした。 ぽぽぽん♪ 


 “ご優待パス”なるものを使わせてもらった限定コースなのですが。
 まずは、黒八寸。
 牛のたたきに、とろっとろのごま豆腐がかかっているのが美味しかったです。 添えられている茶色のキューブが、泡醤油。

 これは、冷しゃぶと焼き茄子。
 茗荷とポン酢のジュレで、さっぱりぺろり。

 温泉卵と牛肉のそうめん。
 牛肉を素麺に見立てているらしい…。 箸休めの小皿料理。

 これは、いさきの道明寺揚げ。 まわりがかりかりで、美味しかった~。
 お皿の色がとても素敵でした。 淡くて上品なピンク、こんなのが欲しいです…。

 この辺のタイミングでキノコと蟹のスープ、野菜サラダが出まして、いよいよステーキです。 だーさんはヒレをミディアムで、私はロースをレアで頼みました。 重いかも知れないとわかっていても、ついついロースを選んでしまう私…。

 先に付け合わせの野菜等が焼かれて、お皿に盛られます。 それからお肉~♪
 ここにモヤシが加わって、出来上がり。
 手前にあるのが、ステーキソースと泡塩に、山わさびです。 泡塩というのは、塩に昆布のだしを足してゼラチンでふんわり仕上げたものでした。 泡塩にガーリックチップを添えていただくのが、私のお気に入りでしたよ。 山わさびにはホースラディッシュが使われていたようで、風味良くさっぱりと美味でした。

 こちら、だーさんのお皿です。
   

 こんな状況では、言葉もなくなりますな…。 むほほ。
 泡塩のせて…、ぱくん♪ 
 赤くて四角いのは、滋賀県特産の赤こんにゃくでした(見ただけではわかりませんでしたよ)。

 実はかなり!お腹が空いていたのでしたけれど、ここまで来ると流石に満腹感がきざしてきます。 でも、ご飯ものも残しませんよ~。
 ご飯ものと言っても牛のにぎりが二貫だけですから、大丈夫なのだ。  とろけるだけですから。 …説明によるとトモサンカクらしい。

 コース最後のアイスティーとデザートまで、しっかり残さずいただきました♪  美味しかったにゃあ…。  

 これだけのお昼ご飯を食べた後だけに、石山寺までの道のりも歩き甲斐がありましたよ。 境内に入ってからも、坂と石の階段ばかりですし(普通に“階段”と言うより、“きざはし”と言いたくなります)。
 わたし:「(ひいふう…)どうしてこんなに岩が多いんだろう…?」、だーさん:「石山寺だから」。 …原因と結果があべこべですが。 今日はこれにて、ちゃんちゃん。 
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