清水博子さん、『ドゥードゥル』

 『ドゥードゥル』、清水博子を読みました。

 “ややもすれば躰の竅にはなにかが抜き取られた感覚が残ったが、ミワコに毛抜きで産毛を抜かれたわけではないのだから、抜かれたのであればそのまえに差し込まれるか生やすかしなければならないはずなのに、どちらも身に憶えがない。出し抜かれるとはまさにこのことだと語感ばかり冴えた。” 140頁

 清水さんの作品も、これで5冊目。好きだなぁ…と改めて思った。
 読み手の神経をざわりざわりと逆撫でするのが、憎いほどに巧妙だと思う。不快感すれすれのところを突かれる面白さがあって、はまると抜け出せなくなる。大した事は起こらないのに出所のはっきりしない不穏さが漂うのが、気になって気になって堪らない。それから何と言っても、独特な文章が好きだ。ひどく感覚的かと思えば妙にロジックに拘っているところもあって、それを読んでいる自分もそれで作者の企みに巻き込まれるみたい…だ。長い文章がうねうねと続いて。

 表題作の「ドゥードゥル」と「空言」が収められているのですが、どちらの作品を読んでも主人公たちが行き詰っていく様子に目を覆いたくなりました。「空言」に出てくる専業主婦縫子の生活の無為さたるや、それだけでゾッとしてくるものがあります。出口がないよぅ…って、堂々巡りのもたらす閉塞感で、息が詰まりそうになりながら読んでいました。

 「ドゥードゥル」は、大学の創作科を出た主人公が、知人の結婚式で再会したミワコから強引に身の上話を聞かされ、それを小説として書くことを依頼される話。まず、関西弁を操るミワコの不気味さには度肝を抜かれます。 
 この「ドゥードゥル」は、“一九三〇年代に流行した、小説の書けない小説家を主人公にしたメタ小説のパロディーになっている”ということらしいです。なるほどね。さらにこんな言葉もありました。“書くことをめぐる主体の分裂と虚実の境界が連続的に溶解していく過程が、サスペンスをうみだしている”、なるほど…。
 (2007.8.30)

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竹内真さん、『図書館の水脈』

 竹内さんの作品は3冊目。『海辺のカフカ』のトリビュート。
 『図書館の水脈』、竹内真を読みました。

 ごくごく飲み干したくなる清涼な物語で、とても好きでした。短めな作品ですが、胸のすくような読み心地でした。
 ナズナとワタルのストーリーと、どうやらあまり売れてはいないらしい作家甲町岳人のストーリーとが、全く別々の場所から始まります。でも彼らの間には『海辺のカフカ』という小説の存在がありまして…。この二つの筋はどこで交差するのか、どうやってつながるのか…と、わくわくしながら読みました。
 『海辺のカフカ』を読んでいないと、ぴんと来ないであろう箇所も幾つかあります。でも、内容的にはそれほど『海辺のカフカ』に引っ張られている印象はありませんでした。二つの作品の魅力は全然違うところにある…という印象です。

 私にとって『海辺のカフカ』は、暗黒面を持つ作品でした。一方こちらの作品には、そんな気配は微塵もありません。この作品だけに限らず、あくまでも光の方を向いた性善説のような健やかさが、竹内さんの作風なのかな~と改めて感じました。深みがないと言う意味ではなく。 
 現実には、誰かの人格を否定したり損ねたりしかねないような、それを受ける当人にとっては理不尽でしかない酷い悪意があることを、きっと誰もが知っている。だからこそ、あえて光の方を向いた人々の善意や健やかさの中の逞しさを描くことは、それは一つの意志であり、勇気でもあるような気がします。それは例えば、井戸の中にさえ咲いていた小さな白い花のように、儚げに見えても確かな強い光で、私のまなうらに眩しさの残像を残してくれました。
 もう一つの『海辺のカフカ』は、そんなことを思わせてくれる新しいもう一つの物語だったのでした。

 登場人物たちがとても気持ちの良い人たちばかりで、読んでいる間はとても楽しかったです。ナズナとワタルのカップルぶりは爽やかですし、甲町さんもいいのですわ、力の抜けた感じが。で…、ワタルって実は、竹内さんの他の作品にも出てくるワタルなのですね。
 (2007.8.29)

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小川洋子さん、『博士の本棚』

 『博士の本棚』、小川洋子を読みました。

 “人が自分の生きている世界と何かしらの絆を結ぼうとした時、必ずしも感情をぶつけ合って妥協点を探したり、人格をさらけ出して互いのすべてを分かり合おうとしたりする必要はないのかもしれない。例えば、たった一冊の本、一つの歌、一枚の絵、一個の星、そういうものの前で心を震わせる瞬間にも、強い絆は築かれている。” 302頁

 初出も多岐に渡り長さもまちまちなエッセイ集ですが、「1図書室の本棚」「2博士の本棚」「3ちょっと散歩へ」「4書斎の本棚」と、4つの章に振り分けられています。古いものでは10年以上も前に書かれたものもあり、ファンには嬉しい内容です。書くことへの真摯な思いと、読むことの喜びがぎっしり詰まっています。 

 アンネ・フランクのことや、武田百合子さんの『富士日記』に思い馳せている文章も素敵ですし、普段着の小川さんの日常の楽しさが伝わってくるエッセイもよかったです。小川さんのエッセイを読んでいていつも思うのだけれど、何事に対してもとても謙虚な姿が本当に美しい人です。

 面白そうな本の情報にはすぐに飛びつくくせに、あんまり沢山の人たちが褒めちぎる本には関心が失せるへそ曲がりですが、ここで紹介されている作品の幾つかは、読んでみなくては…と思いました。既読の作品が取り上げられていても、何だか読み返したくなりましたしね。

 さて、ところで。
 ごく個人的な事情で、読んでいて思わず「きゃ~!」と叫びたくなったのは、「風の歌を聴く公園」です。村上春樹の『風の歌を聴け』に出てくる猿のいる公園として、打出公園のことが出てくるのです。やっぱりそうだったのね! 引っ越してきたばかりの頃に色々調べていたら、“打出公園は村上春樹の小説にも出てくる”という情報にぶつかったのです。う~ん、『風の歌を聴け』でしたか。 
 ちなみにうちから歩いて5分以内の場所にあって、今は猿はいません。いつも啼き声が「けおーぅけおーっ!」、と凄まじく騒々しい孔雀がいるばかりです。小川さんちからは歩いて10分くらいで、愛犬を連れてお猿さんを探しにいらしたそうな。

 で…。
 『ミーナの行進』に出てくる図書館(今は分室)のすぐ近くの公園です。
 (2007.8.28)

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小池昌代さん、『裁縫師』

 『裁縫師』、小池昌代を読みました。

 収められているのは、「裁縫師」「女神」「空港」「左腕」「野ばら」の5篇。
 やはり特筆すべきは、何はさて置き表題作の「裁縫師」でしょうか。“九歳の女も感じるということを、人は知っているだろうか”と、帯の裏表紙側に抜粋されています。

 疾うに老いた主人公が、いつまでも忘れられない“九歳の、春から夏にかけての日々”を回想する。九歳の少女がいっぱしの情事なんてありえない…と言いたいところですが、じゃあ性欲そのものを否定するかと訊かれるとそれは出来ないので、何だか後ろめたい気持ちでどきどきしながら読みました。描かれている何もかもが、どうしても美しく感じられてならないことに自分で驚きながら。
 きれいになりたい…と九歳の女の子がつよく思う箇所で、胸が痛くなりました。その真摯な憧れが、いたいけで眩しいようで。所謂お年頃になった女の“きれいになりたい”には、既に不純物が沢山入り込んでいて、九歳の少女のような稚けなく透き通った憧れなど影も形も残ってはいない。じゃあ失ったものは何だったのかしらね…なんて、思い馳せてはみるけれど。

 “あのひと”は、必ずや裁縫師でなければならなかったでしょう。まず、その設定が素晴らしい。裁縫師は、女の体を採寸する。採寸されることによって、女はきっと裸にされてしまう。鋭い眼に晒されクルリと剥きだしにされた女が、自分がもっとも美しく見える衣装を与えられ、それを身にまとうことが出来るかどうかも、裁縫師の腕と胸先三寸かと思えば、その前に立たされた女とは何と心許ない存在でしょうか。その期待と怖れで、身も心もふるえてしまうかもしれません。 
 なんと純然たる、受け身の存在。もしかしたら少女は、九歳の少女だけに可能な繊細さで、誰よりもそのことを感じていたのかもしれません。仮縫のピンにさえ貫かれてしまうほどに。

 服の持つ意味は大きい…と、私はよく思います。悲喜こもごもな思い出と、服にまつわる記憶が重なりやすいから。主人公が裁縫師にあつらえてもらった3着についての後日談は、何だかほろ切なくって沁みてくるようでした。 

 他の4篇もそれぞれによかったです。私が特に好きだったのは「左腕」と「野ばら」。 
 「左腕」は、ラストで頬を張られたような具合でしたし、「野ばら」は、少女の獰猛な煌きと魂の自由さ加減にただ呆気にとられ、魅了されました。
 (2007.8.27)

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服部まゆみさん、『シメール』 再読

 服部まゆみさん。16日にお亡くなりになったそうです。知ったのは4日前です。くだくだしく言うまでもなく、とても哀しいです。
 『シメール』、服部まゆみを読みました。

 数年振りとなので細部は殆ど覚えていなかったですが、ヴェールの向こうの朧な記憶の糸が少しずつ解けてくるような按配でした。
 繰り返され繰り広げられる幾つかのイメージが、とても美しい。シメールとは、幻獣のこと。それはギリシア神話に出てくる、霊的な存在で、獅子の頭に山羊の体、竜の尾。あるいはライオン、鷲、山羊の三重身とも描かれる、別名はキマイラ。そしてまた霊的な存在であることから、「妄想」「空想」「幻想」という意味をも持つ。評論家の片桐がこだわり執着していたのは、こちらの意のシメールです。シメールとは彼にとって、花のような香りを纏う桜の精霊のような少年のことだから…。

 作中、ナボコフの「ロリータ」やトーマス・マンの「ヴェニスに死す」が引き合いに出されたりしていますが、私の印象では和製「ヴェニスに死す」といったところでしょうか? 十四歳の少年は、自分の美しさには無自覚で無頓着で、勝手に翻弄されているのは美に惑溺した中年の男。少年の美しさしか目に入らず、実像よりも虚像を愛したばかりに、幻だけを愛したばかりに、いつかはその少年も腕をすり抜けていくだけだ。でも、誰に責められるだろう? 誰に嘲られるだろう? 彼の、一途な美への惑溺を。
 ちなみに、「ヴェニスに死す」におけるアシェンバッハであるところの片桐は、ユイスマンスの「さかしま」を訳していたりします。そういう細部に渋澤龍彦への傾倒ぶりがうかがえて、ついニンマリしてしまいます。  

 美しいものとそうでないものを、容赦なく残酷に描き分けていく服部さんの筆は、この作品でも大いにふるわれています。少年の両親は凡庸な俗物に描かれ、そして少年と片桐は、彼らとは相容れない別世界の住人です。でも、そのことが見えていたのは片桐だけで、少年にはやっぱり両親は大切な存在…。  
 何かから目をそむけるようにしてすれ違い続けた、彼らが行き着く物語の終焉。片桐と少年、少年と母親、母親と片桐。向かい合っていたはずなのに、何も映さないその眸――。誰もいない虚空を見つめて、各々の望む物語を紡いでいただけだったかのよう。
 (2007.8.25)

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奥泉光さん、「『吾輩は猫である』殺人事件」

 「『吾輩は猫である』殺人事件」、奥泉光を読みました。

 この作品、ご存知『吾輩は猫である』の続編という設定になっています。ですから主人公も、猫の“吾輩” …“名前はまだない”。 …え。実は、“吾輩”は一旦は溺れかけたけれどもちゃんと生きていたのです。そして何故だか上海へと連れ去られることになってしまった…という場面から、この物語は語られるのでした。

 いや~、面白かったです。美味しさ満載です。
 そうね、例えば。上海の社交界で“吾輩”が得た知友の猫たちは、錚々たる面々なのですが、英国猫のホームズとワトソンの登場には笑ってしまいました。このコンビ、どうしてこんなに滑稽になるのかしら? ワトソンの太鼓持ぶりがとことん涙ぐましいのです。
 で、その社交界での“吾輩”の姿を眺めていると、「う~ん、“吾輩”ってこんな猫でしたっけ…?」という気分にもなってくるし、後半の活躍ぶりには本当に瞠目しました。人間観察が趣味な点では相変わらずの批評眼を発揮させますが、仲間たちに囲まれて、しかも何だか活発。

 あと、「夢十夜」が絡んでくるあたりが、いいのだわ~(読み返したくなるなる)。迷亭さんや寒月さんも出てきますし。猫さんたちの推理合戦が始まった時点では、こんな調子でいくんですか…といささか心配したのですが、ところがぎっちょんちょん。なんと苦沙弥先生の事件は端緒に過ぎず、上海にいる“吾輩”たちにとっても対岸の殺人ではなかったのですよ。あやうし吾輩!
 引っかき回したらぼわ~んとふくらむ綿菓子みたように、話がどんどん大きくなっていき、色んな伏線やら謎を引っさげていく仕掛けが見事です。で、ラストが…。くう、そうきますか!
 (2007.8.24)

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エイモス・チュツオーラ、『やし酒飲み』

 『やし酒飲み』、エイモス・チュツオーラを読みました。

 “わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなもので安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。” 6頁

 アフリカ文学は初めて読みました。すっごく面白かったです。大胆で直截な驚きに満ち満ちていて、とても新鮮でした。神々さえも地続きに住まう、アフリカの神話的世界。神話と民話とが、ない交ぜになっているのかも知れません。 

 ナイジェリア出身のこの作家は、母語ではないカタコトの英語で作品を書いているそうですが、この作品の奇妙な魅力はとてもユーモラスに伝わってきます。読みやすいですし、ふっととぼけた味わいが滲んでくる辺りも好きです。先日読んだ多和田葉子さんの『カタコトのうわごと』でも、90年代を代表する文学として“外国語文学”であるこの作品が、面白そうに紹介されていました。

 解説によると、この作品で描かれているのは「森林(ブッシュ)の恐怖(フィアー)」である。そう言われてみれば、最初の冒険からして死神絡みですし、その後も主人公とその妻にどしどし襲いかかって来るのは、筆舌に尽くし難い恐怖の連続です。でも私にはどうしても、全体的に作品を包む語り口には、とても大らかな感受性があらわれているように思われてなりませんでした。 
 死の捉え方一つをとっても、ひたすら森林を歩いていけば死者の町にたどり着ける…という設定には、日本古来の死をケガレとして捉える「死」観とは違う、大らかで平らかなアフリカ人のそれを垣間見たような気がして、興味深く感じたのでした。
 (2007.8.21)

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津原泰水さん、『少年トレチア』

 しばらく積んでいた一冊。津原さんは、3作目。
 『少年トレチア』、津原泰水を読みました。

 物語の舞台は、郊外の新興団地「緋沼サテライト」。住宅地区計画に基づいてショッピングモールや公園も造成され、整備の行き届いた街です。そしてそこでは、10年も前から子供たちの間で囁き継がれてきた、“トレチアからきた少年”という、他愛もないようで実は恐るべき意味を持つ、都市伝説がありました。
 幻想小説のようでもありつつ、集団ヒステリーに浮かされていく子供たちの姿から感じる印象はサイコホラーでした。

 昔から学校には怪談が付き物だったことを思い出すと、この“トレチアの少年”という得体の知れない伝説が、一部の子供たちには熱狂的に迎え入れられている様子は興味深くありました。 
 学校とサテライトという、二重に閉塞された世界の中だけで生きている彼らだからこそ、一番敏感にその土地の持つ負の力に感応して、残虐な行為に駆り立てられていたのかもしれません。書割のような街の、まやかしの中で…。或いは、子供のことを無垢で心優しい存在としてしか考えたくない大人には、耐えられない話かもしれません。それこそ身勝手な幻想だとは思うけれど…。

 彼らの物語と並行して、10年前には「狩る」側だった元少年たちや、漫画家の蠣崎や過食症の七世の話が交互に語られていきます。いつの間にか不気味にしのびよる、滅びの予感。彼らの物語が収斂されていく一点に待ち受けてるのはいったい何なのか…。
 漫画家の蠣崎が興味を持った、曼荼羅に必ず描かれているという幻獣摩伽羅についての記述の箇所などは、幻想小説を読んでいる手応えがあって楽しめました。その摩伽羅の存在がストーリーに絡んでくる辺りから、物語の流れが大きくうねるように変わって俄然面白くなった気がします。エピローグも、ぐっときます。
 (2007.8.20)

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佐藤哲也さん、『異国伝』

 『異国伝』、佐藤哲也を読みました。

 “その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国の人々はいささか奇怪な習慣に染まっていたとされているが、それがいかなる習慣だったかは知られていない。” 77頁

 すっごく面白かったです。先ず、ぱらりと捲ったときの目次の内容にも惹かれて、それがまた「あ」~「ん」の順に並んでいるのを見て異様に期待が高まったのでした。
 45の扉を順番に開いて、45の驚異の歴史や民族性が繰り広げられるのを見る。少しずつの珍味…みたいな按配で勿体無いような気もしないではない。でも、どの国にも深入りしないでどんどん通り過ぎていく話者の視点の枯れ具合と、何の思い入れも感じさせない語り口とが、逆に魅力でもあります。澱みなく惜し気なく。

 それにしても45の国です。短いものではたったの2ページだったりします。例えばあ行はこんな具合です。「愛情の代価」「威光の小道」「鬱々の日々」「海老の虐殺」「王子の問題」。とても気を惹くタイトルが並んでいます。
 そして例外なく、小さな国しか出てこないのでした。
 (2007.8.16)

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長野まゆみさん、『ユーモレスク』

 『ユーモレスク』、長野まゆみを読みました。

 やっぱり長野ワールド、大好き…。いつも水の気配に包まれているみたいな、しっとりと静謐で言葉が美しく滲んでいるような雰囲気が好きです。ふとした言葉の選び方とか、独自の世界がありますね。
 実はこの作品、装幀がとても綺麗なので気になりつつも、所謂BLか…?と躊躇していた時期がありました。で、忘れた頃にこの文庫本を見て、即買いです。BL色は淡い方かと思います。切なくて美しくて儚げで、とてもよかったです。

 語り手でもある主人公は女性です。ひと頃の長野作品では少年の姿ばかりが鮮やかに魅力的でしたが、この女性周子は私は好きです。いつも静かに受け身なようで、女性的な揺らぎを秘めている。落ち着いた物腰と謙虚さをまとい、真っ直ぐで奥ゆかしい眼差しの持ち主を思い浮かべていました。

 デパートでの場面も多いので、デパートに勤める人の立場から見えるちょっとした細部も、興味深かったです。例えばネクタイをすすめる時の手順とか、お客のレインコートの着こなしを観察する社員の目とか。
 細部に読み応えがあったのは、書き下ろし短篇の「アラクネ」もそうです。ここにもデパートで働く女性が描かれていて、短い話ですが好きでした。

 行方不明という曖昧な理由で弟を失った主人公とその家族は、永遠に成長が止まった少年の形をした喪失感を、手付かずのままにしていました。いつか戻るのでは…と、望み薄い思いを抱えて残された時間を過していました。物語が再び、動き出すまでは。
 人は、忘れることに癒やされながら生きている。それでもどうしても忘れられない幻を抱えて、時間を止めてしまうこともある。こんな作品を読むと、いつか大切な誰かを失う日を思って胸が痛みます。けれども静かな哀悼は、心地よくもありました。なぜだろう。人を思う気持ちの、最終的な姿だからでしょうか…。
 (2007.8.10)

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