尼崎の洋食やさん、など

12月30日、日曜日。晴れ。 
 今日は雪になるかもしれないと聞いていたのに、朝を迎えてみたら晴れていた。空がつき抜けて青く、かえって寒そうに見えたほど。  
 年の瀬も押し迫ってきた今日だけれど、いつものような日曜日を過ごす。生協スーパーの混み具合と、ものを買う人々の熱気には見蕩れてしまった。パワフル…。    

 昨夜だーさんが珍しく、有名な洋食やさんの名前を挙げていたのを思い出して、本日のランチは何となくそこへ行ってみることに決まる。尼崎にある、割と老舗。実際に行ってみると、すごく下町情緒あふれる界隈にあるのだけれど。しかもですね、店の入り口で男の人が本格的に掃除をしていたりしてちょっと吃驚した(明らかに大掃除だった)。  
 店内に入って、少ないカウンター席に戸惑っていると、「二階へどうぞ~」と声がかかったので二階へあがる。と、ここもどうやら掃除中…。や、別に良いけどさ。それにしても全体的に、昭和色濃厚な店内であった。

 情報誌に載っていた“イタリアン”が印象的だったので、さくっとそれをオーダー。だーさんも同じく。“イタリアン”というのはつまり、ナポリタンスパゲッティのことらしい。  

 先ずスープが出たので、少し外を歩いただけで体の冷えてしまった私は嬉しく頂く。
 パスタを待っていたら他のお客さんも入ってきて、さくさくとヴォリュームのあるセットを頼んでいるのでしばし感心する。有頭海老のフライとハンバーグとロースハムとサラダとスープとライス?さらにビールですって? やっぱり洋食って、基本的にがっつり系なのかしら?  

 …などと考えていると、あっつあつの“イタリアン”登場。
 鉄板の上で、じゅーじゅー音を立てているところ。  

 しまった、このヴォリューム…。“イタリアン”でも充分にがっつりだ…。  
 少し卵をパスタで埋めて、山崩しの要領で周りから攻めていくのでありました。お腹が苦しくなったよ私。  

 ところでこの“ナポリタンon鉄板”って、名古屋出身の私にはとても懐かしい昔ながらの喫茶店スタイルなのだけれど、この辺では珍しいのかしら? 名古屋の喫茶店と明らかに違うのは、このヴォリューム。そして、卵が上に乗っているところ。名古屋の場合は、溶き卵を下に敷くのである。 
 で、肝心のお味の方は…。うむむ、可もなく不可もなく普通においし…かった。ちょっと期待が大き過ぎたかもしれないし、これが昔ながらの味なのかも知れないと思いつつ、ちょっと…味が単調だった。  

 そう言えば私は子供の頃、ミートソーススパゲッティに比べるとナポリタンは好きじゃなかった。多分それは、学校の給食のナポリタンが冷めると不味かったのと、玉ねぎが生っぽいのがイヤだった所為である。母が作るスパゲッティも、ミートソースの方が断然美味しかったし。  


 そして実は昨日も洋食を頂いた。二度目の「インデアンカレー」でハヤシライスを頼んでみたら、ケチャップの味しかしないので度肝を抜かれた。   
 粘度と甘味が凄いのだもの、参ってしまう。もしや、お子ちゃま用のメニューだったかも…? とほっ。  


 さて、年末気分が全然盛り上がっていない我が家だけれど、私は昨日から年越し用の物語を読み始めたところ。全四巻の古い作品で、先日ブックオフで見付けたときに狂喜してしまったのである。うっふっふ…。懐かしさを噛みしめつつ、ちびちびと読んでいくとします。
 明日も書くかも知れないけれども、書けないかも知れないので、皆さま、良いお年を~♪

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エイミー・ベンダー、『燃えるスカートの少女』

 一日中続く雨降り。すっぽりと降りこめられる。
 こんなにも雨の気配に包まれた時間を過ごしていると、ふと子供の頃にした“漂流ごっこ”を思い出します。本当の漂流者の気持ちはわかりようもないけれど、雨の気配にぐるりと取り巻かれているときに、世界の片隅にある淵を漂流している空想に耽るのが子供の頃から好きでした。ああ、雨…。 

 これはとても好きな短篇集でした。子供の頃のこととか家族のこととか、とりとめもなく思い出されてしまいました。
 『燃えるスカートの少女』、エイミー・ベンダーを読みました。


 収められているのは、「思い出す人」「私の名前を呼んで」「溝への忘れもの」「ボウル」「マジパン」「どうかおしずかに」「皮なしフーガ」「酔っ払いのミミ」「この娘をやっちゃえ」「癒す人」「無くした人」「遺産」「ポーランド語で夢見る」「指輪」「燃えるスカートの少女」、です。
 特に短いものはほんの数ページの小品です。かく言う私は、短篇集であることすら知らずに手に取っていました。もともとタイトルに惹かれていたのですが、このたびの文庫の装丁が単行本のそれよりも私好みでしたので、それもちょっぴり嬉しかったりして。

 最初に収められている「思い出す人」は、恋人が人間から逆進化していく話。何とも言えないさみしさに満ちた小品で、私はとても好きでした。何となく、主人公のアニーのイメージが表紙の少女とかぶります。

 他に好きだった「マジパン」は、十歳の女の子の父親のお腹に、サッカーボール大の穴があいてしまった!という場面から始まる、相当に奇妙で不可解な話です。なんだろう…?なんて言うか…。そもそも私は、家族って本当は色んな矛盾や葛藤を抱えているのに、それでも繋がり続けていようとする意思が強力に働いていたりするところが、何とも不可解な絆だと感じているので、この作品の持つ不可思議さには惹かれずにいられなかったです。
 少女たちの両親である一組の夫婦に、さらにその父親や母親の存在が絡んでくるところが面白かったです。少女たちの祖父や祖母が話に入ってくると、その真ん中にいる夫婦は親でもあり子どもでもある訳で、親子関係ってそうやって繰り返されていくんだなぁ…と。自分の親から愛されたり傷付けられたりしたように、自分の子どもを愛したり傷付けたりして、そうやってあの不可解な絆を強めていくものなのかなぁ…と。 
 そしてときどき、その絆に綻びが生じると、強引に辻褄を合わせようとしていた皺寄せが噴き出すのかも? 誰かのお腹に穴があくとかして。

 どれを挙げても好きな作品ばかりですが、「癒す人」も凄くよかったです。まず設定が飛び切りの奇抜さで、それでいて描かれていることは不思議とわかりやすい。突然変異の女の子が町に二人いて、一人は火の手を持ち、もう一人は氷の手を持っていた…という話です。これはラストが素晴らしかったです。かなしいようで、やさしいラストです。特に最後の一文…(ううっ)。

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古川日出男さん、『ゴッドスター』

 今日は自転車で市役所へ行ったり、今年最後の開館日なので図書館へ。夕闇が落ちてくる気配だけで、早く家に帰りたい気分になるのは何故なんだろう…?

 前作『ハル、ハル、ハル』の記事の中で、古川作品は街中で読みたいと書きました。街の雑踏が似合いそうだから…と。だからこの本も持ち歩いて、なるたけ出先で読みたかったのだけれど、結局は家の中で読み終えてしまいました。 
 でも正直言うとちょっと、そもそもそこまでする思い入れが薄れてきたかもしれない…。とか言いつつ、読んでしまえばやはり面白いのが古川作品、ではありますが。

 『ゴッドスター』、古川日出男を読みました。
 

 滑り出しも快調に、ざっくざっくと読みました。私の好きなライヴ感は相変わらずですし、とにかく言葉と文たちのリズムに乗ってしまえば、ぐんぐんストーリーも流れ動き出す。文字を追うのが気持ち良い、そんな感じでした。  
 まず、主人公“あたし”が語り出すのは、三十五歳の姉がお腹の中の赤ん坊とともに死んでしまったこと。だからず~っと、“死についてかんがえていた”こと。でもある日“あたし”は、“窓の外にふいにうまれた”みたいな男の子に遭遇する。記憶のない子どもを街中で見つけ出し、そのまま二人で暮らし始めてしまう。そして――。

 記憶のない子どもが文字を教えられ、あらためて自分の中に吸収していくところとか、読んでいてすごく面白かったです。余計なことは何も考えずに楽しんでいましたけれど、例えば“文字”についての捉え方とかも、ちょっと独特なので。 
 あと、新たな人物・明治が絡んでくるくだりでは、それまで二人だけだった閉じた世界が、ぐにゃりと押し広げられていくようなスケール感があってそこも好きでした。まるで二人の限定された“エリア”に風穴が出来て、そこから別の次元の風が吹き込まれてくるみたいで、うん、そういうところが古川ワールドだなぁ…と。流石、読ませるなぁ、と。

 けれどもすみませぬ。話が後半に入って、ふっと我に返って自分の中のテンションが下がってしまったときに、「でも、こういう文体はそろそろお腹いっぱいだ…」と思ったというのも正直な気持ちです。朗読したら格好良いってのは、よくわかりますけれどね。グルーヴに身をまかせる気持ち良さだって、味わいましたしね。
 これはもしかしたら、たまたま最近私が古い小説を続けて読んでいて、じっくりと読ませる文章の方に自分のチャンネルが合っていた所為かも知れません。でもいずれにしても、斬新さの印象は長くは続かないものだと思うのですが、いかがなものでしょう…。ううむ。

 昔みたいな作品も読みたいなぁ…(ぼそそ)。

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佐々木丸美さん、『沙霧秘話』

 ふむ、古い小説が続いている。 
 今年復刊が続いた佐々木丸美さんですが、文庫で刊行されたのは“館”三部作のみ。タイトルだけでなんとなく「読んでみたいなぁ」と思っていたこの作品は、なかなか出てこないので古本で入手しました。佐々木作品は4冊目となります。

 『沙霧秘話』、佐々木丸美を読みました。
 

〔 山奥の旧家にひっそりと生きる沙霧。母親はある日、忽然と姿を消したという。一方、漁村の網元の家で働く自然児の沙霧。村に流れついた母親は10年前に世を去った。少女たちの心に恋が芽生えたとき、出生の秘密は明かされ、信じがたい運命が2人を結びつける。北国の自然を背景に、秘められた宿命の絆と幼い恋の行くえを綴る哀切の長編ロマン。 〕

 独特な作風だなぁ…と、何度読んでも感じ入ってしまいます。この作家さんにしか書けない世界がそこにあって、決して褪せることなく孤高に耀いている。不安定な瑕をそのままに残して…いや、その瑕こそが魅力か。
 あぶくのように湧き上がる言葉たちを、そのまま書きとめているだけのような地の文章は、まるで自動手記みたいです。こんなに体言止めを使いまくっていて、それでも可憐な優雅さを失くさないのは、やはり品格でしょうか。
 そしてストーリーは、「生き別れの双子ものか?」と思わせておいて実は…というところが流石です。 

 語り手となる登場人物は二人、その一人は、旧家のお嬢さん・沙霧の世話役になった二十五歳の看護婦。そしてもう一人は、小さな海辺の村で網元を頼って暮らすお転婆な少女・沙霧。二人の沙霧をつなぐ運命とは…?
 短い作品ですが、佐々木ワールドのエッセンスが詰まっているのではないでしょうか? とても美しい幻想譚です。 

 北国の自然の描写が、とても印象的でした。命の秘密を知ろしめす海の気配が、物語を読み進むとともに作品全体に満ちてきて、ラストのほろ哀しさを包み込んでいるようでした。

〔 海は騒ぎ心も騒ぎ二人の青春の幕開けとなる。何があろうと沙霧は沙霧、愛はひとつ。まだ見えぬ明日を手さぐりすれば波の音は詩う。とぎれとぎれの子守唄にあわせながら。遠い昔の緑の牢獄、遥かな里よ隠れ里よ、あなたの血はここに生き、その悲願は息づいています。 〕 69頁

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麺喰いの日々 その8 (山本や、とまと座 その2…)

12月23日、日曜日。曇り。
 今日はイブイブですかい。ほ~。 
 もう連休の中日ですが、折角の画像があるので遡らせていただきます。

 先ずはこちら、先週の名古屋めし。
 昔からある名古屋名物と言えばやっぱり、味噌煮込み♪ 私は味噌カツは大人になるまで頂いたことがなかったけれど、味噌煮込みうどんは普通に実家で食べておりました。
 ←たぎってます。
 このお店の蓋は孔なしだから、ずらした状態で運ばれてきます。 

 地元では誰でも知っている老舗に入りました。特にここは新幹線乗り場から近いので、旅行者も沢山いらしています。流石に老舗だけあって強気な価格設定です。移動する時間さえあればもっと美味しくて良心的なお店を私たちは知っているのだけれど。

 ぱかっと開ければ、甘~いお味噌の香が鼻をくすぐり。
 私が頼んだのは、“牡蠣入り味噌煮込うどん”。
 

 最初は熱々なので、このように蓋を取り皿使いします。
 牡蠣はだいたい8センチほどなのが6つも入っているので、大変満足でした。麺はもちろんごわごわですが、総本家の方がもっとごわごわだったような…?
 お店はとても繁盛しているようでした。「よござんすな」。

 
 そして昨日のお昼ご飯、雨の中を車で向かいましたのは元町でっす。前回とても気に入ったお店、「とまと座」を再訪しました。るるん♪ 1時半を過ぎやや遅めの私たち、こじんまりとしたお店ですがテーブル席は空いていました。

 クリスマスなんて私たちには関係ないと思っていたけれど、ちゃんとクリスマスメニューになっていたのですね(後で気が付いた)。
 ←いつもよりも豪華めっぽいです。
 「今度来たら是非とまと系を!」と思っていたので、そのようにオーダーしました。だーさんは、「チーズがなぁ…」とお悩みでしたが、結局チーズの入ったパスタをチョイス。
 淡白なパンなのにしっかり風味はあって、ミルクジャムも美味しいです。

 はい、こちらはだーさんの“若鶏とたっぷり野菜とモッツァレラチーズのトマトソース”でっす。は私もこれにしようかと迷ったのよ。
 惜しみもなく、具がごろごろ。

 そしてこちらが私の、“海老とホタテ貝柱とスモークサーモンのトマトクリームソース”。
 こちらも惜しみなく、具はごろごろ。

 やっぱり美味しいなぁ…と、しばし言葉をなくしてパスタに没頭。窓の外は雨降り。

 
 「今どきのパスタ皿って冷めにくいんだなぁ」と感心しながら、もぎゅもぎゅ。  私の頂いたパスタは、色も綺麗でした。やさしい色使いになっています。
 堪能し尽くした一皿でしたよ♪ ごちそうさまでした。

 さてさてそして今日は、だーさんが梅田に用事があったので、梅田でランチでした。
 梅田に行くといつも、お店がよくわからなくてさんざん迷うのですが、今日はさくっと二度目の店へ。
 「ハービスPLAZAエント」の5階、「オリエンタル・タイレストラン SANOCK(サヌック)」というお店にしました。悩んだときのビュッフェ頼み。後で気が付いたら年末企画でお安くなっていました(まあ、内容もそれなりに…むにゃ)。

 今回はビールの写真がないけれど、もちろん呑んでいます。厨房の見えるカウンター席は、二人掛けのソファがゆったりと取り囲んでくれるので寛げました。実はちょうど、「そろそろエスニック系が食びたい!」と思っていたところでした。

 本日の麺料理は手前の、“牛肉とタイきし麺のスパイシー炒め”。 
 タイきし麺って…(ちょっと笑える)。
 お気に入りのソムタムとか、“ローストビーフのスパイシーサラダ”、“魔法の海老の香草炒め”など(なぜ魔法?)。
 
 こちらは、“豚バラとホウレン草のレッドカレー”と“合鴨のマッサマン炒め”です。 
 カレーがね、かなり辛いのと同じくらい甘くて! 私は辛いのは平気ですが、甘すぎるのはちょっと…脳天に刺激が来ますね。タイカレーってこんなに甘かったかしら?
 全て食べ終わる頃には、辛さで口中がいささか麻痺していましたけれど、デザート類はパスさせていただきまして、「ごちそうさま~」です。

 腹ごなしに二人で歩いて、CDを一枚ずつ買って帰路につきました。だーさんはスキマスイッチ。 私は安藤裕子さん。
 そして今私は少々、年末特有の気だるさにまとわりつかれつつあります(ああ、時間が過ぎてゆく…)。何だか尻切れトンボですが、今宵はこの辺で。 

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野呂邦暢、『愛についてのデッサン』

 木曜日の夕方から体調を崩していました。特に昨日はうつらうつらと終日半睡…。それでも本を一冊読み終りました。
 昼間に寝てしまうと見る夢が変にリアルだったりして、面白い(でも疲れる…)。何となく、その日一日分丸ごとゼラチン質の塊の中にでも捕り込まれてしまったようなもどかしさ、夢から覚めてもまだ夢…から覚めてもまだ…みたいなとりとめなさが続いて、まるで迷宮です。 
 さらに本を読んだばかりだったりすると、そっちの世界も侵食してくるから境界がぐちゃぐちゃ…。

 それはさておき。
 この本のことを知ったのは何ヶ月か前のことです。
 『愛についてのデッサン ――佐古啓介の旅』、野呂邦暢を読みました。
 

 名前だけなら、いつか見かけたことがあったかも知れない。通り過ぎていただけかも知れない。このたび、ちゃんと出会えてよかったなぁ…。30年近く前に若くして亡くなっている作家さんですが、色褪せない瑞々しさにほろほろと嬉しくなりながら読んでいました。

 物語の内容はいたってシンプルで、オムニバスになっています。 
 古本屋の若き主人・啓介は、商売っ気の淡白な青年です。古本屋を営み続けた父親の死をきっかけに、出版社を辞めてお店を継ぐことにしてしまったばかり。そんな彼の元には友人の手を介したりして、古本に関わる依頼が舞い込むのですが、それが時には厄介な人探しだったりするのでした。 
 古本の周辺にまとわり付く謎を追ううちに25歳の啓介は、簡単にはほどけることのない縺れた過去を胸に秘め、それでも生きていく人たちの哀しい側面ややり切れない思いに、直面させられていくのでありました。
 どの話もとても好きでしたが、特に「愛についてのデッサン」に出てくる秋月老人と、「若い砂漠」の鳴海の印象は忘れがたいです。秋月老人のしたことには鮮やかに裏切られました(理屈での説明を拒絶していると言う意味で)。鳴海にはもっと、殺伐とした虚しさばかりを残されました。

 古本のことに触れている箇所は、特別古本のマニアではなくても本好きな人ならばきっと興味津々で読めそうですが、もっと魅力的なのはやはり、主人公・啓介の心の軌跡を追う青春小説としての甘くも切ないきらめきでしょうか。たぶん、書かれた時代が今だったなら、こうはいかなのでしょうけれど…(残念ですが現実として)。 
 折に触れての青年の内省が、とても清潔で好ましかったです。そのしなやかさを失わないで欲しいと、願わずにはいられない程に。

 一話目の「燃える薔薇」と最終話の「鶴」で啓介は二度、父親の生まれ故郷である長崎への旅をすることになります。その「燃える薔薇」のなかで、父啓蔵が上京してからの四十年間に一度も長崎へは帰らなかったことについて、啓介も妹の友子もその理由を知らず仕舞いになってしまったことが語られます。そしてその、啓介にとって最も関わりの深い、最も大切な謎を解く話が「鶴」です。
 息子である啓介も何も知らされていなかった、啓蔵の思いがけない過去が少しずつわかってきて、そこにある古い心の痛みと、けれども決してそれに屈したわけではないかつての若い心を思って、胸がぎゅうっとなる素敵な作品でした。

 若い心はいつ、その若さを失うのだろう。すっくりと直ぐな心はいつ、そのしなやかさを失くすのだろう…。そんなことをぼんやりと考えながら、ずずず…と、また夢の中に引きずり込まれた昨日なのでした。 

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河野多惠子さん、『妖術記』

 古本で入手した一冊です。
 少ないお小遣いを工面しつつ、自分の読みたい本を細々と買えるようになったのは中学生の頃ですが、絶版という言葉を知るのはそれから更に数年後のことでした。欲しい本は必ずや、大きい書店へおもむけば手に入ると信じていた頃が懐かしい…。

 『妖術記』、河野多惠子を読みました。


 ぞくぞくしながら読みました。導入部に近いところで、主人公が肉親の骨のかけらを噛み砕く場面があり、私はそこでもう蛇に魅入られた憐れな蛙状態です。妖しの河野ワールドに、完全に捕りこまれておりました。
 単行本で刊行されたのは昭和53年ですが、まさか角川ホラー文庫にあるとは思いもしなかった作品です。そりゃまあ確かに怖いですからホラーとして読めないこともないけれど、純粋にエンターテイメントとして楽しむにはかなり辛い作品ではないかとも思います。怖さを感じさせる勘所も、あくまでも純文学ならではのものですし。

 奥泉さんの解説には“魔女譚”という言葉があり、「なるほどこの主人公は魔女だったのか!」と得心しました。そう言われてしまうともう、魔女以外の何者でもないと思えてしまいます。己の中の悪を磨くことには、禁欲的な魔女。自分の怨恨には一切関わりのない悪業、何の恨みも持ってはいない他人を殺めることをこそ、ひたすら好む魔女。 
 そんな主人公が、自分の念で誰かを殺めたり、或いはそのための下稽古(!)をしたりすることを、淡々と“仕事”と呼んでいる感覚が何しろおそろしいです。ただ殺めるだけではない場合は、“もう少し凝った仕事”です。…凝るのか! 

 無駄のそぎ落とされた文体による、何て言うか、余計な感情もまじえない純粋な“悪”の描き方には、兎に角しびれてしまう作品でした。ラストまでぞくぞく感が失速しないのも、流石です。

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ドストエフスキー、『地下室の手記』

 あわただしい二日間を地元で過ごしてまいりました。 
 友人たちとの再会の楽しさは、驚きの大ニュースで盛り上がった皆の喜びにふちどられ、その後の忘年会のざわめきは、だーさんにかまって貰えなかった私の憤りやら何やらにふちどられ。二日目には最後の仕上げとばかり、私がまたまたやらかしてしまい…(新幹線内に忘れ物)。ぐったり、疲れました。概ね自分の所為です…。

 そんな二日間、お供はこの一冊でした(よりによって)。今さらドストエフスキー、と言うか。今だからドストエフスキー、と言うか。読書会の課題本です。
 最近どんどん新訳が出ているようですが、旧訳の新潮文庫を当たり前のように手にとっていました。表紙のこの顔を眺めないことには、ドスを読む!という気分がなかなかしないように思えまして。

 『地下室の手記』、ドストエフスキーを読みました。


 古い訳ではありますけれど、その所為で読みにくいという印象は殆どなく、本当に読み難いのはこの主人公の思考の所為だ…!と、何度も思っていました。
 第一部では延々と、主人公の独白が続きます。ごもっともね…と頷ける箇所もあるにはあるものの、如何せん長過ぎます。小難しいことを言っているようで、実はさほど高尚な思索を繰り広げているわけでもないですし、回りくどい言い方で自己分析や自己弁解にいそしんでいる姿勢には、虚勢を張っているだけみたいな卑屈さを感じてしまって、かなり読み苦しかったです。これでもかこれでもかと展開するので、苦笑交じりで読みましたけれど。
 世の中や他人に対して感じる相容れなさ、社会性の欠落からくる人付き合いの下手さ、自分の狷介さを棚に上げた周囲の理解を得られないことへの不服、厭世的な気分、人嫌い…。これらは全て裏表をひっくり返せば、だからこそ自分は特別…という歪んだ優越感に繋がりかねない。それがわかるからこそ、「こ、こやつめ」と思いながら読んでいました。
 つまり、全然身につまされないわけではないからこそ、「嫌だなぁ」と。孤高になり損ねたら、惨めな人でしかないなぁ、と。

 第二部に入ると多少動きがありますので、かなり読みやすくなります。 
 何だかなぁ。主人公がすごく執念深かったり、友人(そもそも友人と言える相手なのか?)たちにかなり馬鹿にされて爪弾きにされていたり、下男相手に虚勢を張ったり娼婦に説教を打ったりで、かなり痛くなるばかりですが、「あ、痛…」と目を覆いそうになりながらも、「しょうがない人だなぁ」と思いつつ憎めないことも確かです。 
 ドスの長篇の主要登場人物たちとこの主人公を比較してみるのも、面白そうです。何人かの原型には、なっているのかもしれませんね。

 やけに態度のでかい下男の存在も、妙に気になりました。しかも名前が“アポロン”。他の登場人物たちは、何とかコフとか何とかボフなのに。アポロンって、太陽神に近い位置にいるギリシャ神話の神の名前なので、地下室の住人とは天敵なのでは…?なんて、ふと思ったりもしました。

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松浦理英子さん、『裏ヴァージョン』

 明日から地元で一泊してきますので、少々気もそぞろです。そわそわと。
 郊外の駅で待ち合わせをして高校からの友人宅へ押しかけ、夕方からは岐阜の居酒屋で催される忘年会に顔を出してくる予定なのですが、移動に時間がかかるのでスケジュールがきちきちです。失敗なく移動できるどうか、心配…(だーさんとは途中別行動)。
 昨夜は夜更かしだったし、今夜は早めに寝ます。 

 さて。
 先日読んだ『犬身』がとてもよかった松浦さんの、七年前の長編が文庫になっていたので手に取りました。
 『裏ヴァージョン』、松浦理英子を読みました。


 すみません、報告程度でお茶を濁させていただきますけれど、すごく面白く読めました!
 読み出してしばらくは、まるで普通の短篇集ですが、一話ずつで完結している体裁の短篇の末尾に謎のコメントが入っていて、その、批評というには皮肉たっぷりなコメントをいったい誰が付けているのか…?という疑問が、だんだん気になってくるのです。そして少しずつ少しずつ、小説の書き手と、その小説を受け取る側の女性二人の関係が、連なる幾つもの短篇小説の向こう側からうっすらと見えてくるのですが、そのあたりから俄然と雰囲気がきな臭くなり、それにつれて物語全体が面白くなってきました。
 所謂メタ小説としても読めますけれど、そんな一面的な読み方をしなくても充分楽しい作品だと思います。 
 
 性愛を介在しない絆って、どれだけ強くなれるのでしょうか? 
 一緒にいれば愉快に過ごせる…なんて、ただそれだけの友達じゃあない。抱いてもいいぐらい好きだけれどお互いの嗜好上そういう訳にもいかなくて、けれどもお互いに清濁併せ呑むぐらい受け入れたいと願い、本当に受け入れあえる絆…。そんな絆を結びあぐねて立ち尽くす二人の不器用な姿が、とても愛おしい作品でした。

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笙野頼子さん、『S倉迷妄通信』

 薄暗くなりかけてから自転車で出かけ、近くの本やを冷やかしてから食料の買出しをして、自転車のところに戻ってきたらば、前のカゴに落ち葉の先客がいた。とりあえず連れて帰ることにして自転車にまたがると、西の空に細い月が、落ち葉と同じ色で光っているのであった。黄色い。
 …今日読んだ本の表紙も黄色いよ、偶然だね。


 かつてのブランクを埋めるべく、笙野さんの未読作をせっせこ読んでいます。一冊また一冊と読むごとに、笙野作品を読むことが私の中で、どんどん重要性を増していく気がします。何か、元気が湧いてくるというか。どうにもならないものへの恨みを抱えている自分が、許せるから。

 『S倉迷妄通信』、笙野頼子を読みました。
 

〔 細民、それはばかで弱い人間、「こうしたら負ける」と判っていて負けの方を取らざるを得ないような環境にある、あるいはそういう美学、モラルを持っている人。細民は人を殺したくとも、決して殺さない。余程の事がなければ殺人など出来ない癖に物凄く人が殺したいだけだ。 特定の個人をというのではない。人類全体というのともちょっと違う。 〕 36頁 

 元野良の猫軍団を引き連れて安住の地(となるべき)“S倉”へ移住してからの、三篇(半年後、一年後、一年半後)からなる「架空」通信です。掲載されている数々の写真から、猫の人々の姿を沢山見られるので、何度も何度もそこばかり眺めておりました。ああ、ドーラさんの美しいことと言ったら…。もちろん他の三匹の野性美も素晴らしいけれど、内二匹がもうこの世にはいないのですね…。

 笙野さんの特集を組んでいた「文藝」の中の「佐藤亜紀×小谷真理 対談」に、“猫問題があってから、笙野さんは変わった”という内容の会話があったのですが、そんなことを思い出しながら読んでいると、色々面白く興味深く読めました。 
 例えば猫騒動以来の引越しを済ませた後でも、主人公が「わけの判らない殺意」にとり憑かれているあたりの文章なんて、まさに研ぎ澄まされた“細民”の殺意がこちらにまで迫ってくるようで、外に向けて猫たちを守るためにも闘おうとする姿勢が、ますますパワーアップしているのです。

 それから、笙野さんはずっと昔からプチ信仰という形を持っていたのですが、ちょうどこの時期に“自分の神様が交替”します。 
 この、「神はいない、そんなことはわかっているけれども、信仰の形は必要だから神も要る」という理屈からなるプチ信仰って、一見すごく独創的な発想のように思えますけれど、実はそうではないかも知れません。笙野さんの作品を読んでいると、そう思えてくるようになります。
 実はもっと深いところで人の本質に繋がってくる、普遍的で本当は切実なことじゃあないのかなぁ…と。笙野さんの場合も、“自分の神が交替”するという思いがけない事態にあったり、これから大切な友人(猫の人々)を失っていく経緯の中で、“どうしてもプチ信仰を必要とする自分”と改めて向かい合って、それは何故なのか?というところから思索を深めていった…、という印象を受けました。  

 4匹の猫軍団が元気だった頃の“化け猫譚”も読めて、堪能いたしました。

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