スコット・フィッツジェラルド、『グレート・ギャツビー』 再読

 訳者が違うが、十何年ぶりかの再読である。
 『グレート・ギャツビー』、スコット・フィッツジェラルドを読みました。

 “「なんて美しいシャツでしょう」と彼女は涙ながらに言った。その声は厚く重なった布地の中でくぐもっていた。” 171頁

 冒頭がとてもよかったです。もの哀しさの中に漂う語り手の厭世観に、何故か易々と持っていかれていました。村上作品にも通じる匂いを嗅ぎ取っていたのでしょうか? 
 この作品を好きとは、正直まだまだ言えません。哀しすぎて虚しすぎて…と言うのが、今の気持ちにぴったりくるのです。虚しさって、本当に捕まってしまったら心底怖ろしいから。…怖い怖い。でも、確かにこの作品との新たな出会いが果たせたような気がするので、それで満足です。 

 忘れがたく哀しい、美しい場面もありました。偉大にも愚直なギャツビーがひたすら恋焦がれ続けた相手は、つまるところ、思慮の足りない浅はかな女性だった。でも…二人が再会を果たした後で、ギャツビーがデイジーに見せようとして無造作に放り投げた色とりどりなシャツの、柔らかく豊かな堆積。そしてそこに顔を埋めてデイジーが泣きじゃくる場面が、好きでした。  

 この作品の文章の美しさは、村上さんの真心のこもった新訳のお蔭でしっかと伝わってきました。
 デイジーの不誠実も、水面に遊ぶ光のように頼りなく気まぐれなそのきらめきも。そのもろさと、儚く散りやすい花のような魅力も。その全部をひっくるめて、人の弱さや不器用さを愛せるようにならば、愛おしいと思いました。そう思う傍からとても哀しくなるのでした…。
 (2006.12.5)

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