やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

クレンペラーのバッハ

2009-07-11 | 音楽を


オットゥ・クレンペラーのバッハの管弦楽曲集はCDへの買ひ替へをすることなく、その後幾度かレコード店で探した時は見つからず、そのうちネットでー、と思ひつつそのままになってゐました。

時間調整にふと立ち寄った山形市の店が改装セールをしてゐて、偶然中古CDで求めました。

何と、心揺さぶる、バッハでせう!!

20年ぶりくらゐに聴きましたが、改めて、感動、です。

巨匠の死の数年前の録音ですが、彼の《マタイ受難曲》やミサ曲と同様、まさしく
”私はこんな演奏にしましたが、何か文句がありますか!?”と云はんばかりの、クレンペラー以外には絶対に無理な演奏です。

昨今の古楽器奏者にはきっと、大時代なー、と一笑され、相手にもされない演奏。
おそらく、バッハも、考へも望みもしなかっただらう演奏(冬はコーヒー店の室内で、夏は野外で演奏されたらしいです)。
3番でのティンパニはまるで遠雷のやうにドロドロと響き、有名なアリアは葬送曲のやうに暗く、2番の出だしはフランス風序曲には程遠くー。

けれど、このバッハは、何とこころに響いてくるのだらう!!

もちろん、きっと、これはすでにバッハではないのかもしれない。
バッハの曲想を、はるかに突き抜けてしまってゐる。

だが、クレンペラーの演奏にある”見かけの美しさは要らない”哲学が、あまたある演奏を撃破する。


そして、ふと、黙阿弥と重なってきました。

明治維新を迎へ、”江戸時代の遺物の歌舞伎などやめてしまへ! これからは演劇だ!”と強引に改革する薩長の新政府の役人たち。
その言葉に、黙阿弥は一切を語らずに現役引退を決め、だんまりの生活に入る。
けれど、世の中の求めに応じてふたたび書いた名作の数々ー。

『天衣紛上野初花』に代表される、時代の底辺で生きる男と女や悪党を、切実な心情と抒情を混ぜ込みながら、”薩長の田舎侍の役人どもよ、お前さん方は知るまいが、どっこい、昔の江戸はよかったぜ”、とばかりに今に脈々と残る傑作を描いた黙阿弥。

そんな、遇うこともなかった二人の芸術家の、意地の美学が、薄暮のやうにクロスしてゆく。


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