やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

「空木」

2005-11-06 | 神丘 晨、の短篇
   1

 ペンションでの打合せは二時間ほどで終わったが、オーナーがランチを出すから、という誘いにずるずると食堂で時間を潰してしまった。屋根を叩く音で外を見ると、白い粒が地表で跳ねていた。
 オーナーの坂井は、驚きもせずに「今年は冬が早いな」と外を見た。染井千都子は、隣席の芹沢に「近くのホテルに泊まってしまいましょうよ」と小声で言った。
 千都子は、助手席に身体を沈めて小さくため息をついた。フロントガラスの中で、山の稜線が鮮明になってきた。
「そういえば、今日は大事な用事があると言っていなかったか?」
「誰が?」
「誰がって、貴方しかいないだろう。変だな、今日の君は」
 西に傾いた日差しが山の斜面を照らしていた。千都子は、娘の章子にいわれていた言葉を思い出していた。
「今度の日曜日に亮平君が来たいってー。何か、話があるらしいから、午前中は家に居てね」
 具体的には何も話さなかったが、結婚の相談で来るらしいことは千都子にも察しがついた。
「大丈夫よ。土曜日は、蔵王のペンションで改装の打合せがあるけれど、日曜は何も予定がないから。亮平さんにスーツ姿でいらっしゃいって言って置いて」
 千都子がそう言うと、章子は安心したように大きな声で笑っていた。
「食事は?」という芹沢の声に、千都子は頭を振った。ゆっくりと腕時計を見た。二時を過ぎていた。
 芹沢を山形駅まで送り、山形市郊外の家にたどり着いたのは三時半だった。章子の軽自動車が見えた。
 千都子は、少し下を向きながら玄関までの飛び石をなぞった。
 山茶花が咲いているのが眼に入った。今年は随分と早いな、と思いながらドアを開けた。章子が立っていた。
「何時だと思っているのよ!」
「ご免なさい、遅くなっちゃって」
「遅く? お母さん、こういうのは遅いというのじゃなくて、無責任というのよ! 母親のすることなの!」
 逃げるように居間に入る千都子の後姿を、章子の声が追いかけてきた。何を考えているのよ! という声が聞こえた。
「亮平に何て言えばいいのよ。せっかく一張羅のスーツを着て、神妙に待っていたのに、昼を過ぎても帰ってこない。亮平、呆れるように帰ったわ」
「だから、ご免ってー」
「また男の人と居たんでしょ!」
「えっ!」
 千都子は、章子の刺すような言葉に前を向けなかった。
「いつからなの! 米沢の人はとっくに別れたみたいだったけれど」
「私が誰と付き合おうと、何回付き合おうと、貴方には関係ないわ」
 千都子は、ソファーに身体を沈めると、居間の壁に向かって言った。フリードリッヒ展のポスターが貼られていた。以前付き合っていた男と一緒に、東京に見に行ったものだった。小さく描かれた人物が、暮れてゆく空を眺めていた。
「何それ? どういう理屈なの。私は何もお母さんに手枷足枷をつけるつもりで言うのじゃないわ。母親として、せめて大事な約束くらい守ってもよかったんじゃないかって、それだけよ」
 章子は、千都子の前に立ちはだかって言った。ポスターの景色に逃げたかった。
「貴方、大事な用事だなんて一言も言わなかったじゃない」
「そんな! 亮平が改めて来るってことは、結婚の申し込みに決まっているじゃない。お母さんだって、ちゃんとスーツでいらっしゃいって言っていたじゃない。だから、亮平も着慣れないスーツを着て半日も待っていたのに。そんな言い方ってないわ!」
 千都子は、自分の気持ちが落ち込んでゆくのが分かった。無理な話だった。自分の娘に、天地が替わっても通らないような屁理屈を言っていた。
 章子が呆れたように居間のドアを閉めたとき、建物を震わすような音に紛れて千都子は床にへたり込んだ。