Garnetの部屋

たそがれGarnet の 独り言
(つれづれ日記より)

「大津順吉」  志賀直哉 (1883~1971)

2010年06月27日 | 読書

「大津順吉」 (大正元年  1912年) 志賀直哉

 「大津順吉」の中にも父親との不和の原因が隠されていました。
この物語は、ほぼ事実に近いように思います。

「その頃私は生ぬるいキリスト信徒だったのである。20過ぎたころからは
女に対する要求が強くなって行った。そして私はなんとなく偏屈になった。」

「私の「心」と「体」とがたえず恋する者をさがしながら、
「境遇」と「思想」とにさまたげられている。
その不調和が苦しくてたまらない。」

そしていわば、上流階級をさけて、自分の家の女中「千代」との
結婚を決めますが、、。
このことは、当然、父、家族全体の反対にあうのです。
その後、別の短編の中で、最終的ににはこの「千代」にあきたりなく別れます。

(左)ダンスの会に嫌々出席するが、相手になることは全て拒否する
(右)女中の千代に「約束した人がいるのか?」と問う順吉

      

この挿絵はちなみに 「和解」 最後の場面
父と子が和解の瞬間お互いに涙する、、。



「日本の文学」全集の中に珍しく挿絵まで描かれていました。
「武蔵野市立吉祥寺図書館」

6/15日、別の目的で訪ねた 我孫子 手賀沼でしたが、偶然にも
「志賀直哉」に巡り合い、改めて小説を読む機会をえました。
遠く昔に読んだ限りで、あらすじは殆んど忘れていました。物語は
私が生まれる前に書かれた物が殆んどで、でも簡潔な文章と言葉使いの
美しさに引き込まれ、短編は読み終わりました。後、長編はこれしかない
と言われる「暗夜行路」を今一度読むつもりです。

この物語は 「時任謙作」は本人に近いが、祖父もその他も完全に架空の
物語。なぜなら、志賀直哉はこの祖父を一番と言うほど尊敬していました。

10日以上も読書の虫になりました。 さあ、大変、小さな庭も草だらけ!!


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「和解」  志賀直哉 (1883~1971)

2010年06月21日 | 読書

小説 「和 解」 (大正6年)

過日散策した 我孫子、手賀沼。彼の屋敷跡を訪ねて小説「和解」を知る。
物語の冒頭からこの地名が飛び込んだ。

長女を出生後 わずか56日で亡くし、その一周忌で青山墓地に行く際
麻布の実家に電話する、、、

「父が在宅しているため、私は屈辱から不愉快になる。祖母 留女 には
会いたいが父には会いたくなかった。不和の出来事は余りにも多かった。」

    幼稚園時代     高等科時代(左) 実篤と

  
    

父との不和の原因がどこにあったのかに興味を持ち、一気に読んだが、
この[和解」の中に全てのそれを見出す事は出来ませんでしたが、
「大津順吉」又この「和解」の小説にもその理由が隠されているようにも思った。

和解の瞬間、「父は泣き、自分も、鎌倉の叔父も泣き、長い長い不愉快な旅の
あと、ようやく実家にたどりついた旅人の疲れに似ていた。」 
と書いています。

父     祖父      次女と

  

小説の神様と言われた 志賀直哉 読みやすく、しかも心理状態のきめ細かい
描写に惹きつけられます。
先祖は近江国志賀城主の名門、はからずも2度の落第で親友 武者小路実篤と
同級生となり行動を共にする事が多かった。
後に、彼(実篤)の従姉妹、康子(さだこ) (公家、華族)と結婚している。

金婚の時 孫と

 実家は麻布に広大な土地を持ったが、今は大手企業の社宅、マンション、
反対側に 東京ミッドタウンがある。(少年時代をここで暮らす)

今一度、跡地を訪ねると、我孫子の手賀沼を見下ろす弁天山の石段の上に立って、
若いハンサムな志賀直哉が出迎えてくれるような錯覚を覚えます。
そして益々明治の文豪のフアンになり、しばらくは志賀直哉の本を読み返します。

                ( 写真はある雑誌からお借りしました)


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ぶらり手賀沼 常磐線

2010年06月16日 | 旅 ・ 散歩





6/14日 入梅宣言が東京にもあり、その日は一日雨が降り、
翌15日早朝、目覚めるとまぶしい位に良く晴れていました。
我孫子の手賀沼あたりに、”バードカービング”をしている人が
いると過日テレビで紹介があり、小鳥大好きの私は行って見たい
との思いにかられていました。一つ欲しいなあ~と。
果たして安易な考えで我孫子に行きましたが、
工房が手賀沼公園にある訳ではなく時々イベントが、あるそうです。
親切な「市民図書館」の職員さんが色々教えて下さいました。
又野鳥の保護を目的にカービングをされている人は「内山春雄」さん。



我孫子駅から真っ直ぐ坂を下るとほどなく、「手賀沼公園」 に着きます
「ボート」「遊覧船」は無料、、(と書いてあったと夫が言ってました)





図書館の本を貸してくださいました。写真でお目にかかりました。
今にも飛び出しそうな小鳥達
「内山春雄氏」は我孫子在住ですが、成田線に乗り換えて、
工房があるらしいです。今回はあきらめました。







その代わり近くに 「志賀直哉邸跡」 「旧武者小路実篤邸跡」が
あるのを知り訪ねることにしました。前日とは打って変わって真夏日、
「白樺文学館」を見学して、今は書斎のみが残された跡地でしばしの涼を
求めました。この鬱蒼とした樹木の屋敷で、「暗夜行路」「和解」の
草稿をしたのかも? 生涯を28回も転居を繰り返したと言われています。

志賀直哉邸跡






旧武者小路実篤邸跡
手賀沼から可なりの距離があったように感じました。
山際を歩くともっと近道だったそうです。
本街道を汗を拭き拭き探し当てた時はホット致しました。
「今は一般公開をしてないため探しにくいかもしれません」とは邸内を
管理している男性2人でした。気持ちよく見学をさせてくださいました。
さすがと言える立派な屋敷でしたが、今は一般の人が所有しているとか。





昔のままのたたずまいが残され、赤いもみじは一年中この色を
保っている種類の紅葉という事でした。






表門の入り口に満開の花 〈今、良く見かける花ですが、、、?)
歩きつかれて、帰りは我孫子駅まで「あびバス」(ムーバス)(はなバス)
一人100円に乗り帰路に着きました。






(左)志賀直哉(1883~1971)
旧居は奈良市高畑にある文学館(一般公開) 
武者小路とは学習院高等科で知り合う。彼の従姉妹と結婚。
代表作 「暗夜行路」上、下。 「和解」等

(右)武者小路実篤(1885~1976)
公家、華族。1916年~数年我孫子に住む。
代表作 「お目出たき人」 「愛と死」 「世間知らず」等



はからずも、2人の関係を知ることになり、屋敷跡や 文学館には
若いときの2人の写真、奥様達の写真等にお目にかかれて感無量でした。
中でも、父親との関係の修復を書いたといわれる「和解」は
是非読んでみたい本の一冊となりました。今日の一日は文学散歩。


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バラとベーターバージョンの練習

2010年06月11日 | ガーデニング

     
   本日ベーターバージョンの勉強をしました。
   
   早速忘れないうちに、復習してみました。
   諸先生方ありがとうございました。

     今年のバラを数点のみ載せてみます。
   少しずつ慣れていければ、ブログの
   更新が楽になるように感じました。

    

    

    


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和歌山と京都散策

2010年06月06日 | 旅 ・ 散歩


5月27日、二年ぶりで高校クラス会に参加いたしました。
今回は神戸港を遊覧しながらの優雅な船上でのクラス会となり、
すでに定年退職、孫を持つ年ながら昔の腕白年齢にかえり
話もはずみました。物故者は2クラス合わせて13名、
いずれも病気が原因で残念な思いです。

(おしゃべりに夢中、船外は曇天とあって写真は撮らずに終わりました)


その後、大阪の妹の運転で姉妹3人で和歌山、白浜まで
足を伸ばし楽しい旅をいたしました。
5月末だと言うのに寒暖の激しい気候でしたが、
歴史好きの姉の案内で、京都街中散歩をゆっくり、のんびり、
ついつい日程が延びてしまいました。


和歌山城は 1585年に築城にかかり、初代城主は 桑山重晴、
その後時を経て、1619年徳川家康の第10子徳川頼宣が入城する。
その直後から大規模な整備工事、城下町の拡張整備が実施され
その後250年間続く和歌山の繁栄の基礎となりました。(資料からのまとめ)

和歌山城をあとに、白浜に向う途中、湯浅町を通りましたがこの地は
750年の歴史を持つ、醤油発祥の地だそうです。いわば醤油の源泉。
老舗に立ち寄り、「金山寺味噌」を いくつか求めました。これは夫へのおみやげに。

真っ青な空に和歌山城がくっきりでした。





南紀 白浜の 千畳敷海岸
広大な畳のような岩が続く。やわらかい砂岩のため、荒波に洗われ、
年月が経ち、階段のように岩が広がる
近くに見所として、3段岩もあります。






5/31、6/1 日程を延ばして、姉と共に、京都まちなか散歩に出かけました。
かねてより、ゆっくり散策したかった「哲学の道」を「南禅寺~銀閣寺」まで。
翌日は、坂本龍馬の墓をお参りいたしました。


(左)小さく石に ”道しるべ”  (右) 哲学者、「西田幾多郎(きたろう)」 
                    (1870~1945)石川県生まれ
                     京都大学、教授
「日本の道百選」にも選ばれているこの道は、哲学者 西田幾多郎が
この道をこよなく愛し思想にふけりながら、毎日の散歩を日課に
していたことから、いつしかこの名前が付いたらしいですね。
この日は涼やかな新緑でしたが、
春のサクラ、秋の紅葉、きっと嬉しい散歩道でしょう。










そうですね、約2km位と思いますが、左右にあるお店をのぞいたり、
出会う人たちに話しかけられたり、私は疎水べりの左にある”八橋”を焼いている
小さなお店で300円でそれを1袋買いました。
「う~ん懐かしいニッキの味、、」硬くしっかり焼けていました。
そんな、こんなしている内に、銀閣寺に到着しました。
修学旅行の生徒が沢山「えっ?これが 銀閣?」と言うほどの質素なものです。

(左) 観音殿 (銀閣 国宝)建立     (右)疎水の右側にある
1482年 室町幕府八代将軍 足利義政公       京焼き 「陶葊」
庭の美しさは有名です。
          珍しい字で「とうあん」





〈左) 南禅寺 〈臨済宗 大本山)亀山法皇 (1249~1305)によって開創された寺。       

(右) 琵琶湖疏水「水路閣」 
琵琶湖と加茂川を結ぶ疎水は南禅寺の境内を通過している。
この鉄橋のようなレンガの上を豊かな水が流れている。
明治18年着工され、水運、工業、飲料水の確保等、
東山に沢山の水の流れを作っています。






坂本龍馬 (1835~1867)
土佐藩を飛び出し、勝海舟の門弟となりその後、亀山社中、海援隊を組織。
薩長同盟の締結に尽力、大政奉還の実現への努力をし、
明治維新をおしすすめる大きな原動力となりました。
しかし、志半ばで隠れ家にしていた醤油商 「近江屋」で 
中岡慎太郎と共に32歳の若さで暗殺されます。

「清水寺」 「高台寺」 「八坂神社」 この辺りの一角にひっそり坂本龍馬の墓があります。
(左)東山 「霊山(りょうぜん)歴史館」 の二人の銅像。
(右)京都 「霊山護国神社」 の二人の墓





「霊山歴史館」 の 資料、龍馬の遺品



幕末維新で活躍した人たちは平均して30歳代、若い血に燃え、
理想に向って命をかけた情熱。政治にうとい私ですが、
心の中に、誰かに向って叫びたい!自分にも呼びかけたい!
日本を守るのは私たち自身なんだと、、。


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