Garnetの部屋

たそがれGarnet の 独り言
(つれづれ日記より)

裏磐梯あたり、、。

2014年08月31日 | 旅 ・ 散歩
8/26~28

京都のMちゃん来てくれるし、何処か静養かねて静かなところ

ないかしら?  とバス旅のツアー探しました。

福島県の桧原湖畔リゾート3日間、残席わずかで滑り込むことが

出来ました。 夫も最近はマイカーよりこちらを好む年令になり

スムーズ。その上なんといってもリーズナブル。

裏磐梯ホテルは国立公園の中にあり、露天風呂から桧原湖が見渡せ、

食事はビュッヘスタイルながら食材豊富、風呂の湯は茶褐色、勿論

かけ流し、夜は部屋で変わらず「酒盛り?」となりました。

二日目は各自自由行動で私たちは会津若松に出て、「鶴ヶ城」を

見学、城下町の そば を堪能してホテルに戻りました。

** 裏磐梯ホテルと磐梯山 
(野口英世の歌)知ってます? 姉と歌いました。 
”磐梯山の動かない、姿にも似たその心、苦しいことが
おこっても、貫き遂げた偉い人。” じゃなかったかしら? 



****

会津若松城 (鶴ヶ城ともよばれる)




** 会津若松のお店
民芸美術品 絵ろうそく店と老舗酒屋
「八重の桜」で一躍有名になった当地ですが、にぎわったのは昨年まで、、。
とはタクシーの運転手さんの言です。でも桜の時期は結構賑わうそうですよ。
綾瀬はるかさんのポスターはチョット淋しげでした。




** 会津若松城近くの蕎麦や「香寿庵」と若き店主
十割そばしか置いていなくて、そば粉の名前は「会津のかおり」
少しみどりがかった美味しい細め。夫も「これはうまい!」
次回の蕎麦打ちの楽しみに一袋求めた。



あまりアチコチ歩かずにゆったりと温泉三昧の旅を楽しみました。
曇り空が多くいい写真がないのが残念ですが久しぶりの東北の旅。
簡単更新でお許しを。
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つれづれの1週間 瞬く間に。

2014年08月23日 | Weblog
** 8/13日 松本から毎年お盆の時期帰ってきますが、今回は私の入院というハプニングもあって、松本の新鮮野菜、10種類以上の野菜を使った美味しいスープ、その他の料理を沢山作って持参してくれました。 夫は蕎麦好きの子供たちのために早朝からそば打ちでおもてなし、頑張りました。そば粉は清里で買ってきたそば粉を冷凍保存したもの。田舎そばでしたがそば粉の香り馥郁と、、。(クリックで)

** 8/15日  「終戦記念日」テレビ放送に準じて黙とうを捧げる。終戦から69年目。この所戦争にまつわる胸迫るドキュメントや物語、実話の番組が多く放映されたが今の若者にその当時の実感を持てと言っても無理かもしれない。
当時、幼こころに「私たちはみんなアメリカの奴隷になるんやって」と同じ年頃の子たちと学校周辺を歩き回った思い出がよみがえり、苦笑。大人の誰かがそういったのかなあ?

** 8/18日 甲子園野球は可愛くて、まだ大人になりきれてない肉体と純真な気持ちで、とに角、負けてる方を応援して、京都の姉と一喜一憂。(姉は遊びがてらお見舞いと称して来訪)この日は顔面リハビリのため日赤に行く。

** 8/19日 お嫁さんが作ってくれた野菜スープを冷凍保存しておく。姉にも食べさせたく、サラダライスを振る舞う。「珍しいなあ、こんなん初めて食べるわぁ~」と嬉しがる。ご飯を下に敷き、ありあわせの野菜、アボガド、スモークサーモンあれば、ベストです。温泉卵もネ!ドレッシングは好みの味で、作りますがワインビネガーを少し加えて。

** 8/20日 庭がずい分と生い茂って隅っこに茗荷が結構土の上に顔を出している。早速か弱い花と共にそっと収穫して、即席の漬物を作る。ナスが色よい間に食すのがBestですね。茗荷はソーメン、冷奴、納豆にも入れて今の時期を楽しみたいですネ。(クリックで)



** 8/21日 目の具合があまり芳しくなく、姉に付き添ってもらい杏林大学に行く。特に注意すべきことはなくほっとして、帰り吉祥寺のKIRARINA?の地下食料街を見学する。昨夜から仕掛けておいた 紫花豆 を煮る。ふっくらと仕上がり姉が盛んに褒めてくれチョット得意、、かな? 過日北海道で買った豆がきっと新しくそのせいもある。

** 8/22日 10月涼しくなったら見に行くつもりだった オルセー美術館展 を姉の希望もあり六本木まで出かける。ルノワール、ドガ、セザンヌら印象派の作品84点。この作品に魅せられていて、再度の出会いに胸をときめかせた。
もう、19年前に孫娘が誕生したころ、この作品に出会い赤ちゃんが孫とそっくりのような気がして、勿論このポストカードをプレゼントした思い出の一枚。「ベルト・モリゾ ゆりかご」
(クリックで国立新美術館近くミッド・タウンあたりの二階バス)

** 8/23日 スコットランドのCarineからお便りが届く。去年の暮、クリスマス直後に急死した息子の悲しみは今だ癒えることなく、一人になってしまった彼女を思い慰めあっていたこの頃でした。でも、日に日に元気を取り戻している様子で嬉しいです。特に次の文章には彼女自身でアンダーラインが引かれていた。
** We will always miss him so much but we have our happy memories. **
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「花子とアン」その後、、。

2014年08月10日 | Weblog
夫が年間購読している「文芸春秋」8月号(1か月早く7月に送られてくる)に弁護士宮崎龍介の手記が載せられている。

この手記は「文芸春秋」昭和42年6月号に「柳原白蓮との半世紀」の題で掲載された。・・・とされる。

「燦子は亡くなりました。老衰でした。81才ですから天寿をまっとうしたと思います。私としても関東大震災以後46年間そばでサポートしてやることが出来満足している」
「燦子は昭和36年の正月から緑内障のため目が両方とも見えなくなっていました。」

燦子の辞世の歌の一つ
** いつしかに八十とせ生きてつかの間の露の命のことわりを知る **

「私には一人の愛する人が与えられ 私はその愛において今復活しようとしている」の
言葉と共に宮崎と一緒に生活を始めたのは龍介29歳、燦子36歳、実話では龍介は結核で病に伏すことも多かったそうですね。

白蓮の骨は相模湖の石老山にある「顕鏡寺」に戦死した息子と共にに収められている。

拾い読みするとこんな具合ですが、勿論テレビは脚色されています。それで観る限りは元夫の「伊藤伝右衛門」かっこいいですよね~。

「花子とアン」では下記の翻訳が出来上がるのですね。

** 「王子と乞食」(マーク・トウェイン)
この時代の本ではありませんが読みましたね!
(数年前、大切に保管していた世界名作文集20冊
断舎利のため本好きの京都の姪にプレゼントした中にありました。
挿絵、装丁、見事なものでしたが)

イングランドが舞台。とにかく時同じくして宮殿で生まれた王子と
貧民街で生まれた男の子がひょんなことで立場が逆になりそれぞれが
全く逆の体験をしていく物語、、。



*** アン物語(パソペイント)



蓮子さまも段々庶民の生活になれて、子供も二人になり、龍一との生活も
落ち着いてきましたね。 
花子の身に悲劇が起きませんよう、「ごきげんよう、さようなら」 
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耳下線腫瘍という病気

2014年08月04日 | Weblog
8月2日、すべての管がとれて退院しました。
最近の病院は処置が終わればすぐ退院です。後は通院治療となります。

さかのぼれば、3月位であったかもしれない。
左耳の下が少し腫れているような、感じがした。

朝、目覚めたときか、顔を洗った時か、、?
何かしら? と思いつつ忘れてしまっていた。
痛くもかゆくもないことは信号がないに等しい。

5月17日
S 駅近くの耳鼻科を探して受診、「日赤を紹介します」と言われる。
最近、病院は紹介状がないと受診できなくなっていたんですね~

5月30日
日赤初受診
耳の裏側の腫瘍から1回目の穿刺吸引。(センシキュウイン)
その間、歯医者に通院したりと多忙。

6月11日
日赤に結果を聞きに行く。
「良性多形腺腫」といわれすぐにネットで調べて安心。
同時にMRIの予約を入れる。(6月23日)

6月23日
夫に付き添ってもらい MRI 造影剤を入れての 断層写真。

6月25日
結果は、思ったより腫瘍は大きく深いので初めて手術を勧められる。
リスクはこの部分は、大切な顔面神経が多く走っていること、
末端神経をやむを得ず切らねばならぬことがあるかも知れないこと。
顔面にしばらく後遺症が残ることがあること。
二度目の穿刺を受ける。

7月9日
腫瘍は5段階の真ん中辺り。。結論は手術後にしか判定出来ない。
私たちは90%手術と決めていたので、その日のうちに予約。

28日入院、29日手術と決まった。**

今日は涼しめの朝、夫の車で9時過ぎ家を出る。病室は513号と決まり腕にバーコード(もはや私は1個の商品?なんて思いながら、24年前スキーで腱板断裂、1か月の入院を余儀なくされたことを思い出す。入院はそれ以来。4人部屋にしてはゆったりと清潔で、隣の女性は耳の鼓膜の再生手術とのこと。今日は病人のようなそうでないような、熱砂地獄にいる外の人に申し訳ないと思いつつ 池波正太郎の「原っぱ」を読む。夜になるとあちこちからメールが入り始めた。一番嬉しかった孫娘からのメール。(夏休みで運転免許取得中)

昨夜は9時以降は禁、飲食。朝から点滴(血管細く3度目でやっと成功)
手術は3人目で最終の1時30分頃からと決まった。間に合うように夫にメールしていよいよ私は 「俎板の上の鯉」。 定期的にやさしい看護師さんが血圧と体温を測りに現れ、普段は100すれすれが150まで上がっている。「病院では皆そうですよ」あくまでやさしい。
手術中は夫が立ち会う。1時30分から手術着に着かえ看護師さんと一緒に3階の手術室まで歩いてゆく。夫はこの間手術終了までポケットベルを持たされ院内待機。(概して男性はこんな時間に弱い!ほんとにすみませんね~)私は握手してVサインで中に入った。
入室後、名前、生年月日、バーコード確認。手術室はかなり広々としてゆったりした音楽が流れ、落ち着いた。その中にまた鉄の扉?の部屋が幾つかあり「あなたはここでね」すぐさま自分で手術台に横になる。軽く手足を固定され(こんな状態もていねいな説明がある。)素早く心電図、その他の処置がなされ、私は天井を見ながら、自分の姿を俯瞰することが出来た。事前のモニターで麻酔が効いたら人工呼吸器を施されることも知っていた。 「痛み止め、と麻酔液も少しづつ入れますね~」その声が終わるや・・・すぐに意識不明となった!
                    ・
                    ・
                    ・
何時間後か?  「手術が終わりましたよ!」との大きな声で目を覚ました。
        「あっ!私って手術してたんだ~」

多分、人工呼吸器が抜かれて人前に出せる姿になっていたと思う。酸素吸入、血液のドレーン、点滴他、左の耳から首のあたりはさしずめミイラのように白ずくめ。 実にのべ5時間の難しいオペだったのか? 麻酔が覚めたとき「皆さまありがとうございました」ってかすれた声で言ったのは覚えています。長時間ハラハラ、ドキドキしたかも知れない夫にも 感謝の念。

** 今回術後担当医から、「神経は全部残して、尚且つ、腫瘍も全部きれいにとることが出来た」
と報告があり、それで充分との思いがあった。(神経が元の定位置に戻るまで1年。)
その間、顔面の筋肉の硬縮を防ぐためリハビリも必要です。

この疾患はなったものが初めて「こんな病気もあるんだ」と認識する、それほど頻繁に知られているものではないのか知れない。気が付かないことも多いし、耳鼻科なんで安易に考えることもあるかも知れません。とも角小さな腫瘍でも気が付けばすぐ、耳鼻科の受診をすることがベストです。
腫瘍は小さい時に切除することが大切と悟りました。因みに私の腫瘍は深葉、5センチ弱の大きさでした。 

なにはともあれこれからの人生も私の小さな意地と矜持で自然体、ありのままの自分で生きてゆきたいのです。 なんだか大袈裟ですが、麻酔が覚めたとき新しい自分になったような気持ちになったのですよ。

(ヨッシーちゃんから頂いた無料アニメ画像を使用しました)
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