日課のウォーキングの帰り、小道をチョッと右に入ったところの畑に寄ってみました。
たまたまポケットに小銭が入っていたので、、。白菜、聖護院大根などが並んでいた。
二株あった白菜は、これで今年は最後とのことで迷わず求めました。
漬けながらふと亡き母を思い出し、同時に今は宇治に住むクラスメートの私の母を語る
文集の一部が頭をよぎり、なつかしく又、愛してやまない母への思いを新たにするのです。
白菜はいく房かに切り30分位、お日様にあてる
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昆布、タカノツメ、ゆず、柿の皮の干したもの
(柿の皮は、干し柿を作る府中のYちゃんから。勿論立派な干し柿も頂く)
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時々様子を見ながら4日め位から食べる事ができますね
(母のそれは、ぬかを入れて漬け込んでいました)
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「至福の時」 (クラスメートT の文集から 2007年1月 抜粋)
『昭和30年頃、当時まだ高校生だった E と私は学校の帰り時々道草をする。
小銭を出し合って駄菓子屋ものぞく。Eの家に立ち寄り彼女の小さな部屋で
駄菓子を食べ、よく喋り、よく笑った。当時お小遣いは少なく、いつもお腹をすかしていた。
「そうや、家に帰ってご飯食べよう」2人はEの家へ走って帰った。
「ご飯食べてもええかァ?」とE は真っ先にたずねた。
「なんにもないけど、白菜のお漬物出して食べたらええわ」
針仕事をしていたEの母は、いつもの穏やかな丹後弁でゆったりと答える。
大きな ふご の蓋を開けると、ほんわりとした湯気がおひつを包んでいる。
中には麦ご飯が入っていた。 家の裏には、4斗樽がいくつも並んでいる。
どれにも大きな重石が載り、大根、日野菜、白菜が漬けられている。
白菜の漬物を出すと千切れるような冷たさで手が真っ赤になった。
ザク切りにして鉢に入れると大盛りになった。
小皿に取り、醤油をかけてご飯とともに食べる。息のつまるようなおいしさであった。
「おいしいなア」「ウーンおいしい。お刺身みたいや」
それからというもの、白菜の漬物でご飯を食べる事がたのしみとなり、
2人は授業の終わるのを待ちかねて、急ぎ足で校門を出ることが多くなった。
その度に、Eの母がむかえてくれる。サラサラと降る粉雪を背に受けながら、
せっせと漬物をだす。
温かいこたつのなかで、仲良しのEとおいしい白菜の漬物を食べながら
楽しく過ごした冬の道草は至福のときであった。』
昭和30年ごろといえば、戦後の底つく貧しさから人々が少しづつ
豊かさを取り戻し始めた時期だったのでしょう。
我が公立高校は、可なり遠くからの通学者がいて、遠くは大阪あたりからも。
寄宿舎から、通う生徒もありました。幸い私は学校がそばにあり、
T は学校から少し離れた所に住んでいました。
T もその後、結婚して何年か経ち、私の母を思いやる年齢になって
我が家を訪ねてくれたそうですが、もう、その時母は ”車椅子の人”
であったと結ばれていました。