rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

ろくでなしの変容

2019-06-01 00:15:37 | 社会

 2019年5月28日朝、川崎市の路上で小学生や大人合わせて19人が次々と刃物で刺され、11歳の女児と39歳の公務員が亡くなり、犯人は自ら直後に首を刺して死亡した陰惨な事件は、トランプ大統領が来日中で自らその事件にコメントしたこともあり、世界に衝撃を与えました。メディアやネットでは犯人の生い立ちや犯行に至る動機、また同様の事例からいかに子供達を守れるか、といった議論が活発に行われています。亡くなった方のご冥福を祈ると共に、被害に遭われた関係者の皆さんの無念の気持ちは痛い程判る気がします。何の落ち度もない人が何故このような被害に遭わねばならないか、犯人でさえ犯行の動機は語れてもこちらは説明できないでしょう。

 

 良く読ませてもらっている「どうか誰にも見つかりませんようにブログ」さんが、この事件をとりあげておられて、そこにコメントさせてもらった内容ですが、改めて少し敷衍して自分のブログに記しておこうと思います。

 

昔から親族に一人はいた「ろくでなし」

 

 昔から昼間から仕事しないで酒食らって時々暴れたりする「ろくでなし(禄出ない人)」が親族に一人くらいいたと思います(恥ずかしながら我が親族にも)。仕事はしないのに言う事は一人前だったりするのですが、働かず酒飲んでパチンコやマージャン、競輪競馬などをやってるだけだから家族、ご近所からも「ろくでなし」「極つぶし」と蔑まれ、家長(父親や兄)や近所のご隠居からも説教され、たまに殴りあいの喧嘩にもなる。暴れて警察のお世話にもなったりするから社会との接点もそれなりにある。だから本人も自分が「ろくでなし」なのだ、という自覚はあって、少なくとも社会で働いている人を恨んだりはしない。

 

 しかし現代の「ろくでなし」は酒飲んで暴れたりせず引きこもってネットやゲームをしているだけなので、実社会との接点がない上にネットではそれなりに筋が通った意見を言って認められるから「自分は正しい」と勘違いしてしまっている。外から下手に意見などされようものなら、誰にも迷惑をかけていないのに何だ!と切れる。正しい意見を持っている自分を受け入れない世間の方が間違っている、という展開になります。

 

 ご近所との接点という面でも、「プライバシーの尊重」とやらで最近では自治会の集まりでも個々の家の家族構成までは掌握しない風潮になっています。学校でも家庭の住所や電話は名簿に記さないとか。本来プライバシーとは「心の自由」「魂の自由」の問題であって、緊急時の連絡先を秘密にする事ではありません。ご近所のつながりを疎にすることと、心の自由とは関係がありません。むしろ夜中にラインを回して「既読が付かない」などと批難されたり、見知らぬ企業からこちらの事情を知っているかのようなセールス電話が掛かってくるほうがよほど「魂の自由」の侵害であり、プライバシーの侵害です(所詮日本人のプライバシー認識などこの程度のことなのでしょう)。とにかく、この実社会との接点を絶ってしまった「ろくでなし」達は昔からある一定数の人達が変容したものですから、「ゼロ人」になることはありません。但し、誤解しないでいただきたいのは、パニック障害とか特別な理由があって引きこもりにならざるを得ない人を「ろくでなしの変容」と言うつもりはありません。

 

 憎みきれない「ろくでなし」という歌がありましたが、フーテンの寅さんみたいなある種「可愛げ」のある「ろくでなし」もいて、社会との接点もあったのでそれなりに世間に受け入れられていた所も昔はありました。所が現代の「ろくでなし」は実社会との接点がない分、社会は日常的に受け入れようがありません。そして核家族化した中で本人との唯一の小さな接点が、高齢化などを理由に消滅しそうになると行き場のなくなったろくでなしが暴発してしまう結果になる可能性があります。

 

 今回の事件を受けてひきこもりUX会議なる団体がひきこもり=犯罪予備軍のような報道は誤りである、という声明を出しました。確かにひきこもりの人が皆無差別殺人など犯すはずはありません。ただ長期間実社会との接点を殆ど持たなかった人が実社会で行動を起こそうとすれば様々なトラブルを起こすのは当然であるという謙虚な自覚は必要です。それを理解しないでトラブルを起こした事を批難するな、などと言うのはおかしい。かつての「ろくでなし」達が様々なトラブルを起こして、周囲から散々批難され、時に警察のお世話になりながらも何とか実社会の中で生きて来たその生き方を引きこもり達は謙虚な自覚を持って受け入れるべきなのです。自分達が正しく、自分達を受け入れない社会が誤りだ、などと言っている限り、実社会は引きこもりを受け入れることはないし、実社会というのはそれほどほど甘くはないのです。

 

神への畏怖

 

 ひきこもり、とは異なりますが、世の中には犯罪を犯す事に何ら葛藤を覚えない人というのがいます。現代刑法における刑罰は、罪に対する罰を加える事よりも、教育による改心を主眼においていて、懲役を科す事によって罪人もまっとうな社会人になる、という前提で組み立てられています。出来心や止むに止まれぬ事情があって犯してしまった犯罪に対しては、この教育刑の考え方は正しいと思います。しかし世の中には一定数「人の物は俺の物」「人を殺して何が悪い?」と考える人もいるのです。そのような人には教育刑は全く意味をなさない。酒木バラ事件の犯人とか、池田小学校殺人事件の宅間とかはそういった人達のようです。

 

 「ホモ・サピエンス全史」の著者ユバル・ノア・ハラリ氏は、人類(ホモ・サピエンス)が、我々よりも力が強かった前人類に取って代わって地球を支配するようになったのは指導者や神(貨幣も)といった共通幻想を持つことができたからだ、と主張しました。共通幻想を持つことによって、構成員が同じ価値観をもって共同生活(社会)を営むことができる。社会を形成することで、穀物を栽培・貯蔵し、災害に共同で対処し、生き残り、繁栄することが可能になったと。

 

 原始信仰としての神は巫女などを介して我々に託宣を施すのですが、この2千年来、神は一神教やその他の宗教の名の下に我々の日常を常にどこかで見ていて、良い事・悪い事の業、評価がいつかなされるのだ、という「神への畏怖」という形で、人間は共通した幻想を持っているのが普通です。そして教育刑というのはこの「神への畏怖」という社会を成り立たせるための共通幻想を持っている人には有効な方法なのですが、この手の物が「ストン」と抜け落ちている人に対してしまうと、我々一般人はどう対応して良いか判らなくなってしまうのです。まあそのような人達だけを集めて南海の孤島に島流しをして、一般社会と隔絶した所で暮らしてもらう、位しか解決策はないかも知れません。一般社会で生きるために必要な共通幻想を持っていないのですから。

コメント (1)
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