rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

10年ブログが続きました

2018-04-25 18:12:21 | その他

2008年4月27日に50歳でブログを開始してからいつのまにか10年が経過し、幸い大きな病気や事故もなく10年がすぎて、本日ブログアクセス数が40万、Viewも100万を超えていました。

検索などにかかったものを含めてどこまで皆さんに読んでいただいているかは不明なるものの、アクセス解析などを見ると、医療関係や他で展開されていないような考察をしている内容には古い物でもアクセスがあるようだと感心します。少なくとも医学における学会発表よりも発信した内容を読んでもらえる率が高いのでブログを書く「書きがい」があると今まで感じて来ました。

10年前と比べて年はとりましたが、自分が成長したかは不明です。一番最初に書いた文を読み返してみると「日本は何故戦争をしてしまったのか」というブログを始める上での長期的なテーマから入っていた事が解ります。書評ながら良い点を突いていたなあと思ったので備忘録的に再掲してみました。日本はまだ「囲い込まれた時代」には入ってはいませんが、米国・日本を含むマスコミの現状は危ない方向に向かっているようにも感じます。

(2008年4月27日再掲)

保阪正康著「昭和史の教訓」書評 朝日親書 07年2月刊

日本は何ゆえに無謀といえる太平洋戦争に突入していったのか。その疑問に自信を持って答えることができる日本人は少ないと思う。「軍部の暴走」、その理論的バックボーンになった「統帥権の干犯」、きっかけを作った「陸海軍大臣現役軍人制」これらは教科書的には理解することはできてもこの組み合わせがイコール真珠湾攻撃には結びつかない。日本が戦争に突入してゆく昭和10年台に我々日本人は何を考え、指導部はどのような国家戦略をもっていたのかを振り返り、反省を行い教訓をくみ取ることは未曾有の犠牲を払った戦争を繰り返さないために必須の作業になると思う。

保阪氏の視点は常に反省的である。しかしそれは戦前をすべて悪とする非生産的なステレオタイプの決め付けではなく、極めて理論的に原因や背景を考察し、当時の指導層である政治家や軍人に対するだけでなく、当時の一般国民にも鋭い自省を促している。それは現在一般人であるわれわれすべてが日本の将来についての責任を負っているという認識に基づくものであると言えるし、私も共感を覚えるところである。

昭和10年代の日本の状態を保阪氏は「主観主義」という言葉で表現している。主観主義とは自己中心的とか他者への思いやりがないということではなく、他者の立場に立って考えることがない、自分本位の考え方ということに近い。支那の中華主義や軍事力を全てとするパワーポリティクスでもない。保阪氏は主観主義の一例として皇紀2600年において作成された「皇国二千六百年史」の存在をあげている。これは当時の日本国民から広く募集されて政府編集の上で刊行された日本古来からの天皇中心の歴史をまとめた史書で「天皇の神格化」がこれにより完成したと評されている。

明治維新までは天皇は存在したものの庶民の間で天皇は神として崇められていた訳ではなく、また明治の激動期においても天皇は国家の主権者ではあったが神ではなく、明治政府をきりもりしていた元勲達にとって天皇は国におけるひとつの機関つまり昭和初期においてまさに不敬として断罪された美濃部達吉の「天皇機関説」的な合理的考えで扱われてきたと言える。日本は昭和初期においてまさに「天皇の神格化」を行うことによって天皇および直轄する皇軍について議論することを禁止されてしまうのである。

この主観主義に基づく天皇の神格化は国家のあり方についての議論を封じ、結果として広く国民が日本という国家のあり方、国家戦略を考えることも封じてしまうのである。その典型は「戦争の目的」「戦争の終着点をどこにおくか」を全く考えずに戦争に突入してゆくことに集約されてゆく。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンなどの独裁者、英米などの民主国家においてもその指導者はそのときの国家目標、国家戦略というものを明確に持っていて国家の上層部はその戦略に従って仕事をしていたといえよう。しかし当時の日本においては、日中戦争を例においてもアジアの西欧からの開放とか五族協和といった漠然としたスローガンはあったものの具体的な到達目標のようなものはなかったといってよい。当時の軍は軍功を重ねて日本の版図を広げることが天皇に対する自らの忠誠、忠心の証となると考え、それが自らの存在価値を高めることであると信じていたのである。その行いに意見することなどありえないことであって神である天皇に尽くすことを否定することは許されないという形になってしまったのである。このやみくもに日本が版図を広げていった結果として、日本は米英から危険視され国際的に孤立してゆき、対米英戦争に突入することになったというのが結論である。

面白い指摘として、氏はこの本の中で対米英戦の終結目標についての当時の公式文書を紹介しているのであるが、それが当時の陸海軍の一課員が官僚の作文よろしくまとめた文がそのまま政府の公式文書になってしまい、最も大切な戦争の終結点、目標について政府の中枢においてろくに議論すら行われていないことが判明している。

保阪氏は「歴史への謙虚さとは何か」と題されたこの本の終章において、庶民の側からみた当時の状態を四つの枠組みで囲い込まれた時代と表現している。

四つの枠組みとは(カッコ内はrakitarou註)

1. 国定教科書による国家統制 (検定教科書ではなく、国が決めた選べない教科書)
2. 情報発信の一元化
3. 暴力装置の発動      (公的、非公的を問わず、体制に逆らうとひどい目にあうこと)
4. 弾圧立法の徹底化     (治安維持法のようなあからさまな物や人権擁護法のように紛らわしいのもあると思う)

である。この枠組みで囲い込まれて生活することを余儀なくされると人は体制に対する疑問を感じてもそれを発信したり自ら変えようとしたりできなくなる。この状態を保阪氏は「国家イコール兵舎」「臣民イコール兵士」と表現している。この四つの囲いは昭和初期のように一見文化経済が発展していて国民が豊かになっているように見えていても存在しえるのである。現在の中華人民共和国などこのよい例であろう。

現在の日本は幸いにしてこの四つの枠組みからは解き放たれていると思われるが歴史に対して常に謙虚であろうとするとき、いつまたこの枠組みが作られてゆくかを注意深く見つめる必要がある。天皇は神ではなくなったものの日本人の「主観主義」や「国家戦略の欠如」といった当時と同じ根本的欠陥は現在も変わっていないのだから。

コメント (5)
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