世間では森友学園問題と籠池理事長の証人喚問、安倍首相と昭恵夫人の関与についての話題で溢れていますが、根本的に何を問題にしているのかが不明で関心が持てません。国有地を廃棄物があると虚偽の申し立てをして違法に横領したのであれば、詐欺罪とそれを認めた官僚の職務怠慢の問題でしかないと思います。
それよりも今回森友学園の塚本幼稚園において行われていた教育が「神道系」と報道されていること、新しい小学校が「神道系」の教育をすると言われていること、その内容が「教育勅語」であったり、「天皇を絶対とする戦前教育」」とされていることに私としては違和感を感じます。それは「戦前の教育がいけない」と言う事ではなくて、戦前教育を「神道」と直結させている事に本当に「日本における神道」を深く理解した上でそう結論づけているのか疑問に思うからです。
私は最近暇があると妻と各地の神社巡りをするのが小旅行における主な日課になっていますが、日本各地には様々な由来の多種多様な神が祀られている事に非常に感心します。国造りの天皇関連の「神宮」と名のつく神社、古事記などの神と関連付けられてはいますが、各地に点在する八幡や稲荷はそれぞれ土着の雑多な神や仏教とともに祀られている例が多数あります。また天神様のように実在の人物を死後神として祀った神社も菅原道真、乃木将軍など多数あります。神道の多様性については、島田裕巳氏の著書「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」(幻冬舎新書2013年刊)などに詳しいのですが、要は「神道には厳格な規定がない」ことが要となって各地の多用な文化や宗教を取り込んで深く日本人の生活に馴染んで来たことが特徴ということです。神道には教書、教祖、修行、資格がありません(協会の定める神主の資格はありますが、後付けにすぎず、各地の氏神様の行事を行うのは氏子が交代で行っているものが殆ど)。出家の必要も念仏や経もありません。「何も無いのが神道の特徴」(神道はなぜ教えがないのか-島田裕巳 ベスト新書395 2013年刊 第一章 ない宗教としての神道)とは良く現した言葉であると思います。
「神ってる」という言葉が昨年流行りましたが、これなども一般人が人並み外れたパフォーマンスを行った際に「人に神が降臨してその行為をなさしめた」、という思想を現していて日本人に神道的な考え方が染み付いていることを良く現しています。つまり普通の人もいつでも神になれることが背景にあるからこその表現と言えます。一神教の外国人が"Oh my God!!"や"God damn it!"を良く言いますが、これは特定の人がそうだという意味ではなくあくまで「どこか空にいる神がやってくれたぜ」的な感覚がにじみ出ているように思います。
ところで各地の神社で祀られた「神」の本体は「山」であったり「岩」であったりします。またそれぞれに「神木」とされる高樹齢の大木が祀られています。そのような日本国の国土を造りなす全てが日本における「神」であって、天皇はその「日本国の神を敬う祭司を行う代表」であるというのが古来からの伝統的考え方です。天皇は神官の総帥として国民から敬われる存在であり、その意味では戦後定められた憲法における「象徴」という表現は日本古来からの天皇のあり方をより正確に定めたものと私は思います。明治以降、国民国家を形成する上で明治維新の元勲達が天皇を国家の元首として為政者(国王)としての地位を無理矢理定めてまるで天皇を唯一神の一神教国家であるような教育を行った時期もありましたが、それは日本の伝統的神道の考え方からは外れた物だったのではないでしょうか。
日本海軍の軍艦には即席の神棚が設けられ、出陣の際には艦長他乗組員が欠かさず参拝をして武運を祈ったと言われますが、神棚を設けて皆でそこに神が宿ると思えばそれで神が宿るのが伝統的な日本の神道の考え方なのです。この多様性、柔軟性を教育するのならば「神道系学校」を名乗るにふさわしいと考えますが、教育勅語や五箇条の御誓文を教育するのを「神道系」というのはどうなのでしょうか。
下に教育勅語を載せます。やはり天皇に対する一神教的な思想を含んでいると私は思うのですが。