日本の政治権力の体制は権威と権力が別々に存在することが特徴とも言われています。江戸時代においては朝廷から権力を委ねられていた徳川幕府が明治維新によって権威はそのままに権力が薩長が主導する明治政府に取って代わったものでした。庶民にとっては権威・権力から指示される日々の生活の目標は江戸時代が「体制の維持」であったのに対して、明治時代は「西欧に追いつく」であったと言えます。
軍部が権力を握った昭和初期、昭和維新などと表現して二・ニ六や五・一五の際に軍部の若手が息巻いていましたが、これも権威は朝廷そのままに権力を政府から軍に委譲させることを目的にしていたといえるでしょう。このとき庶民に与えられた目標は帝国主義的アジアの盟主になることと言えたでしょう。
そして圧倒的な戦力差で敗戦を迎え、神の天罰かと思わせる原爆を二発もくらって日本は敗戦維新を迎えました。権威は朝廷から米国に移り、権力は米国の意を受けた官僚と保守政党が担うことになりました。天皇は象徴という表現で残りましたが「天の声」として議論を許さない「権威」ではなくなり、代わりに「米国の意向」が「天の声」として権力の後ろ盾になったのです。庶民に与えられた目標は「戦争からの復興」であり、アメリカ人のような生活が当面の目標とされました。
この「権威」と「権力」が分離していて、また「庶民の目標が明確であること」は日本の体制として非常に「座りが良いもの」でした。ジャパンアズナンバーワンなどと言われて、日本の経済力がアメリカをしのぐかと思われる状態になって庶民の目標が不明確になるとバブルがはじけて経済状態が悪くなっても庶民は何を目標にすればよいのかわからず「漂流状態」になってしまいました。
平成維新などという掛け声が政権から出されたこともありましたが掛け声倒れで「明確な目標」を示すことはできませんでした。日本の歴史から考えて、そもそも「維新」というからには「権威」と「権力」に変化が起きて庶民の新たな目標が明確になるものでなければいけないと思います。今米国の経済が凋落し、宗主国としての有無を言わさぬ「権威」がぐらついてきました。「権力」も官僚は米国の意を受けているように見えますが、民主党政権は菅・野田政権は米国寄りのようですが自民党政権ほど何でも言うことを聞く「権力」ではなくなってきています。21世紀に日本がさらに花開くためには「敗戦維新」によって作られた「権威」「権力」「庶民の目標」を作り替えるような維新体制の構築が必要なのではないでしょうか。
新しい「権威(天の声)」は再び天皇なのか、「中国」なのか、「中国をバックにしたアジア共同体」なのか、「国連」なのか、全く新しい権威を(天の声)として受け入れることは恐らく日本の国民性から無理だと思いますので今までに実在する何かが新たな「権威」にならないといけないでしょう。そしてその権威の意を受けた、或いは「権威」を担ぎ上げた「権力」が政権を取って全国民が納得して一丸となれるような明確な目標をかかげることができた時、「敗戦維新」を脱却して真の「平成維新」が達成されると思われます。