山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

目標が見えない・・・

2006-02-09 12:12:22 | 未分類過去
最近、私がパートで働いている会社の若い社員さんが何人か辞めて行きました。今回辞めた方たちは3年以下の勤務年数だったようです。
そして、欠員を埋めるために新しい社員さんがポツポツと入ってきています。
正規の社員もいれば派遣の方もいるようです。

自分の席のパソコンに、新しい人が入りますというメールとアドレスが連絡されてくるのですが、当人を紹介されるということがないので、女子トイレやロッカー室で出会ったりしたときに、新しい方ですか?などと声をかけて自己紹介しあうしか接点がありません。

新人さんらしき人が、昼休みなどに他の社員ともあまり会話をしていない様子をみて、こんなではさぞかし当人もさびしいだろうなあなどと思いました。
ところが、はたと気づいたのです。
この人は、私以外の人には紹介されているんだということを・・・。

つまり、私はパートタイマーで朝礼にも出席しないし、社員さんたちより一時間遅く出勤するのですから、私がいない間に必要な情報交換や交流がされているのでした。
だから、私が新人の方がさびしい思いをしているのではと思うのは、私の見当はずれでした。

自分から声をかけて自己紹介しあう中で、私はパートタイマーでどの部署でどういう仕事をしていますというような話をしたのですが、相手は、なあんだ、パートのおばさんか、と思ったんだろうなと思いました。
自己紹介なんかするのも、おこがましかったんじゃないかと後で思いました。

数ヶ月前に入社されて、毎日「すみません」を連発し緊張していた中年の女性社員も、今では堂々と中心的な存在となって活躍しています。最初は私のほうが会社のことを知っているような顔をしていたのですが、もうどんどん差つけられて手の届かないところに行ってしまっています。
その方は、同じ業界で5年も勤めてきたので、最初の頃はここの会社のやり方はわからなかったのですか、専門業務についてはプロであり、うちの会社で手がけて来なかった内容まで知っているので、最近は上司も非常に頼りにしている様子です。

私が日ごろ読んでいるあるブログに「何をするにも5~6年の熟成が必要」と書いてありましたが、確かにそうだなあと思います。
そうしたら、私は何を熟成してきたのか考えると、仕事では何にも熟成していないのです。
2~3年周期でいろんなことに手を出しては挫折を繰り返す人生でした。

パートとは言え、仕事に生きがいを見つけたいと思い、できる限り自分で会社の業務について勉強したいと思ってきたのですが、そんなこと会社側はパートのおばさんに全然望んでいないし、最初の契約時に言われた仕事だけをちゃんとこなしてくれていればそれでいいということなのでしょう。
それ以上に踏み込まれたら、かえって迷惑なのかもしれません。
だから、もし、自分で勉強するなら、それは同業種の会社に正社員として応募するという方法しかないと思えます。

しかし、実際に一線で働いてきたわけでもない主婦を雇う会社などあるわけもなく、近年中には一人暮らしの田舎の母の所に行き来することも考えているので、正規の社員などということは考えられません。

なんか八方ふさがりな感じがしています。
パートは適当に働きながら、様々なことに左右されない全然別のことを生きがいにする必要があるのかもしれません。
それが幻であろうと、何であろうといい、とにかく目標が必要です。

悔しいから、こうなったら仕事以外の部分で誰にも負けないものを身に付けたいものだなあなどと思います。
実務はできないけれど、その業界についての書物なんかを読み漁って、評論なんか書けたらいいのになあ、などと思いをめぐらしたのですが、それは甘い考え。

先日、女性社員の方が上司と専門書について話をしていて、
女性社員「ああ、その本私も読みました」
上司「あれ、なかなかおもしろいこと書いてあったよね」
ふ~む、私も読んでみたいけど、いった何ていう本かな?

それから、
上司「○○について調べてまとめておいてくれる?」。
「はい」といって仕事中にまとめている様子の女性社員。
その「○○」について、私も自宅に帰ってネットで調べて見たんですが、とてもとてもまとめることなどできない複雑な内容でした。

とにかく、何をするにも熟成期間が必要で、一朝一夕にはできるものではありませんね。
今になって何かを始めて熟成させるなんて、それはなかなか無理なことです。
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「遠い泣き声」(桐生典子)

2006-02-08 22:58:29 | 読書
あらすじ
主人公ふさ子は元女優であり、結婚しないで今は70歳を過ぎてひとりで暮している。
彼女には昔画家の恋人がいて、その相手との間にできた男の子を中絶した経験もあった。
彼女は、現在、「たまごっち」のようなゲームで恐竜を育て、その恐竜の世話と成長を楽しんでいた。彼女は家政婦を雇っていたが、その家政婦は恐竜に夢中になる彼女をボケてきていると思いこんでいた。
ある日、ふさ子の家に敦志という若い男性が、あなたの息子だといって尋ねてきた。そのふさ子は子供を産んだことがなかったし、その青年はどう考えても年齢も合わなかった。
しかし、ふさ子は青年を温かく家に迎え入れ、母子のように楽しく過ごすのだった。
その青年はふさ子の経営するアパートに住む大学生の由香里の友人の劇団員だった。由香里はふさ子の財産を狙い、実母と縁のなかった敦志をけし掛けたのだった。
敦志は、ふさ子をだまして演技していたのだとふさ子に打ち明けるのだったが、ふさ子は「わたしが相手役では不足だったのか」と答える。

ふさ子は、敦志が自分の子でないことを知りつつも、母子を演じる生活が楽しかったのだ。
そして、家政婦の芳枝と由香里が実の母子であることにも気づいていた。

ふさ子は70歳もすぎて、自分の過去の恋愛を現在のことのように思い出し、そして、母性に駆られていた。

その気持ちはよくわかるように思った。

この作品でも、過去に置き去りにしてきたものを取り戻そうとしているけなげな女性の姿が描かれていた。

この人の作品は、確かにすじの展開を楽しませてくれるものがある。
そして、テレビドラマにしたら不思議な魅力のある面白いものができるだろうなと思う。
3本立てくらいのドラマに仕上げたらいいと思う。

* * *

たまごっちは懐かしい。この作品は1998年のものらしいが、ちょうどその頃我が家でも子供たちがたまごっちやそれに似たものを育てていて、わたしも手伝ったりしていた。
ご飯やおやつを食べさせて、ウンチを片付け、病気になったら注射をし、寝たら布団をかけ、雨が降ったら傘、雪が降ったらマフラー、そして、あってむいてホイをして遊んであげる。恐竜やその生き物は育てられ方によって変身したり成長したりして、その寿命の長さもいろいろに変わる。単なるゲームなのに、本当に可愛くなってきて、死んでしまうと悲しみにくれたりした。

そんなゲームの中の恐竜育てにしても、過去の思い出には哀愁がある。
だから、本当の恋や過去に葬ってきた現実を今ここで仮想の世界に再現できるなら、しばらくはそれに浸りたいという気持ちは誰でもあるのだろう。
しかし、必ず現実に帰らなければならないし、過去は取り戻せないことを考えると、それに浸るのはやはり哀しい。
私は過去をとりもどそうとは思わない。
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翁の知恵

2006-02-07 19:11:52 | 未分類過去
天気予報のとおりに、朝起きると外は銀世界になっていました。

外に置きっぱなしの我が家の自転車には水っぽい雪が厚く積もり、高校に行く娘は手持ちのタオルでサドルとハンドルの上の雪を拭い落としました。
そして、娘は自転車を道路に引っ張り出すと、今度は車輪の間やサドルの上にかたまって詰っている雪を落とそうとしていました。
私は3階の窓からそのようすを見て、すでにいつもより3分も経過していることを確かめ、「そんなに丁寧に落としてると遅刻するよ!雪なんか、走ってりゃあ自然に落ちるでしょ!」と声をかけました。
娘は見上げると「うるさいっ!遅刻になんかならないよっ!」と言い、私をいらだたせるために、何やらわざと丁寧に雪を落としているようにさえ見えました。

そこに、ばしゃーんという水の音。
何かと思ってみると、娘から5メートルほど離れたところに男物の自転車があります。その自転車には雪はまったく積もっていません。というか、それは、一瞬のうちに雪が排除された自転車なのでした。
公営住宅の同じ棟に住む80過ぎのおじいさんが、共同水道からバケツに水を汲んで、それを雪の積もった自転車にぶっ掛けたのです。
思わず、「すごっ!」と叫んでしまいました。娘もおじいさんの自転車を振り返って、目が点になっているようでした。
おじいさんは、雑巾でサドルを拭くと、さっさと自転車に乗って出かけていきました。

娘は、まだそれから前カゴのなかの雪を丁寧に払い落としてから、やっと出かけていきました。

このおじいさん、最近ずいぶんと年老いてきたようで、危なげに見えることもあるのですが、時々かなわないなあと思わされます。

昨年の夏、うちは夫の母の新盆で、初めて迎え火というものをやってみたのですが、「おがら」というのを買ってきて、夫と共に火をつけようとしていたところ、全然うまくいかないのです。マッチを何本も使って広告なんかの紙を燃やして、おがらに燃え移らせようとするのですが、すぐに消えてしまうのでした。

そこに、例のおじいさんが平らな板とおがらを持ってやってきました。
私たちはずっと前から奮闘中だったので、「これなかなか燃えないもんですね」などと声をかけました。おじいさんは無愛想な人なので、何の返事もしないで、板の上におがらだけを置くと、いきなりライターかなんかで火を起こし、あっという間に燃やし終わって、無表情のまま「燃えたよ」と一言言うと、ほんのわずかな炭だけが残って載っている板を持って家に帰っていきました。
すごいっ!
その後、私たちはやっとおがらを燃すことに成功したのですが、おがらが燃えたと言うよりも主に紙を燃したという感じで、大量の広告紙の燃えカスとおがらの燃え残りが残ってしまいました。そこに水を掛けたので、後で地面の上の水にまみれた燃えカスを掃除するのが大変でした。こんなゴミ焼きみたいなやり方では、戻って来るおばあちゃんの霊もあきれてしまったのではないでしょうか。

「あのじいさんすごいね。昔は毎日、石や木で火を起こしていたんじゃないのかな」
「あのやろう、こっち見てバカにしてたみたいだぞ。くやしいけど、かなわないな」
と夫と話しました。




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「賞味期限まで」(桐生典子)

2006-02-06 18:48:05 | 読書
一言で言えば、「ドタバタ劇」だった。

主人公、安美がドラッグストアが好きで、ドラッグストアで何か買わなければいられないような精神状況になっていることは、ひとつの現代病のようである。
この作品に出てくる安美の家族は、近頃よくある典型的な家庭とも言える。
子供がすでに高校以上の年齢になると、家族はそれぞれ個人主義になって、勝手に暮しているような状況となる。

この作品でも、やはり夫婦は長続きするものではないという作者の考えが根底に流れているようである。若くして恋愛結婚した安美の父母も年を重ねると別の相手に引かれ、それぞれが愛人を持っているような状況である。
結婚相手でも愛人でもどっちにしても男女の仲と言うのは賞味期限があるようである。

両親にはそれぞれ愛人がいて、娘には知り合ったばかりの一目ぼれの男がいて、弟は家に寄り付かず自由にしている。親子は親と子ではなく友達のようである。そして、家族がてんでに自由に振舞って、混沌としている、あるいは崩壊しているとも言える家庭のようすがよく描かれている。今、多くの家庭が多かれ少なかれそんな要素を持ち合わせていると思う。家族の賞味期限も切れかかっているのかもしれない。
それで、なんかいやな気分になる。

匂いや汚れや病気や栄養失調やばい菌や、いろんなものに対処するために、ドラッグストアにはいろいろなものがあって、現代人はそれに頼る。
そういうもので対処すればなんとかなると思っているのだ。
しかし、すべてに賞味期限はやってくる。
賞味期限がないのは自然だけだ。

恋人の心にも、なついていた猫にも賞味期限があるなら、
その期限がきれるのを体験したくないと安美は思ったのだろか。
最後の場面は理解に苦しむ。
線路近くの工事現場に九条を突き落としてしまったのだろうか?

いやな気分が残る作品だ。
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「いちごの蜜」(桐生典子)

2006-02-05 22:55:12 | 読書
「いちごの蜜」は30代の結婚歴のある女性萄子と浪人生広哉との話。
広哉は年上の萄子の熟女としての魅力に惹かれていき、萄子もまた若く新鮮な青年としての広哉に好感を抱く。しかし、萄子は10歳以上も年上であり、数年の結婚生活の末に夫婦が別れるに至ったつらい経験などを持ち、若い広哉にはとどかない経験差があったといえる。広哉にとっての萄子はいちごの蜜のようなものだったのだろうか?
最後の場面で、広哉がいちごの甘く芳醇な香りに惹かれて箱のふたを開けてみると、その上一面にカビが生えていたとある。
そして、その香りはカビが生えるからこそ、そのような匂いを発するのかもしれない。カビといちごが一体化し酵素のようなものを発生させているのだろう。
この作品には、広哉のアパートにはびこるカビについて生物学のように描かれている部分があり、また、萄子の家のソファーを片付けたときに、その下からカビにまみれた男のネクタイなど、過去のものが現れたという場面がある。
カビの作用がなければ世の中のものは分解されないから困るという萄子のせりふもあった。

中年にさしかかった女性と若い青年というのは、たしかに惹かれあうものがあるなあと感じる。女のほうは人生経験があって、余裕を持って接することができる。悲しみや辛さを経験した上での優しさやおおらかさもある。男性は若さと将来性にあふれているとともに、男の力強さや分別も出てくるころで、女からみてもたのもしい。最初は年の差があるので、姉弟のように気安く近づくが、それが恋愛感情に進展することもある。しかし、やはり年上の女は様々な人生経験を積んでおり、青年にはそこの部分には入り込めないものがあるのではなかろうか。

この作品の萄子もまた、最初の夫と結婚はしたものの、数年で別れるという設定になっており、その原因は夫婦が別々のものを追い求めたからだった。
そして、夫はタイに行って、妻子をもうけて暮している。
仕事に生きたい女が、結婚した状況で相手から励ましや慰めをうけながら自分の夢を達成するということは無理なことなのだろうか。
萄子は最初の夫が自分以外の女と結婚生活を続けられたことを知る。そして、自分と同年齢の他の男が結婚を申し込んできても、自分が幸せな結婚生活を得られないことを直感している。そして、広哉のようなまだ一人前になっていない若い青年から見ても魅力的な女性であるものの、やはり萄子にはふさわしい相手ではないことを自覚している。

いちごの蜜というのはやはり「萄子」という魅力的な女性のことなのだろう。



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「洗う女」(桐生典子)

2006-02-05 01:25:34 | 読書
4作目に載っている「洗う女」。
読み始めは普通っぽい作品だなと思った。
母親と中学生のよくありそうな日常生活が描かれている。
しかし、読み進むうち、娘夏苗は離婚した前妻の生んだ子であり、3歳のときに再婚してから育てているのだということが判る。夫は単身赴任中で、姑は入院中であるらしい。
主人公梢子はどこか精神的ひずみがあって、家中の物の洗濯に高じているようである。

洗濯が汚れを流し去るという感覚はたしかに私にもあって、一時やり始めると熱心になってあれもこれも清めたくなるという感覚がある。
それから、娘が中学生くらいに成長してくると、母親を必要としながらも一種冷めた目で見るようになったりするのもよくあることだろう。
この作品の場合、娘は実母以上に継母をひとりの女性として見つめているのかもしれない。

この小説の中の事件は、10年前の結婚直前に梢子がたまたま初めて出会った他の男性と仲良くよりそって撮った写真を、娘夏苗が見つけて、その写真に10年後に同じ場所で同じ服装で会うというウソの約束を書いておいたのを、梢子が本気にして、実際にそこへ行ったというものだった。娘はいたずらでしたことが本気にされて、そのために昔の服を必死に洗ったりする母を見てとまどう。

梢子が、10年前に出会った男に会いに行こうと思う心理状態というのは、今の結婚生活の中のどこかにあるひずみと言うか空虚感に通じているのではなかろうか。
この人の作品は、何か過去に忘れ物をしてきているような印象を受けるが、それは、現在の空虚さの原因が過去にさかのぼったところから始まっているからで、主人公はいつもそれを突き止めようとしているかのように感じる。

恋愛の末に結婚しても、結局そこにあるのは現実の生活であり、単身赴任の夫の留守を守って、育児や姑の介護に明け暮れている。自分の子供はできず、仕事もクビになるから、力を注ぐ対象が洗濯になっていく。

10年前に出会った男に会いたいと思うのは、変な気があるわけでもなく、特に今の生活の満たされないものを埋めようとしているわけでもない。

「野の鳥は思い煩わない」という聖句の内容を口にしたその男性が、なにかまた答えを教えてくれるか、癒しを与えてくれるように感じたからではないだろうか。

野の鳥の聖句は私も聖書を読んでいた頃から印象深く思っていた。人生に貪欲な人間はほんとうに疲れ果ててしまう。野の鳥のように生きていくのが自然であり、何も計画することも奮闘することもなく、あるがままに暮していれば、食べていけるのだ。人は自分で自分を苦しめているにすぎないのではなかろうか。
しかし、日常の小さなことが、思い煩いに通じてしまうのが現実である。

梢子は自分の子を産みたいと不妊治療をしていたが、子供はできない状況である。
「緑の手」の公子は、若い頃結婚して子供をひとりもうけたが、再婚相手には子供がいない。交通事故のために子供が作れない体になってしまった夫であるために、もうひとり子供を作るために男性を貸してくれという。
「ブイヤベース」の中に出てくる友人の後藤夫婦は子どもを交通事故で亡くしてから一事夫婦仲が危うくなったが今は安定しているようだという記述がある。
こうやってみると、作品の中に子供に恵まれていないという共通点があるような気もする。

これらを読んでいると、家事にとりくむ無意識の主婦の行動の中に、うつろなものを発見してしまう。

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「ブイヤベース」(桐生典子)

2006-02-04 10:30:19 | 読書
「やわらかな針」に載っている3作目を読んだ。
この作品は、最初の2作より先に書かれたもののようである。
ここにきて初めて、これらの作品が一連の意味を持って並べられているらしきことに気づく。これらは日本語の題に続いて、「緑の手 gardening」「白桃 nursing」「ブイヤベース cooking」「洗う女 washing」・・・となっており、その他shopping, sewingなどもあって、この英語の部分はどれも主婦の家事に属するものであった。

そして、「ブイヤベース」を読んでみて、前の2作にもある一種の気味の悪さが、この作品にも同様に強く存在することを感じた。
そういえば、作品の中で必ず誰か死んでいる。そして、なまなましい生命体の描写がある。

「ブイヤベース」では、ブイヤベースを作る段階の魚やいかのハラワタをとったり切ったりする様とその対象物の様子が克明に描かれていた。
イカの吸盤・股の間の口・粘膜と贓物、パステルピンクに黄色いラインのある鮮やかな“いとより”、シーツから出ている白い脚のようなハマグリの舌。どれもが女の肢体を連想させる。
そして、飛び降り自殺をした、婚約者の元妻の姿がそれに重ねあわされている。
生きるものの肉体の生々しさと男女の日常生活の中に隠された残酷さが迫ってくる。

そして、それに衝撃を受けて、読後感ははなはだ気分が悪い。
できれば、そんなことには触れないで暢気に暮したい。

しかし、この作品は映像にしたらすごい芸術的な作品になりそうである。

すじ
美乃は年上の章生と婚約するが、後になって章生の妻が自殺をしていたことを他人から知らされる。妻の自殺の原因は女優になろうと必死になったものの適性や実力がともなわずノイローゼになったためであった。
しかし、友人夫妻を呼んでブイヤベースパーティーを開いた日に、美乃と章生の4年前の行動が妻の自殺の引き金になっていたことを友人の無意識の情報から知ることになる。自分が章生とオペラを見に行き、その肩を抱いている章生の様子を妻が知ることになったのが原因だった。それで、妻は誤解をしたらしい。

文には書いていないが、家事をほったらかしにして女優の道に夢中になり、うまく行かなければ愚痴をぶつけるという妻との生活に章生が焦燥感を抱いていたことは確かであろう。そして、本人も仕事が忙しい中で、ひと時、たいした関係もない若い女の肩を抱くくらいのあてつけをしたいという気になっただろう。
それが、妻が自身の命を絶つことにつながるということになったとしても、非難できることではなかろう。
美乃は自分がひとりの女の滅びに関わっていたという事実に気づくとともに、その男とともに生きることで、今度は同じ女である自分が滅びる可能性をも感じ、そうなるまいと決意している。

やはり残酷だと思う。

* * * * *

最近は、作品の中の衝撃やストレスに弱い。
テレビドラマの「白夜行」を見ていても、疲れ果ててしまう。
安らぎが得られないのだ。

精神が癒されるような作品を求めている。

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ブログ文化

2006-02-04 02:09:57 | 未分類過去
今夜はすごい風です。ビュービュー言って、おそろしいくらいです。
でも、明日、どこにも出かけなくていいという気持ちが、
安心でくつろいだ気持ちをもたらしています。

今週も週末がきました。
やっと来たという感じもするし、一週間は早いなあとも思います。

放送大学の試験が終わって一週間。
別の勉強をしなければいけないのに、ちょっと一息ついて、毎日小説など読んでいました。
といっても、短編ばかりなのでそれほど時間がとられるわけではありません。

しかし、読書は身を滅ぼすので、程々にしなければいけません。

最近、小説を読み始めたのは、少なからず放送大学の影響があります。
「近世の日本文学」を読んでいて、昔の感覚を呼び戻されたからでしょう。
やはり、小説の世界は面白いです。

「近世の日本文学」の教科書の中で最も記憶に残っていることは、
「東海道中膝栗毛」で十辺舎一九が、当時の読者の意見を聞きながら、それに答えて執筆したとの内容でした。
例えば、弥次さんと喜多さんは、道中にどうして月代(さかやき)を剃らないのかという読者の意見に、さっそくその場面を書いたとのことで、面白いなあと思ったのです。

作者と読者の相互のやりとりというのは、活力が出ていいですね。
テレビドラマなど、視聴者の反応を見て、内容を変更したりすることもあるようですが、現代は、情報が行き交うのが早いので、相互の意思の伝達というのはすぐにできるものとなっています。
そうしたら、良いものは良い、悪いものは悪い、面白いものは面白いと、瞬時に反応を知らせることができるではありませんか。

ブログなんかも面白いです。無料でいくらでも情報が発信できます。
また、受信もできます。私はいくつか愛読しているブログがありますが、毎日様々なひとの生活ぶりや考えていることがわかるので、とても楽しく人生の参考になります。その内容といったら、有名小説の内容にも劣らないようなことばかりですね。
一度も会ったことも無い人たちなのに、とても親しい人のように感じてしまいます。

いつか、日本文学史の中に、江戸時代に印刷術が発達したことによる文学のあり方の変化があったのと同じように、平成時代にインターネットによるブログ文学が発達したなどという表記が加わることもあるのではないでしょうか。
実際、ネットによって誕生した「電車男」などという名作もできていますね。
しかし、何も後世に残る作品のみが重要な文学作品であると言うわけではないのではないかと思うのです。むしろ、その時その日に、人と人が影響し合うことのできる文章が発生していること自体がすでに効力のある価値ではないでしょうか。

文学の新しい形の発生のしかたってすごく面白いなあと思います。

情報量もすごいですから、作品としたら質はどうなのかということはありますが、ひとつのすごい文化だと思います。

それで、私は現代文学の中で、
「評価されて本になって印刷されている作品」と「毎日生まれるナマのブログ」の両方を読んで、それ影響された自分の意思を発信して行きたいと思っています。



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「白桃」(桐生典子)

2006-02-04 01:15:59 | 読書
これは、なかなかおもしろかった。
まず、主人公「僕」がインフルエンザにかかり、その闘病時の体の様子が克明に描かれるところから始まっている。
その描写は巧みである。今の季節にちょうどいい読み物だ。
そして、意識の撹乱もあって、様々な記憶の幻覚が浮かんでくる。
発熱が病原菌を殺すための化学反応であるという分析も面白いし、インフルエンザは、大流行して何割かの人に感染すると必ずウィルスは減退するようにできている、などの言及も面白い。

そして、この作品のポイントは、ウイルスを撃退するための発熱=体が燃えることと、火事で家が燃えることが暗示としてつながっていることだろう。

内容を時系列に直すと
あるとき「僕」は妻の留守中に近所の家が火事になったので見に行くと、そこに仕事関係の知人である年若いモデル恵那がいて、燃えさかる家を美しいと言って見つめていた。
そのとき言葉を交わし、自宅が近いことを知った僕は、恵那があるとき仕事を休んだので家に行ってみた。彼女は風邪を引いていた。彼女は一風変わった子だった。その恵那に「僕」は白桃を食べさせた。その夜、もう一度恵那を見舞おうと思っていたところ、自宅に警察がきた。警察は放火犯を探しており、それは自転車にのった若い女のようだとのことだった。僕は恵那を思いおこし、その夜は恵那のところには行かなかった。
その後、僕は風邪を引いて、熱の中で数日前の火事や恵那の幻覚などを見ていた。
「僕」は妻と日ごろダブルベッドに寝ることに窮屈さを覚えたり、妻のおばさんぽいところなどを感じるようになっていた。インフルエンザにかかったときは、ちょうど妻と旅行に行く予定のときだったが、それで行けなくなり、妻は普通に看病してくれた。
熱も下がり始めた頃、妻が買物に行くと言うので白桃を頼んだ。妻は思いのほか遅く帰ってきて、すっきりした顔をしていた。ふと気づくと妻のスカートの裾の一部がこげていた。
妻は、あなたが白桃を好きだったとはしらなかった、と言った。僕は、僕が白桃を食べさせたのを忘れたのか?と聞いた。妻は覚えていないと答え、僕の動悸は早くなった。

恵那の性格を表す文面や、妻との日常のやりとりの文面がうまく描かれているし、放火したのが恵那なのか妻なのか両方なのか謎めいているところも面白い。動悸の原因が妻のスカートの焦げなのか、白桃を食べさせた相手を間違えたことか、両方なのか、これもおもしろい。

この作品には、満足した。


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「緑の手」(桐生典子)

2006-02-03 00:27:27 | 読書
この作家のことは、まったく知らないが、図書館で「太陽の季節」を借りるついでに、もう一冊現代小説を借りようと思って借りてきた。
棚のなかの題名にひかれて適当に選び出したのが「やわらかな針」という単行本であり、その中の最初に載っているのが「緑の手」である。

読後感を一言で言えば、「あんまり気持ちのいい小説じゃない」という感じ。
近藤比沙美という女性の目を通して従姉妹の津坂公子について描かれているものであるが、公子は植物を育てるのが好きであるとともに、自らが植物的な女であり、男を引きよせ、男を癒し、成熟ホルモンを発し、繁殖するというイメージを与える。
かんたんにいってしまえば、植物と女は似ている部分がある、あるいは女は植物にたとえられるというところであるが、女の性質や生殖機能から植物を連想するのは、妙になまなましいというか、まあ、私の趣味ではない、の一言である。
おそらく自分自身が津坂公子のようなタイプの女が嫌いだからであろう。
また、その女の脇にいるだけの比沙美という女は、まったくどうということもない女である。

本には何の解説もついていないので、評価も背景も何も判らないのであるが、この作者については、1958年生まれ、青山学院大学卒業、フリーライターを経て、作家となった、とのことである。この作品は1998年に「小説すばる」に掲載されたようだ。作者40歳のときの作品ということになろうか。中年女性の書いた作品。

作者の年齢は私よりわずかに年上であり、同世代であるといえる。
ちゃんとした大学を出て、自分の思うような分野で仕事をして、その道で生きている人なんだなと思う。
高校の同級生で、青学に進学した人というのは、英語などの勉強が良くできて、自分とは全く違うタイプの女子だった。当時はそういう人たちとはあんまり親しくしたことがなかったなあなどと、関係ないことを思ったりした。

* * * * *

日曜日に図書館で、「白夜行」と「けものみち」を探したら、全部貸し出し中でなかった。
やはり、ドラマで放送中のものは人気があるようだ。
高校生の娘の友人が「白夜行」の原作を読んだそうで、娘が分厚く字の小さい本だと言っていた。テレビドラマを見ているだけだと内容が把握できない部分があって、原作をよんでみたいなあと思う。

「博士の愛した数式」も原作を読んでから見ると良いと聞いた。書店ではすごい売れ行きだそうだ。そういうことを聞くと、あまのじゃくの私は、売上に貢献するのがいやになって、絶対に買うまいと思ってしまう。

しかし、どうせ読むなら読み応えのある小説を読みたいものである。




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「灰色の教室」

2006-02-02 12:57:17 | 読書
先日に引き続き、石原慎太郎の「灰色の教室」を読んだ。
これも高校生の話だが、かなり重厚な内容だと思った。中に「太陽の季節」のモチーフになったような樫野という登場人物(恋人を堕胎させて死なせた友人)などが出て来て、「太陽の季節」と同世界の物語だった。学生時代の処女作だとのことで、「太陽の季節」より先に書かれたものであるらしい。
沢山のものを詰め込んでいるという批評があり、「太陽の季節」のほうが高く評価されているのだろうかと感じるが、私にはこっちのほうが要素が多い分、内容も濃いように感じた。

この作品では、主人公の石井義久はやはりませていて遊び人であるが、一応必要な授業にはちゃんと出席しているという人間であり、本能の赴くままに楽しむ要素を多分にもちつつも素直な情愛や常識的な心をも持つ男である。
美和子を遊びではなく本当の恋人だと感じながらも、時にはうっとうしく思い、わざと苦しめて心をもてあそぶようなこともするが、最後には裏切らなかった。
つまり、義久もまた肉欲の末に美和子を妊娠させてしまうのであるが、父となり子供を育てていく道を選ぶ。これは、樫野が恋人を死なせてしまったという経験に学んでいるとも言えよう。
子供を堕胎しないという結論は、ビリヤードのゲームならルールに従うのが筋であり、玉の行方はそれに則ったなりゆきに従うという考えに基づくものでもあるようだ。その筋道が人間のとるべき道と相反することなく一致したため、義久は心の決意をするに至っている。

一方、この作品のもうひとつの重要事項としては、嘉津彦という自殺を繰り返す友人の話がある。この友人は生きているのが面倒くさい男であり、2回自殺を試みて死に損なっている。最初は人は自殺の原因などに非常に関心を持ったものの、2回目を失敗すると周囲はもはやそのことについては何の興味もしめさなくなっていた。しかし、本人の自殺願望は変わらず、本気であることを証明するためにも3度目を決意する。
そして、ビリヤードのゲームに負けたら自殺すると宣言し、わざとゲームに負けて、宣言どおり遺言はがきを友人たちに送ってまた自殺を決行する。
自分宛に遺言はがきを送られた友人たちは、彼の本気の決行を重く心に留める。
おそらく、ここで嘉津彦が死ぬというストーリーでも、読者が考える部分は大きかっただろう。
しかし、嘉津彦はたまたま、また自らの生命力で生き残った。
嘉津彦は意識を失う間際にこの世に心を残していることに気づき、彼の体は生きようとしていたのか。義久は嘉津彦が昏睡状態で苦しんでいる姿を見て、死ねなかったという格好の悪さ以上に彼の生きざまを見たのだった。
義久は、それまでもずっと他の友人以上に嘉津彦の内面をとらえてきていた。

この自殺願望というのは、現代の若者にもよくあると感じる。
何か苦しみがあるわけでもなく、特別な原因もないのに、何をしても生きがいを感じられない、生きていても楽しくないわけで、命に執着をもたない。そうなると死ぬことを全うすることが自分の生きる道だと思って、自殺をすることが生きる目的になってしまうのだ。
そんな若者が、昭和30年ころから描かれていたのだなあと思い、世の中はそのころから変わっていないし、今も同じテーマが続いていることを感じた。

この作品からは少し離れるが、「人が欲望のままに生きること、そして死にたいものは死に、殺したいものは殺し、殺されたものは運悪く、それらは自然の淘汰である」と考える若者を最近テレビの座談会のようなもので見た。自殺願望の若者も出ていた。
それに対して、「死んではいけない、命は大切だ」とか「働いて子供を育てていくのが人の道だ」とかいう普通の情熱と良識的な心をもつ人が多くいた。
この小説を読んでいて、そのテレビ番組が思い出されてしかたがなかった。
ドライな欲望というのは、若者の中に無くなることはなさそうであるが、やはり父になることを選んだり、死ぬことが恐くなって生きる道を選んでいくのが人としての歩みであろう。

義久の子供は、美和子が階段を踏み外して流産することになった。それは、自然の運命であったといえるが、義久はそこに割り切れないものを感じたとある。
自分が自由意志で命をコントロールできる環境においては、人はいくらでもドライになれる。しかし、生きたくても死んでいく運命の前では、人はドライに割り切ることはできない。

テレビでも、その座談会の中で不治の病に侵されて亡くなっていった人の最後まで生きた姿が放送され、それを前に衝撃をうけた人が多かった。
それを見てもなお、自分の命に関連付けられない自殺願望者がいたり、人の命を抹殺することをなんとも思わない冷血自己中人間が存在するであろうことは残念なことであるが、
やはり人は命の前に襟を正さずにはいられない。

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門限条例

2006-02-02 10:00:32 | 未分類過去
大阪で門限条例ができたという。いつもながらテレビの「とくダネ」でちょっと見た情報だが、条例の内容は中学生は午後7時、高校生は11時になっていたようだった。
全国的に見ると中学生の7時というのがまれな例で、厳しすぎるという意見が多いようだ。
たしかに、ちょっと厳しいかなとは思うものの、中学で遅くまで遊ぶのを覚えた子供たちは、高校になったら朝まで帰らなくなるのが普通だと思うので、夜遊ぶのは普通ではないという感覚を持たせるためにも厳しいくらいがいいのではないだろうか。このような話題は、望ましい生活習慣の意識化のためにもなるだろう。

私は門限条例には賛成である。
うちの高校生の娘なども放って置くと糸の切れた凧のようになってしまうので、なんとか11時までには帰宅させようと思っている。しかし、戻ってこないので11時すぎにメールをいれる。すると、本人からは帰宅途中だという返信が来るのだが、家に着くのが11時半もすぎるところをみると、まだどこかの店の中にいたということである。
うちの子の場合、自転車通学で部活を終えてそのまま仲間と夕飯を食べて遊んでいるので、学校から自転車で行ける範囲ではあるから、どう考えても30分程度で家に着くはずである。「11時に帰宅するなら10時半には店を出なければいけない。お前はそんな計算もできないのか」と言ってやるのだが、「はいはい、わかりました」などと言っていてまったく改善されないのである。友達と話が盛り上がっている中、自分から切り上げるのはなかなか難しいのであろう。

そんなことが週に3回以上もあると、やはり異常ではないかと思えてくる。
それで、都立高校の保護者会で先生や他の父兄に「一般的な基準」というのはどの程度だろうか?と聞いたことがあるのだが、別に世の中の基準とか学校側で考える規範というのは「無い」との返事だった。
・基準はその家庭家庭で決めるものだから、よその家は関係ないんじゃないか。
・今は高校生はオールもあたりまえですよ。
・この年代は親といるより、やはり友だちといるほうが楽しいからねえ。
・夜遅いと女の子は心配だから、かならず駅まで迎えに行くようにしている。
・夜中に帰ってくるならかえってオールして朝帰ってきたほうが安心じゃない?
等々であった。

これらの返事にはちょっとがっかりした。その家庭家庭の基準とは言っても、他の友達の家庭がオールでいいと思っているならば、どうしてもそれに同化して行ってしまうだろう。
また、安全ならば夜昼の区別無く出歩いていていいと言うわけでもないはずだ。
高校は高校で現実肯定というか、生徒が特に不道徳な事件などを起こさなければ放任でかまわない、すべて自由意志に任せるというような方針のようだった。

今は、ファミリーレストランも24時間営業だし、コンビニ・カラオケなど様々な店が夜昼の区別無く開店していて、夜中に出歩いている人も多く、深夜の恐さというのは全く感じられなくなっている。そういう状況では子供を家に戻らせようと思ってもなかなかできない。

どうやら、東京でも18歳未満は11時までというような条例があるようだが、まったく機能していないと言える。
知人の娘さんなども、高校生で深夜までピザ屋でバイトをし、それから同僚と遊びにいって2時過ぎに帰ってくるので、学校は遅刻ばかりしているとのことだった。
高校生を平気で夜中まで働かせる店があり、12時過ぎにも飲食し時間をつぶせる店がいくらでもあるのである。

ところで、この間いつものように「夕飯いらなぃ!」というメールを送って来ていた娘が、その夜めずらしく10時過ぎに戻ってきた。いつになく早い帰宅じゃないかと驚いたところ、マクドナルドにいたら、高校生は10時までだと言われて追い出されたそうである。
マックは偉い!と思った。
「ほらみなさい、高校生は10時までというのが、世の中の常識なんだよ、これからもこのぐらいに帰ってきなさい」と親も偉そうに言えるわけだ。

一般的に、店や遊技場は利益を追求するために、なかなか自ら客を制限したりはしないものだろう。
だから、自治体が条例を作って、ある程度の基準を定めてくれるのは、ありがたいことである。
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かなりやばい!

2006-02-01 21:41:31 | 未分類過去
今日、体重計に乗ってみたら、
え~っ!!!ウソでしょう!

なんと、60キロを示している。

何度も乗ったり降りたりしてみたが、やはり60キロである。
私の身長は157センチである。
服を全部脱いでみたら59キロになったが、
なんで、いきなり2キロも増えてるの?

1年位前までは54キロくらいだったのに、
この一年でどんどん太ってきて
最近は服を着て58キロくらいになっていた。

突然太った原因はわかっている。
おととい、友達と4人で居酒屋に行って
たらふく食べてビールもかなり飲んだ。
それが全部肉になってしまったらしい。
飲み会をすると、そのたびに必ず太って、そのまま元にもどらない。

それから、今の会社に勤め始めてからのこの一年、
ほとんど仕事中に動くことがないから、運動エネルギーを使わない。
他の社員もみんなこの会社に入ってから太ったと言っている。

本当にこのままじゃやばい。
明日からダイエットをする。
53キロくらいにはなりたいところだ。





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