山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

「いちごの蜜」(桐生典子)

2006-02-05 22:55:12 | 読書
「いちごの蜜」は30代の結婚歴のある女性萄子と浪人生広哉との話。
広哉は年上の萄子の熟女としての魅力に惹かれていき、萄子もまた若く新鮮な青年としての広哉に好感を抱く。しかし、萄子は10歳以上も年上であり、数年の結婚生活の末に夫婦が別れるに至ったつらい経験などを持ち、若い広哉にはとどかない経験差があったといえる。広哉にとっての萄子はいちごの蜜のようなものだったのだろうか?
最後の場面で、広哉がいちごの甘く芳醇な香りに惹かれて箱のふたを開けてみると、その上一面にカビが生えていたとある。
そして、その香りはカビが生えるからこそ、そのような匂いを発するのかもしれない。カビといちごが一体化し酵素のようなものを発生させているのだろう。
この作品には、広哉のアパートにはびこるカビについて生物学のように描かれている部分があり、また、萄子の家のソファーを片付けたときに、その下からカビにまみれた男のネクタイなど、過去のものが現れたという場面がある。
カビの作用がなければ世の中のものは分解されないから困るという萄子のせりふもあった。

中年にさしかかった女性と若い青年というのは、たしかに惹かれあうものがあるなあと感じる。女のほうは人生経験があって、余裕を持って接することができる。悲しみや辛さを経験した上での優しさやおおらかさもある。男性は若さと将来性にあふれているとともに、男の力強さや分別も出てくるころで、女からみてもたのもしい。最初は年の差があるので、姉弟のように気安く近づくが、それが恋愛感情に進展することもある。しかし、やはり年上の女は様々な人生経験を積んでおり、青年にはそこの部分には入り込めないものがあるのではなかろうか。

この作品の萄子もまた、最初の夫と結婚はしたものの、数年で別れるという設定になっており、その原因は夫婦が別々のものを追い求めたからだった。
そして、夫はタイに行って、妻子をもうけて暮している。
仕事に生きたい女が、結婚した状況で相手から励ましや慰めをうけながら自分の夢を達成するということは無理なことなのだろうか。
萄子は最初の夫が自分以外の女と結婚生活を続けられたことを知る。そして、自分と同年齢の他の男が結婚を申し込んできても、自分が幸せな結婚生活を得られないことを直感している。そして、広哉のようなまだ一人前になっていない若い青年から見ても魅力的な女性であるものの、やはり萄子にはふさわしい相手ではないことを自覚している。

いちごの蜜というのはやはり「萄子」という魅力的な女性のことなのだろう。



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「洗う女」(桐生典子)

2006-02-05 01:25:34 | 読書
4作目に載っている「洗う女」。
読み始めは普通っぽい作品だなと思った。
母親と中学生のよくありそうな日常生活が描かれている。
しかし、読み進むうち、娘夏苗は離婚した前妻の生んだ子であり、3歳のときに再婚してから育てているのだということが判る。夫は単身赴任中で、姑は入院中であるらしい。
主人公梢子はどこか精神的ひずみがあって、家中の物の洗濯に高じているようである。

洗濯が汚れを流し去るという感覚はたしかに私にもあって、一時やり始めると熱心になってあれもこれも清めたくなるという感覚がある。
それから、娘が中学生くらいに成長してくると、母親を必要としながらも一種冷めた目で見るようになったりするのもよくあることだろう。
この作品の場合、娘は実母以上に継母をひとりの女性として見つめているのかもしれない。

この小説の中の事件は、10年前の結婚直前に梢子がたまたま初めて出会った他の男性と仲良くよりそって撮った写真を、娘夏苗が見つけて、その写真に10年後に同じ場所で同じ服装で会うというウソの約束を書いておいたのを、梢子が本気にして、実際にそこへ行ったというものだった。娘はいたずらでしたことが本気にされて、そのために昔の服を必死に洗ったりする母を見てとまどう。

梢子が、10年前に出会った男に会いに行こうと思う心理状態というのは、今の結婚生活の中のどこかにあるひずみと言うか空虚感に通じているのではなかろうか。
この人の作品は、何か過去に忘れ物をしてきているような印象を受けるが、それは、現在の空虚さの原因が過去にさかのぼったところから始まっているからで、主人公はいつもそれを突き止めようとしているかのように感じる。

恋愛の末に結婚しても、結局そこにあるのは現実の生活であり、単身赴任の夫の留守を守って、育児や姑の介護に明け暮れている。自分の子供はできず、仕事もクビになるから、力を注ぐ対象が洗濯になっていく。

10年前に出会った男に会いたいと思うのは、変な気があるわけでもなく、特に今の生活の満たされないものを埋めようとしているわけでもない。

「野の鳥は思い煩わない」という聖句の内容を口にしたその男性が、なにかまた答えを教えてくれるか、癒しを与えてくれるように感じたからではないだろうか。

野の鳥の聖句は私も聖書を読んでいた頃から印象深く思っていた。人生に貪欲な人間はほんとうに疲れ果ててしまう。野の鳥のように生きていくのが自然であり、何も計画することも奮闘することもなく、あるがままに暮していれば、食べていけるのだ。人は自分で自分を苦しめているにすぎないのではなかろうか。
しかし、日常の小さなことが、思い煩いに通じてしまうのが現実である。

梢子は自分の子を産みたいと不妊治療をしていたが、子供はできない状況である。
「緑の手」の公子は、若い頃結婚して子供をひとりもうけたが、再婚相手には子供がいない。交通事故のために子供が作れない体になってしまった夫であるために、もうひとり子供を作るために男性を貸してくれという。
「ブイヤベース」の中に出てくる友人の後藤夫婦は子どもを交通事故で亡くしてから一事夫婦仲が危うくなったが今は安定しているようだという記述がある。
こうやってみると、作品の中に子供に恵まれていないという共通点があるような気もする。

これらを読んでいると、家事にとりくむ無意識の主婦の行動の中に、うつろなものを発見してしまう。

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