山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

「頁」という字

2008-02-29 00:39:51 | 未分類過去
今までも不思議に思っていたんだけど、この文字を見て何と読みますか?
ページ
ページですよね
少なくとも意味はページです。
でも、それって英語でしょう。
正式には何か日本語で読み方があるのかな~と思ったんですが、
漢和辞典で引くと、音読みは「ケツ」となっています。
漢音「ケツ」、呉音「ケチ」、そのほかに「ヨウ」とも読むらしいですが、そんな読み方をしているのを聞いたこともありません。

この文字、パソコンで「ページ」と入れればちゃんと変換されます。
「ページ」以外に何と入れたら変換されるでしょうか?
音読みのケツなどでは出てこないようですよ。

そのほかに、何か取っ掛かりはないかなと思うと、
この文字って部首では本当に身近なものですね。
部首名は「おおがい」です。「いちのかい」とも言います。
頁のつく漢字は非常に多いですね。
頃・頂・項・須・順・頑・願・領・頭・額・顔・頬・頸・頚・・・・・もう数えきれませんよ。
アタマやクビに関係する文字に多いと思ったら頁自体にかしら・こうべ・あたま・くびすじ・うなじ等の意味があるようです。
ページはアタマとは関係ないようですけどね。
部首名の「おおがい」と入れても「頁」には変換されませんでした。

漢和辞典(新字源)の音訓索引では「ぺーじ」とひらがなになっていて「頁」が載っていました。

「ページ」という読み方は「俗」となっていますが、まあ、訓読みは「ぺーじ」ということでいいかな?と思います。

こういう漢字、他にもあるのかな?
熟語だと「麦酒」「煙草」などありますけどね。
本当に漢字は奇異なものですね~
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地球のおいたち

2008-02-28 22:27:22 | 環境
今日はテレビで、太陽系で新しい惑星がみつかったかも・・、とかいう話をしていた。
水金地火木土天海のそのもっと遠くに惑星Xがあるとかいうことだが、軌道が少し違うとかなんとか、詳細はよくわからない。とにかく、太陽からずっと遠くは離れているので、光も届かず非常に温度が低いため、生物がいることは期待できそうもない。冥王星は惑星ではないことになってしまったが、そんな遠くにまた別の地球の兄弟がいたのか・・・。

ところで、環境の勉強をしなければいけないのだった。

次はちょうど、「地球の生い立ち」についての勉強だ。

今から約150億年前、ビッグバンという大爆発によって宇宙が誕生したのだそうだ。
そして、50億年前に太陽系が形作られた。
そして、46億年前に地球ができた。
そして、41億年くらい前に地球に陸と海ができた。
海には生命体である原始バクテリアが発生し、27億年前に光合成を行う生物が現われた。
そのころ、地球の大気には酸素はなかったが、その生物が光合成によって酸素を発生させた。光合成とは、太陽エネルギーによって、植物が水と二酸化炭素をもとに栄養分を作りそのときに酸素を発することである。
その酸素によって、約6億年前にはオゾン層が形成された。
オゾン層によって、生物に有害な紫外線が吸収されるようになり、生物が陸地に住めるようになった。
その後、様々な植物や動物が生息した。
繁殖し絶滅した動植物が化石と成り、石油や石炭・天然ガスなどの化石燃料となった。
そして、約450万年前になって、やっと人類が登場した。

地球発生からの46億年を、仮に1年間として考えてみると、1月1日に地球誕生。
5月に光合成を行うバクテリアの誕生。11月にオゾン層形成。
11月末に地上に動植物。12月31日夕方に人類誕生。ということになるそうだ。

こうやって一生懸命生きてきた地球。
まるで、人間が生活するために準備されてきたかのようだ。
それを人間が破壊してしまうなんてとんでも話である。
やっぱり、この美しい地球を大切にし、守らなくちゃいけない。

以上、「eco検定ポイントレッスン」(技術評論社)P22.23で勉強しました。
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水曜は中日

2008-02-28 00:50:33 | 未分類過去
本日、水曜日が終了。
あと2日だぞ~
水曜日は真ん中の日なんだ。
この日が終わると、もう2日しかない。
もう1週間も終りだ~
いや、あと2日もあるともいえるけどね。

今日は、本当に疲れた。
夫がいないことをいいことに、
帰宅してカレーパンを食べて腹ごしらえしたら、
急に眠くなり、テレビをつけたままうたたねをしてしまった。
8時半ころ専門学校の娘が帰宅。
それから、急いでカツ丼を準備。
カツは揚げたのを買ってきてあったから、簡単だ。
娘はドンブリが好きなんだ。
だから、夫がいないときは、鰻丼なんかも簡単でいい。

ところで、夫がいないと風呂がわいてない。
娘がブーブー言っている。
ダメ母だ~

考えてみると夫はきれい好きのようだ。
毎日風呂を沸かし、毎日入り、毎日髪の毛を洗う。
リセッシュだかのコマーシャルで、お父さんの枕は3日で臭くなるというようなことを言っているが、うちの夫の枕は3日で臭くなるようなことはない。

夫がいないから、9時ごろになって急いで沸かした。
(ちなみに、うちはガス釜の旧式な風呂です。)

仕事の話に戻るけど、今日は超超忙しかったんだ。
昼休みも半分くらい仕事をしていた。
1時間半残業し、社員がぞろぞろ帰って行くので、私も切り上げた。
明日の午前締め切りのを今日中に終えておきたかったけど、やりきれなかった。
6時間文を読んでると、さすがに目の焦点が合わなくなってくる。
休憩が必要だと思うけど、なかなか休んでもいられない。
目に限界がくるのは年のせいかな。

会社は年度末の追い込みに入っている。
今までのんびりしすぎていて、予算が達成できていないそうだ。
それを最後に取り戻そうって考えだったんだけど、
今となっては無理らしい。
いつもの2倍働くわけにもいかないから、たとえ仕事が入ってきても、物理的に消化できないらしい。
でも、私にできることは自分のところにきた仕事を溜めないで消化し、次の工程にスムーズに渡すことである。
そうすれば、いくらかでも仕事が速やかに進んで、それが収益の増加につながるかもしれない。

というわけで、明日もまた頑張ろう!







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持続可能な社会

2008-02-27 00:20:47 | 環境
まず、「持続可能な社会」とは何なのか?
環境のことを考えると、地球がどんどん温暖化してしまったら、人間は生きていけないから持続が不可能となる。石油を使い果たしエネルギー源がなくなっても持続不可能。原子力発電をして放射性廃棄物がどんどん増えていったら、それも持続不可能。食べ物がなくなるのも持続不可能。ごみが処分しきれなくなって街中にあふれたら、持続不可能。
子どもが生まれなくなって老人ばかりの社会になっても持続不可能。戦争で殺人や破壊行為が続いたら持続不可能。貧しい国があって疫病が流行ったら持続不可能。
etc.etc.
だから、そういうものを解決して、やっと「持続可能な社会」「持続可能な地球」ということになるのだろう。
あまりにもあたりまえで、いちいち書くまでもないことでしたが・・・。

それで、対策としては、
まず、環境に関連した国内法や、国際的な条約などを守ること。
省エネや資源の循環方法などに関連した技術を開発し、普及すること。
そして、個人個人の意識改革が大切、ということになる。

まったく教科書のようで、あまりにもあたりまえであり、おもしろくもなんともありませんが、やはり教科書にかいてあることは、そのまま正しく、重要なことです。
だから、これにしたがって頭を整理することにしましょう。

国内法としては
2003年、平成15年に「環境教育推進法」が施行されたそうです。
しらなかった~!
この法律は環境保全活動や環境教育についての基本理念を定め、国民や民間団体、公共団体の役割を示しているそうです。

国際的なものとしては
2002年、平成14年にヨハネスブルク・サミット(持続可能な開発に関する世界首脳会議)があり、「持続可能な開発のための教育(ESD=Education for Sustainable Development)が提案され、この年の国連総会では、2005年から2014年までの10年間を「国連持続可能な開発のための教育(ESD)の10年」としたそうです。ESDは環境問題のみならず、開発・貧困・資源・人口・ジェンダー・保健衛生・平和・人権なども包括した教育だそうです。

日本は、平成18年3月から“わが国における「国連持続可能な開発のための教育10年」実施計画”をたてたそうです。←これも知らなかった~!

持続可能な社会とは
環境問題のみならず、経済や社会が総合的にバランスよく発展した社会であり、地球の生態系が健全に保たれ、それが将来にも引き継がれていく社会ということだ。

まとめ
持続可能な社会を構築するための取り組み。
・自然保護・公害防止・リサイクルなどに関する国内法
・京都議定書などの、国際的条約や合意
・省エネルギーや資源循環性などの環境に配慮した技術の開発・普及。
・個人の意識改革
があげられる。

眠いところ、私の勉強にお付き合いいただきありがとうございます。
以上、「eco検定 ポイント集中レッスン」(技術評論社)P20~21より勉強させていただきました。





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Think Globally, Act Locally

2008-02-25 00:17:34 | 環境
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“Think Globally, Act locally”
「地球規模で考え、足元から行動せよ」
これは地球環境問題を考えるための有名な標語だそうだ。

「環境について」
この課題は、あまりにも現代にとって大きい問題で重要なことだが、それゆえに、なかなか捕らえきれない。
あまりにも問題の規模が大きく、しかし他人事ではなく身近なもので、あまりにも深刻すぎるゆえに、かえってどう対処したらいいかわからない。
自分がわずかな省エネルギーやリサイクルを心がけたところで、「焼け石に水」という気もしてしまい、後伸ばしにしてはいけないことであるのはわかっていながら、なかなか手をつけられないのが、私自身の現状だった。
でも、今こそ、ひとりひとりの人間が行動にうつさなければいけないときなのだ。
それが、この時代に生を受けた人間の務めなんだと思う。

それで、もう一度同じことを書く。

「“Think Globally, Act Locally”は、地球の環境問題を考えるための重要な標語である。
地球問題は、単に知識として理解しているだけでは意味がない。
地球規模で考え自らの問題として、自分の足元から実行していくことが重要である。」

今、環境問題として話題になっていることの1つに、中国が経済発展のために、環境を顧みずに産業を発達させたり、都市を開発したりしていることがある。農薬の問題もそうだが、大気汚染や水質汚濁もかなりひどいらしい。
しかし、経済を発展させるために環境が犠牲になるのはしかたがない、という考えはまちがっている。日本も過去には公害の問題も起きたことがあったが、それを改善して現在に至っている。その公害が必要悪であったのではなく、未経験だったから起こったことであろう。中国は日本が経験しこれまでに環境のために取り組んできたノウハウなどを学び、日本の技術を取り入れるなどして、環境を破壊しないクリーンな方法を行うことがいくらでもできるはずである。そのためには日本も協力するし、投資家などは、そういう心がけのある中国企業に対して、融資などもしていきたいと考えるのではないだろうか。

環境問題は大きなテーマなので、少しずつ勉強していきたいと思う。
とりあえず、eco検定の本(「eco検定ポイント集中レッスン」技術評論社)の内容にそって、自分の考えもおりまぜながらまとめて行きたいと思っている。

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風がやっと止んだ

2008-02-24 23:40:59 | 未分類過去
2日間の強風が、今日の夜になってやっとやみました。
昨日は春一番だったそうですが、ぜんぜんかわいくない春一番でした。
危険なものが飛んでくるんじゃないか、自分が飛ばされるんじゃないかと、恐怖を感じる春一番でしたよ。電車も止まっちゃうしね。

ものすいごい風と砂埃のせいで、ベランダに洗濯物も干せません。
洗濯機の上もほこりまみれでした。
洗濯中にベランダに洗濯カゴを置いたら、5分もしないうちに砂だらけになってしまいました。
洗濯物は家の中に干しましたが、全部は干しきれないので、洗濯をしないままのものが残っています。

この週末は、ダイエットのために本格的ウォーキングでもしようと思っていたのにそれも中止です。
昨日はちょっと買物に出ましたが、ちょうど帰りにものすごい風が吹いてきて、目も開けていられないくらいでした。竜巻でも起こるんじゃないかと思ったくらいで、やっと家にたどりつき、中に駆け込んで、それからは2度と外には出ませんでした。

しかしね、風がやむときってどうなってるんでしょうね。
いつ止んだんだか不思議です。
だんだん弱まっていくものでしょうか、それとも一瞬にして吹かなくなるんでしょうか。
吹き始めだっていつから吹き始めたのかと思います。
ただ、昨日は出かけるときは普通だったのに、帰り道でいきなり大風が吹いてきたのを覚えています。
コンビニの店員さんが、ちょうどゴミ箱のゴミを片付けて新しい袋をセットしようとしていたのですが、替えのゴミ袋が天高く飛んで行ってしまいました。
ゴミ袋ははるか遠くに飛んで行き、もしかして車の走る道路にでも舞い降りたかもしれません。あぶないあぶない。
いきなり吹き始めるのなら、いきなり静かになるのかもしれませんね。

結局、この2日間は何もしない休日でした。
明日からまた仕事です。
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わかったこと

2008-02-24 18:20:38 | 未分類過去
求めると答えが得られるっていうのは、本当なんだな~
と驚いているしだいです。

江原さんの本を読んでいたら、私の場合、「適職」と「天職」をごちゃまぜにしていることに気がつきました。

「適職」とは、自分が持っている資質の中で、「お金を得ることができる技能を生かした職業」のことだそうだ。
一方、「天職」というのはお金とは関係なく、自分のたましいが喜ぶことなのだそうだ。
その両方のある人が充実した人生を送ることができるのだろう。

私の場合「適職」は今の文書校正の仕事であり、これは安いながらも一応安定した収入を得られる状況になっている。経営者側から見て、私くらいの働きの人間に対して正社員と同じ給料を払う価値があるかどうかと考えたら、微妙なところだろうな、と私自身思うわけだ。社会保険をつけてくれるだけでもありがたいというべきかもしれない。正社員に昇格するなら、誰から見てもはっきり感じられるほどの、それ相応の活躍をしなければいけないと思う。そして、そういう活躍の見通しが自分自身にも期待できないというのが最近の自分に対する問題だった。これ以上どういう成長のあり方があるのか、いきづまりを感じているのだ。しかし、これはこれでこのまま適当に成長しつつ、収入を得ていればいいんだ、という思いに至った。こっちは「適職」なんだ。
そして、これは私の「コリドラス」の部分なんだ。

一方、私は「天職」をみつけ、それに力をいれなくてはいけないんじゃないか?こっちは収入なんか関係ない、自分の魂が喜ぶことである。
これについては詳しくは書かないが、つまりこっちの部分は「山本飛鳥」の部分だと思う。

だから、「がんばれコリドラス」じゃなくて、「がんばれ飛鳥」ということで、力を入れてみようかと思ったしだいだ。
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花を飾ること

2008-02-24 16:50:20 | 未分類過去
江原さんの本を読んでいたら、家の中に観葉植物などを置くのはよいことだそうだ。
そこから生命の浄化力のようなものが発生するのだろう。

我が家は非常に狭いので、観葉植物を置くような場所がない。
置けるのはせいぜい仏壇の切花くらいなのだが、それもお金の節約のために切らしていることが多い。
会社帰りに花屋さんの前を通り、きれいだな~何か買おうかな~と思っても、ついついけちってやめてしまう。最近も桃と菜の花の束に惹かれたが、けっこう高いのでやめてしまった。それで、今仏壇の花びんの中には、正月の花束の中にあった千両の葉っぱだけが残っている状態だ。

でも、本を読んでいて、ふと気がついた。
たとえば、月に1000円は仏壇の花に使おうと思って、そこに予算を取るならば、けっしてそれ以上にはならないわけだ。例えば、500円の花を2週間に1回買うとすれば、それである程度の日数、花を飾っておくことができる。
1000円というのは、ほぼ私の時給だから、月に働く120時間のうちの1時間分の労働を花を買うために働くとしても、ほんとうに大したことではないのだ。

父の命日は1日、義母の命日は14日だから、その日に合わせるといいかもしれない。
あるいは、もっと小さくて安い花を毎週買うのでもいい。一輪だっていいはずだ。

いつもいつも花を買う余裕はないと思いつつ、花を飾らずに暮らしていることが、心のまずしさにつながっていることに気がついた。

本当に花を買うお金がないほど貧しいわけでもないのにね。

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神秘的な出来事

2008-02-24 01:52:18 | 未分類過去
今、江原啓之さんの「スピリチュアルワーキングブック」を読んでいる。
なんとなく、仕事の方向性に不安を感じるからでもある。
本屋さんでばったり出会って買ってきた。
「適職と天職の違いについて」また「働けることへの感謝」など、考えてみればあたりまえのことながら、大切なことを忘れ、自分よがりな考えをしていたなと気付かされることもあった。

この本には、オーラの泉に出てくるような、前世とかの話は出てこないのだが、
スピリチュアルなというか、精神的な、そして何か計り知れない神秘的な力を感じることがあるということを思い出した。

私は守護霊というものを感じることがある。自分が求めている物事にタイミングよく出会うということも少なくはない。

ところで、私は中国というものには何か深い関係があるように感じることがあった。どう考えても、欧米ではなく、中国方面に魂が引き寄せられるのだ。
私は中国の人とは数人、個人的に付き合ったこともある。
魯迅と日本留学時代の藤野先生のことも、中国人から教わった。

それで、以前魯迅の小説を読んでいたことがあったのだが、そのとき、深夜に小説を読み終え、その作品について魯迅自身が書いた添え書きのようなものを読んでいた。

そして、そこに日付が記されていたのだが、なんとその日付が偶然にも私がそれを読んだその日と同じだった。

鳥肌がたちました。
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呼び覚まされる無限の記憶

2008-02-24 01:19:44 | 未分類過去
人間の脳ってのは、自分が見たものを克明に覚えているものだ、というのを聞いたことがある。実際には記憶にないと思っていても、実はテレビ画面のように、その隅に映っているものさえ脳裏に記録されているとかいう。
それは正直言って信じられない。そのときに意識もしないものが脳裏に焼き付けられているはずはない。

しかし、自分の視界に入ったもののうち、無意識のうちに記憶されているものがないとは言えない。

だから、目を閉じてじっと思い起こすと、映像として記憶によみがえってくるものがあるのだ。
たとえば、「なかまゆきえ」ってどういう字を書くんだったかな?と思った時に、目をつぶると、テレビドラマの字幕なんかが思い出されてきて、そこに仲間由紀恵という文字が浮かび上がる。由紀絵でも由紀枝でもなかったということが、映像として現われるのだ。
これは、視覚のみならず、聴覚の記憶でもあることだろう。

私が不思議だと思うのは、毎日仕事をしている最中に、過去の視覚の再現が起こることが度々ある。それは、仕事で文書を読みながら誤字や脱字を探しているときに起こるのだが、何年も前に仕事で街中を歩き回っていたときの映像が脳裏に現れるのである。
それが、そのときそのときによって違う場所であり、どこかの路地の景色だったり、ビルの前だったり、あるマンションの廊下だったり、川べりだったり、公園だったりと、それはそれは様々な景色が勝手に映し出されるのである。
私は文章の内容も一応追っている。しかし、その文章の内容と景色とは、何かの言葉の連想でつながっているわけでもなく、無作為に出てくるものだから、どういう相関関係があるのかさっぱりわからない。
読んでいる波長と歩いている波長が同じなのかなと思うこともある。

そして、出てきた景色が、どうして記憶に残っていたのかもまるでわからないのだ。とくにそこで何か出来事があったわけでもなく、印象深い場所であったわけでもない。その場所を覚えていたという意識もないのに、どこかしらその歩き回った様々な場所が出てくるのである。
ということは、やっぱり私の脳みそは数限りなくすべての歩き回った景色を記憶しているのかもしれないと思う。
思い出される景色は、必ず歩き回る仕事をしていたときのもので、そのほかの仕事や遊びで出かけて行った景色が現われることはない。

黙々と歩き回ることと、黙々と読み続けることは、脳波に共通するものがあるのかもしれない。

そして、もしかしたら今度は、私の脳みそは読んでいる文書の中の言葉を、数限りなく覚えているのかもしれない。
今度、別の仕事をしたときに、つぎつぎに文書の言葉が現われたりしたらどうしよう。

記憶力がなくて困っている私であるが、無意識のうちに記憶されるものが無限にあると思うと、不思議でもあり、恐ろしい気もする。

記憶していないと思うのは、実は記憶していないのではなく、記憶したものが意識の上に出てこないだけのことなのかもしれない。

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好きな演歌は

2008-02-23 13:13:12 | トラックバック練習・ご意見板
基本的に演歌には興味がない。
でも、「演歌」と言われて思い浮かべたのは、
八代亜紀の「舟歌」だった。

お酒はぬるめの燗がいい~
~~中略~~
沖のかもめに深酒させてよ~
いとしいあの娘とよ~朝寝~する
だんちょ~ね~

演歌にまるで興味の無い私でありながら、
この歌は、最初から最後までがだいたいわかっている
というめずらしい歌である。

私が演歌を聴くのはだいたい大晦日の紅白歌合戦のときだけである。
大晦日に限っては、不思議に演歌が似合う空気が流れている。
それで、違和感なく演歌を受け入れることができるのだ。
それでも、普通はメロディーや歌詞を覚えるまではいかない。

「舟歌」は阿久悠作曲、浜圭介作詞の歌で、1979年(昭和54年)のものらしい。
かなり古いものだな~

そのほかに思い出す演歌というと、
雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ~
というのがある。

これも八代亜紀。

調べてみると、1980年レコード大賞を取った曲で、やはり阿久悠と浜圭介が作ったものらしい。「雨の慕情」という題名らしい。

あれっ、もしかして、私は八代亜紀の歌が好きなのかな?


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ホワイト犬の声

2008-02-23 12:16:52 | 未分類過去
鹿の声と同様に、“声の主が知りたい”ということでは、ソフトバンクのホワイト家のお父さん(=ホワイト犬)の声は誰がやっているのか?というのが私の関心事だった。
これは、「普通のおじさんの声」に聞こえる。

あるブログによると、このお父さん犬の声、どうやら「北大路欣也」さんらしい。
北大路欣也さんにしては、あまりにも普通のおじさんっぽくて意外だった。

あのCMは、高感度ランキングでかなり上位に上がっているそうだ。私も好きである。

犬は柴犬の兄妹2匹を使い、オスはカイ、メスはネネというのだそうだ。
入浴中のシャンプーをしてもらっている気持ち良さそうな姿がすごくかわいかった。
最近の旅バージョンもいいね。


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意欲と結果

2008-02-23 10:04:33 | 未分類過去
意欲と結果は一致しないことが多い。
意欲ばかりあって一生懸命やっているが、空回りばかりしている人。才能や素質がない。または、「金」がない、環境に恵まれていないという場合もある。
一方で、大して苦労もしないのに、才能や環境に恵まれ、とんとん拍子にその道の主役となっていく人というのがある。

短大の同級生にアナウンサーになった人がいた。
その人っていうのは、少なくとも外から見たところでは、あんまり意欲が見える人ではなかった。夏休みなどの長期の休みのあとはしばらくは学校に出てこないという暢気な感じの人である。
でも、容姿は美しく、知的で、そして声もきれいだった。あまり血気盛んでなく自己主張しないところが、すっきりしていていやみがなく、逆に中立的アナウンサーに向いていたといえるだろう。
私は、こういうタイプの人にはある意味あこがれるが、自分とは異質なので、実際には親しい友人にはなれず、一歩はなれることが多い。
だから、入学式のときから魅力的な人だなと内心非常に関心を持っていて、在学中にアナウンスの学校に行っていることも人づてに聞いていてさらに注目したが、本人とは必要以上に話したこともなく、そ知らぬふりをしていた。

私は密かにアナウンサーのようなものになりたいと思っていたが、短大と平行してアナウンスの学校に行けるような経済状態ではなかった。
そのひとは地方の出身だったが、短大からは1時間くらいもかかるような、アナウンスの学校の近くに住んでいるとのことだった。普通地方出身者は短大周辺のアパートを借りているか寮に入っていたので、自宅通学でもないのに遠くに住んでいる人は珍しかった。
もう、短大に入るときからアナウンサーになるつもりであり、短大には力を入れず、そっちに力をいれていたのかもしれない。

それで、卒業と同時に地方都市のテレビ局に入社したのだそうだ。そして、テレビにも出ていたはずだが、地方のテレビなので見ることはなかった。

短大時代の私は、漠然とアナウンサーや俳優のようなものを思い描きつつ、演劇部で発音練習をしたりしていたが、それは何にもならなかった。
今思えば、遅ればせながらも、会社に勤めてからアナウンスの学校に入ったのは、その同級生の影響かもしれなかった。

その人は早くから、やるべきことをちゃんとやっていたのですね。
たぶんその人は、今頃、品のよい賢い奥さんになっていると思います。

ネットで名前を検索してみると、地方テレビ局の「過去に在籍したアナウンサー」のところに載っていました。


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アナウンサー志望

2008-02-23 00:59:42 | 未分類過去
実は、私は昔アナウンサー志望だったんだ。
それで、短大を卒業したあと、OLをしながらボーナスを使ってアナウンスの学校に通ったことがある。日曜コースってので、朝から夕方までだったかな。
基礎科、研究科と進んだ。そのあと専攻科ってのがあったと思うが行かなかった。学費が尽きたってのも進まない理由だった。

アナウンサーってのは、新卒じゃなきゃ採用がないということだった。だから、大学生で希望のテレビ局などに就職できなかった場合は、わざと留年して卒業をせず新卒状態を保って翌年また受けるほうがよいとのことだった。

でも、こっちは大学生と同じ年齢ながら、すでに卒業していたので、そんなの関係なかった。
同期には社会人も多かった。そういう人たちは、テレビ局の女子アナなんかには到底なれない。通販やCM(番組の途中で商品説明をするやつ)をやったり、結婚式の司会やデパートの屋上の催し物の進行役なんかをやることになるらしい。それでもアナウンサーの端くれだ。夜中中道路交通情報を読み続けるなどというのもある。

同期の男性の中には、飛びぬけて声も雰囲気もよくオーラのある人がいた。そのひとはK大生だったが、後にテレビ朝日のアナウンサーになった。先生はその人にはあまり技術を教え込まず、そのままで行ったほうがいいと言っていた。新鮮味や新人らしさを失うとかえって就職試験に受からないのだそうだ。
その人がテレビに出て、最初高校野球の甲子園ニュースに出ているのをみつけた。やっぱり華々しくちゃんとしたアナウンサーに成れたなと感動した。
そして次第に活躍の場を広げて行った。でも、その後フリーになり、他局の番組の司会などもしていたようだが、最近はあまりテレビでは見なくなった。

私がアナウンスの学校に行っていた頃は、さすがに発声や発音は以前よりもきれいになったと思ったが、私の場合ラ行の舌がちょっと甘いのだそうだ。だから、アナウンサーよりは声優がいいのではないかとある先生に言われた。それが、一種の魅力になるそうだ。
その学校には声優コースもあったが、学費はちょっと高かった。それに、声優だけっていうのは基本的にはあまりいないということをどこかで聞いたことがあった。やはり自分で演技をしながらせりふを言うという基本があってこそ、声のみの演技もできるわけだ。

私の場合、小説と評論では評論が好きだ。ドラマとニュースではニュースのほうが好きだ。
最も好きなのは対談や座談、討論の類である。
だから、当然ながら、声優よりはアナウンサーが好きなのだった。

顔が悪いからテレビは無理とすれば、ラジオはありえるのかもしれなかった。
一番あり得るのは、やはり「道路交通情報」かとも思ったが、それには応募しなかった。

その後、別の面で基本の足りなさを感じ、「話し方教室」ってものに通った。
このことにより、人前で話すことにある程度慣れたのかもしれない。

日本語学校の講師に応募し、ある学校で模擬授業をした時に、そこの校長先生から「声がきれいですね」と言われたことがある。演劇やアナウンスの勉強をしたことがあるので、声は通るのだろう。しかし、その学校は不採用になったので、教え方などの点で良いところがなく、声以外にほめるところがなかったのだろう。

このごろ、仕事柄声を出す機会がないので、少し声を出したいものだ。



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鹿男の鹿の声

2008-02-22 23:50:50 | 未分類過去
「鹿男あをによし」をあんまり熱心ではありませんが、見ています。今日は録画したのを見ました。
綾瀬はるかは好きなほうです。この役はまっすぐな気質が「ホタルノヒカリ」の蛍に通じる部分も感じさせられます。
玉木宏は「のだめカンタービレ」の千秋とはかなり違いますね。千秋に比べるとかなり魅力が足りないというか、普通の男です。そして、顔が鹿に見えてしかたがありません。
「狐のつかい」だの「ネズミの見張り番」だの、「さんかく」だのと、へんてこりんなことを真面目に話しているので、馬鹿らしいドラマだと思いながらも、なんだかひきつけられていくものがあります。

ところで、このドラマに出てくる人間の言葉を話す鹿。にせもので、最初はすごく不自然に見えたのですが、このごろ慣れてきて違和感がなくなってきました。
そして、この鹿の声は最初から気になりました。
どこかで聞いたことがあるけど、だれの声だろう?
今日も聞いていて、洋画の声優さんかな?と思いました。
いい声ですよ。というか、表現力がある。
CGの鹿の表情は単純だから、普通の登場人物以上の表現力が言葉に要求されるわけでしょう。見ているほうも言葉そのものに意識が向きます。

それで、キャストを調べてみると、「山寺宏一」という人だということが分かりました。
写真を探してみると、見たことのある人でした。
声のサンプルを聞いてみると、鹿の声は低めですが、高い声やスピード感のある声など、様々な音域や雰囲気を自由自在に操れる人のようです。声優でもありますね。
さすがです。

声や発音がきれいな人、サマになる話し方っていうのは、すごく素敵ですよ。

私がほかに話すときの声がステキだなと思う人は、赤坂泰彦さんです。竹中直人さんもいいです。
女は、仲間由紀恵さんの声が澄んでいてきれいだなと思います。

話題がずれましたが、山寺宏一さんという人の声は、鹿の声でなかったらこんなに注目しなかったかもしれません。
鹿の声、もっと聞きたいなと思いましたよ。
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