山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

「ブイヤベース」(桐生典子)

2006-02-04 10:30:19 | 読書
「やわらかな針」に載っている3作目を読んだ。
この作品は、最初の2作より先に書かれたもののようである。
ここにきて初めて、これらの作品が一連の意味を持って並べられているらしきことに気づく。これらは日本語の題に続いて、「緑の手 gardening」「白桃 nursing」「ブイヤベース cooking」「洗う女 washing」・・・となっており、その他shopping, sewingなどもあって、この英語の部分はどれも主婦の家事に属するものであった。

そして、「ブイヤベース」を読んでみて、前の2作にもある一種の気味の悪さが、この作品にも同様に強く存在することを感じた。
そういえば、作品の中で必ず誰か死んでいる。そして、なまなましい生命体の描写がある。

「ブイヤベース」では、ブイヤベースを作る段階の魚やいかのハラワタをとったり切ったりする様とその対象物の様子が克明に描かれていた。
イカの吸盤・股の間の口・粘膜と贓物、パステルピンクに黄色いラインのある鮮やかな“いとより”、シーツから出ている白い脚のようなハマグリの舌。どれもが女の肢体を連想させる。
そして、飛び降り自殺をした、婚約者の元妻の姿がそれに重ねあわされている。
生きるものの肉体の生々しさと男女の日常生活の中に隠された残酷さが迫ってくる。

そして、それに衝撃を受けて、読後感ははなはだ気分が悪い。
できれば、そんなことには触れないで暢気に暮したい。

しかし、この作品は映像にしたらすごい芸術的な作品になりそうである。

すじ
美乃は年上の章生と婚約するが、後になって章生の妻が自殺をしていたことを他人から知らされる。妻の自殺の原因は女優になろうと必死になったものの適性や実力がともなわずノイローゼになったためであった。
しかし、友人夫妻を呼んでブイヤベースパーティーを開いた日に、美乃と章生の4年前の行動が妻の自殺の引き金になっていたことを友人の無意識の情報から知ることになる。自分が章生とオペラを見に行き、その肩を抱いている章生の様子を妻が知ることになったのが原因だった。それで、妻は誤解をしたらしい。

文には書いていないが、家事をほったらかしにして女優の道に夢中になり、うまく行かなければ愚痴をぶつけるという妻との生活に章生が焦燥感を抱いていたことは確かであろう。そして、本人も仕事が忙しい中で、ひと時、たいした関係もない若い女の肩を抱くくらいのあてつけをしたいという気になっただろう。
それが、妻が自身の命を絶つことにつながるということになったとしても、非難できることではなかろう。
美乃は自分がひとりの女の滅びに関わっていたという事実に気づくとともに、その男とともに生きることで、今度は同じ女である自分が滅びる可能性をも感じ、そうなるまいと決意している。

やはり残酷だと思う。

* * * * *

最近は、作品の中の衝撃やストレスに弱い。
テレビドラマの「白夜行」を見ていても、疲れ果ててしまう。
安らぎが得られないのだ。

精神が癒されるような作品を求めている。

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ブログ文化

2006-02-04 02:09:57 | 未分類過去
今夜はすごい風です。ビュービュー言って、おそろしいくらいです。
でも、明日、どこにも出かけなくていいという気持ちが、
安心でくつろいだ気持ちをもたらしています。

今週も週末がきました。
やっと来たという感じもするし、一週間は早いなあとも思います。

放送大学の試験が終わって一週間。
別の勉強をしなければいけないのに、ちょっと一息ついて、毎日小説など読んでいました。
といっても、短編ばかりなのでそれほど時間がとられるわけではありません。

しかし、読書は身を滅ぼすので、程々にしなければいけません。

最近、小説を読み始めたのは、少なからず放送大学の影響があります。
「近世の日本文学」を読んでいて、昔の感覚を呼び戻されたからでしょう。
やはり、小説の世界は面白いです。

「近世の日本文学」の教科書の中で最も記憶に残っていることは、
「東海道中膝栗毛」で十辺舎一九が、当時の読者の意見を聞きながら、それに答えて執筆したとの内容でした。
例えば、弥次さんと喜多さんは、道中にどうして月代(さかやき)を剃らないのかという読者の意見に、さっそくその場面を書いたとのことで、面白いなあと思ったのです。

作者と読者の相互のやりとりというのは、活力が出ていいですね。
テレビドラマなど、視聴者の反応を見て、内容を変更したりすることもあるようですが、現代は、情報が行き交うのが早いので、相互の意思の伝達というのはすぐにできるものとなっています。
そうしたら、良いものは良い、悪いものは悪い、面白いものは面白いと、瞬時に反応を知らせることができるではありませんか。

ブログなんかも面白いです。無料でいくらでも情報が発信できます。
また、受信もできます。私はいくつか愛読しているブログがありますが、毎日様々なひとの生活ぶりや考えていることがわかるので、とても楽しく人生の参考になります。その内容といったら、有名小説の内容にも劣らないようなことばかりですね。
一度も会ったことも無い人たちなのに、とても親しい人のように感じてしまいます。

いつか、日本文学史の中に、江戸時代に印刷術が発達したことによる文学のあり方の変化があったのと同じように、平成時代にインターネットによるブログ文学が発達したなどという表記が加わることもあるのではないでしょうか。
実際、ネットによって誕生した「電車男」などという名作もできていますね。
しかし、何も後世に残る作品のみが重要な文学作品であると言うわけではないのではないかと思うのです。むしろ、その時その日に、人と人が影響し合うことのできる文章が発生していること自体がすでに効力のある価値ではないでしょうか。

文学の新しい形の発生のしかたってすごく面白いなあと思います。

情報量もすごいですから、作品としたら質はどうなのかということはありますが、ひとつのすごい文化だと思います。

それで、私は現代文学の中で、
「評価されて本になって印刷されている作品」と「毎日生まれるナマのブログ」の両方を読んで、それ影響された自分の意思を発信して行きたいと思っています。



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「白桃」(桐生典子)

2006-02-04 01:15:59 | 読書
これは、なかなかおもしろかった。
まず、主人公「僕」がインフルエンザにかかり、その闘病時の体の様子が克明に描かれるところから始まっている。
その描写は巧みである。今の季節にちょうどいい読み物だ。
そして、意識の撹乱もあって、様々な記憶の幻覚が浮かんでくる。
発熱が病原菌を殺すための化学反応であるという分析も面白いし、インフルエンザは、大流行して何割かの人に感染すると必ずウィルスは減退するようにできている、などの言及も面白い。

そして、この作品のポイントは、ウイルスを撃退するための発熱=体が燃えることと、火事で家が燃えることが暗示としてつながっていることだろう。

内容を時系列に直すと
あるとき「僕」は妻の留守中に近所の家が火事になったので見に行くと、そこに仕事関係の知人である年若いモデル恵那がいて、燃えさかる家を美しいと言って見つめていた。
そのとき言葉を交わし、自宅が近いことを知った僕は、恵那があるとき仕事を休んだので家に行ってみた。彼女は風邪を引いていた。彼女は一風変わった子だった。その恵那に「僕」は白桃を食べさせた。その夜、もう一度恵那を見舞おうと思っていたところ、自宅に警察がきた。警察は放火犯を探しており、それは自転車にのった若い女のようだとのことだった。僕は恵那を思いおこし、その夜は恵那のところには行かなかった。
その後、僕は風邪を引いて、熱の中で数日前の火事や恵那の幻覚などを見ていた。
「僕」は妻と日ごろダブルベッドに寝ることに窮屈さを覚えたり、妻のおばさんぽいところなどを感じるようになっていた。インフルエンザにかかったときは、ちょうど妻と旅行に行く予定のときだったが、それで行けなくなり、妻は普通に看病してくれた。
熱も下がり始めた頃、妻が買物に行くと言うので白桃を頼んだ。妻は思いのほか遅く帰ってきて、すっきりした顔をしていた。ふと気づくと妻のスカートの裾の一部がこげていた。
妻は、あなたが白桃を好きだったとはしらなかった、と言った。僕は、僕が白桃を食べさせたのを忘れたのか?と聞いた。妻は覚えていないと答え、僕の動悸は早くなった。

恵那の性格を表す文面や、妻との日常のやりとりの文面がうまく描かれているし、放火したのが恵那なのか妻なのか両方なのか謎めいているところも面白い。動悸の原因が妻のスカートの焦げなのか、白桃を食べさせた相手を間違えたことか、両方なのか、これもおもしろい。

この作品には、満足した。


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