山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

「灰色の教室」

2006-02-02 12:57:17 | 読書
先日に引き続き、石原慎太郎の「灰色の教室」を読んだ。
これも高校生の話だが、かなり重厚な内容だと思った。中に「太陽の季節」のモチーフになったような樫野という登場人物(恋人を堕胎させて死なせた友人)などが出て来て、「太陽の季節」と同世界の物語だった。学生時代の処女作だとのことで、「太陽の季節」より先に書かれたものであるらしい。
沢山のものを詰め込んでいるという批評があり、「太陽の季節」のほうが高く評価されているのだろうかと感じるが、私にはこっちのほうが要素が多い分、内容も濃いように感じた。

この作品では、主人公の石井義久はやはりませていて遊び人であるが、一応必要な授業にはちゃんと出席しているという人間であり、本能の赴くままに楽しむ要素を多分にもちつつも素直な情愛や常識的な心をも持つ男である。
美和子を遊びではなく本当の恋人だと感じながらも、時にはうっとうしく思い、わざと苦しめて心をもてあそぶようなこともするが、最後には裏切らなかった。
つまり、義久もまた肉欲の末に美和子を妊娠させてしまうのであるが、父となり子供を育てていく道を選ぶ。これは、樫野が恋人を死なせてしまったという経験に学んでいるとも言えよう。
子供を堕胎しないという結論は、ビリヤードのゲームならルールに従うのが筋であり、玉の行方はそれに則ったなりゆきに従うという考えに基づくものでもあるようだ。その筋道が人間のとるべき道と相反することなく一致したため、義久は心の決意をするに至っている。

一方、この作品のもうひとつの重要事項としては、嘉津彦という自殺を繰り返す友人の話がある。この友人は生きているのが面倒くさい男であり、2回自殺を試みて死に損なっている。最初は人は自殺の原因などに非常に関心を持ったものの、2回目を失敗すると周囲はもはやそのことについては何の興味もしめさなくなっていた。しかし、本人の自殺願望は変わらず、本気であることを証明するためにも3度目を決意する。
そして、ビリヤードのゲームに負けたら自殺すると宣言し、わざとゲームに負けて、宣言どおり遺言はがきを友人たちに送ってまた自殺を決行する。
自分宛に遺言はがきを送られた友人たちは、彼の本気の決行を重く心に留める。
おそらく、ここで嘉津彦が死ぬというストーリーでも、読者が考える部分は大きかっただろう。
しかし、嘉津彦はたまたま、また自らの生命力で生き残った。
嘉津彦は意識を失う間際にこの世に心を残していることに気づき、彼の体は生きようとしていたのか。義久は嘉津彦が昏睡状態で苦しんでいる姿を見て、死ねなかったという格好の悪さ以上に彼の生きざまを見たのだった。
義久は、それまでもずっと他の友人以上に嘉津彦の内面をとらえてきていた。

この自殺願望というのは、現代の若者にもよくあると感じる。
何か苦しみがあるわけでもなく、特別な原因もないのに、何をしても生きがいを感じられない、生きていても楽しくないわけで、命に執着をもたない。そうなると死ぬことを全うすることが自分の生きる道だと思って、自殺をすることが生きる目的になってしまうのだ。
そんな若者が、昭和30年ころから描かれていたのだなあと思い、世の中はそのころから変わっていないし、今も同じテーマが続いていることを感じた。

この作品からは少し離れるが、「人が欲望のままに生きること、そして死にたいものは死に、殺したいものは殺し、殺されたものは運悪く、それらは自然の淘汰である」と考える若者を最近テレビの座談会のようなもので見た。自殺願望の若者も出ていた。
それに対して、「死んではいけない、命は大切だ」とか「働いて子供を育てていくのが人の道だ」とかいう普通の情熱と良識的な心をもつ人が多くいた。
この小説を読んでいて、そのテレビ番組が思い出されてしかたがなかった。
ドライな欲望というのは、若者の中に無くなることはなさそうであるが、やはり父になることを選んだり、死ぬことが恐くなって生きる道を選んでいくのが人としての歩みであろう。

義久の子供は、美和子が階段を踏み外して流産することになった。それは、自然の運命であったといえるが、義久はそこに割り切れないものを感じたとある。
自分が自由意志で命をコントロールできる環境においては、人はいくらでもドライになれる。しかし、生きたくても死んでいく運命の前では、人はドライに割り切ることはできない。

テレビでも、その座談会の中で不治の病に侵されて亡くなっていった人の最後まで生きた姿が放送され、それを前に衝撃をうけた人が多かった。
それを見てもなお、自分の命に関連付けられない自殺願望者がいたり、人の命を抹殺することをなんとも思わない冷血自己中人間が存在するであろうことは残念なことであるが、
やはり人は命の前に襟を正さずにはいられない。

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門限条例

2006-02-02 10:00:32 | 未分類過去
大阪で門限条例ができたという。いつもながらテレビの「とくダネ」でちょっと見た情報だが、条例の内容は中学生は午後7時、高校生は11時になっていたようだった。
全国的に見ると中学生の7時というのがまれな例で、厳しすぎるという意見が多いようだ。
たしかに、ちょっと厳しいかなとは思うものの、中学で遅くまで遊ぶのを覚えた子供たちは、高校になったら朝まで帰らなくなるのが普通だと思うので、夜遊ぶのは普通ではないという感覚を持たせるためにも厳しいくらいがいいのではないだろうか。このような話題は、望ましい生活習慣の意識化のためにもなるだろう。

私は門限条例には賛成である。
うちの高校生の娘なども放って置くと糸の切れた凧のようになってしまうので、なんとか11時までには帰宅させようと思っている。しかし、戻ってこないので11時すぎにメールをいれる。すると、本人からは帰宅途中だという返信が来るのだが、家に着くのが11時半もすぎるところをみると、まだどこかの店の中にいたということである。
うちの子の場合、自転車通学で部活を終えてそのまま仲間と夕飯を食べて遊んでいるので、学校から自転車で行ける範囲ではあるから、どう考えても30分程度で家に着くはずである。「11時に帰宅するなら10時半には店を出なければいけない。お前はそんな計算もできないのか」と言ってやるのだが、「はいはい、わかりました」などと言っていてまったく改善されないのである。友達と話が盛り上がっている中、自分から切り上げるのはなかなか難しいのであろう。

そんなことが週に3回以上もあると、やはり異常ではないかと思えてくる。
それで、都立高校の保護者会で先生や他の父兄に「一般的な基準」というのはどの程度だろうか?と聞いたことがあるのだが、別に世の中の基準とか学校側で考える規範というのは「無い」との返事だった。
・基準はその家庭家庭で決めるものだから、よその家は関係ないんじゃないか。
・今は高校生はオールもあたりまえですよ。
・この年代は親といるより、やはり友だちといるほうが楽しいからねえ。
・夜遅いと女の子は心配だから、かならず駅まで迎えに行くようにしている。
・夜中に帰ってくるならかえってオールして朝帰ってきたほうが安心じゃない?
等々であった。

これらの返事にはちょっとがっかりした。その家庭家庭の基準とは言っても、他の友達の家庭がオールでいいと思っているならば、どうしてもそれに同化して行ってしまうだろう。
また、安全ならば夜昼の区別無く出歩いていていいと言うわけでもないはずだ。
高校は高校で現実肯定というか、生徒が特に不道徳な事件などを起こさなければ放任でかまわない、すべて自由意志に任せるというような方針のようだった。

今は、ファミリーレストランも24時間営業だし、コンビニ・カラオケなど様々な店が夜昼の区別無く開店していて、夜中に出歩いている人も多く、深夜の恐さというのは全く感じられなくなっている。そういう状況では子供を家に戻らせようと思ってもなかなかできない。

どうやら、東京でも18歳未満は11時までというような条例があるようだが、まったく機能していないと言える。
知人の娘さんなども、高校生で深夜までピザ屋でバイトをし、それから同僚と遊びにいって2時過ぎに帰ってくるので、学校は遅刻ばかりしているとのことだった。
高校生を平気で夜中まで働かせる店があり、12時過ぎにも飲食し時間をつぶせる店がいくらでもあるのである。

ところで、この間いつものように「夕飯いらなぃ!」というメールを送って来ていた娘が、その夜めずらしく10時過ぎに戻ってきた。いつになく早い帰宅じゃないかと驚いたところ、マクドナルドにいたら、高校生は10時までだと言われて追い出されたそうである。
マックは偉い!と思った。
「ほらみなさい、高校生は10時までというのが、世の中の常識なんだよ、これからもこのぐらいに帰ってきなさい」と親も偉そうに言えるわけだ。

一般的に、店や遊技場は利益を追求するために、なかなか自ら客を制限したりはしないものだろう。
だから、自治体が条例を作って、ある程度の基準を定めてくれるのは、ありがたいことである。
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