先日に引き続き、石原慎太郎の「灰色の教室」を読んだ。
これも高校生の話だが、かなり重厚な内容だと思った。中に「太陽の季節」のモチーフになったような樫野という登場人物(恋人を堕胎させて死なせた友人)などが出て来て、「太陽の季節」と同世界の物語だった。学生時代の処女作だとのことで、「太陽の季節」より先に書かれたものであるらしい。
沢山のものを詰め込んでいるという批評があり、「太陽の季節」のほうが高く評価されているのだろうかと感じるが、私にはこっちのほうが要素が多い分、内容も濃いように感じた。
この作品では、主人公の石井義久はやはりませていて遊び人であるが、一応必要な授業にはちゃんと出席しているという人間であり、本能の赴くままに楽しむ要素を多分にもちつつも素直な情愛や常識的な心をも持つ男である。
美和子を遊びではなく本当の恋人だと感じながらも、時にはうっとうしく思い、わざと苦しめて心をもてあそぶようなこともするが、最後には裏切らなかった。
つまり、義久もまた肉欲の末に美和子を妊娠させてしまうのであるが、父となり子供を育てていく道を選ぶ。これは、樫野が恋人を死なせてしまったという経験に学んでいるとも言えよう。
子供を堕胎しないという結論は、ビリヤードのゲームならルールに従うのが筋であり、玉の行方はそれに則ったなりゆきに従うという考えに基づくものでもあるようだ。その筋道が人間のとるべき道と相反することなく一致したため、義久は心の決意をするに至っている。
一方、この作品のもうひとつの重要事項としては、嘉津彦という自殺を繰り返す友人の話がある。この友人は生きているのが面倒くさい男であり、2回自殺を試みて死に損なっている。最初は人は自殺の原因などに非常に関心を持ったものの、2回目を失敗すると周囲はもはやそのことについては何の興味もしめさなくなっていた。しかし、本人の自殺願望は変わらず、本気であることを証明するためにも3度目を決意する。
そして、ビリヤードのゲームに負けたら自殺すると宣言し、わざとゲームに負けて、宣言どおり遺言はがきを友人たちに送ってまた自殺を決行する。
自分宛に遺言はがきを送られた友人たちは、彼の本気の決行を重く心に留める。
おそらく、ここで嘉津彦が死ぬというストーリーでも、読者が考える部分は大きかっただろう。
しかし、嘉津彦はたまたま、また自らの生命力で生き残った。
嘉津彦は意識を失う間際にこの世に心を残していることに気づき、彼の体は生きようとしていたのか。義久は嘉津彦が昏睡状態で苦しんでいる姿を見て、死ねなかったという格好の悪さ以上に彼の生きざまを見たのだった。
義久は、それまでもずっと他の友人以上に嘉津彦の内面をとらえてきていた。
この自殺願望というのは、現代の若者にもよくあると感じる。
何か苦しみがあるわけでもなく、特別な原因もないのに、何をしても生きがいを感じられない、生きていても楽しくないわけで、命に執着をもたない。そうなると死ぬことを全うすることが自分の生きる道だと思って、自殺をすることが生きる目的になってしまうのだ。
そんな若者が、昭和30年ころから描かれていたのだなあと思い、世の中はそのころから変わっていないし、今も同じテーマが続いていることを感じた。
この作品からは少し離れるが、「人が欲望のままに生きること、そして死にたいものは死に、殺したいものは殺し、殺されたものは運悪く、それらは自然の淘汰である」と考える若者を最近テレビの座談会のようなもので見た。自殺願望の若者も出ていた。
それに対して、「死んではいけない、命は大切だ」とか「働いて子供を育てていくのが人の道だ」とかいう普通の情熱と良識的な心をもつ人が多くいた。
この小説を読んでいて、そのテレビ番組が思い出されてしかたがなかった。
ドライな欲望というのは、若者の中に無くなることはなさそうであるが、やはり父になることを選んだり、死ぬことが恐くなって生きる道を選んでいくのが人としての歩みであろう。
義久の子供は、美和子が階段を踏み外して流産することになった。それは、自然の運命であったといえるが、義久はそこに割り切れないものを感じたとある。
自分が自由意志で命をコントロールできる環境においては、人はいくらでもドライになれる。しかし、生きたくても死んでいく運命の前では、人はドライに割り切ることはできない。
テレビでも、その座談会の中で不治の病に侵されて亡くなっていった人の最後まで生きた姿が放送され、それを前に衝撃をうけた人が多かった。
それを見てもなお、自分の命に関連付けられない自殺願望者がいたり、人の命を抹殺することをなんとも思わない冷血自己中人間が存在するであろうことは残念なことであるが、
やはり人は命の前に襟を正さずにはいられない。
これも高校生の話だが、かなり重厚な内容だと思った。中に「太陽の季節」のモチーフになったような樫野という登場人物(恋人を堕胎させて死なせた友人)などが出て来て、「太陽の季節」と同世界の物語だった。学生時代の処女作だとのことで、「太陽の季節」より先に書かれたものであるらしい。
沢山のものを詰め込んでいるという批評があり、「太陽の季節」のほうが高く評価されているのだろうかと感じるが、私にはこっちのほうが要素が多い分、内容も濃いように感じた。
この作品では、主人公の石井義久はやはりませていて遊び人であるが、一応必要な授業にはちゃんと出席しているという人間であり、本能の赴くままに楽しむ要素を多分にもちつつも素直な情愛や常識的な心をも持つ男である。
美和子を遊びではなく本当の恋人だと感じながらも、時にはうっとうしく思い、わざと苦しめて心をもてあそぶようなこともするが、最後には裏切らなかった。
つまり、義久もまた肉欲の末に美和子を妊娠させてしまうのであるが、父となり子供を育てていく道を選ぶ。これは、樫野が恋人を死なせてしまったという経験に学んでいるとも言えよう。
子供を堕胎しないという結論は、ビリヤードのゲームならルールに従うのが筋であり、玉の行方はそれに則ったなりゆきに従うという考えに基づくものでもあるようだ。その筋道が人間のとるべき道と相反することなく一致したため、義久は心の決意をするに至っている。
一方、この作品のもうひとつの重要事項としては、嘉津彦という自殺を繰り返す友人の話がある。この友人は生きているのが面倒くさい男であり、2回自殺を試みて死に損なっている。最初は人は自殺の原因などに非常に関心を持ったものの、2回目を失敗すると周囲はもはやそのことについては何の興味もしめさなくなっていた。しかし、本人の自殺願望は変わらず、本気であることを証明するためにも3度目を決意する。
そして、ビリヤードのゲームに負けたら自殺すると宣言し、わざとゲームに負けて、宣言どおり遺言はがきを友人たちに送ってまた自殺を決行する。
自分宛に遺言はがきを送られた友人たちは、彼の本気の決行を重く心に留める。
おそらく、ここで嘉津彦が死ぬというストーリーでも、読者が考える部分は大きかっただろう。
しかし、嘉津彦はたまたま、また自らの生命力で生き残った。
嘉津彦は意識を失う間際にこの世に心を残していることに気づき、彼の体は生きようとしていたのか。義久は嘉津彦が昏睡状態で苦しんでいる姿を見て、死ねなかったという格好の悪さ以上に彼の生きざまを見たのだった。
義久は、それまでもずっと他の友人以上に嘉津彦の内面をとらえてきていた。
この自殺願望というのは、現代の若者にもよくあると感じる。
何か苦しみがあるわけでもなく、特別な原因もないのに、何をしても生きがいを感じられない、生きていても楽しくないわけで、命に執着をもたない。そうなると死ぬことを全うすることが自分の生きる道だと思って、自殺をすることが生きる目的になってしまうのだ。
そんな若者が、昭和30年ころから描かれていたのだなあと思い、世の中はそのころから変わっていないし、今も同じテーマが続いていることを感じた。
この作品からは少し離れるが、「人が欲望のままに生きること、そして死にたいものは死に、殺したいものは殺し、殺されたものは運悪く、それらは自然の淘汰である」と考える若者を最近テレビの座談会のようなもので見た。自殺願望の若者も出ていた。
それに対して、「死んではいけない、命は大切だ」とか「働いて子供を育てていくのが人の道だ」とかいう普通の情熱と良識的な心をもつ人が多くいた。
この小説を読んでいて、そのテレビ番組が思い出されてしかたがなかった。
ドライな欲望というのは、若者の中に無くなることはなさそうであるが、やはり父になることを選んだり、死ぬことが恐くなって生きる道を選んでいくのが人としての歩みであろう。
義久の子供は、美和子が階段を踏み外して流産することになった。それは、自然の運命であったといえるが、義久はそこに割り切れないものを感じたとある。
自分が自由意志で命をコントロールできる環境においては、人はいくらでもドライになれる。しかし、生きたくても死んでいく運命の前では、人はドライに割り切ることはできない。
テレビでも、その座談会の中で不治の病に侵されて亡くなっていった人の最後まで生きた姿が放送され、それを前に衝撃をうけた人が多かった。
それを見てもなお、自分の命に関連付けられない自殺願望者がいたり、人の命を抹殺することをなんとも思わない冷血自己中人間が存在するであろうことは残念なことであるが、
やはり人は命の前に襟を正さずにはいられない。