山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

KYな質問タイミング

2013-04-28 14:06:42 | 日記
アスペルガ―というのは空気が読めないといわれているが、空気が読めないからといってアズペルガーだとは言えない。しかし、空気が読めない人間はマズイかもしれない。

会話の中で聞いたこともない言葉がでてくると、
「ちょっと待って、それは何ですか?」と
私はすぐに聞いてしまう。

するとそこで、和気あいあいと順調に流れていたグループの会話が止まってしまうことがある。

A:○○ってそうですよね。
B:うん、そうそう、
A:それでさ~、○○が××だから◇◇でえ~~~
C:へえ~~ おかしいですね。
A:だから、わらっちゃってえ
B;まったく、△△なんかの場合は、○○は不便ですよね。
A;だから、そんなことになっちゃうんですよ。
D:へえ~~
E:それも困りものですね。
F:使わないほうがいいですよ。
私:ちょっと待って、その○○ってのはなんなんですか?
どういうものなの?
何故どうしてどういう時にどうだからどんなことになるの?

そうすると、この場合、AさんやBさんが詳しく説明してくれるんですが、

本当に驚くことには、
みんな、なんで知ってるのだろうか?ということだ。

どういう生活をしていると、あらゆる情報を取り入れることができるのだろうか?

というよりも、
本当に思うことは、
本当に全員知ってたのかな?
あんまりよく知らない人も実はいたけど、知ってるような顔をしていた人もいたんじゃないか?

ということです。

いやいや、「聞くは一時の恥」です。
コメント

読者の知りたいことと筆者の伝えることのギャップ

2013-04-28 13:04:01 | 日記
ブログでは、筆者は書きたい事を書き、省きたいことを省くという作業をしている。しかし、読む側にとっては、この部分はどうなってるんだろう?という疑問がわくことがある。その場合、コメントなどに質問を書きこむことがある。
私の場合、自分自身が質問されたこともあると思うが、質問をすることもある。

単にわかっていると思い込んで、文中に説明不足だったこともあるし、筆者にとってはどうでもいいことであって書いていなかったりする場合もあるだろう。
書いてないことは、伝えたいポイントとはずれているのだとも言えるかもしれない。

あるブログを読んでいたら、その筆者が生活上のある問題点に遭遇し、それを解決する事態にあたったというものがあった。だが、それに対する対応が、お国柄の特徴で見解が違うということだった。日本では重大トラブルとして企業が責任を持つことでも、日本以外の国ではそれはトラブルとしてさえ認められないというのだ。結論はそこで終っている。
筆者の書きたいことは、「日本の常識は世界では主流ではない」ということだった。
ところが、読者としては、それではそのトラブルはどうやって解決したのだろうか?そのままでは生活できないではないか?という疑問が大きく残ってしまった。
そこで、それはどうやって解決したのですか?などという質問をしてみたところ、まるでなしのつぶてである。おそらく、どうやって解決したのかは、伝えたくない、あるいはそれをブログ上に書くと支障があるのかもしれない。
すると、答えられないような事を質問するとは、それはKYな質問をしてしまったことになる。

また、ブログの中に固有名詞などが出てきて、それが実在しないもの(似ているが違う)だったりする。あるいは、その名前は世間に存在するものの明らかに違うものの名前だったりするものがある。記載ミスだろうか?などと思ったりするわけだ。そのうちに気がついて本人が直すだろうと思っていたら何日たっても全然修正されない。そこで「○○の間違いではないですか?」などと聞いてみたりする。
しかしその後もまるで修正されることもなく返事もない。
つまり、そのままでよいのだということだ。

これは、なんなんだろうと、ずっとずっと考えていたのだが、もしかしたら、この人が書いているものは全部固有名詞が架空の名前なのかもしれないということに思い当った。
その人が住んでいるのは、関東ではなく私が行ったこともない地域であって、そこにそう言う地名や商店街や商業施設などが私はあるのだと思い込んでいた。聞いたこともないスーパーの名前でも、関東にはないような会社があるのだろうくらいに思っていた。しかし、もしかしたら実はないのかもしれなかった。そういえば、ずいぶんと詳細にかいているので、こんなに具体的に書いていいのかなあと思っていたが、架空の名前を使っているから特定できないようになっているのかもしれない。その近辺の圏内に住んでいる人にとっては、それらが架空の名前であることは一目瞭然なんだろうが、遠くに住んでいるバカなおばさんは実在の名前だと思いこんでいたのだ。

あるいは、ある部分では実在名で、ある部分では架空名であり、そういうものを読者はいち早く察知して読解していくべき。たとえば、ある物事について悪口のようなことを書けば、名誉棄損につながるので、それは実名を出さない。パロディーで使うような名前に変えてあったりするが、実名でも支障のないものは実名を記載などとしているのかもしれない。

そうなると、筆者がわざと実名とは変えて記載したものを、誤記や勘違いだと思いこんで指摘した人は、筆者にとっては大きな迷惑ということになってしまい、これまた超KYな行為となってしまう。

だが、誰もが意図的な記載か、誤記なのかを察知できるとは限らない。架空名なら「(仮名)」とか「○○」などとしておいてくれると分かりやすいと思う。

ブログを書くのも、読んでコメントするのも、結構注意すべき事があるなあと思うこのごろです。
コメント

テレビドラマと自分の時代検証

2013-04-28 10:59:15 | 日記
前記事に引き続き、過去のテレビの番組を、その当時視聴したかしなかったかという事について書いてみる。

よく、昔のドラマを振り返る番組があって、名場面が出てくる。例えば、101回目のプロポーズでは、武田鉄矢が車の前に立ちはだかったあと「僕は死にません」とか何とか言っている。この場面はすごい感動の場面だったらしいが、当時このドラマを見ていない人間にとっては、よくわからない。なんで、夜間の道路に飛び出して走って来るトラックの前に立ったりするのか、未だに不思議であり、感動以前に、死ぬ可能性や事故が起きた時にはどうなるのか、などと余計な心配にアタマが行ってしまうのだ。でも、ドラマの流れの中では、けっして不自然なものではなかったのだろう。
このドラマは、見ればよかったなと思う部類だ。

前記事で、このドラマが放送された時は、自分が20歳だと思っており、1人暮らしをしていて、テレビが買えたか買えなかったかの時期かと思っていたが、再度調べ直すと、1991年7月からの放送なので、すでに結婚していた。この当時は下の子が2歳だから、きっと子どもの世話で忙しくテレビどころではなかったのだろう。
(前記事の誤記述部分は変更しました。)
また、「東京ラブストーリー」も有名だが、私はほとんど記憶がない。これも1991年に放送されたそうだ。やっぱり子育て中はテレビドラマどころではなかったのかもしれない。

「岸辺のアルバム」が放送された1977年頃は、まだビデオもなかったので、放送時間に見ない限りはどうにもならなかった。これは見といてよかった。
「101回目のプロポーズ」や「東京ラブストーリー」の頃は、ビデオは家庭に普及していたと思うが、自分で録画して再生しない限りは見ないままで終った。
これらのドラマは、今ならレンタルDVDでも借りて見てみれば、全部を視聴することができるだろう。

今では、自分で録画するといっても、昔のようにいちいちビデオテープを挿入して時間設定などする必要もなく、ワンタッチで同時にいくつも録画できる。自分で録画しておかなくてもオンデマンドとかいうのでまとめてみることもできる。
だから、裏番組を見ていたから見られなかったとか、その時間帯にはテレビが見られなかった(毎週、仕事をしていた、学校に行っていた)などということもない。
現代では、実際の放送時間には見ない人も多くなっているそうだ。とりあえず録画しておき、わざと時間をずらしてCMを抜いて見れば時間の無駄がないなどという人もいる。

こうなると、何十年もあとになって、過去を振り返ったときに、テレビ番組の放送期間や放送時間を基準にして、そのとき自分が何をしていたか、ということを思い起こす方法が単純にはいかない。

これからは、自分がいつどのようにしてそのドラマや映画を初めて見たのか、そこまで思い出さないと、自分についての過去の検証はできなくなりそうだ。
コメント

人生を変えないラジオ

2013-04-28 00:27:39 | 日記
今日は、FMさがみでかぜさんの「人生を変えないラジオ」があったので聴いた。
毎月、最終土曜日夜11時から1時間の放送だ。聴き逃さなくてよかった。

やっぱりいいなあ。今日は、かぜさんが、おたよりをいくつも読んだのだけど、いろんな内容で面白かった。
娘の初任給、歯磨き、SNS(ライン・フェイスブック)、有料放送、岸辺のアルバム、犬の予防注射、ピアの時代、コーラスライン、など、一般の人からのおたよりを紹介して、かぜさんがそれについて語るというものだ。
昔の「たむたむたいむ」みたいだけど、お便りを書いている人間が中年(おそらく50代くらい)なのでおかしい。放送の中で、かぜさんが「はがき」と言って「メール」と言い換えていたが、そうか、今の「お便り」は、ハガキを送っているのではなく、Eメールを送ってるってことだ。いちいち切手を貼ってポストに入れたりしなくていいのだ。時代は変わったなあ。

話題の中に出てきた「岸辺のアルバム」(you tubeより)

岸辺のアルハ?ム オープニング


岸辺のアルバムは、1977年6月から放送された、山田太一の作品だ。
このドラマは有名で、今でもよく話題になる。
ジャニス・イアンの歌もこのドラマで知るきっかけとなった。

お便りを送ってくれた人は、最近有料放送の視聴登録をしたのをきっかけに、このドラマを再度見ているとのことだった。昔は、高校生の男の子(国広富之)の視線で見ていたけど、今では、母親(八千草薫)の視線で見ているという。私もきっと同じだと思う。全く年月が経ったものだ。私はこのころ高校2年だったということになる。

かぜさんは、このドラマを全く見ていなかったそうだ。単行本の編集などの仕事で忙しくてそれどころではなかったようだ。

あるドラマを見たか見なかったかというのは、あとになってみると、結構影響があるもんだと思う。そのドラマとともに当時を懐かしく思い出すことは当然できないし、それだけのインパクトのあるドラマだったら、やっぱり見ておいた方が良かったように思うわけだ。でも、終了してからでないとドラマの価値はわからないから、見逃さないためには、片っぱしから見るということになってしまう。貴重なドラマを見過ごすのは惜しい。でも、どうでもいいドラマを見るのに無駄な時間を費やすのも避けたいところだ。
私が、有名だけど見てなかったというドラマでは「101回目のプロポーズ」がある。名場面だけが再現されたりするが、私にはまるでピンとこない。裏番組を見ていたのか、子育てで忙しくてそれどころではなかったのか。
なんで見なかったか、というのを思い返すのも、自分の時代検証にはなるものだ。

「ピアの時代」の話に関しては、東京キッドブラザースや劇団四季がすごい人気だったころ、私は短大の演劇部だったけど、同じ部員がみんな歌と踊りにかぶれていてちょっとついて行けなかった。東京キッドブラザースの演劇は付き合いで見に行ったけど、柴田恭兵や純アリスが出ていた記憶がある。私は、文学座や民藝の劇を見ることが多かったので、正直、ちょっと安っぽい感じがした。
今日の放送で、かぜさんがコーラスラインに深くかかわっていたらしいということがわかった。

ところで、岸辺のアルバムの多摩川は、1977年当時の私にとっては、まるで遠くの知らない川だったけど、今ではずいぶんと身近な存在だ。川と言えば多摩川だし、登戸あたりも車で時々通るものとなった。過去に関係のないものが、今は自分と密接になったり、また逆に密接だったものが無縁になる場合もあり、不思議な気分だ。

それから、他の話題で、犬の予防注射の話では、私もウサギの通院などしているので、身近な内容だった。年を取るとやっぱりペットが生活の一部になってくる。

「人生を変えないラジオ」は私にとっては「人生を振り返るきっかけ」になる。
このごろは、年のせいか人生を振り返ってばかりいるけど、振り返って初めてわかることがある。なんでも復習しないとわからないものだ。
振り返ったことと、現在のことをミックスして、より充実したものになればいい。

最後に、かぜさんは大学で非常勤講師をされているそうだが、かぜさんの講義が聴いてみたいものだ。


コメント (7)